猪狩り
「兎一匹も仕留められんのか。下手じゃのう」
「五郎どの。うるさいっ」
今日は末森に猪狩りに来ている。犬追物というやつだ。
やはりこういうのは経験が物を言うなあ。猪どころか、兎一匹仕留められない。
信長は既に五匹、若旦那は四匹。俺はダメ。
信行は一匹、柴田権六は三匹。
信長が末森に行く、と言い出したらしい。那古野と末森の関係からいって、いきなり末森城に乗り込んだら、確実に警戒されるだろうから、皆がそれぞれ楽しめる犬追物にしてはどうか、と平手中務が提案したのだ。末森城の勘十郎信行は、行かぬ、と嫌がって、柴田権六が説得してやっと出てきたのだという。
たまにはこういうのも悪くないな。狩りとバーベキューとピクニックがひとつになった感じだ。昨日の酒もすっかり抜けた。
今日は朝早くから猪狩りに出発だったから、昨日の早くのうちに鳴海を出た。
那古野に着いて、城に登って信長に機嫌伺いをし、春庵さんの所にお蓉さんの件の礼を言いに行き、若旦那の屋敷に行き、そして俺の屋敷に到着。
挨拶回りばっかりだ。
俺の屋敷には今、せきが居る。
星崎城に在番として異動して以来、ずっと会っていなかった。
福富の俺の所領は若旦那に返したから、屋敷にそのまま置くわけにもいかず、若旦那の福富屋敷に住まわせて貰っていたのだ。
鳴海に移ってからも、那古野と往復はあるものの、福富に行く暇がなかった。それを見かねて若旦那が那古野の俺の拝領屋敷に連れてきたのだ。
…そして。
「済まなかった、ずっとほっといて」
「いえ…鳴海にご加増、おめでとうございまする」
俺は今までの事を話した。星崎での出来事、鳴海攻めの事、加増、鳴海での出来事。
若旦那や春庵さんから消息は得ていたみたいで、大体の事は知っているみたいだ。
でも、何で、その拗ねてるというか、悲しそうというか、そんな顔をしているんだ?
「お蓉さん、という人は、左兵衛さまの側女にございますか」
思い詰めた表情で訊いてくる。嘘は許しません、といった顔だ。
「…何でそうなる」
「左兵衛め、女でもできたか、と若旦那さまが言っておりました。春庵どのの話を聴いていても、お蓉さん、という名が度々。お二方の話を合わせますと、鳴海にお蓉さんという新しい側女が居るとしか思えませぬ」
ぬわーっ!短絡的すぎるだろ!第一、側女ってなんだ! また女房気取りか!
…って、そんな泣きそうな顔をするな。
「側女なんかじゃないよ。女の船大将だ。それに、お蓉さんは今九州に行っている」
「では」
一瞬で顔が明るくなる。…もう。
「俺がもどってくる場所は…その…せきの居るところだ、って、前に言ったじゃないか」
恥ずかしくて顔が見れない。チラ見しようとしたら、せきが俺の手を優しく掴んできた。
「嬉しゅうございます…。せきも、ずっと左兵衛さまをお慕いしておりました」
…仕方無い。全て打ち明けよう。俺の気持ちも。
「俺は未来、ずっと後の世の中から来た男だ。そこには嫁もいる。もう生きてるか死んでるかも分からない」
せきは、一瞬寂しそうな顔をしたけど、黙って聴いている。
「せきが俺を慕ってくれているのは知っていたよ。でも、答えが出なかった。俺の生きていた世の中に戻れるかもしれない、と思っていたからね」
「はい」
「でも、戻れる訳がないんだ。どうやって来たかも分からない、戻り方がわかるはずがないんだ」
せきは黙ったままだ。真剣に聴いてくれている。
「だから俺はこの世の中で生きていこうと決めた。でもどうなるか分からない。明日死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。それは置いといても、俺は今、鳴海にいる。今川との戦で死ぬかもしれない…それでもいいのかい。悲しい思いはさせたくない」
「…はい。左兵衛さまの妻になりたい、と思うた時より覚悟はしておりまする。せきは来世で結ばれるより、このうつつ世で結ばれとうございます」
「そうか…。ならもう何も言わない。辛いこともあるだろうけど、これからよろしく、せき」
よし!昼飯だ!
やはり当主主催の猪狩りともなると、飯も豪勢だ。今日は俺のオゴリだぜ♪ってか、信長さま。
今日だけは心の中でも、信長さまと呼んでやろうか♪
…え。昼飯の支度をしているのは、末森城の連中だって?
八郎、よく知ってたな。
「殿」
「何だ、八郎」
「飯が余ったら持って帰ってもようござるか」
「何で」
「だって…殿は一匹も」
「うるさいっ」
八郎の頭を小突いていると、若旦那が話しかけてきた。
「二人ともよく食うの」
八郎は空気を読んで、若旦那に挨拶して遠ざかっていった。
「鳴海じゃ中々食えないもんばかりだからな、食い貯めしとこうかと」
若旦那はワハハ、と一笑いすると、
「そうか。…せきの事は聞いた。忝無うござる。幸せにしてやってくれ」
と頭を下げた。…なんか、恥ずかしいな。
「止してくれ。幸せを願うなら商家の嫁にするのが一番だったんだぞ」
「好いた男の傍が一番良かろうが。物で飢えても心根が飢えぬのが一番ええわい」
若旦那はすごくホッとした表情だ。
「まあ、大事にするよ。金打」
金打とは、武士の約束の儀式のようなもので
、刀を少しだけ鞘から抜き、また戻して 刀の鍔をカチッと鳴らす行為だ。
動きは簡単だけど、金打した約束を破ると、殺されても文句は言えない。
「…金打。頼む」
「で、どうなるんだろうな」
俺は飯をほうばりながら若旦那に訊く。
「今、向こうの幕内で大殿と勘十郎さまが、飯を食いながら話をしておられる。ワシにも分からん」
若旦那は笑った。さらに訊こうとすると、知らないオッサン…じゃない、柴田権六が話しかけてくる。
向こうは兄弟どうしで、こちらは家臣どうしで、って事か。
「監物どの、松葉以来でごさるな。…今日はお父上は」
「父は身体が優れず、今日は屋敷に籠っておりまする。それがしが名代にござる」
「そうでござったか。お見舞い申し上げる」
柴田権六は若旦那に頭を下げている。
そりゃそうだよな。赤母衣衆筆頭。信長の…信長さまの、高級幕僚・近衛軍指揮官だもんな。いくら信長…さまの弟のオトナでも、頭のひとつやふたつ、下げるってもんだ。
俺は話に入らない方がいいな。飯うまっ♪
「監物どの、今日はこのような場を催して下さり有り難き事でござった、とお父上に申し伝え下さらんか。我等ももう少し早う気付けばよかった、と」
「いや、柴田どの。我等の方こそ早く気付けばよかったのでござる。思うてみれば、兄弟喧嘩で泣いとる弟をあやすのは、親では無うて大抵先に折れる兄でござる」
二人とも顔を見合わせて笑っていた。
…意外だな。
信長派と信行派はもっといがみ合っていると思っていたのに。
今日は行楽日和でようござるなあ~、とかいうオチなのか?
でも、お互い城に籠って、お互いのいろんな動向を探ってばかりだと、視野が狭くなって猫が虎に見えたりするのかもな。
報告を受けて策を練るのは 、末森城なら信行か柴田権六、那古野なら信長、平手中務、若旦那だ。
直接自分で見て策を練るわけじゃないから、実像がよく見えないままで策を練る、って事もあるんだろう。
うむ。勉強になるなあ。
お、幕内から信長…さまが出てきた。
…足取りがおかしい、ような気がする。
「か、帰るぞ。五郎右衛門」
「…大殿、顔色が」
若旦那も不審がる。柴田権六を見るが、当の柴田は不思議そうな顔をしている。
「ぐ…ぅげえっ」
なっ、…腹を押さえて吐いたぞ。信長の顔は土色に変わっている。若旦那は信長の体を支えている。
俺は持っていた握り飯を柴田権六に投げつけていた。自分でも訳が分からない。
「権六っ、これはどういう真似かっ」
声は激していても、心の中は不思議と冷めていた。
そう、俺は知っている。細かい時期は忘れたが、信長が毒殺されかかった事を。
「し、知らぬ、それがしは何も」
目の前で起きている状況と、一度も話したことのない俺に怒声を浴びせられ、掛かれ柴田が見事なくらい狼狽している。
「知らぬで通ると思うのかっ、慮外者めがっ」
掛かれ柴田は、へたり込んだ。
まさか今日起きるなんて。
信長が毒殺されかかったのは、守護代信友と戦っている時期だ。しかし、毒殺しようとしたのは信友であって、信行に毒殺されかかった訳ではない。が。
「勘十郎さま。どういう事にござるかっ」
俺は幕内に走り込んでいた。
「し、知らぬ。兄者がさ、騒ぐなと」
信行は震えている。小便の臭いがした。
「さ、左兵衛…勘、十郎を責める、な……ただの腹痛よ、か、帰るぞ」
信長は、信行を庇っている。何故だ。
「若旦那っ、大殿を早う那古野へっ」
俺がそういう間も、信長は嘔吐が止まらない。身体が、毒を出そうとしているのだろう。
「殿軍頼むっ。済まぬ」
若旦那は馬の背と自分の鞍の間に信長を乗せると、自らもそれに跨がり駆け出した。
…早く行け、早く。もっと速くっ。
「八郎っ」
呼びながら馬に跨がった。
「おうっ」
八郎が側に駆け寄る。八郎は大薙刀を手にしていた。僧兵かぶれだけあって、薙刀が上手い。
「殿」
「何だ」
「今日一番どころか、末代までの獲物にござる。掛かれ柴田じゃ」
「ばか言え。先に走れ」
…もういいだろ。距離は稼げた。
「勘十郎さまあっ、柴田権六っ。今日はこれで退くが、この責めは屹度、後日にっ。忘れるなっ」
ゆっくり馬を走らせる。
追手は、来なかった。