第66話「黒木、補佐が取れた夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月初旬の金曜の夜。
駅前の居酒屋・かいかんの座敷席。
いつもの六人が揃った。
葉山さん、黒木、アユシュくん、丸山くん、杉本さん、そして僕。
卓上にはお通しの枝豆と瓶ビールが三本、アユシュくんにはいつものジンジャエール。それぞれのジョッキにすでに注がれていた。
今夜の集まりは黒木の、補佐が取れた祝いだった。
組込みチームのテックリード。
補佐ではなく正式に。
同期六人の中で、いちばん早く「補佐」が取れた一人。
「黒木、おめでとう」
最初に口を開いたのはアユシュくんだった。
「Finally, the official position」
アユシュくんの口調はいつもの日本語ベースに、最後の一句だけ英語を乗せるあの形だった。
黒木は一度、ジョッキに目を落としてから短く返した。
「うん」
それだけだった。
「黒木、すごい、本当に」
葉山さんが続けた。
葉山さんの声は、いつもの葉山さんよりも少しだけ祝いの方向に振れていた。
「補佐から一年、テックリードちゃんと届いたね」
「うん」
黒木はまた短く返した。
「マジっすか! 黒木さん、めでたいっす!」
丸山くんがジョッキを軽く卓に置いて、両手で何かを掲げる仕草をした。
「黒木さん、おめでとうっす! 乾杯、もう一回しましょうよ!」
「もうしたじゃない」
葉山さんがふっと笑って突っ込んだ。
「もう一回したいっす、これは!」
「黒木さん、実力、皆が認めるところでしたから」
杉本さんがいつもの控えめな語尾で、しかし最後までしっかり運んだ。
「おめでとうございます」
杉本さんは座敷の上で深く頭を下げた。
……杉本さんのお祝いの仕方は、いつもの杉本さんらしい。心の中でそう思った。
古文書の独学の手の動きで、お祝いの言葉も丁寧に最後まで運ぶ。
乾杯のジョッキの音が座敷の中でやわらかく重なった。
六人分のジョッキの底が、卓上で揃った。
黒木はそれを見届けてから、もう半口、ビールを飲んだ。
いつもの黒木なら、お祝いの言葉に対して「うん」と「ありがとう」を交互に短く返して、それで会話の中心は他の誰かのほうに流れていく。
しかし今夜の黒木は、続きを置いた。
「俺、補佐が取れた。今日から、ただのテックリード」
黒木がそう置いた。
「おお、補佐、取れたんすね」
丸山くんがジョッキを止めた。
「給与は?」
「据え置き」
「据え置きっすか!」
座敷の中でくすりと笑いが流れた。
黒木は目を伏せてから続けた。
「役割は上がった。でも給与の幅は、まだ補佐の頃と同じ枠」
「それ、二年目のときと同じ話っすね」
「うん。同じ話」
黒木はいつもの黒木よりも長く話した。
話しながらジョッキを卓上の同じ位置に戻して、軽く指でジョッキの縁を撫でた。
「テックリードっていう役割が、まだ正式な制度になってない。給与の幅とどう連動させるか、いま会社の上のほうで揉んでるところらしい」
「林さんが言ってた。テックリードも、その上の役割も、ちゃんと定義し直すのはもう少し先。今のは、いわば仮置き」
黒木はそこまで運んでから、もう半口、ビールを飲んだ。
卓上に間が空いた。
……役割だけ上がって、待遇が追いつかない。
胸の奥で僕はつぶやいた。
去年、黒木が補佐になった夜に葉山さんが言った、「形だけの役職、長く続けると潰れる」という一行を思い出した。それから一年目の全社会議で遠野CTOが並べた三つの技術方針の、いちばん最後の一行も。エンジニアが長く働ける組織を作る。役割と待遇の定義を会社全体でやり直すというのは、たぶんあの三つ目の方針が、いま現場のほうへ動き始めているということだった。
……遠野さん、ちゃんと動いてる。
僕はそう思った。
間のあとで黒木はもう一段、続けた。
「あとな」
一拍。
「大沢さんが、推薦書を書いてくれたらしい」
黒木はそう置いた。
声は、いつもの黒木の低い音のままだった。
しかしその一行の中身は、座敷の空気をひと呼吸ぶんだけ静かにした。
「大沢さん」
僕は内心で名前を撫でた。
一年目に何度か遠目に見たマネージャー。組込みチームの古参。機嫌の波がフロアの空気を半段ずつ動かす人。二年目の六月下旬に黒木が補佐になったとき、その推薦も大沢さんだったと、黒木自身の口から聞いていた。
今夜、黒木の口からもう一度その名前が出た。
補佐の時の推薦も。
今回、補佐が取れる時の推薦も。
二回、大沢さんが書いた。
「あの人、機嫌の波はひどい」
黒木は淡々と続けた。
「波の低いときに当たると、こっちの一日の温度が半段下がる。そういう一年を俺も何回かやった」
「うん」
葉山さんが短く頷いた。
「でも」
黒木は一拍置いた。
「大沢さんは、俺の三年を、ちゃんと見てた、って言った」
黒木はそう運んだ。
「……でも、違う。ちょうどいいところに、ちょうどいいコマがいた。それだけだ。自分でやるのは、面倒だったんだと思う。あの人は、仕事を振るのが、仕事だから」
声は低く、しかし最後まで途切れなかった。恨んでいる声では、なかった。見えているものを、見えているとおりに置いた声だった。
……二年目のあの夜、黒木が短く教えてくれた一行。
胸の内で思い返した。
「私から推薦した、と本人がそう言った」
あの夜の黒木はそれだけを平らに置いて、二杯目のハイボールを静かに飲んでいた。推薦という言葉の奥にある温度までは、あの夜の僕には読み切れなかった。
今夜、黒木自身の口から、同じ事実が別の文脈で出てきた。
一年経って、黒木はその奥の温度まで言葉にしていた。
大沢さんが二度、推薦を書いたのは、本当だ。でも、それは黒木を見込んだから、ではない。手近に、ちょうど使える人間がいたからだ。黒木は、それを三年、ずっと見ていた。
それでも、と僕は思った。研修員が技術の旗を持てる、という変わり目そのものは、本物だった。遠野CTOが作りかけている、新しい順番。大沢さんはただ、面倒を手近なコマに振っただけだ。けれど振られた黒木は、その役を、コマでない誰かの仕事に変えていこうとしている。変わり目を本物にするのは、振った人ではなく、受けた黒木のほうだった。
心の中でそっと息を吐いた。
「それ」
僕は短く口を開いた。
「いい変化だ」
黒木は僕の言葉に、目を上げた。
いつもの黒木の目だった。しかしいつもより確かに、何かを受け取った目だった。
「うん」
黒木は短く返した。
卓上の話が、次の方向へ動いた。
「黒木」
葉山さんがジョッキを軽く持ち上げて言った。
「これからもヨキエルにいる?」
葉山さんはそう聞いた。
黒木は少し考えた。
「俺、たぶんヨキエルに残るよ」
黒木は静かに置いた。
「県外に出るより、ここで深く根を張りたい」
「うん」
「組込みAIの分野で、地方からも面白いことができるって証明したい」
黒木はいつもより言葉を多めに運んだ。
声は相変わらず低かったが、その低さの中に確かな芯が一本通っていた。
「黒木らしい選択ね」
葉山さんが笑った。
その笑顔は、黒木の選んだ道への、まっすぐな祝福だった。
「アユシュくんは?」
葉山さんが次にアユシュくんに聞いた。
アユシュくんはジョッキを一度卓に戻して、息を整えた。
「私、ソウル、準備中」
「韓国の会社、内定近い?」
「最終面接、二週間後」
アユシュくんは短く運んでから、黒木のほうへ目を向けた。
「黒木、staying なんだね。Good for you」
アユシュくんはいつもの日本語ベースの中に、核心の英語をひと言、そっと落とした。
「うん」
黒木はまた短く返した。
「丸山くんは?」
「俺、当面ヨキエルっす。物流ドメインでもう半段、深くなりたいっす。客先でもっと現場に入りたいっすね」
「うん。丸山らしい」
「杉本さんは?」
「私はテストの道です。春にALTAへもう一度挑戦しました。その上の、テストマネジメントの勉強も始めています」
「うん。杉本さんもらしい」
「葉山さんは、どうなのですか?」
杉本さんが、逆に葉山さんに聞いた。
「私は、パッケージで、もう少しやってみる」
葉山さんは、ふっと笑って、ジョッキを軽く傾けた。
六人の選択が静かに、卓上で並んだ。
葉山さん、パッケージで、もう少し。
黒木、残留。
アユシュくん、韓国へ。
丸山くん、物流の深耕。
杉本さん、テストの道を深める。
そして、僕は。
僕は、まだ、何も置けない側にいた。
「桐谷くんは?」
葉山さんが最後に僕の名前を呼んだ。
「うん」
僕は卓上のジョッキを見つめた。
「まだ決めてない」
短く答えた。
「うん」
葉山さんはそれ以上、深掘りしなかった。
先週、澪のカウンターで、葉山さんは同じことをすでに聞いてくれていた。聞いて、僕の「まだ決めてない」を受け止めて、「桐谷くんは桐谷くんのペースで」と置いてくれた。
今夜の卓上の「桐谷くんは?」は、その先週の続きだった。
無理に答えを引き出す問いではなく、「ここに席はある」という意味の問い。
「うん。決まったら教えて」
「うん」
短く返した。
卓上の他の同期たちも、視線で頷いた。
六人のうち五人が選択を置いた。
残り一人の僕がまだ置いていない。
しかし五人はその一人を急かさなかった。
六人の同期というのは、たぶんこういう温もりのことだった。
話はそこから、軽くなった。
黒木の組込みチームの新卒の話。
葉山さんが最近読んだプロダクトの本の話。
アユシュくんの韓国の語学学校の資料の話。
丸山くんが車の納車を待っているという話。
杉本さんが御朱印帳を六冊目に切り替えたという話。
六人それぞれの近況がお互いの卓上に、ぽつぽつと、しかし丁寧に並んでいった。
ジョッキが何度か空いて、追加が運ばれてきた。
お通しの枝豆が二回、追加された。
時計はいつのまにか九時半を回っていた。
お会計を済ませて、駅前のロータリーで別れた。
葉山さん、アユシュくん、丸山くんは、それぞれの寮や帰路のほうへ。
杉本さんは駅から逆方向のマンションへ。
黒木は僕と同じ方向の寮へ歩いた。
二人で桜並木通りの夜の歩道を歩いた。
六月初旬の夜風は初夏のぬくもりを含んで、薄く湿っていた。
黒木はいつものとおり、隣を黙って歩いていた。
「黒木」
「うん」
「おめでとう、今日、改めて」
短く置いた。
「うん」
黒木はそれだけ返した。
二人の足音が夜の歩道でそっと重なった。
「桐谷」
「うん」
「ありがとう」
黒木は短く、しかし確かに言った。
いつもの黒木の声の中に、確かに温かいものが乗っていた。
「うん」
僕も短く返した。
夜の桜並木通りの街灯がゆっくり明滅していた。
寮の前で黒木は短く頭を下げて、自分の棟のほうへ歩いていった。
僕は自分の棟のドアの前で立ち止まった。
空を見上げた。
六月初旬の淡い夜空。
星はいくつか薄く見えた。
部屋に戻った。
ノートを開いた。
今日の日付の下に二行、書いた。
「黒木、補佐が取れた。残留決断」
「大沢さん、また推薦書。二年目の夜の黒木の一行の、奥の温度が見えた」
ペンを置いた。
その下に一拍、間を置いて、もう一行書いた。
「それぞれの選択が固まり始める」
書き終わってから、紙のうえの三行を一度目で追った。
……葉山さん、パッケージで、もう少し。
胸の奥で並べた。
……黒木、残留。
……アユシュくん、韓国。
……丸山くん、物流の深耕。
……杉本さん、テストの道。
……僕は、まだ決めていない。
六人の散開図の中で、僕の位置だけがまだ淡く、かたちを持っていなかった。
しかしかたちを持っていないというのは、たぶん悪いことではなかった。
先週、葉山さんは「桐谷くんは桐谷くんのペースで」と言ってくれた。
今夜、黒木は「ありがとう」と置いてくれた。
六人の同期は、僕のかたちが淡いままでも、僕を急かさず隣で歩いてくれる人たちだった。
ノートを閉じた。
窓の外で初夏の夜風がそっと吹いていた。
明日の朝もまた、桜並木通りを歩く。
またフロアで橋本香織さんと朝の挨拶を交わす。
その一日の積み重ねの先で、僕の輪郭もたぶん、いつかゆっくり立ち上がる。




