第64話「香織さんへ、最初のレビュー」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
五月の半ば。
橋本香織さんが初めてのプルリクエストを出した。
Slackの通知が朝の十一時前に届いた。GitHubの自動連携で、レビュー依頼の通知がチームAの共有チャンネルにそっと落ちた。
「[Review Requested] feature/account-search ・ @kiritani」
短い英数字の一行。
しかしその一行の中に、香織さんが研修からの一ヶ月で組み立てた最初の成果物が乗っていた。
ブラウザでGitHubを開いた。
ファイル差分は四ファイル、追加百八十行、削除二十三行。金融系の業務システムの中で、口座検索の機能の一部を改修するチケットだった。最初のチケットとしては小さめに切ったものを、白瀬さんと相談して香織さんに渡した。
息を一度深く吐いた。
……白瀬さんなら、どう読むだろう。心の中でそう思った。
白瀬さんは僕に初めてレビューを返してくれた時、ファイル全体をまず一度頭から最後まで通読してから、コメントを置いた。一気にコメントを書かず、まず読んで、それから二周目で印をつけた。
その所作をそっと真似た。
画面を最上段までスクロールして、ファイル差分を一周、目で追った。
二周目でペンを取った代わりに、コメントの欄に手を置いた。
ひとつめ。
ローカル変数の命名。
関数の中で `tmpList` という変数名が使われていた。
コメントを書いた。
「ここの変数名、もう少し意図が伝わるようにしませんか。例えば `filteredAccounts` のように、何のリストかを名前に入れると、半年後の自分が助かります」
書き終わってから、最後の一文を一度目で確かめた。
「半年後の自分が助かります」と。
……これは白瀬さんが僕に教えてくれた言い回しだった。心の中でそう気づいた。
白瀬さんはレビューで「あとから読む人」のことを「半年後の自分」と呼んだ。書いた本人がいちばん最初に困る、というまなざしで、その言葉を使っていた。
笑った。
無意識に出てきた。
ふたつめ。
メソッドの長さ。
検索処理の中心になるメソッドが、画面で言うと百二十行ほど続いていた。
コメントを書いた。
「このメソッドは、検索条件の組み立てと結果のフォーマット整形の、二つの責務を持っているように見えます。分割するとそれぞれを単体テストで覆いやすくなります」
書きながら、止まった。
責務、という単語を新人の最初のPRのコメントで使うのは、半段だけ重いだろうか。
しかし香織さんは研修中に「単体テスト」の概念を習っている。責務の分割という考え方も、研修教材の中に一度は出てきている。手前で止めるよりも、半段だけ踏み込んだ言葉を最初のレビューで置いたほうが、香織さんの中に残ると思った。
送信した。
みっつめ、よっつめ、いつつめと続いた。
SQLのインデックスを考慮した方が読みやすい、という指摘。
例外処理のスコープを少し狭めたほうがよい、という指摘。
ログ出力の粒度を統一しませんか、という提案。
ひとつひとつ、文章を短く、しかし最後まで丁寧に書いた。
書きながら何度か手を止めて、心の中で確認した。
……これは香織さんの今のレベルで消化できる指摘か、と。
白瀬さんが二年前、僕の最初のPRで二十二件のコメントを置いてくれた時、その二十二件は僕が一週間かけて全部消化できる量だった。多すぎず少なすぎず、ちょうど胃が受け入れられる量だった。
香織さんに対しても、たぶん同じ温度を置きたい。
計、十五件。
全部書き終わってから、最後にレビューの総評を短く添えた。
「初めてのPR、お疲れさまでした。全体としてはちゃんと動く構成になっています。コメントはこれからの一週間で、一つずつ相談しながら反映していきましょう。分からないところがあったら、いつでも声をかけてください」
送信した。
画面に「Review Submitted」の小さな緑色の表示が出た。
息を一度深く吐いた。
昼過ぎ。
席で別件のチケットを進めていると、後ろから足音が近づいてきた。
振り返ると、香織さんが立っていた。
手にノートを軽く持っていた。
「桐谷さん、レビュー、ありがとうございました」
香織さんは小さく頭を下げた。
「お疲れさま。読みました?」
「はい、全部読みました。一周、目で追って、二周目でノートに書き写しました」
香織さんは手元のノートを軽く持ち上げて見せた。
ノートの開かれたページに、十五件のコメントの要点が丁寧な字で箇条書きに並んでいた。
……二周目で書き写すというやり方を、香織さんはもう自分で組み立てている。胸の奥でそう思った。
僕は黙った。
それから香織さんの目をもう一度見た。
「あの、桐谷さんのレビュー、白瀬さんに似ていますね」
香織さんはふと、そう言った。
言ったあとで、自分の言葉の重さを自分でも確かめるように、目を伏せた。
僕の声が出た。
一瞬、止まった。
「香織さん、白瀬さん、知ってるの?」
「はい。研修期間中、コードリーディングの講義を白瀬さんが担当されました。三回。私、その三回のノート、全部、取りました」
もう一回、僕の声が出た。
声の調子は、たぶん、いつもよりかすかに笑っていた。
「コメントの書き方、白瀬さんに似ている、っていうのは……」
「『半年後の自分が助かる』、っていう言い回し。白瀬さんの講義の中で、何度か出てきました。桐谷さんのレビューにも、同じ言い回しがありました」
香織さんは静かに言った。
非難の色ではなかった。
ただ観察を一つ、そっと差し出す温度だった。
僕は少し笑った。
声に出して、少しだけ。
「無意識に真似してたかも」
短く認めた。
「白瀬さん、僕のOJTの担当ではなかったけど、最初のPRのレビューを白瀬さんがしてくれた。二十二件のコメントだった。その時の白瀬さんのコメントの書き方が、僕の中にずっと残ってる」
「今日、香織さんのPRを読みながら、白瀬さんならどう読むだろう、って考えた。考えてから書いた。考えてから書いたつもりだったけど、ほんとうは考えなくても、白瀬さんの書き方が自分の手から出てきた」
「はい」
香織さんは小さく頷いた。
ノートを閉じて、胸の前で軽く抱えた。
「私も、桐谷さんのスタイル、覚えていきます」
香織さんはそう言った。
声は静かだったが、最後の「覚えていきます」のところで、しっかりした音がした。
内心で一段、温かいものが広がった。
「うん」
短く返した。
「分からないところは、いつでも来てください」
香織さんはもう一度、頭を下げて、自分の席のほうへ戻っていった。
夕方。
退社して桜並木通りを寮のほうへ歩いた。
葉桜がもう半分くらい青葉に変わっていた。風はすっかり春のぬくもりだった。
歩きながら白瀬さんのことを、もう一度思い返した。
白瀬さんは入社八年目の今、テックリードの位置にいる。受託開発部チームAの技術文化の中心の一人。
白瀬さんが僕に渡してくれたものは、たぶんコードの書き方そのものではなかった。
コードに対する「半年後の自分」のまなざし。
レビューに対する「あとから読む人」の温度。
その二つを、白瀬さんは静かに僕の中に置いていった。
今日、僕はその二つを、ほぼ無意識に香織さんに渡した。
香織さんはノートに書き写しながらそれを受け取った。
……継承というのは、こういうことか。胸の内でそうつぶやいた。
大げさな式典ではない。
受け渡しの瞬間も、お互いに気づかないくらいかすかだ。
ただ誰かのスタイルが、別の誰かの手の中にいつのまにか移っている。
……白瀬さんから、僕へ。
心の中で言葉を置いた。
……僕から、香織さんへ。
もう一段置いた。
順番が今日、目に見える形で繋がった。
寮に着いた。
部屋の机に座ってノートを開いた。
今日の日付の下に一行だけ書いた。
「継承というのは、こういうことか」
書き終わってから、ペン先を紙の余白に軽く置いた。
窓の外。
夜の桜並木通りの街灯が、五月の淡い夜風の中でゆっくり明滅していた。
明日もまた、香織さんはノートを開いて、十五件のコメントを一つずつ消化していく。
その横で僕は、もう一段先の指摘をまた考えていく。
白瀬さんから受け取った温度を、半段ずつ香織さんに渡していく。
ノートを閉じた。
……白瀬さんには明日、会社のSlackでお礼の一行を送ろう。胸の奥でそう思った。
「白瀬さんのレビューのスタイル、僕の中に残っていました。今日、香織さんに、たぶんいくらか渡せました」
たぶん白瀬さんは短く「うん」とだけ返してくれる。
その短い「うん」の中に、今日の継承の温度がほのかに灯る。




