第65話「葉山のキャリア相談」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
五月下旬の金曜の夜。
港川市の夜風は、ほんの少しだけ夏の予感を含み始めていた。寮の窓を半分開けると、川沿いからかすかな湿気が流れ込んできた。
寮の自室でうどんの湯気を眺めていると、LINEの通知が一つ落ちた。
葉山さんからだった。
「ねぇ、これからのこと、考えてる」
短い一行。
絵文字も語尾も省かれた、葉山さんがいちばん本気のときの書き方だった。
僕は箸を置いた。
画面の文字を二度、目で確かめた。
……来た。心の中でそう思った。
二年目の秋に葉山さんはパッケージ事業チームへの異動を選んだ。十一月一日付け。そこから半年、新しい島で新しい上司の下で新しいプロジェクトに入った。空気は半段だけ確かに良くなった。本人もそう言っていた。
しかし葉山さんはたぶん、半段では止まらない人だった。
返信を書いた。
「会って話そう。明日の夜、空いてる?」
すぐに返ってきた。
「空いてる。澪、行きたい」
澪、と心の中で繰り返した。
翌日の土曜、夜七時半。
川沿いの住宅地、藍色の暖簾の前で葉山さんと合流した。
葉山さんは休日の服装だった。仕事帰りの張りつめた感じは、もうなかった。
「桐谷くん、お久しぶり」
「うん、お久しぶり」
暖簾をくぐった。
カウンター六席のうち二席だけ空いていた。いちばん奥の二席。
篠原玲奈さんがいつもの静かな笑顔で短く挨拶をした。
「いらっしゃい」
声はそれだけだった。
白木のカウンターに座っておしぼりを受け取った。
葉山さんは生ビールを、僕はぬる燗をひと合だけ。
篠原さんが先付けに季節の小鉢を二つ、静かに置いた。
淡い緑色の空豆の翡翠煮。
季節の気配が皿の上に薄く乗っていた。
葉山さんは小鉢を一瞬眺めてから箸を取った。
ひと口食べた。
目を閉じて軽く息を吐いた。
「春の、終わりの匂いがする」
葉山さんは、小鉢をもう一度、香りのほうから確かめた。香りに敏感なのは昔からで、東京にいた頃は、月に何度か芝居を観に行くのも好きだったと、いつか言っていた。料理の季節も、舞台のひと幕も、葉山さんは同じ目で味わうのかもしれない。
「……桐谷くん」
「うん」
「私、ヨキエルじゃ、これ以上は育たないと思う」
葉山さんは静かな声でそれを置いた。
LINEの一行で予告されていた話の本題が、ここで静かに卓上に出された。
僕は箸を置いた。
「パッケージ事業チーム、空気はいい。確かに、半年前よりずっといい。江口さんの島の下にいた頃と比べたら世界が違う」
「うん」
「でも、私の力を伸ばす場所か、っていうと、半段違う気がしてる」
「うん」
「パッケージの保守と改善は大事な仕事だし、私もこの半年でドメインの理解は深まった。けど、私がいちばんやりたいのは、たぶん新しいプロダクトをゼロから立ち上げる側だ」
パッケージの半年で、葉山さんは数字を読むようになっていた。この前は解約率を見て、お客さんが離れる原因が機能の不足ではなく、いちばん使う画面のひと手間にあると気づき、その一手間を削る改善を優先度のいちばん上に上げ直した、と前に話していた。数字を読んで、仕様の順番を決め直す。その手触りを、葉山さんはいつのまにか持っていた。
葉山さんは息を整えた。
目はまっすぐ前を見ていた。
「いつか、そういう場所に、行けたら、と思う」
その一行を、葉山さんは静かに置いた。
……いつか、そういう場所に。
内心でその言葉を一度、繰り返した。
葉山さんがいつか外へ出たいと願う気配は、たぶん二年目の終わり頃から、僕の中にかすかな予感として溜まっていた。本人もまだ、はっきりとは口にしていなかった。
今日、その予感の輪郭が、半分だけ見えた。
「具体的に、どんな場所?」
「BtoBのSaaS、とか。プロダクトを、これから本格的に伸ばしていくフェーズの。私が行くならエンジニアとしてだけど、プロダクトの方向にも口を出せる距離で」
「うん」
「まだ、夢の話。具体的に動いてるわけじゃない」
葉山さんはそこまで運んで、少しだけ笑った。
その笑い方は、たぶん、半歩だけ本音の手前だった。
葉山さんは付け足すように、静かにひと呼吸置いた。
「……ううん、少しは。先週、LinkedInで一件、東京の中堅SaaSの人から声をかけてもらった。まだ、返事はしていない」
「うん」
「返事、まだ決めていない。声をかけてもらえたことは、うれしいけれど」
うれしいけれど、の続きは、口には出さなかった。かわりに、お猪口の縁を指の腹でなぞる音だけが、卓の上に薄く残った。
僕はぬる燗のお猪口を半口、口に運んだ。
お酒のぬくもりが喉のあたりでじわりと広がった。
話の流れの中で、僕は東京の同期たちの状況を頭の中で並べてみた。
大学の情報科学部のゼミ仲間。一年目の頃は週末に何度か電話していた。二年目に入ってからは月に一度の頻度になり、最近は二、三ヶ月に一度の感覚。それでも最近の数ヶ月で何人かの近況がぽつぽつ溜まっていた。
「東京の友達、いろいろ動いてるよ」
僕はそう置いた。
「うん?」
「早川くん。先輩からのプレッシャーで一度休んだ。今は復帰して転職活動中」
「そっか」
「三浦くん。スタートアップから別のスタートアップへもう転職した。前のところで二年。次は副業もしてた」
「安西さん。公務員のまま。けど業務改善のプロジェクトをひとつ動かしてるって、先月の電話で言ってた」
「西原さん。大手で順調。企画職に半分シフトしてる」
「山本くん。博士課程に進学を決めた。研究を続けたいっていう、彼らしい選び方」
五人を順番に短く運んだ。
葉山さんはひとりひとりの名前のところで一度ずつ目を伏せて、それから上げた。
「桐谷くん」
「うん」
「ネットワーク、広いね」
葉山さんは笑った。
「ただ電話するだけだよ」
僕は短く返した。
「うん。けど、ただ電話を続けるっていうのは、たぶん誰でもできることじゃない」
葉山さんは小鉢の最後のひと切れを箸で取った。
「私、桐谷くんのその『ただ電話する』を、ちょっとだけ見習わなきゃと思ってる」
言葉の調子は軽かった。
しかしその軽さの裏に、かすかな尊敬のかたちがあった。
篠原さんがお造りを二人分、静かに置いた。
白身の薄造り。
季節のあしらいの細い緑が皿の縁に置かれていた。
葉山さんは箸を取って、ひと切れ口に運んだ。
「桐谷くん、私がいつか、外に出るって言ったら、止める?」
葉山さんはふと、そう聞いた。
僕は少し考えた。
考えながら葉山さんの目を見た。
目は、もう答えがなかば中にある人の目だった。
迷っているのではなく、確かめている目。
その目に対して、僕が置くべき言葉はたぶん「止める」ではなかった。
「葉山さんが自分の力で選んだ場所なら、僕は応援する」
短く返した。
返してから、自分の言葉の重さを、自分でも確かめた。
……これは、たぶん、間宮先輩や白瀬さんが過去に同じ立場で置いてくれた言葉の温度だ。胸の内でそう思った。
止めるのではなく、選択そのものを認める温度。
葉山さんは、小さく、笑った。
「桐谷くん、いつもそういうこと言うね」
「うん」
「一年目のときも、二年目のときも、似た言い方してた気がする」
葉山さんはお猪口を軽く口に運んだ。
「言葉、変わらないね、桐谷くん」
「そうかな」
「うん、変わらない。でも、最初の頃よりは、半段だけ深いところから来てる気がする」
葉山さんはそう言ってから、もう半口だけビールを飲んだ。
……葉山さんの「ぴくっと」。
その時ふと、別の言葉が心に浮かんだ。
一瞬、僕は止まった。
葉山さんの「ぴくっと」を、最近、数えていなかった。
一年目の頃、葉山さんはチームBの島で「美月ちゃん」と呼ばれるたびに、半秒だけ瞼の縁が「ぴくっと」する瞬間があった。一ヶ月で七十三回。葉山さんはそう記録していた。僕も同じ七十三回を、自分のノートの片隅にそっと写していた。
二年目の前半、その数は少しだけ減っていた。それでも同じ場所で、葉山さんの中に刻まれ続けていた。二年目の秋に葉山さんがパッケージ事業チームへ異動したあと、その記録はどこへ行ったのか。僕は明示的には聞いていない。
そして今日。
澪の白木のカウンターで、葉山さんは、いつか外へ出たいという願いを、静かに口にしている。
その葉山さんの目の縁に、もう「ぴくっと」はなかった。
最近の数ヶ月、それを目で追うこと自体を、僕はやめていた。
数えなくなったというより、葉山さん自身がもう「ぴくっと」しない場所へ動き始めていた。
パッケージ事業チームの空気のおかげか。
自分の選択を自分の口で語り始めたからか。
たぶん両方だった。
ゆっくり息を吐いた。
……三年の記録に静かな区切りがついた。
心の中でそうつぶやいた。
ノートにはまだ書かない。
ただ心の中で、静かに、しかし確かに、ひとつの章を閉じた。
ぬる燗をもう半口、口に運んだ。
葉山さんはもうお造りをほぼ食べ終えていた。
「桐谷くん」
「うん」
「私がいつか外に出たら、ヨキエルの同期六人が、ひとり欠けるのかな」
「うん」
「黒木はたぶん残る。アユシュくんはたぶん韓国かネパールに動く。丸山くんはヨキエルの中で物流ドメインの専門を深めていく。杉本さんはテストを極めて、品質を文化にする道を見てる」
「うん」
「桐谷くんは、まだ決めてないでしょ」
葉山さんはそう聞いた。
僕はお猪口を見つめた。
「うん。まだ決めてない」
正直に答えた。
「うん」
葉山さんは頷いた。
「桐谷くんは桐谷くんのペースで決めればいいと思う」
「うん」
「ただ、決めるときが来たら、私にも一行で教えて。私がどこで何をしてても、桐谷くんからの一行は絶対に見るから」
「うん。分かった」
短く頷いた。
葉山さんは最後にお猪口を半口、口に運んだ。
篠原さんが煮物の小鉢を二つ、静かに追加した。
話はそこから、軽くなった。
葉山さんが最近見た東京の劇の話。寮の共用キッチンで誰かが置きっぱなしにしている鍋の話。アユシュくんが韓国の語学学校の資料を黒木に見せていたという話。
軽い話の中に時々、葉山さんの「いつか」がふっと混ざった。
しかしその「いつか」も、重すぎる響きは持っていなかった。
ただ葉山さんが、自分のこれからを自分の口で確かめる言葉として、さりげなく卓上に置いていた。
九時過ぎ。
お会計を済ませて、暖簾をくぐって外に出た。
川沿いの夜風が初夏のぬくもりを含んでいた。
桜並木通りのほうへ二人で歩いた。
葉山さんは少しだけ前を歩いた。歩幅はいつもの葉山さんの歩幅。背筋がまっすぐで、肩の高さが下がらない、葉山さんの歩き方。
その後ろ姿を見ながら、ふと間宮先輩のことを思い返した。
二年目の秋、夜の歩道橋からけやきのベンチまでの夜道を、間宮先輩は立ち止まらずに歩きながら話してくれた。あの動的な所作の温度を思い出した。
今日は葉山さんがその役のほうにいる。
立ち止まらずに歩きながら本題を運ぶ。
歩きながら話すことで、お互いに目を直接合わせずに済む。
目を合わせずに話せるからこそ、本題が静かに、しかし最後まで運べる。
間宮先輩の所作が今日、別の人の中で別の場面で、似た温度で繰り返されていた。
「桐谷くん」
葉山さんが前を歩きながら、振り返らずに言った。
「うん」
「ありがとう」
短い一行。
それだけだった。
「うん」
僕も短く返した。
夜の桜並木通りは葉桜のあとの青葉がすっかり茂って、街灯の薄黄色をなかばほど隠していた。
二人の足音がそっと重なって、寮の方角へ歩いていった。
寮の前で葉山さんは別れの挨拶を短く置いて、自分の棟のほうへ歩いていった。
僕は自分の棟のドアの前で立ち止まった。
空を見上げた。
五月下旬の淡い夜空。
星はほとんど見えなかった。
胸の奥でもう一度、静かにつぶやいた。
……葉山さんの「ぴくっと」を、もう数えていない。
数えなくなったというのは、葉山さんがもう観察対象から半段だけ外側へ動き始めたから。
葉山さんはもう自分で選んでいる。
部屋に戻った。
ノートを開いた。
今日の日付の下に二行だけ書いた。
「葉山さん、いつか外へ。まだ、願いの段階」
「自分の力で選んだ場所なら、応援する」
ペンを置いた。
ノートを閉じた。
窓の外で初夏の夜風がそっと吹いていた。




