第七話
頑丈なはずのドアが熱を帯びた飴のように、ぐにゃりと歪む。凄まじい音を立てて、部屋の内側に倒れ込む。狭い玄関の靴がひしゃげ衝撃で砂埃が舞い、その隙間から壁掛け時計が目に入る。
七時五十五分、もうすぐ、鳩子が来る時間だ。こんな狭い学生マンションでドンパチやられたら、関係ない住人が死ぬ。それだけは避けたかった。
倒れたドアの上を、カツカツと音を立てて美紀が足を踏み入れる。低い身長にも関わらず、高いヒールのおかげで俺を見下ろしている。その目は冷酷だ。
「なんか、声が違うかも」
美紀が不審そうに眉をひそめる。しまった。鳩子にあれほど注意されていたのに、完全に忘れていた。顔や骨格、皮膚はメイクできても、声質までは偽装できない。そもそも俺は本物の重田がどんな声で話すのかすら知らない。
「……風邪ひいたんだよ」
語尾が正しいかわからない。多少のガラの悪さを意識しつつ、濁った低い声で誤魔化した。
余裕あるじゃん、と言わんばかりの美紀の表情は薄ら笑いをこぼす。冷徹な眼差しは、四年間キャンパスで目にしてきた姿とは似ても似つかない。少し気が強い程度ではない。常夜や鳩子たちとは異なる「プロの殺し屋」としての顔だ。こっちの表情が素顔だと思うと、背筋が凍り付いた。
「さて、重田。あなた、どうして殺されるかわかってる?」
くぅ、いいからさっさと殺れよ! 心の声が激しくハウリングする。どうしてこういうとき、圧倒的優位な側は勿体つけるんだ。映画なら、救援が来るフラグ立ちだ。
むしろ俺は殺されたい。のんびりおしゃべりに興じて時間稼ぎをするつもりすらない。さっさと、殺せ!このサイコパス女。
鳩子が来たら、絶対美紀は瞬殺される。いちいち持って回った会話はしない。そういう容赦のないヤツなのだ、鳩子という女は。
美紀が殺されでもしたら、組織の目は重田に向くだろう。重田は組織に追われ、無残な姿になるのは間違いない。ヤツラは自分たちの飼い犬が殺されたとなれば、黙っちゃいないのだ。鳩子も同じだ。実行犯だと足が付く。そして、重田と同様に殺される。
重田も鳩子も、俺が身代わりになった人間だ。たとえ報酬をもらったとしても、二人が追われ殺されるのなら、甲斐がない。
匍匐前進しながら、部屋の奥へと逃げる。この場所で殺されるにしても住人から丸見えだからだ。
美紀は血なまぐさい現場になるとわかっていてピンヒールにワンピースと場違いなほど着飾っていた。自信過剰の高慢ちきな女だ。それを証明するように、ヒールの色はインペリアルパープルだ。王族の紫か。いかにも自分は特別な存在だと、自分の高慢さをこれ以上ないほどに語っている。
「答えないつもり?」
美紀の執拗な追求に、なお俺は抵抗の意思を見せ、床に落ちている漫画を手あたり次第投げつけた。多少の抵抗がなければ、怪しまれる。だが、時間を引き延ばし過ぎてはいけない。
時計の針は七時五十七分を刺そうとしていた。この十日間、鳩子はいつも時間にキッチリだった。間もなくここへ来る。いや、もうマンションの敷地内には行っているはずだ。
「てめぇが、藤巳を殺るのをトチったからだろうがッ!」
汚い言葉は吐き慣れていないと、口元で澱んでこびりつく。早い話、肝心なところで噛むってことだ。淀みがない、ドス黒一辺倒の悪態だ。美紀の本性が現れて、妙にワクワクした。
高篠藤巳を殺し損ねた重田を始末する。その理屈に合理性を感じないが、そろそろ殺して欲しい。俺は逃げるのをやめて、美紀に向かって行くことにした。逃げるより向かって来られる方が、プロの殺し屋としても、仕留めやすいだろう。
美紀は井戸の奥底を覗き込んだときのような蒼黒いワンピースを乱暴にたくし上げた。太ももにベルトで固定していたダガーナイフを引き抜いた。シャッ、と気持ちのいい音が聞こえた。
一閃、視界が薄く狭くなり始める。
俺の首の頸動脈を断ち切ったのだ。直後、喉元に熱い痛みが走る。生暖かい血が、勢いよく吹き出し床を覆った。
この十日間、そもそも美紀がなぜ俺(高篠藤巳)を殺そうとしたのか、理由を考えていた。組織からの命令だと考えるのが妥当だとしても、それは理由にはならない。俺の命を狙う意味がピンとこないのだ。
首を斬られてもなお、こうした思考を繰り返すのは「実は死んでいないよね」と自分で自分に確認を入れるためだ。
当然、首の傷口からはドクドクと音を立てて出血している。いずれ止まる。喉元の奥深くでは、すでに細胞レベルで再生が始まっているのを感じる。体中の血液が壊れた首回りに集中しすぎたせいで、脳に酸素が届かない。まだ土埃が舞う視界の先に、誰かがいる。美紀ではなさそうだ。現場から立ち去ったはずだ。
鳩子か?
時間通りではなかった。八時五分、ジーンズ姿の細身の身体で、両手には重そうな荷物を抱えている。
駆け寄ってきた鳩子は、凄惨な血の海に怯まない。有無を言わさず、重田の姿をした俺の顔を両手で掴み、いつものように強引に唇を押し当ててきた。これはキスなのだろうか。
首からの出血がまだ止まりきらないというのに。相変わらず獣のような女だ。口の中は喉奥の血だまりが逆流し、鉄の味がする。そのなかに割り込んでくる鳩子の舌に、執念めいたものを感じる。そして、唇はいつもよりも冷たかった。氷を押し当てられている感覚。俺の細胞を全部奪い取るかのように、貪欲で執拗に唾液を喰らっている。
しかし、よくよく考えると不思議だった。重田の顔でも、何のためらいもなくキスができるというのは、鳩子にとって「顔」などどうでもいいということか?
つまり、鳩子は誰とでもキスができるのか? 俺という「不気味で不可思議な生命体」そのものに執着しているということなのか。
身体中の血を使い切ったのか、貧血になった。充電が切れたシェーバーの、フェードアウトしていく駆動音のように、徐々に、力なく意識を失った。四度目の死であった。斬殺、またひとつ死のバリエーションが増えた。
「重田殺しは、美紀が個人的に行ったもの。組織の指示なき殺しは、厳罰に処されるはずだ」
常夜はそう言って、メイクを外したばかりの俺に百万円の札束を手渡した。レトロな喫茶店のカウンターには相応しくない光景だ。中央で二つに折られた一万円札が束になっている。どれも、くたびれた札の角が揃わず、なけなしの金を匂わせた。
「今回はちょっとシケテるけど、配分は守ってるからね」
常夜の言葉を信じるしかない。ピンハネされていても、そもそも金のために「身代わり」の仕事をしているわけじゃない。
二階の施術室から、トントンと降りて来た鳩子は
「藤巳くんさぁ、報告があるんだ」
いつになく申し訳なさそうな顔で鳩子が切り出した。常夜は何かを察してか、「ちょっと買い出しに出る」と言い残して、店番を俺たちに任せて、小走りで出て行った。
「あのあとさ、藤巳くんを連れ帰ろうとして、常夜を呼んだのよ。ドアの修理と部屋の片づけ業者も一緒に。そしたら……、戻って来たんだよね」
「誰が?」
要領を得ない質問に、俺は感情なく切り返す。
「須藤美紀」
俺が死んでいる(厳密には、生き返り中に)間に、美紀が戻って来たのか。
「ほら、部屋の入ったあたりにピアスが落ちててさ」
曲がりなりにもプロの殺し屋が、現場に落とし物をするか? しかも、戻ってくるか? 間抜けにもほどがある。
「それでどうしたの?」
「私は隠れたのよ。お風呂場に」
咄嗟の判断から、隠れて正解だ。
「でも、落ちてたピアスを拾ったままでさ。須藤美紀のピアスだと思うんだよね、重田はピアスなんてしないし」
話のゴールが不明瞭だ。だが、こんな殊勝な鳩子は見たことがないから、敢えて話を続けさせることにした。
「案の定、須藤美紀が、『もぉ、ピアスどこにいったのよ』なんて言いながら探し出すでしょ、でもそれ私が持ってるわけで」
これ、どうなるんだ? そんな疑問が次の瞬間に吹き飛んだ。
「しゃがんで探していたんだろうね、そのまま前のめりになって、死んだのよ。須藤美紀」
死んだ? どうして? 俺の混乱がピークに達する。
鳩子の説明を要約すると、こういうことだった。美紀は隣のマンションからライフル銃で狙撃された。サプレッサー(消音器)付きで、銃声はマンション内で響かなかったという。ちょうど、祇園祭の『コンコンチキチ』の賑やかなお囃子の音にも重なっていたのだろう。重田の住まいは、四条烏丸のオフィス街から近いところにあった。
しかし、いったい誰が美紀を殺したのか? 首を斬り付けてきた美紀には、皮肉な殺され方だった。ライフル銃の銃弾は美紀の首を貫いていた。鳩子は密かに現場に落ちていた銃弾を持ち帰ったのだ。そのおかげで、狙撃手が分かった。
銃弾についたかすかな傷、銃身の内側には「ライフリング」と呼ばれるらせん状の溝が刻まれていて、弾丸はそこを通る際に回転を与えられるそうだ。
条痕と言うらしいが、指紋のようなものだと鳩子は教えてくれた。
その条痕を組織のデーターベースにアクセスして、照合した結果、ライフルが特定され持ち主の名前が浮かび上がった。
『鋼村哲司(三十五歳)・スナイパー。今年に入って三十五人を暗殺。府警捜査第一課所属』
顔写真まで割れないが、勤務先が警察組織の中だと分かれば話は早いと、鳩子は言った。
「話が早いって、どういうこと?」
「須藤美紀は、組織の人間に狙われていたってことよ」
組織の人間があらかじめ、あの場所を張っていた。となると、
――重田がこの絵を描いたというわけだ。
組織に黙って殺しを断行するのは、重罪にあたると鳩子は言う。だとすれば、美紀に命を狙われている本物の重田からすれば、俺を《《身代わり》》に立てながらも、同時にBプランを走らせていたとしても何ら不思議ではない。むしろ、わかる気がする。そのBプランこそが、組織への密告だったのだ。
重田は美紀の身辺を執拗に洗っているうちに、彼女が所属する組織に辿り着いたのだろう。そして差し詰め、「須藤美紀という殺し屋が、一般人を私的に殺害しようとしている」とタレ込んだに違いない。
だが、重田のような取るに足らないザコの妄言だけで、あの冷徹にして厳格な組織が動くだろうか。しかも、スナイパーが手を下しているとあればなおのこと。本気じゃないか。
……いや、待て。逆だ。
もともと、組織の方も、勝手に行動する美紀を始末したかったと考えるのはどうか。だとしたら、辻褄が合う。重田の「何としても生き残りたい」と組織の「規律を乱す異分子を消したい」という利害関係が一致したということだ。
組織は規律を重んじる。組織抜けを絶対に許さないのは、その肥大化した規律のほんの一部なのだ。
重田からすれば、自分の命を狙う要因を完全に排除できたというわけだ。窓口の常夜、メイク技術の鳩子、身代わりの俺、美紀を疎ましく思う組織思惑、全てを自分の駒のように利用したのか。それも特等席から、高見の見物と決め込んで。
俺たちはまんまと重田の手のひらの上で、踊らされていたってわけだ。




