第2巻第16話広がる影と火喰の影〜
朝の満員電車。押しつぶされそうな人混みの中で、一人の女子高校生が震えていた。
その背後にぴったりと張り付き、卑劣な手を伸ばす男。周囲の乗客は見て見ぬふりを決め込んでいる。
だが、男のニヤけた顔は、突如として恐怖に歪んだ。
背後から伸びてきた分厚い手が、男の手首をがっちりと掴んだのだ。骨がきしむ音が車内に響く。
「……おい。次の駅で、じっくり話そうや」
地獄の底から響くような声の主は、正義だった。凄まじい握力で締め上げられ、男は悲鳴をあげる。
「痛い、痛い痛い!! 離せ、折れる、折れる!!」
「お嬢さん、もう大丈夫だからな」
正義が優しく声をかけると、女子高校生は涙を浮かべて何度も頷いた。
次の駅に電車が滑り込む。ドアが開いた瞬間、正義はのたうち回る犯人の襟首を掴み、文字通り「引きずりながら」ホームへと連行した。そのまま防犯カメラの死角へと放り込み、二度と悪事を働けないよう、その身体に遊侠の鉄槌を叩き込んだ。
◇
数日後。
横浜羅刹の幹部・鮫島が「遊侠正義」に瞬殺されたという衝撃的なニュースは、東京の裏社会を瞬く間に駆け巡っていた。
「おい、聞いたか? 横浜の鮫島がやられたってよ……」
「ああ。なんでも『遊侠』って名乗る、たった一人の男にボコボコにされたらしい」
「東京の半グレども、みんなビビって動きを止めてるぞ。次はお前らの番だってな……」
裏社会が恐怖に縮み上がる一方で、表の世界には奇妙な変化が起き始めていた。
「ねえ、最近ずいぶん夜の街が歩きやすくなったと思わない?」
「わかる! 変なキャッチとか絡んでくるヤツ一気に減ったよね。噂だと、なんか『遊侠』って人が世直ししてるらしいよ」
市民たちが平穏を喜ぶ中、警視庁のオフィスでも困惑の声があがっていた。
「……おかしい。今月に入ってから、都内の軽犯罪や恐喝事件の発生率が異常なほど急落している。なぜだ?」
「まるで、目に見えない巨大な抑止力が街を支配しているかのようです……」
半グレの畏怖、市民の感謝、警察の困惑。
東京全体が「遊侠」という名の亡霊に揺れ動いている。しかし、当の本人である正義は、自分がどれほどの大騒ぎを引き起こしているのか、まだ露ほども気づいていなかった。
東京・八王子。都心から少し離れたこの地を事実上支配しているのが、半グレ集団『火喰』だった。
そのアジトの奥、冷徹な眼光を放つ一人の男が、ソファに深く腰掛けていた。
火喰のトップ――土田。
元警察官という異色の経歴を持ち、法の裏も表も知り尽くした上で、圧倒的な武力をもって組織をまとめ上げる怪物だ。
「まさか、あの『ゾンビ鮫島』がやられたとはな……」
土田の前に立つ幹部の土井が、信じられないといった様子で首を振る。タフさだけなら裏社会でも指折りだった鮫島が、跡形もなく叩き潰されたという事実は、それだけ衝撃的だった。
「遊侠、か。面白い。そいつを潰せば、俺たちが東京の頂点に立てる。名を上げる絶好のチャンスじゃねえか、土田さん?」
土井のギラついた言葉に、土田は冷たい笑みを浮かべた。警察時代の知識と、現在の凶暴性を併せ持つこの男にとって、「遊侠正義」という存在は、排除すべき最高の獲物に映っていた。
「……泳がせておけ。向こうから動くのを待つ。法で裁けぬ悪を気取るなら、相応の地獄を見せてやるさ」
◇
だが、正義を狙うのは『火喰』だけではなかった。
鮫島を倒した「遊侠」の名は、東京中のヤクザ、半グレ、果ては狂気的な賞金稼ぎたちの耳にまで届いていた。
「おい、例の遊侠ってガキの首、どこの組が最初に獲るか競争らしいぞ」
「そいつをヤれば、一瞬で裏社会のレジェンドだ。武器でも何でも使って、ぶち殺してやる」
裏社会のパワーバランスを揺るがした男を倒し、一攫千金と絶大な名声を狙う悪党たちが、一斉に牙を剥き始めていた。
東京中が自分を標的に動き出しているとも知らず、正義は今日も、街のどこかで拳を握りしめている。




