第68話「3つの開発部を、歩く一週間」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月の最終週、月曜日の昼休み。
商工会議所のITイベントに、ヨキエル代表で参加したのが先週。地元の中小企業の人たちと話し、村瀬社長の壇上の言葉を聞いた。あの一日の余韻が、まだ自分の中に残っていた。
その月曜の昼、廊下で遠野CTOに呼び止められた。
「桐谷くん」
遠野CTOは、いつもの白いシャツ、いつものグレーのスラックス。手にはタンブラー。
「お疲れさまです」
「先日の商工会議所、お疲れさま。よかったって、評判聞いてるよ」
「ありがとうございます」
遠野CTOは軽く頷いてから続けた。
「桐谷くん、三年目だね」
「はい、三年目です」
「他の事業部、見てみない?」
突然の話だった。
「他の事業部、ですか」
「うん。あなたが見たほうがいい。間宮にも、話してある」
遠野CTOは、それだけ言って軽く頷いて、CTO室の方角に歩いていった。
残された僕は、廊下でしばらく立ち止まっていた。
午後、自分の島に戻ると、間宮先輩が僕の方を見ていた。
「桐谷くん、CTOから、話あった?」
「はい。さっき、廊下で」
「行ってこい」
間宮先輩は軽く笑った。
「半径3メートルの外を、いっぺん見るのもいいよ」
その「半径3メートルの外」という言葉が、しばらく自分の中に残った。
間宮先輩のあの哲学を、間宮先輩自身が「外」と呼ぶことに、僕は少しだけ驚いていた。
でも、その驚きは、たぶん間宮先輩なりの配慮だった。
間宮先輩自身は、これからも「半径3メートル」を守っていく。
でも、僕には、外を見てきてほしい。
そう、言ってくれていた。
翌日、火曜日。
最初の訪問先は、自社サービス事業チーム。
案内役は、白瀬さんの大学時代の同期で、自社サービス事業チームに最初から所属している人だった。名前は篠田さん。三十代の前半、白瀬さんと同じ年。
篠田さんは、僕を自社サービス事業チームの島に連れていって、自席の隣の空きデスクを勧めてくれた。
「桐谷くんって、聞いてる。白瀬から」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
篠田さんは、それから自社サービスのリリースサイクルの話をしはじめた。
毎週、火曜と木曜に本番リリース。新しい機能は、ほぼ毎週、何かしらリリースされる。リリース直後の数字は、半日後にはダッシュボードに上がってくる。
「うちは、ユーザーが直接見える」
篠田さんは、淡々と続けた。
「だから、毎日の数字に振り回される」
僕は、ノートを開いていた。
「受託は、お客さんが、見える。違いますね」
「うん。違う」
篠田さんは、自分の画面を軽く僕に向けた。
A/Bテストの管理画面。複数の機能が、AとBの二つのバージョンで、ユーザーにランダムに見せられていた。半日ごとに、コンバージョン率の差が棒グラフで表示されていた。
「これ、面白いですよ。同じ機能でも、見せ方を一個変えるだけでユーザーの反応が二割変わる」
「二割……」
「うん。私が新人だったとき、こういうの見てなかった。最近、五年前からデータ重視に変わった」
篠田さんは、コーヒーカップを軽く手に取った。
「同じ会社の中でも、見ている景色が違う」
その一言を、僕はノートに写した。
篠田さんと、午後、四時間ほど過ごした。
その間に、近くの席の若手二人が、僕の方をちらっと見た。一人はお辞儀をして、もう一人は軽く手を上げた。篠田さんが「うちの後輩」と、それぞれ短く紹介してくれた。事業部の中でも、世代によって空気が違う、と少しだけ感じた。受託の島の温度とは、確かに質が違う。
夕方の十六時を過ぎたころ、篠田さんは、ぽつりとこう言った。
「桐谷くんの『半径3メートル』、聞いてる」
「はい」
「うちの事業部、半径3メートルじゃ足りないんだよね」
篠田さんは、画面の棒グラフを軽く指で示した。
「ユーザーが何百万人いる。一人ひとりとは、絶対に話せない。だから、三分の一の声をデータで拾う」
「三分の一?」
「うん。ぜんぶは拾えない。三分の一でいい。三分の一の声を、半径3メートルじゃなくて、三メートル先の、もっと向こうから拾う」
篠田さんは、自分の表現に少し笑った。
「変な言い方、しちゃった」
「いえ。わかりやすいです」
篠田さんの「三メートル先の、もっと向こう」という言葉を、僕はノートに書き写した。
その週の水曜日。
第二の訪問先は、組込み開発部。
案内役は、黒木が、ロボコン時代の人脈を頼って紹介してくれた人だった。
名前は林さん。
社内の資料で、名前は見たことがあった。組込み開発部の、初代テックリード。遠野CTOが再入社した年に、白瀬さんと同じく任命された人。
林さんは、五十代の前半、白髪混じりの短い髪。シャツの胸ポケットに、ペンが三本差さっていた。
「桐谷くん。黒木から、聞いてる」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
林さんは、僕を組込み開発部の島に案内した。デスクの並びが、他の事業部とは少し違っていた。机の半分が、書類と白い箱で埋まっていた。白い箱の中には、基板や、配線や、小さなセンサーが混じっていた。
「うちは、ハードと一緒に動く」
林さんは、白い箱のひとつを軽く開けた。
「だから、コードだけじゃ終わらない」
箱の中の基板を、林さんは指で示した。
「これ、製造業のお客さん向けのセンサーシステム。来月、出荷する。出荷したら、二年は撤退できない」
「二年、ですか」
「うん。お客さんの工場の現場に入る。生産ラインに組み込まれる。一回入ったら、二年は動き続ける」
林さんは、続けた。
「だから、最初の一年で、見える景色がすべて」
その「すべて」という言葉が、自分の中で重く響いた。
受託の自分の感覚では、プロジェクトは、半年から一年。長くて二年。
組込みは、その「一年」が、すべてを決める。
組込みチームの島には、黒木と、アユシュくんの相談役だった藤村さんもいた。藤村さんが、こちらに気づいて軽く手を上げた。「桐谷くん、お、こっちにも来たんだ」と、それだけ言って、また自分の手元の基板に視線を戻した。短い挨拶ではあったけれど、知り合いが一人、この島にもいるという、ほんの少しの安心が、自分の中に置かれた。
黒木は、島のいちばん奥で、アユシュくんと並んで座っていた。
アユシュくんの画面に、赤いエラーが出ていた。C++の長い行が、途中で止まっている。黒木は、自分のキーボードから手を離して、アユシュくんの画面を一秒だけのぞき込んだ。それから何も言わずに、アユシュくんのキーボードに手を伸ばして、一行だけ直した。エラーが、消えた。
「ありがとう、Kuroki」
「礼は、いい。動けば、いい」
黒木はそう言って、自分の画面に戻った。照れているのか、こちらは見なかった。
僕は、黒木にひとつだけ聞いてみた。
「組込みって、受託と、何がいちばん違う?」
黒木は、少し考えてから答えた。
「出したら、二年は戻れない。お客さんの工場で、もう動いてる。バグがあっても、こっちの都合では止められない。だから、出す前にぜんぶ確かめる」
短い言葉だった。けれど、林さんの『二年』と、同じ場所を指していた。
黒木の指は、言葉より速い。さっきの一行も、たぶん、考えるより先に動いていた。僕はノートに、黒木の名前で、一行だけ書いた。組込みの数字は、出荷したあとの二年。
午後、林さんと、コーヒーを淹れに行った。
休憩スペースで、林さんが、ぽつりと言った。
「あなたの『半径3メートル』、いい言葉だね」
「ご存知でしたか」
「うん。間宮さんとは別の部署だけど、長い付き合いだから。あの人の話、たまに聞く」
林さんは、自分のコーヒーを軽く回した。
「私たちは、半径3メートル、掛ける、三年を見ている」
「三年、ですか」
「うん。空間の三メートルと、時間の三年。両方が半径の一部だ」
林さんは、続けた。
「コードを書いた瞬間に、三年後を見る。三年後の、お客さんの工場の現場で、自分のコードがちゃんと動いているか。それを、書きながら考える」
林さんの目は、コーヒーカップを見ていた。けれど、その目の奥は、たぶん三年後の工場の現場を見ていた。
「時間も、空間も、ぜんぶが半径の一部だ」
林さんは、それだけ言って、コーヒーを含んだ。
その一言を、僕はノートに書き写した。
その週の木曜日。
もう一度、自社サービス事業チームに戻って、篠田さんともう数時間話した。
金曜日。
組込み開発部にもう一度戻って、林さんの隣で半日過ごした。
一週間で、二つの事業部、合わせて四日。
受託開発部の自分の机に戻ってきたのは、七月に入って最初の金曜日の午後。
間宮先輩が、僕の方を見て、軽く頷いた。
「お、帰ってきた」
「ただいま、です」
「どうだった」
僕は、自分の椅子に座った。
ノートを、机の上に置いた。
しばらく考えてから答えた。
「自分の半径3メートルが、本当に小さかった、ってわかりました」
間宮先輩は、その答えを聞いて、少しだけ頷いた。
「うん」
「でも」
間宮先輩は、続けた。
「小さいことが、悪いんじゃない。小ささを知ってから、何を選ぶかだよ」
その言葉が、しばらく自分の中で止まっていた。
ノートに、僕は、ひと行書き加えた。
……視座、って、こういうことなのかな。
「視座?」
間宮先輩が、僕のノートを横から覗いた。
「誰の言葉?」
僕は、少し考えてから答えた。
「いま、初めて思いついた言葉です」
間宮先輩は、少しだけ笑った。
「桐谷くん、最近、いい言葉見つけるな」
その「いい言葉」が、自分の中に温かく落ちた。
間宮先輩は、それ以上は聞かなかった。
夕方、自分の島で、ノートを開き直した。
白いページに、三つの哲学を書き写した。
……受託は、お客さんとの、半径3メートル。
……自社は、ユーザーの、三メートル先の、もっと向こうからの三分の一。
……組込みは、空間の三メートル、掛ける、時間の三年。
三行が並んだ。
三つの哲学の下に、数字のことも短く書き足した。
……受託の数字は、売上と、年に二度の顧客満足度。半年か一年に一度、ゆっくり動く。
……自社サービスの数字は、コンバージョン率と解約率。半日ごとに、ダッシュボードで動く。
……組込みの数字は、出荷したあとの二年。動かないことが、いちばんの数字。
同じ数字でも、事業部によって、動く速さも形もまるで違っていた。
その下に、もう一行、書いた。
……視座。
定義は、書かなかった。
書けなかった、というほうが、正しい。
まだ、定義を書けるほど、自分の中で、その言葉は固まっていなかった。
でも、いつか定義できる気がした。
いつかは、わからない。半年後か、一年後か。あるいは、もっと先か。
たぶん、その「いつか」のために、いま、この一語を書き残しておく。
窓の外、七月の夕焼けが、桜並木通りに降りていた。
葉桜の濃い緑が、夕焼けの色と混じっていた。
篠田さんの言葉。
林さんの言葉。
二人とも、自分の事業部の中で、自分なりの「半径3メートル」とは別の哲学を持っていた。
ヨキエルという、ひとつの会社の中で、三つの事業部が、三つの違う哲学で動いている。
その事実が、自分の中で、ゆっくり整理されていった。
半径3メートルは、ひとつの哲学。
でも、ひとつの哲学だけが、正しいわけではない。
受託の自分は、受託の中で、半径3メートルを持ち続ける。それでいい。
でも、他にも、別の半径があることを知っておく。
知っているのと、知らないのとでは、自分の半径の、輪郭の見え方が違ってくる。
他を知って、自分の半径が、より、はっきり見える。
そういうことなのかもしれなかった。
間宮先輩が、コーヒーを淹れ直して戻ってきた。
「桐谷くん、明日、土曜だな」
「はい」
「何か、予定、ある?」
「いえ、特に」
「じゃあ、ゆっくりしろ。今週、よく歩いた」
「はい、ありがとうございます」
間宮先輩は、それだけ言って、自分の画面に視線を戻した。
僕は、もう一度、ノートを見た。
……視座。
その一語を、しばらく見ていた。
遠野CTOが、僕に、外を見てきてほしい、と言った理由が、少しだけわかった気がした。
CTOは、たぶん、僕が、自分の半径を、自分の言葉で見直す時期に来ていることを、知っていた。
外を見たことで、自分の中の言葉が、新しく、ひとつ生まれた。
その言葉を、これから、自分の中で、ゆっくり育てていく。
育てた先に、何が見えるかは、まだわからない。
でも、見える方向に、自分が向きはじめている。
ノートを、閉じた。
夕焼けが、深まっていった。
桜並木通りに、街の灯が、ぽつぽつと灯り始めていた。
三年目の、夏の始まり。
外を見てきた。
外を見たことで、自分の場所が、少しだけ変わっていた。
その「少しだけ」の変化を抱えたまま、これからの一週間が始まっていく。
窓の外、夏の夕風が、桜並木通りに流れていた。




