赤塚の戦
降伏してきた鳴海衆から、敵方の情報を得る事が出来た。俺と若旦那は内藤勝介と共に本陣に呼ばれた。今、織田の本陣は三の山にある。
鳴海勢は主力を山口教継の息子・教吉が率い、教継本人は桜中村砦に立て込もっているという。詳しい兵数までは分からなかった。
「五郎右衛門、ようやった。確かにここは景色がよいわ」
「はっ。お誉めいただき有り難く存じまする」
「般若介は役に立ったか」
「はっ、般若介のお蔭で勝ったようなものでござりまする」
「ほう、彼奴のおかげか。そちは優しいの」
公には般若介の参戦で勝利した事になっていた。緒戦であるし、小競り合いとは言え勝利は味方の士気を上げる。
それが信長の小姓が勝利を決定づけた、となれば、小姓たちもただの腰巾着とは思われぬし、またその小姓を選んだ信長自信の面目も立ち、当主としての権威も増すのである。
信長も、それを計算して般若介を物見に連れ出した久秀の考えは解っていた。
般若介に功を譲った久秀の気持ちを解っていたからこその、優しいの、という言葉である。
「ところで、もう一人介添が居ったと聞いている。それがそちか」
うわー。信長だよ。イメージしていたのとかなり違うなあ。
教科書に載ってる絵とは全然違う。どっちかと言うと大河ドラマの信長役、役所広司と渡哲也を混ぜた感じだ。
「はっ。大和左兵衛尉一寿にござりまする。お目通り、至極恐悦にございまする」
「爺の言うた通りやはり訛っておるわ。どこの生まれか」
爺って多分、平手正秀の事か。
…訛ってるとか余計な事言いやがって。…って生まれ、生まれは。そういえば。
「大和にござりまする」
「大和、大和…それで左兵衛尉か。なるほど判り易い」
道すがら若旦那に聞いたことなんだが、若旦那が俺にくれた通称の左兵衛尉という名前は、平安の頃、大和国に住み着いた大和源氏の棟梁・源頼親の通称、左兵衛尉にちなんでつけたんだそうだ。
源頼親が左兵衛尉と名乗っていた事は、この頃の読書階級、つまり公家や大身の武士は一般教養として皆知ってる事らしい。
大和国=大和=大和の武士といえば源頼親=源頼親といえば左兵衛尉=だから大和左兵衛尉
ということだ。まるで連想ゲームだな。
「五郎右衛門は俺の童仲間よ。左兵衛、これからも五郎右衛門を助けてやってくれ」
信長が俺に頭を下げた。
俺も若旦那もこれには驚き、二人とも慌てて土下座した。頭を下げながら若旦那が俺の脇をつつく。
「何を、あ…いえ…わざわざのお言葉勿体のうござりまする。この左兵衛、若旦那のみならず、ひいては弾正忠家のため命かけて奉公する所存にござりまする」
「おう、尽くせ」信長はガハハ、と笑った。
若旦那も笑う。
やっぱ、この二人は仲がいいみたいだ。
俺と若旦那が幕内から出ようとしていたら、万見仙千代が青い顔して飛び込んで来た。
「大殿、新たに物見より報せにござりまする」
「それで。申せ」
「鳴海勢、鳴海を出て赤塚に陣を張りつつあり。その数およそ千五百」
俺と若旦那はつい顔を見合わせた。織田方は本陣先手合わせても八百ほどしかいない。
「鶴翼だと。我らに死ねと申すのか」
野口兄弟、李定は例によってまた完全にブチギレていた。
政利の方はというと、これまた例によってすました顔をしている。内心不安だろうが、態度だけでも立派なものだ。
「李定叔父。まあ落ち着きなされ」
「なんだと。儂はこれでも落ち着いておるわ」
そう言いながらも李定は矢防ぎ用の楯を蹴りあげている。足が痛かったのか、爪先をトントンやっている。
「そうは言うがよ、五郎右衛門。敵の方が数が多かろう。三郎様の下知とは言え、多勢相手に鶴翼とは儂も合点がいかぬ」
内藤勝介はそう言って、腕組みしながら首をかしげていた。
先手の大将・内藤勝介は、平手正秀・林秀貞・ 青山信昌と共に信長に付けられた四家老の一人である。
寡黙で沈着冷静、戦上手な男である。信長方、信行方、と大騒ぎすることもないため、信長からの信頼も厚い。また、信長が家督を継ぐ前に青山は戦死したため、今は佐久間信盛が四家老の一角を占めている。
歴史小説が大好きだったから、鶴翼がどんな陣形なのかくらい俺にも分かる。
わかりやすく言うと敵正面を包囲するように戦うための陣形だ。包囲する敵の数は味方より少ない方が望ましい。
敵の数の方が多いと、ほとんどの場合陣形を破られてしまう。指先で障子を突き破るのと一緒だ。
そっと押しても障子は破れない。が、力一杯指で押せば。
障子は 腕ごと突き破られてしまう。
「若旦那どの。何か、策があるか」
野口兄弟の政利だった。意外な気がした。
史実では、信長が当主になって初めての戦いです。小規模で資料も少ないので、ある程度自由にやっています。
真面目に資料探しから始めるなら名古屋にでも住むしかなさそうです(笑)