第69話「ある日の黒木律」(インタールード⑨)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、黒木律の視点で描かれています。時系列は第68話「3つの開発部を、歩く一週間」(六月の最終週)の他部訪問が始まる前、六月最後の月曜の朝で、インタールードとして配置しています。
六月最後の月曜の朝、五時四十分。
目覚ましの音が鳴る前に俺は目を覚ました。
ここ三年、いつもそうだ。目覚ましは形式的に置いている。鳴ったのを聞いたことはほとんどない。
寮の自室の天井を見上げる。
白い天井。蛍光灯のカバーの形は三年前から変わらない。
起きる。
布団を畳む。
部屋の隅の机に積んだ技術書の背表紙が、淡い朝の光の中で並んでいる。
いちばん上に置いてあるのは『プログラミングRust』の改訂版。先週末、市内の本屋で見つけて買い直したやつだ。
その下に組込み系の専門書が三冊。
その下に、入社一年目の春に藤村さんから渡された設計の本が一冊。
全部、俺の三年の重さだ。
机の脇の小さな水槽。金魚二号と三号が、底から半身、上に上がってきた。一号が半年で死んだあと、二号と三号はもう一年あまり続いている。
洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分を見る。
二十一歳の俺の顔。
高専を卒業して港川市に来たのは十九歳の春だった。十九歳の俺の顔と、二十一歳の俺の顔は、少し違う。
目の下の線が、固くなった気がする。
頬の線も、削れた。
たぶん三年ぶんの夜更けと、三年ぶんのコードレビューと、三年ぶんの「うん」と「ありがとう」だけで運んできた会話の量が、顔のどこかにひそかに積もった結果だ。
歯を磨く。
髪を整える。
いつものシャツ、いつものチノパン、いつもの黒のスニーカー。
部屋を出る。
寮の階段を下りる。
階段の踊り場の窓から、外の桜並木通りが見える。
六月最後の月曜、初夏の青葉。
葉の重なりの隙間から、朝六時の光が薄く落ちている。
寮の玄関を出て、桜並木通りを駅と反対の方向へ歩く。
会社まで徒歩二十分。
信号が一つあって、その向こうから先は、桜並木通り。
歩道を踏む靴の音が、自分の耳に静かに届く。
寮を出てから会社に着くまでの二十分の間、俺はだいたい、誰とも話さない。
話さなくていい時間がある、というのは、たぶん俺にとっては必要な時間だ。
高専の寮にいた三年間も、地元の小さな町にいた十九年間も、俺は喋らない時間で自分を組み立て直してきた。
町は県の北のほうにあって、人口は五千人を切る。商店街は半分シャッター。中学校はもう統廃合で隣町に移った。残ったのは小さな郵便局と、コンビニが一軒と、神社の境内と、俺の家。
その町から県の中央の港川市に出てきて、もう三年。
三年経って、俺はまだその町に半身を残している気がする。
半身、というのは、たぶん俺の中の沈黙の部分のことだ。
六時十五分、会社のビルの前に着く。
俺はいつもこの時間に着く。
始業は九時だから、三時間近く早い。
組込みのコードは、フロアが静かな朝のうちに書くのがいちばん集中できる。
大沢マネージャーは九時ぴったりにフロアに入ってくる。大沢さんが来る前の三時間弱、俺はいちばん難しいコードをここで片付ける。
社員証をかざしてビルに入る。
エレベーターを二階で降りる。
組込みチームの島は、フロアのいちばん奥側にある。
誰もいないフロアの中を、自分の机のほうへ歩く。
MacBookを開く。
今朝の最初の一杯のコーヒーを、給湯室で淹れて、自分のマグに注ぐ。
マグは三年前、入社の最初の月に、寮の近くの雑貨屋で買った。深い紺色の、無地の、シンプルなやつ。
マグの中の黒い液体を半口、口に運んでから、エディタを開く。
昨夜の続きのコード。
組込みAIの推論モジュールの最適化。
ファイル名、関数名、変数名、引数、戻り値。
俺の頭の中で、コードが順番に組み立て直されていく。
六時三十分から九時までの二時間半が、俺の一日のうちでいちばん厚い時間だ。
八時四十五分、フロアに少しずつ人が入ってくる。
八時五十分、組込みチームの林さんが入ってくる。
「黒木、おはよう」
「林さん、おはようございます」
俺は短く返す。
林さんはもう五十代前半の組込みチームの古参で、テックリードの林さん、と社内では呼ばれる。
俺の補佐が取れたあとも、林さんはまだ別の上位の役割で、組込みチーム全体の技術判断を取りまとめている。
八時五十五分、大沢マネージャーが入ってくる。
今朝の大沢さんの足音は、いつもより軽い。
大沢さんの足音の重さは、その日の機嫌の予兆だ。三年いると、足音の重さで一日のフロアの空気が読めるようになる。
今朝の軽さは、たぶん週末に何か良いことがあった人の足取りだった。
「皆、おはよう」
大沢さんはそう言って自席に着く。
「おはようございます」
組込みチームの各自が短く返す。
今朝のフロアの温度は、安全圏だった。
午前のコードレビュー。
俺は自分のチームの後輩のPRを二本、見る。
一本は、組込みチームの二年目の白井くんが書いたAPIラッパー。
もう一本は、同じく二年目の松尾さんが書いた異常検知のロジック。
白井くんのPRには十二件、コメントを置いた。
松尾さんのPRには六件、コメントを置いた。
コメントの数の差は、PRの中身の厚さと、二人がいま立っている学習曲線の段階の差だ。
白井くんはまだ命名と構造の組み立てで揺れる段階だから、十二件。
松尾さんはもう構造はほぼ安定していて、ロジックの妥当性の確認だから、六件。
二人へのコメントの書き方は、俺はこの三年、林さんと藤村さんのレビューを横で読んで学んだ。
……林さんは、構造の本質を一行で置く。
……藤村さんは、改善案を半段、踏み込んで書く。
俺は二人の中間くらいの書き方を真似ている。本質を一行で置きつつ、改善案も少しだけ添える。
完全に真似はできない。
林さんのあの、三年後の工場の現場まで一言で見通すような言い方は、俺の頭からは出てこない。
藤村さんの、月に一度の昼飯を三年続けてくれたような気の長さは、俺の手では維持できない。
しかし二人の真似のうち、自分の口に合うところだけを残して、俺なりの形にする。
それが、俺がテックリードとしていま組込みチームでやっていることだ。
ひとつだけ、自分でも分かっていることがある。
俺は、渓流で魚を待つときは、何時間でも待てる。水の中の小さな影が動くのを、息を殺して、ただ見ていられる。待つのは、得意だ。
なのに、白井くんのコードの前では、待てない。本人が自分で気づくより先に、つい十二件、置いてしまう。林さんなら、たぶん、三日でも待つ。白井くんが、自分の手で気づくまで。
川の魚は待てて、後輩は待てない。その差がどこから来るのか、俺はまだ、うまく言葉にできていない。
昼休み、十二時。
組込みチームの何人かと連れ立って、社員食堂に向かう。
今日は林さんが先に席を取った。
俺は日替わりのAランチを取って、林さんの隣に座る。
「黒木、最近どうだ」
林さんはいつもそう聞く。
「変わりません」
俺はいつもそう返す。
「変わらない、というのはテックリードとしては、たぶん良いことだ」
林さんは短く笑った。
「リーダーが変わると、チームが揺れる。リーダーが変わらないと、チームは育つ」
「うん」
俺は短く頷いた。
「ただな」
林さんはお茶を半口飲んでから、続けた。
「変わらないことと、止まることは別だぞ」
「うん」
「黒木はたぶん、変わらないことを選んでるけど、止まってはいない」
林さんはそう置いた。
俺は林さんの横顔を見た。
林さんの横顔は、五十代前半の長く組込みをやってきた人の横顔だ。深い皺と、まばらな白髪と、しかし目だけはまだ二十代の人の目に近い、あの組込み屋の目。
俺はもしかしたら、二十年後、林さんと似た顔をしているのかもしれない。
そう思った。
悪くないな、とも思った。
午後、組込みチームの定例ミーティング。
大沢マネージャーが進行する。
今日の大沢さんの声は、朝の足音の通りに軽い。
ただ、議題の途中で、白井くんの進捗が予定より一週間遅れていることが報告された瞬間、大沢さんの声が低くなった。
「白井、なんで一週間遅れた」
大沢さんの声は、低く、しかし真ん中にかすかな棘があった。
白井くんの肩が、固くなった。
俺はその瞬間、間に入る間合いを計った。
「大沢さん」
俺は声を置いた。
「設計の途中で、外部APIの仕様変更があって、その確認に二日取られました。白井の手の遅れではなく、外部要因です」
短く運んだ。
大沢さんの目が、俺のほうに動いた。
「外部要因か」
「はい」
「分かった」
大沢さんはそう短く返して、議題を次に進めた。
白井くんの肩が、戻った。
ミーティングが終わってから、白井くんが俺の席のほうに来た。
「黒木さん、さっきありがとうございました」
白井くんは深く頭を下げた。
「俺、自分でちゃんと言えなくて」
「うん」
俺は短く返した。
「白井、覚えとけ」
「はい」
「外部要因のときは、外部要因と即座に置く。手の遅れと混ぜない。混ぜると、自分の評価が下がる」
「はい」
「混ぜないのは、自分のため。それと、チームのため」
俺はそう置いた。
白井くんはノートを取り出して、その三行を書き留めた。
書き留める手の動きは固いが、しかし最後までちゃんと運んだ。
……三年前の俺と、似てる。
心の中でそう思った。
高専を卒業して港川に来た十九歳の俺は、まだ自分の声を職場で運べなかった。
林さんが一年目の俺に、似たような場面で間に入ってくれたことがあった。
その日の林さんの声の温度を思い出した。
俺は今、林さんのあの日の役を、白井くんに対してやっていた。
夕方、五時半。
退勤時刻が近づく。
組込みチームの島の周りで、皆が少しずつ片付け始める。
俺はいつも、皆より半時間ほど遅く退勤する。
MacBookのファイルを保存して、コミットを整理して、明日の朝の最初の三時間で何をやるかを、メモに残してから、退勤する。
今日もそうした。
六時すぎ、フロアを出た。
エレベーターで一階に降りた。
ビルの外、桜並木通り。
六月最後の月曜の夕暮れ。
葉桜の影が、夕日の中でちらちら揺れていた。
駅のほうから歩いてくる人影が一つ。
遠目に見て、桐谷だと分かった。
桐谷蒼太。
チームAの三年目。同期で、同じ寮で、同じ階の住人。
「黒木、お疲れ」
桐谷が先に声をかけた。
「桐谷、お疲れ」
俺も短く返した。
二人で並んで、桜並木通りを寮の方向へ歩いた。
桐谷はいつも、隣を黙って歩ける人だ。
俺と桐谷の間には、無理に会話を作る必要がない。
桐谷は俺と違って、自分から人に声をかけられる側の人間だ。三年で、それは確かに進んだ気がする。一年目の頃の桐谷は、たぶん声をかける側ではなく、観察する側だった。今の桐谷は、観察したものを声に運ぶ側に変わってきている。
しかし俺の隣を歩くときの桐谷は、声に運ぶ方向にはあまり動かない。
俺の沈黙の温度を、桐谷はたぶん、ちゃんと読める側の人間だ。
だから二人で並んで歩くときは、たいてい無言だ。
無言のまま、寮の前に着く。
今日もたぶん、無言で着く。
半分そのつもりで歩いていた。
しかし今日は、半分だけ、口を開いてみた。
「桐谷」
「うん」
「俺、最近、決めた」
短く置いた。
「うん」
「ここに残る」
桐谷の足は、リズムを変えなかった。
ちゃんと聞いていた、という間だった。
「うん」
桐谷はそう返した。
「県外を、知らないままで」
「うん」
「県外を知らないまま、ここで根を張る、それもひとつの選択、と思って」
桐谷は少し考えた。
「うん。黒木らしい」
短く返してきた。
俺は小さく頷いた。
葉山さんが俺に金曜の夜の座敷で同じことを聞いたとき、俺はもう答えを置けた。しかしその答えを、桐谷の隣を歩く道で改めて自分の口で運んでみたかった。
桐谷の隣で運ぶ「ここに残る」という五文字は、座敷で運んだ五文字とは、別の重さだった。
地元の親の顔が、頭の中をよぎった。
県の北の小さな町。商店街のシャッター。神社の境内。
俺の家には、たぶんもうあと十年か十五年か、両親が住み続ける。
俺が住むのは、ここ、港川市だ。
地元から電車で一時間。
一時間離れていて、しかし同じ県の中。
ここでよかった、と俺はもう、思い始めていた。
県外に出る選択もあった。三年目の春、林さんから「県外の組込みメーカーで、お前のスキルを試す方向もある」とそっと言われたことがあった。
しかし俺は少し考えて、その日のうちに「ここで」と返した。
林さんは「うん」と一文字、返してくれた。
その一文字で話は終わった。
寮の前。
桐谷が立ち止まった。
「黒木」
「うん」
「今日、聞かせてくれてありがとう」
桐谷はそう置いた。
「うん」
俺は短く返した。
桐谷が先に、玄関を入っていった。
俺は玄関の前で、立ち止まった。
空を見上げた。
六月最後の月曜の夜空。
星はまだまばらだった。
夜は浅かった。
しかし夏の予感が、夜風の中に混ざっていた。
部屋に戻った。
MacBookを開かずに、机の上のマグの中の冷えたコーヒーの最後の半口を運んだ。
冷えていた。
しかし朝の俺と、夜の俺が、同じマグの中で、繋がっていた。
寮の自室の天井を、もう一度、見上げた。
白い天井。
三年前と同じ天井。
しかし三年前の俺と、二十一歳の俺は、違う。
違う、というのは、たぶん良い意味で違う。
目を閉じた。
明日の朝もまた、六時十五分に会社のビルの前に着く。
俺の三年は、ちゃんと積み重なっていた。




