第67話「商工会議所、ヨキエル代表で立つ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月中旬の月曜日、朝八時四十五分。
港川市はもう梅雨の真ん中だった。桜並木通りの葉桜は、雨の合間にひそかに色を深めていた。地面はまだ夜の雨で湿っていた。革靴の底にかすかな水の感触があった。
フロアに上がると、空気がいつもより重かった。除湿機が二台、いつもより早い時間から低く回っていた。
……梅雨の月曜の朝は、フロアも半段だけ静かになる。
心の中で僕はそう確かめた。
席に着いて、MacBookを開いた。開いたところで、諏訪マネージャーから個別Slackが落ちてきた。
「桐谷くん、来週、商工会議所のITイベント、ヨキエル代表で行ってきて」
短い一行。
画面を二度、目で追った。
商工会議所のITイベント。
港川市の中央通り沿いに、商工会議所の白い古いビルがある。月に何度か、地場産業の集まりや経営者の朝食会が開かれる場所。市のIT勉強会の案内が、たまにそこからも出ている。
返信を書いた。
「諏訪さん、行かれないのですか?」
半秒で返ってきた。
「私は別件で同じ時間帯に動いてる。それと、桐谷くんが行く方が得るものが多いと思う」
もう一行。
「業界全体の景色を、もう一段、自分の目で見てみて」
業界全体の景色。
心の中で繰り返した。
諏訪さんから、もう一行だけ、続けて落ちてきた。
「桐谷くん、外に立つ経験、たぶん、次の何かに繋がる」
その一行の末尾に、絵文字も、句点の後の補足も、なかった。
いつもの諏訪さんの、一行だけ置いて、それ以上は説明しない、という置き方だった。
……次の、何か。
その四文字を、僕は胸の内で、一度、なぞった。なぞってはみたが、諏訪さんが何を思って「次の何か」と書いたのか、僕の側からは、まだ、輪郭が見えなかった。輪郭は見えないまま、そのままの温度で、胸の内に、しまった。
ヨキエル代表、という五文字も、もう一度繰り返した。
……諏訪さんが、僕に行かせる。
胸の奥で頷いた。
「分かりました、行ってきます」
短く返した。
当日の午後一時半。
市内のホテル「港川グランド」の四階、大会議場「望川の間」。
二百名規模の集まりだった。受付の机に名簿があって、僕は社名と自分の名前を書いて、緑色のラベルの名札をもらった。
名札には「株式会社ヨキエル 桐谷蒼太」と印字されていた。
ヨキエル、の四文字。
その四文字の下に自分の名前が並んでいるのを、入社三年目で初めて、社外の場で目にした。
会場の中はすでに半分ほど席が埋まっていた。地場の経営者らしいスーツの男性たち、地方銀行の襟章をつけた若手の人たち、商工会議所のスタッフらしい腕章の女性たち。年齢層は四十代から六十代が中心で、僕のような二十代はぱっと見て十人くらいだった。
息をなかば、整えた。
受付の脇で資料の袋を受け取った。袋の中にプログラムが一冊。
午後一時から開会の挨拶、市長の挨拶、商工会議所の会頭の話。
午後二時から基調講演。
午後三時からパネルディスカッション「地方ITの未来」。
午後四時半から懇親会。
午後三時のパネルディスカッションの登壇者の欄に、見慣れた名前を一つ見つけた。
「株式会社ヨキエル 代表取締役社長 村瀬正之」
村瀬社長の名前だった。
……社長も来ている。
内心で頷いた。
たぶん諏訪さんは、僕が社長の話を直に聞ける場であることも、見越したうえで僕を送り出した。
席のいちばん後ろ寄りの空いた椅子に座った。
会場を見渡したとき、左の通路の前のほうで僕に軽く手を上げる人がいた。
岡崎順さんだった。
港川IT勉強会の主催者。二年目のあの夏の夜、僕の初めての登壇を、扉のプレートに人差し指で触れる慣れた動きで迎えてくれた、三十五歳の中堅エンジニア。
半年ほど勉強会には間隔が空いて顔を出せていなかったが、岡崎さんは僕のことを覚えていてくれていた。
空席の隣を岡崎さんが軽く叩いた。
「桐谷さん、こっち空いてますよ」
会場の通路を歩いて岡崎さんの隣に移った。
「岡崎さん、こんにちは」
「桐谷さん、来てくれて、嬉しいです」
岡崎さんの声は、勉強会の夜の小さな会議室で聞いたものと同じだった。フォントサイズを五十・五十二で刻む人の、淡くて確かな温度。
「諏訪さんから、ヨキエル代表で行ってこいと言われまして」
「諏訪さんが、桐谷さんを?」
岡崎さんは口の端でほんの少し笑った。
「いい話ですね」
「いい話、なのですか?」
「諏訪さんが、自分じゃなくて若手を出す、っていうのは、たぶん意図がある」
岡崎さんはそう置いてから、もう一段、静かに続けた。
「業界の外を見せたい、っていう意図、たぶん」
業界の外。
胸の内で繰り返した。
諏訪さんが書いたSlackの一行を、もう一度頭の中で開いた。
「業界全体の景色を、もう一段、自分の目で見てみて」
岡崎さんの読みと、諏訪さんの一行が、重なった。
午後一時、開会の挨拶が始まった。
港川市の市長が登壇して、五分ほど話した。地方創生、IT産業の地場での育成、若手の流出を防ぐ、というよく聞く言葉が並んだ。
次に商工会議所の会頭。
六十代後半の男性で、地元の建設業の経営者。会頭の話は、地場経済の現状と、IT化の遅れと、若い世代への期待、という三つの柱で短く運ばれた。
基調講演は隣の県の大学の教授だった。地方IT産業の構造、人口減少と人材確保、首都圏との給与差、地場企業の競争力の作り方。スライドの白背景に黒文字の標準的な作り。フォントサイズはたぶん四十前後。
岡崎さんは隣でメモを取っていた。手帳に万年筆で、要点を短く、しかし整理された並べ方で。
僕も手元のノートを開いて、引用したい一行を二つ、三つ、書き留めた。
基調講演が終わって、休憩が二十分入った。
午後三時、パネルディスカッション「地方ITの未来」。
登壇者は四人。
一人目、隣の大都市から来た中堅IT企業の取締役。
二人目、県内の老舗SIerの専務。
三人目、地方銀行のDX推進部長。
四人目、村瀬正之社長。
モデレーターは商工会議所のスタッフだった。
村瀬社長は四人の中でいちばん端の席だった。
壇上の村瀬社長は、僕が入社式の朝に見た村瀬社長と、フロアで時々遠目に見る村瀬社長と、ほぼ同じ服装、同じ姿勢だった。濃いグレーのスーツ。紺のネクタイ。胸ポケットにいつもの淡いチーフ。
しかし壇上で見る村瀬社長は、フロアの遠目で見る時よりも、表情がよく動いていた。
モデレーターが最初の問いを置いた。
「地方IT企業が、これから生き残るために、何が必要だと思われますか」
順番に四人が答えた。
一人目の隣県の中堅IT企業の取締役は、「規模の確保」「県外案件の取り込み」「M&A」を挙げた。
二人目の老舗SIerの専務は、「地場顧客との信頼関係」「長期保守の堅実な積み上げ」を挙げた。
三人目の地方銀行のDX推進部長は、「地場企業のDX投資の余力」「補助金活用」を挙げた。
四人目、村瀬社長の番が回ってきた。
村瀬社長は一度、マイクを口の前に運んでから、ゆっくり置いた。
「うちの会社はずっと受託でやってきました」
最初の一行は、そうだった。
「創業五十七年、受託で食べてきた五十七年です。私がこの会社に入った頃は、受託の比率が九割を超えていました」
「ただ最近、その比率を下げに行ってます。自社のパッケージ、自社のサービス、そっち側にもう半身、軸を移そうとしてる」
「受託からの脱皮、と私は社内で呼んでます」
会場の中で、何人かが頷いた。
村瀬社長は続けた。
「これは技術の話というよりは、たぶん、覚悟の話です。受託は注文があれば回る。自社サービスは、自分で売り先を作らないと回らない。営業の構造が違う、回収のサイクルが違う、必要な人材の種類が違う」
「うちはまだその途中です。半身を移しただけです。残りの半身を移すには、たぶんあと十年はかかる」
「でも、移します。次の世代、若い世代に、受託だけの会社を渡したくないので」
村瀬社長はそこで言葉を切った。
マイクを口元から離した。
会場の前のほうの誰かが、ぽつりと拍手を始めた。拍手はじわりと広がって、しかしそこで止まった。村瀬社長の話の温度が、まだ拍手で受け切れない方向に置かれていたからだった。
モデレーターが次の問いに移った。
パネルディスカッションは一時間半ほど続いた。
四人の登壇者がそれぞれの立場で、地方ITの未来を切り取った。
しかし僕の頭の中に残ったのは、村瀬社長の「次の世代、若い世代に、受託だけの会社を渡したくない」という一行だった。
次の世代。
たぶん、僕も含まれていた。
心の中でそう置いた。
入社三年目の僕は、村瀬社長から見て、たぶん「次の世代」の側の人間だった。
ノートにその一行を写した。
「次の世代に、受託だけの会社を渡したくない」
書き終えてから、ペンを止めた。
その一行が、なぜか、自分のノートの真ん中でじわりと重たくなった。
午後四時半、懇親会が始まった。
会場の隣の「望川の間」第二室に、立食のビュッフェが用意されていた。
ジュース、ビール、ワイン、そしてサンドイッチや小ぶりのオードブル。
岡崎さんが僕の隣に立った。
「桐谷さん、何か飲みますか」
「ジュースで」
「私もそうします」
二人でオレンジジュースのグラスを取って、会場の壁際のほうへ少し移った。
「桐谷さん、村瀬社長の話、どうでしたか」
岡崎さんはそう聞いた。
ジュースのグラスを目の高さに上げてから、口を開いた。
「初めて、外で社長の話を聞きました」
「フロアの中だとどんな感じですか」
「フロアの中だと、四半期に一度の全社会議で、短いスピーチを聞くだけです。今日みたいに、五十七年の受託の話と、自分の覚悟の話を、まとめて聞いたのは初めてです」
「うん」
岡崎さんは頷いた。
「桐谷さん」
「はい」
「あなた、業界全体のことを考えるようになってきたね」
岡崎さんはそう置いた。
岡崎さんの目を見た。
その目は二年目の夏の夜、貸会議室「ふじみ」の会議室で僕にUSB-Cの変換ケーブルを差し出した時と同じ目だった。淡くて、しかし最後まで揺れない目。
「観察、領域が、広がっただけです」
短く返した。
岡崎さんは口の端でほんの少し笑った。
「観察、っていい言葉ですね」
「二年目のあの夏、岡崎さんから、たくさん受け取りました」
「いや、こちらこそ。あの夜の桐谷さんのLTは、四十八回続けてきた中で、たぶんいちばん緊張の真ん中で立った人の話だった」
「もう半年以上、勉強会に行けていなくて、すみません」
「いいのですよ。続けてる側は、来てくれた一回ぶんの参加を、ちゃんと覚えてる」
岡崎さんはジュースのグラスをもう半口、運んだ。
「で、今日のこのイベントの参加も、その続きです」
岡崎さんはそう置いた。
「月に一度の港川IT勉強会と、商工会議所のITイベントは、別の会だけど、業界全体の景色という一枚の絵の中では、隣のマス目です」
隣のマス目。
胸の奥で繰り返した。
諏訪さんの一行と、岡崎さんの一行が、もう一段、重なった。
懇親会の中ほどで、岡崎さんが他の経営者を二人、紹介してくれた。
一人は隣県の中堅IT企業の取締役。さっきの登壇者の一人目の人だった。
「うちは規模を取りに行く方向です。お宅は?」
その取締役は、僕に短く聞いた。
「うちは、規模よりも、地場の深さで」
短く返した。
規模、ではない方向の言葉を、自分の口で運べたことに、内心で頷いた。
もう一人は商工会議所の若手スタッフだった。三十代前半の男性で、地場の人材育成のプログラムを担当しているという話だった。
「ヨキエルさん、新卒採用、続けてますか」
「続けてます。今年も五人入りました」
「いいですね。地場で五人、毎年取れる会社、少ないですよ」
会話は短く運んで、名刺を交換して、終わった。
会場の中で、僕は岡崎さんを介して、五人くらいの人と話した。
五人ぶんの名刺が手元に増えた。
名刺入れの中の重さが、少し変わった。
午後六時、懇親会が終わった。
ホテルのロビーで岡崎さんと別れた。
「桐谷さん、また勉強会にも、たまには」
「はい、必ず」
「いい一日でしたね」
「はい」
岡崎さんは口の端でほんの少し笑って、駅のほうへ歩いていった。
僕は反対方向の桜並木通りのほうへ歩いた。
六月下旬の夕暮れ。
桜並木通りの葉桜は、今は深い緑だった。葉の影が夕日にちらちら揺れていた。
夏の予感が、夜風の中に混ざっていた。
歩きながら、村瀬社長の壇上の一行を、もう一度思い出した。
「次の世代、若い世代に、受託だけの会社を渡したくない」
その一行の中の「若い世代」に、たぶん僕は含まれていた。
含まれている、ということと、その方向に自分の半身を置く、ということは、半段、違う話だった。
しかし今日の四階の「望川の間」で、その隙間が、半段ぶんだけ詰まった気がした。
桜並木通りの街灯が、ひとつずつぽつぽつ灯っていた。
寮に戻った。
部屋の机にカバンを置いて、ノートを開いた。
今日の日付の下に、ペンを置いた。
半秒、考えてから、一行目を書いた。
「商工会議所のITイベント、ヨキエル代表で参加」
もう一行。
「岡崎さんと再会、業界の隣のマス目という言葉」
もう一行。
「村瀬社長、壇上での『次の世代に受託だけの会社を渡したくない』」
もう一行。
ペンを止めてから、最後の一行を書いた。
「業界全体の中で、ヨキエルは何ができるか」
書き終えてから、その一行を目で追った。
観察の領域が、半径3メートルから始まって、フロアの島を超えて、ヨキエル全体に広がって、今日、たぶんもう一段、外側に広がった。
業界全体の中での、ヨキエルの位置。
その位置を見つめる目線を、僕はまだ持ち始めたばかりだった。
しかし諏訪さんが今日、僕にそれを渡そうとしたのは、たぶんそういう目線を持つ段階に、僕がそろそろ入るべきだと判断したからだった。
ノートを閉じた。
窓の外、六月下旬の夜風が薄く湿って吹いていた。
夏が来る。
三年目の夏が、もうすぐ。




