第八話
「自分の目で見たものしか信じない」
天井の馴染みのシミ顔に、力強く説いた。常夜が執拗に口にしていた理由が、今なら素直に腹落ちする。
重田の身代わりとなり、俺は死んだことになっている。だがあの依頼を受けた時、決定的な三つの見逃しをしていた。
なんてことだ、こんなに強烈なヒントがあったというのに。違和感を違和感のまま脳裏に沈めてしまっていたのだ。愚か者め。
隣の部屋の大学生が帰って来た。女の喘ぎ声が地鳴りのように響く。最近は遠慮なしだ。オホ系とも言うらしく、女は獣のように叫ぶのだ。これまでの俺なら、最低限のマナーはあるべきだと、辟易して終わっていただろう。
だが、俺は一度もその「オホ女」を見たことがないのだ。男とだけはそれなりに顔を合わせるのに、女とは一度たりとも廊下ですれ違うこともなかった。
そこでいつものこの状況(隣の大学生には彼女がいて、来るたびにセックスをしているのか)について、常夜の合理主義を取り入れた。
男が出掛けている隙を狙い、ベランダを伝い窓と網戸の隙間にレンズ径が数ミリのピンホールカメラを仕掛けた。わざわざ通販で取り寄せたのだ。
カーテンを開けっぱなしにする、初めての一人暮らし大学生らしいズボラさが好都合だった。
すぐに取り外せばいい。悪趣味だが、自分の目で見ない事には、納得できない常夜の気持ちがよくわかってきた。
その夜、モニターに映し出されたのは、パソコンの前で自慰に興じる男の背中だけだった。喘ぎ声は、お気に入り動画からの音声だと理解した。ヘッドフォンぐらいつければいいものを。そもそも彼女とセックスするのであれば、カーテンぐらいは閉じるものだ。そういうことだ。
自分の目で確かめるからこそ、それが真実だと受け入れられるのだ。この醜悪にして愚劣なる確信は、常夜から受け継いだものだが俺がさらに変異と進化をさせていると、妙な自負が生まれていた。
だが今回、重田の身代わりの際には、この学びをすっかり忘れていたのだ。
「鳩子の言うように、須藤美紀は本当に殺し屋に始末されたのか?」
何事も自分の目で見ないと、という常夜の気持ちが今回ばかりはよくわかる。俺は重田の身代わりとなって、首を斬られた瞬間の逆光、はっきりと見えなかった須藤美紀の顔。その直後に現れた鳩子。ピアスを落としたと戻ってきた須藤美紀が、隣のマンションから狙撃されるタイミングの良さ。
すべてがご都合主義すぎるのだ。何度も練習した台本のように。
九月になっても、ねっとりと肌にまとわりつく暑さが引かない。萩尾山も同じく、酷暑が紅葉の出番をひときわ遅らせる。
俺は登山リュックを背負い、萩尾山の深い竹林にいた。観光客の目を欺くためのカモフラージュだが、背中を伝う汗はすでに本物だ。鳩子に「須藤美紀の遺体はどうした」と尋ねた時、彼女は視線も外さず「萩尾山よ」と明瞭に答えた。組織の案件なら回収するのが筋のはずだが、彼女は「例外もある」とだけ言って煙に巻いた。
だから、須藤美紀の遺体を見に来たのだ。
疑い深いと言うのなら、それでもいい。目で見れば安心するのだ。もう病気だといっていい。
規制線のテープが遺されたまま撚れて、砂利にこすれている。汗がにじむ。たいした標高ではないが、覆いかぶさるようにして群生する竹たちのおかげで幾分かは涼しい。荒れた獣道へと入る。
人ひとり半ほどの幅、油断すれば容赦なく滑落するような悪路だ。獣すら避ける荒々しい道だ。地面がじわりと濡れていて赤土がぬかるみ、安物のスニーカーでは滑って歩きづらい。竹林が陽光を遮るせいで、夕暮れ前にも関わらず視界は薄暗い。湿気が立ちこめ、生物の死骸と土の臭いが混ざり合い鼻腔の奥を突き上げる。
しばらく進むと、竹林が開けた緩やかな平地に出た。こんな道、遺体を担いで埋めるのは至難の業だ。不自然な土の盛り上がりを発見した。周囲の雑草がここだけ生えておらず、ビニールテープが水たまりで悶えのたうち回っているように見える。
ここに須藤美紀が埋められているのか、掘り起こしても断定する術はないが、「遺体が埋まっている」か「遺体が埋まっていないか」で鳩子や常夜を信じるかどうかが決まるというものだ。
ホームセンターで購入した組み立て式小型シャベルを取り出す。持ち手とシャベル部の接合節を固定する。「カチリ」と軽い金属音が静まり返った山林に響いた。
須藤美紀と思わしき遺体との出会いに賭ける。
鳩子に利用されているというのは、薄々どころか最初からわかっている。俺の特異体質も受け入れるだけで、その謎を解明する気などさらさらない。肝臓がアルコールを分解するのはなぜか? 腎臓で血液中の老廃物をろ過して尿を生成するのはなぜか? 大腸で便を作れるのはなぜか?
身体の仕組みの「なぜ」はいきつくところ「そうあるものだから」としか答えられない。俺の身体がおそらく、回復能力が異常に高く死に到達しないのはなぜか? この問いも同じことだ。
――そうあるものだから
これで済ませるしかないのだ。
土は湿っていて重い。シャベルを突き刺すものの、掘り出せる土の量は片手ほどと少ない。それでも手で掘るよりはマシだ。
作業を始めて十分ほどで、汗が顔から噴き出る。滝のように額から鼻を迂回して、顎に伝わり零れ落ちた。ポタポタではなく、びちゃびちゃとだ。
喉が焼けるように渇く。リュックの中には、500ミリリットルのペットボトルを取り出し、立て続けに二本飲み干した。それらは瞬く間に俺の身体の中に吸収され、汗だけでなく、なぜか溢れる涙や唾液、鼻水、となって噴き出た。俺の体液たちは、掘り進めている、黒い穴に向かって飛び込んでいく。
腰のあたりまで深く掘り進め、すっかり泥まみれになったその時。
コツン
シャベルの先端が軽い音を立てた。中身が詰まっていない空洞のある、だが硬質感のある何かに当たった。石ではない、何かだ。
深呼吸をする。息をのみ、シャベルの先端に当たった土だらけの「何か」を手にする。赤褐色に汚れたそれは、「頭蓋骨」だった。
俺はリュックからファイルに挟んだ紙を取り出した。数日前から須藤美紀が通院していた歯科助手に目をつけ、偶然を装い口説き落とした。 あとは男女の流れで簡単に、須藤美紀の歯科カルテを手に入れた。
『上顎右側中切歯のセラミッククラウン』
『左犬歯の著しい唇側転位』
泥まみれの頭蓋骨を、素手で持ち上げる。肉片は一切残っていない。歯科カルテにもう一度目を落とす。何度も目を通して覚えているはずだが、どうにも覚えられないのだ。
歯科助手によると最近インプラント施術をしたと言う。口を開ける。前歯の右側一本に、不自然なほどの滑らかで白さをのぞかせていた。年月の経っていない人工物――セラミックだ。
さらに左の犬歯は、他の歯を無視して、明らかに前方へ大きく突き出している。
カルテの記載と、完全に一致した。
「……須藤美紀、なのか」
鳩子は嘘をついていなかった。須藤美紀は、この場所に埋まっている。なぜか安堵した。そのあとに、強烈な不気味さが頭を支配した。
その瞬間、緊張で緩んだ俺の口元から、一筋の分厚い唾液がツーッと糸を引いて、頭蓋骨の眼窩へと滴り落ちた。顔からの汗も、容赦なく骨の表面を濡らす。
両手の中の頭蓋骨に、不規則な鳴動を感じる。ピクリと震えた。「なんで!?」
心臓が跳ねる。これは、目の前で起こっている現実だ。頭蓋骨は遠慮なく、ゴトゴトと超高速で沸騰しているように振動を重ねる。
手の中にあるはずの頭蓋骨が「質量」を獲得している。
それはみるみると姿を変えていく。頭蓋骨の頭頂部あたりから、赤黒い筋が全体に張り巡らされる。一瞬のことだ。肉の繊維へと変わっていく。どうするでもなく、ただ見つめるしかなかった。
理科教室で見た、筋肉人体模型。熱で溶け死にゆく姿とは反対の動き、そう、逆再生で肉を盛り付けていくような光景だった。皮膚だけを失った人間の頭部が、俺の手の中でむき出しで「発芽」して生えているようだ。生命の再生を目の当たりにして、言いようのない畏怖に身体が縮こまるも、どうしても試してみたい好奇心が勝ってしまった。
俺は突き動かされるように、口内に溜まった唾液を肉の塊にある「右目の窪み」に吐きかけた。ビシャッと叩きつけた粘着質の音が小さく響いた。
一分経ったかどうかぐらいだった。
その窪みから肉が裂け、白い膜が張る。水晶体なのだろうか、目の形をした物質が隆起し、青みがかった虹彩がぬるりと現れた。
それは、紛れもなく須藤美紀の芯のある冷徹な瞳であった。汗や唾液といった、俺の体液には、死に絶えた細胞を復活させるのか。この異常なまでの再生能力のおかげで、俺は致命傷を負っても生き返るのだ。俺の身体そのものが、俺の体液で満たされた器なのだ。
俺の手は、須藤美紀の再生の際に生じた粘液でぬるぬると絡みつき気持ち悪い。生きた首、現実に起こった矛盾をまさに両手で抱えている。
「気持ち悪い」
率直な感想だ。これ以上は駄目だ。
俺は中途半端に再生した頭部を、乱暴に穴に投げ返した。ぴくりと須藤美紀の頭部が動いたのを確認した。
「助けて」とは言わないだろう。須藤美紀は命乞いなどしない、そう言い聞かせた。急いでタオルで汗をぬぐい、これ以上体液が零れ落ちないようにして、猛烈な勢いで土を被せた。
恐怖はなかった。ただ、得体の知れない俺自身の「呪い」に拒絶感だけが強く生まれていた。
すっかり日が暮れた獣道を、スマホのライトだけを頼りに下山する。
生き返るたびに、狂ったようにキスを求めてきた鳩子の顔が浮かんだ。彼女の目的はこれなのだ。俺のこの、再生能力の源が「体液」であることを、彼女は知っているか、あるいは確信している。
この事実を鳩子に突きつけるつもりはまだない。手札は、相応しい場面に出してこそ価値がある。
須藤美紀は死んでいた。まず一つ目の疑問は解消した。ならば、彼女を始末したという殺し屋「鋼村哲司」の存在も、にわかに現実味を帯びてくる。
残された疑問はあと二つ。
あの重田則定という男は、本当に実在し、俺に依頼をしてきたのか。そして、鋼村哲司とは何者なのか。身代わりとなって以来、行方の分からない重田の足取りから洗うべきだろう。
俺はスマホの画面をタップした。薄明りを頼りに、すっかり日が落ちた闇の中を歩き始めた。




