第1巻第9話:『遊侠ってなんですか?』元エリート官僚、己の二つ名を知る
谷中が勝手に押しかけ女房ならぬ「押しかけ舎弟」になってから数日後の、ある平日の夜。
その日も会社での激務に耐え抜いた荒川正義(30)は、いつものようにコンビニでカップ酒を数本買い込み、オフィス街の隅にある小さな公園のベンチに腰掛けていた。
ふと横を見ると、年季の入ったブルーシートの横で、一人のホームレスの爺さんが寒そうに身を縮めている。
エリート時代なら一瞥して通り過ぎていただろう。だが、ネジの外れた今の正義は、ごく自然にワンカップの蓋を開けて爺さんへと差し出した。
「おい、爺さん。寒そうだな。これでも飲んで暖まれよ」
「……おや、兄ちゃん。ありがてぇね」
爺さんは驚きながらも、嬉しそうに酒を受け取って喉を鳴らした。
そのまま、深夜の公園で奇妙な二人の酒盛りが始まった。酒が入って良い気分になった正義は、ここ最近の自分の身に起きた「イライラ解消の記録」を、ただの愚痴としてぽつりぽつりと話し始めた。
朝の通勤途中にコンビニ前で絡んできた不良をゴミ箱に叩き込んだこと。
深夜にうるさかった暴走族を神社に全員土下座させたこと。
ぼったくりバーでヤクザの幹部を角材でボコボコにしたら、なぜか泣きながら舎弟になられたこと。
「——本当に、最近の若い奴らは加減を知らなくて困るよ。おかげで俺の貴重な睡眠時間やプライベートが削られて、迷惑してるんだ」
正義がため息をつきながら酒を煽ると、話を静かに聞いていたホームレスの爺さんは、クククと低く笑い声を上げた。その目は、長年この街の酸いも甘いも噛み分けてきた老人の、深い光を宿している。
「ハハハ、そいつは傑作だ。兄ちゃん、本人はただの八つ当たりだと言いたげだが……やってることは、まるで昔気質の『遊侠』みたいじゃねえか」
爺さんは、夜空に浮かぶ月を見上げながら、どこか懐かしむように呟いた。
「遊侠……?」
正義はカップ酒を持ったまま、首を傾げた。
三十年間、官僚になるための法律や経済の勉強ばかりしてきた男だ。そんな古風な単語は耳に馴染みがなかった。
「遊侠って、なんですか?」
「なんだ、エリートさんなのにそんな言葉も知らねえのか」
爺さんはニヤリと笑い、タバコに火をつけた。
「任侠とも言う。権力や法律が届かねえ街の闇の中で、己の信念一本で暴れ回り、結果的に弱きを助け、強きをくじく無法者のことさ。今の時代、絶滅したと思ってたんだがねぇ。……兄ちゃん、あんたが歩いた後には、悪党の悲鳴と、守られたカタギの笑顔が残ってる。そいつを遊侠と呼ばずになんと呼ぶよ」
「いや、俺はただイラついたから殴っただけで、助けるつもりなんて1ミリも——」
「ハハハ! 自覚がねえのが一番タチが悪いや!」
爺さんはガハハと笑い、残りの酒を飲み干した。
遊侠。
己の身勝手な破壊衝動のままに動く元エリート官僚、荒川正義。
本人がどれだけ否定しようとも、東京の裏社会はすでに、彼を現代に現れた最後の『遊侠』として、その畏怖の歴史に深く刻み込み始めていた。
一旦箸休めです。次は暴れます




