第1巻第8話『良い拳だな』元エリート官僚、プロの打撃を正面から受ける
てめぇ、どこの組かも名乗らねえで暴れてんじゃねえぞ、コラァ!」
墨の入った体格の良い男が、鋭いステップで正義との間合いを詰める。
男の名は谷中。
広域暴力団『田下組』の下っ端だが、極道に入る前は本格的に格闘技をやっていた武闘派の男だ。半グレや用心棒の素人殴り合いとは、構えの時点で次元が違っていた。
「お前、名前は?」
血走った目を爛々と輝かせながら、正義が尋ねる。
「俺は田下組の谷中だ! まずはお前をボコボコにして、その後にゆっくり拷問してやるよ!」
谷中の鋭い踏み込み。
シュッ、と空気を切り裂く音がした直後、格闘技で鍛え上げられた谷中の渾身のストレートが、正義の顔面の正面へと直撃した。
ガツゥゥゥンッ!!!
あまりに重い衝撃音が店内に響き渡る。
普通の人間なら顎を打ち抜かれて一発で失神、良くて鼻骨が粉砕して昏倒するプロの拳。
だが、谷中の顔が驚愕に染まった。
「……あ?」
正義の頭がほんの少し後ろに揺れただけだった。
脳内に過剰分泌されたアドレナリンと、30年分のストレス、そしてクビになった怒りで肉体が完全なトランス状態にある正義は、顔面から血を流しながら、耳の裏まで裂けるような狂気の笑みを浮かべた。
「ハハ……。良い拳だな、谷中。 国家予算の修正案を突きつけられた時くらい、ズッシリときたぞ」
「化け物か、てめぇ……っ!?」
恐怖に顔を引きつらせる谷中に対し、正義はそのまま一気的反撃に移った。
綺麗なワンツーではない。ただ破壊することだけを目的とした、体重を乗せた泥臭い右フック。
それが谷中の頬を捉え、肉が弾ける音がする。間髪入れずに、返しの左フックを側頭部へ叩き込んだ。
「がはっ……!? おのれぇ!」
谷中が体勢を立て直し、得意の鋭いローキックを放とうと足を引いた、その一瞬の前だった。
「ルールなんて知るか」
正義は谷中が蹴り足を繰り出すより早く、その股間めがけて全力の金的(股間蹴り)を打ち込んだ。
ベキィッ!!!
この世の終わりかと思うような、鈍く最悪な音が響き渡る。
「あ、が……っ!?!?!?」
これはきつい。格闘技の技術も、極道としてのプライドも、人類の尊厳も、すべてを無に帰す究極の一撃だ。
谷中は声にならない悲鳴を上げ、目を血走らせながらその場に両膝から崩れ落ちた。
「よし、終わり(定時退社)だ」
正義はそのままうつ伏せに倒れた谷中に馬乗りになり、その顔面を容赦なくボコボコに殴りつけた。 右、左、右、左。床に血の海が広がり、谷中が完全にピクリとも動かなくなるまで、正義の拳は止まらなかった。
「ふぅ……。スッキリした」
血に濡れたスーツの手袋を脱ぎ捨て、満足そうに息を吐く正義。
後ろで鉄パイプを持ったまま固まっていたヒロは、完全に白目を剥いているヤクザの幹部を見下ろし、静かにパイプを床に置いた。
(……うん、最初から心配なかったわ。このおっさん、本物のヤクザよりタチが悪いもん……)
ヒロは深い諦めと共に、自分がとんでもない怪物の相棒(飼い犬)になってしまったことを、今度こそ心から確信するのだった。
ぼったくり居酒屋を文字通り物理的に『解体』し、60万円の請求をうやむやにしてから数日後の休日。
荒川正義(30)は、自宅のスタイリッシュな高層マンションのリビングで、のんびりとコーヒーを飲んでいた。
ピンポーン、とインターホンが鳴る。
画面を覗き込んだ正義は、おや、と眉を上げた。
そこに映っていたのは、数日前に金的をブチ込んで顔面をタコ殴りにしたはずの、田下組のヤクザ・谷中だった。顔中あちこちに包帯や絆創膏を貼っている。
(お、報復か? 今度は組の若い衆を何十人も連れてカチコミにでも来たのかな?)
そう思うと、正義の心がまたグンと高揚した。平日の激務で溜まったストレスを、休日に向こうから発散させに来てくれるとは、なんという親切なヤクザだろうか。
正義は嬉々として玄関のドアを開けた。
「よう、谷中。わざわざ俺の住所を調べて殴り込みとは、いい根性して——」
「……兄貴ィィィィィッッ!!!!!」
ドアが開いた瞬間、谷中は凶器を取り出すどころか、その場に両膝を突き、床に頭を激しく擦りつけた。あまりの勢いに、高級感のある大理石の玄関がゴツンと鈍い音を立てる。
「……は?」
さすがの正義も、想定外の光景に呆然と声を漏らした。
谷中はボロボロと大粒の涙を流しながら、鼻水をすすって絶叫した。
「兄貴! 俺の拳を正面から受け止めてくれた時、あんたは『良い拳だな』って言ってくれた……! 俺は、本当に嬉しかったんです……!」
「……何がだ?」
「俺は昔、プロを目指して本気で格闘技をやってました! だけど、挫折して、逃げて、気がついたらこんな汚い裏社会のヤクザにまで落ちぶれてた……! 組の奴らも、俺の拳をただの『便利な暴力の道具』としか見てねえ! なのに……なのにあんただけは、そんな俺の汚ねえ拳を、真っ正面から受け止めて『良い拳だ』って認めてくれたんだ!!!」
谷中は男泣きに暮れながら、さらに深く頭を下げる。
正義としては、本当にただ「殴られ心地が良かった」という物理的な感想を述べただけだった。コンプライアンス(金的)を無視してボコボコにした自覚しかない。
「あ、いや……まあ、頭を上げろ、谷中」
「いいえ、上げられません! 兄貴、俺は今日からあんたの『兄弟』だ! ヤクザの看板なんか捨てて、あんたの下で一から男を磨きたい! 頼みます、俺を舎弟にしてください!!!」
ガバッと顔を上げた谷中の目は、信じられないほど純粋で、キラキラとした崇拝の光に満ちていた。
少し離れた場所で、正義に呼び出されて遊びに来ていたヒロが、部屋の陰からその様子を見て頭を抱えていた。
(終わった……。暴走族の次は、本物のヤクザの武闘派までこのおっさんの狂信者になっちまった……。もうこの街の裏社会、このおっさん一人に統治されるだろ……)
熱い涙を流す元極道と、すべてを察して白目を剥いている元暴走族。
二人の不良を前に、元エリート官僚の荒川正義は、コーヒーカップを片手に深いため息をついた。
「……なんか、すごい面倒い事になったな」
本人はただ、真面目に再就職して、たまにイライラを解消したいだけの一般市民。
それなのに、東京の夜を支配する『守護神』の組織は、彼の意思とは全く無関係に、恐るべき速度で拡大していくのだった。




