第70話「インターンを預かる」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
七月初旬の月曜の朝。
フロアの島でMacBookを開いていると、諏訪マネージャーがいつもの落ち着いた足取りで僕の机の脇に立った。
「桐谷くん、ちょっといい?」
短い一行だった。
「はい」
手を止めて、諏訪さんの方に体を半分、向き直した。
諏訪さんは胸ポケットから付箋のメモを一枚、取り出して、机の脇に置いた。
付箋に「鈴木未來 20歳 港川市立大学情報科学部3年」と整った字で書かれていた。
「サマーインターン、今日から二ヶ月預かることになった。一人だけ。チームAで受けて、桐谷くんに直接の担当をお願いしたい」
諏訪さんの声はいつもの調子で、しかし最後の一行は確かに重かった。
「分かりました」
短く返した。
付箋の上の名前を目で追った。
鈴木未來、二十歳。
港川市立大学の情報科学部三年生。
……二ヶ月、預かる。
心の中で繰り返した。
香織さんのOJTを始めて二ヶ月あまり。後輩を持つ感覚は、たぶん少しずつ自分の手に馴染み始めていた。しかしインターン生というのは、また別の手触りだった。香織さんは正社員として腰を据える側の人。インターン生は、二ヶ月だけここに来て、二ヶ月後にはまた大学に戻る側の人。
二ヶ月という限定の中で、何を渡すか。
その問いが輪郭を持ち始めた。
「鈴木さん、もうすぐ着く。受付からの連絡で九時十五分予定。出迎えは桐谷くん、お願い」
「はい」
「いってらっしゃい」
諏訪さんはそう置いて、自席のほうに戻った。
九時十分、自分の机を片付けてから受付ロビーへ向かった。
エレベーターのボタンを軽く押した。
三階から一階まで、エレベーターの中で息を整えた。
……三年前の僕は、こんなにしっかりしていただろうか。
ふいにそう思った。
三年前の四月一日、僕も同じ受付ロビーに立っていた。あの日は新卒の側として立っていた。今日は、出迎える側として立っている。
胸の奥で苦笑した。
三年前の僕は、たぶん、まだ自分の足元しか見えていなかった。観察、という言葉も持っていなかった。半径3メートル、という言葉も知らなかった。
その三年前の僕に、今日、誰かが「君はこの位置に三年後、立ってるよ」と言ったら、たぶん信じなかった。
信じないだろうな、と内心で頷いた。
一階に着いた。
エレベーターを出て、受付ロビーへ。
ロビーの来客用のソファーの脇に、若い女性が一人、立っていた。
二十歳、ショートカット、白い半袖のシャツ、薄紺のスカート、足元はスニーカー。
受付のカウンターのほうを見て、それから入り口の自動ドアのほうを見ていた。
目は緊張気味で、しかし真ん中にしっかりした芯が一本あった。
近づいた。
「鈴木未來さん、ですか?」
短く声をかけた。
彼女が振り向いた。
「あっ、はい、鈴木未來です!」
声が、ロビーの空気よりも高めに弾んだ。
「鈴木さん、桐谷です、よろしくお願いします」
名前を先に置いた。
三年前、葉山さんが新卒研修の初日に僕に向かって「葉山美月、と言います」と先に名前を置いてくれた。あの順序を、今日、僕は鈴木さんに対して再演していた。
「桐谷さん、よろしくお願いします!」
鈴木さんは深々と頭を下げた。
頭を下げる動作の角度が、たぶん大学のインターンの事前研修で教わったきれいな角度だった。
「鈴木さん、まずフロアにご案内します。エレベーターで三階に上がってください」
「はい!」
二人で受付ロビーから、エレベーターのほうに歩いた。
歩きながら、鈴木さんの足元の動きが、僕の半歩後ろを、丁寧に追いついてきた。
……緊張、している。
胸の内でそう頷いた。
しかし、悪い緊張ではなかった。
目が前を向いていたから。
エレベーターで三階に上がった。
フロアに入ると、白瀬さんが先に顔を上げた。
「桐谷くん、お迎えご苦労さま」
「鈴木さんです、二ヶ月お世話になります」
「鈴木です、よろしくお願いします!」
鈴木さんがもう一度、深く頭を下げた。
白瀬さんは口の端でほんの少し笑った。
「鈴木さん、肩の力抜いていいよ。二ヶ月、ゆっくり見ていって」
白瀬さんの声は、いつもの白瀬さんの調子のままだった。しかし最後の「ゆっくり見ていって」の一行は、確かに柔らかかった。
次に諏訪さんが立ち上がった。
「鈴木未來さん、ようこそ。私、諏訪です。チームAのマネージャーをやっています」
諏訪さんは名乗ったあと、鈴木さんの目を見た。
「二ヶ月、ゆっくりやってください。何でも遠慮なく桐谷くんに聞いて」
「はい、ありがとうございます」
次に森山くん。
「森山です! 二年目です。僕も去年新人だったから、鈴木さん、何でも聞いてください」
森山くんはいつもの明るい調子で、最後まで丁寧に運んだ。
次に橋本香織さん。
「橋本香織です。今年の四月に新人で入りました。ほんとに、つい二ヶ月ほど前まで研修中で。鈴木さんの気持ち、いちばん近いところで分かるかも」
香織さんの声は、研修明けからの二ヶ月あまりで、確かに馴染んでいた。
最後に立花先輩、岡野さん。
立花先輩は表面的にきれいな笑顔のまま、「立花です、よろしくね、困ったら声かけて」と短く運んだ。
岡野さんは小さく頭を下げた。
チームAの島の自己紹介がひと回り終わった。
諏訪さんが用意してくれた席に、鈴木さんを案内した。
香織さんの隣の空席。研修用の机に、貸与のMacBook、入館証、入社のしおりが軽く重ねて置いてあった。
「鈴木さん、まずMacBookをセットアップしましょうか。手順書、これです」
手順書のA4二枚を渡した。
鈴木さんはMacBookをそっと開いて、手順書を机の脇に並べた。
手順書の上に、鈴木さんは自分のノートを置いた。
大学ノート、A5、表紙に「観察」と一文字、鉛筆で書いてあった。
……観察。
心の中で、その二文字を確かめた。
まだ僕は鈴木さんに「観察」という言葉を渡していなかった。
偶然なのか、それとも大学のインターンの事前研修で何か関連の話を聞いたのか。
心の中でその偶然を確かめてから、口に運ぶのは午後に置いた。
いま運ぶのは早い。
昼休みのあと、もう一段、馴染んでから運ぶ。
午前中はMacBookのセットアップと、社内ネットワークの接続、メールアカウントとSlackの設定。
鈴木さんは手順書のとおりに丁寧に進めた。手順書の脇に、ノートを開いて、要点をその場で書き写していた。
書き写す手は、緊張気味で少し固いが、しかし最後までちゃんと運んだ。
……三年前の僕も、手順書の脇にノートを開いて書き写していた。
胸の奥でそう思った。
書き写し方の癖は、三年前の自分と似ていた。
鈴木さんの肩越しにノートを覗いた。
文字は丸めの字で、しかし整っていた。要点だけを短く拾って、補足は脇に小さく書く、というスタイル。
……白瀬さんが、僕の一年目のノートを覗いたとき、たぶんこんな目で覗いていた。
ふと、そう思った。
白瀬さんは僕のノートに対して、何も言わなかった。
しかしたぶん、ちゃんと見ていた。
……僕も、今日、何も言わない。
内心でそう決めた。
ノートのスタイルは、本人の手の中でゆっくり形になる。
外から「こう書きなさい」と言うのは、ノートの育ち方を止めてしまう。
昼休み、十二時。
社員食堂で、香織さんと、森山くんと、鈴木さんと、僕で四人席に着いた。
日替わりのAランチ、Bランチ、おにぎりとサンドイッチ。
鈴木さんはAランチを取った。
「鈴木さん、午前中大丈夫だった?」
香織さんが軽く聞いた。
「はい、手順書、分かりやすくて」
「私も四月にこの手順書、やったよ」
「香織さん、まだ三ヶ月前ですよね?」
「うん」
香織さんは口の端でほんの少し笑った。
「鈴木さん、私もまだ全然、新人感抜けてないから。一緒に困ろうね」
香織さんの「一緒に困ろうね」という一行は、たぶん白瀬さんの一年目のいつかの言葉を、香織さんが自分の口でやり直したものだった。
胸の奥で、その継承の温度を確かめた。
森山くんはAランチをほぼ完食しながら、
「鈴木さん、二ヶ月楽しみましょう」
とだけ、軽く置いた。
軽さの中に、二年目の余裕が少しだけ乗っていた。
鈴木さんは食堂のテーブルの上の三人を、順に目で追った。
……たぶんいま、観察、始めてる。
胸の内でそう思った。
観察、という言葉を口に運ぶタイミングが、近づいた気がした。
午後、二時。
会議室Bを三十分、押さえた。
鈴木さんと二人で入って、ホワイトボードのある小さな会議室の机を挟んで座った。
「鈴木さん、ここで僕から一つだけお願いしたいことがある」
短く運んだ。
「はい」
鈴木さんはノートを開いて、ペンを構えた。
「二ヶ月間、たくさん観察してね」
鈴木さんの目が、止まった。
「観察、ですか?」
「うん。ヨキエルの良いところ、悪いところ、両方見てね」
鈴木さんは驚いた顔をした。
「悪いところも、見ていいのですか?」
「むしろ、見てほしい」
鈴木さんがノートにペンを走らせた。
「ただ、最初は自分のチームから」
間を置いた。
「半径3メートル、と僕は呼んでる」
「半径、3メートル」
鈴木さんは口の中でその六文字を、復唱した。
半径3メートル、というのは、三年前の僕が自分の指針にした言葉。間宮先輩から構造の見方を教わって、白瀬さんから「磨く優しさ」を学んで、諏訪さんから「事実だけを置く」言葉を渡された結果、僕の中で立ち上がってきた、自分の観察の半径。
その言葉を、いま、鈴木さんに渡している。
内心で、その渡している瞬間を見つめた。
鈴木さんはノートに「半径3メートル」と書いてから、その下に小さく「自分のチームから」と添えた。
「鈴木さん、もう一つ」
「はい」
「二ヶ月間、自分のノートを一冊決めてみて」
「ノート、ですか?」
「うん。観察したことを毎日少しだけ、書き留めるノート」
「あの」
鈴木さんは自分の机に置いてきたA5のノートを思い浮かべる顔をした。
「もう、買ってきました」
「もう?」
「はい、大学のインターンの事前研修で、『一冊用意してこい』って言われて」
「そうか」
短く頷いた。
……鈴木さんは、もう先に進んでた。
心の中でそう思った。
観察、という言葉も、ノートも、たぶん大学側の事前研修で、近い形ですでに用意されていた。
しかしその上に、僕は「半径3メートル」というもう一段を、今日、置いた。
その上にこれから二ヶ月、鈴木さんが自分のペースで何を載せていくか。
それはたぶん僕の側から見えないところで、ゆっくり育っていく。
午後の残りの時間、鈴木さんは香織さんの隣で、業務システムのドキュメントを読んだ。
チームAの担当している金融系の業務システムの、概要のスライド資料。
鈴木さんは資料の脇にノートを開いて、用語を一つずつ書き写していた。
白瀬さんが午後の途中で、鈴木さんの机の脇を通って、軽く声をかけた。
「鈴木さん、用語、書き写してくれてるね」
「はい、知らない単語、多くて」
「全部、覚えなくていいよ。覚えるよりも、どこに『分からない単語』が固まってるか、自分で気づくほうがたぶん大事」
白瀬さんはそう置いてから、自席のほうへ戻った。
鈴木さんはノートの隅に、白瀬さんの一行を、そのまま書き写した。
……白瀬さんの言葉、いいな。
胸の奥で頷いた。
三年前、白瀬さんが僕にレビューで「LGTMの中身」を教えてくれた。今日、白瀬さんは鈴木さんに「どこに分からないが固まっているか」を教えていた。
白瀬さんの教え方は、三年経っても、ぶれない。
そのぶれなさが、僕の隣の机のいちばん大きな景色だった。
夕方、五時半。
鈴木さんが帰り支度を始めた。
「桐谷さん、今日、ありがとうございました」
鈴木さんは深く頭を下げた。
「うん、お疲れさま、鈴木さん。気をつけて帰って」
「はい」
「明日も、いつもどおりで」
「はい!」
鈴木さんはMacBookの電源を落とし、ノートをカバンに仕舞って、フロアを出ていった。
歩いていく後ろ姿が、フロアのドアの向こうに消えた。
僕はその後ろ姿を見送った。
……二ヶ月、預かる。
内心でもう一度、繰り返した。
預かるというのは、たぶん、二ヶ月後にちゃんと返す、ということだった。
返すときに、預かった時よりも、何かが増えている。
その何かを、二ヶ月、僕は鈴木さんと一緒に作る。
退勤の準備の前に、ノートを開いた。
今日の日付の下に書いた。
「鈴木未來さん、初日。観察と半径3メートルを渡した」
もう一行。
「鈴木さん、すでに観察ノートを用意済み。事前研修で一歩、進んでいた」
もう一行。
ペンを止めてから、最後の一行を書いた。
「未來さんに、白瀬先輩のスタイルを渡そう」
書き終えてから、その一行を目で追った。
白瀬さんが僕に渡してくれたのは、「LGTMの中身」と「磨く優しさ」と「どこに分からないが固まっているか」だった。
その三つの中の、いまの鈴木さんの段階に合うものから、ゆっくり渡していく。
鈴木さんが二ヶ月の終わりに、その三つのうち何枚を自分のノートに乗せられているか。
それは僕の側で測るのではなく、鈴木さん自身の側でゆっくり積もる。
ノートを閉じた。
窓の外、七月初旬の夕暮れ。
桜並木通りの葉桜の影が、夕日の中でちらちら揺れていた。
二ヶ月の夏が、始まる。




