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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第63話「橋本香織、チームAに加わる朝」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 四月の終わり、月曜日、朝九時。


 ヨキエルの三階のフロアは、いつもより少し静かだった。冬の重い空気が抜けて、窓の外の桜並木通りの桜は、もう半分以上散って、葉桜になりかけていた。


 ……三年前のこの季節、僕もこの島に来た。


 心の中で僕はそう確かめた。三年前、研修を明けて配属が決まったあの朝、僕は寮を出て桜並木通りを歩いた。桜はもう半分以上散って、薄桃色の花びらが歩道の隅に薄く溜まっていた。今年の同じ季節も、桜は同じように散りかけている。


 光の角度が、二月の鈍さとは違って、ふっと明るかった。冷たさはもう指先には届かなかった。けれど、襟元のかすかな緊張は、一年前のあの朝と少し似ていた。


 チームAの島の端に、橋本香織さんが立った。新人スーツの紺の襟が、まだ昨日下ろしたばかりの折り目を残していた。


 諏訪マネージャーがその隣に並んだ。


 ……三年前のこの季節、僕も同じ島に、新人として立っていた。


 心の中で僕はそう確かめた。確かめたあとで、すっと息を吸った。三年前の僕と今日の僕は、たぶんもう違う場所に立っている。今日から、橋本さんのOJTを担当する。担当する、という言葉が、まだ僕の中で硬かった。少しだけ硬かった。


「皆さん、少しだけ手を止めて」


 諏訪さんが声を置いた。


 いつもの声の温度だった。フロア全体の音量を半段だけ下げる、あの落ち着いた一行。


 白瀬さん、立花先輩、岡野さん、森山くん、僕。五人が顔を上げた。


「今日からチームAに、橋本香織さんが加わります」


 諏訪さんは橋本さんのほうへ視線を向けた。


「橋本さん、自己紹介を軽く」


 橋本さんは一拍、息を整える間を取った。それからゆっくり頭を下げた。


「橋本香織です。関東の国立大、情報科学部の出身です。研修期間中、何度か皆さんとお会いしましたが、今日から正式にチームAに入ります。よろしくお願いします」


 短くて、しかし整った一行だった。


 声は緊張気味だが、最後まで途切れなかった。


 頭を上げた橋本さんの目は、まっすぐ前を見ていた。


「うん。よろしく」


 白瀬さんが短く言った。いつもの白瀬さんの声の温度のまま、それでもいつもより少しだけ柔らかかった。


「立花です、よろしくね。困ったら気軽に聞いて」


 立花先輩はいつものとおり、笑顔の温度を高めに保って言った。


「岡野です。よろしくお願いします」


 岡野さんは深く頭を下げた。


「森山です、よろしく。同じ新人扱い、今日で卒業です! 頑張りましょう」


 森山くんは語尾を少しだけ跳ねさせた。一年前の自分が「今日で卒業」を言える側に立ったことを、噛みしめている顔だった。


 五人の挨拶が終わった。


 諏訪さんが僕のほうを軽く見た。視線で、君の番、と伝わってきた。


 息を半分ほど吸った。


 立ち上がった。


 橋本さんと正面で向かい合った。


「香織さん、改めて、桐谷です」


 名前をまず置いた。


「研修期間中、何度か挨拶しましたね。今日から正式にOJTを担当します。よろしくお願いします」


 短く、しかし最後まで自分の口で運んだ。


 ふっと、香織さんの表情がほぐれた。


 肩のあたりが軽く下りたような、かすかな動き。


「桐谷さん、研修中、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします」


 香織さんはそう言って深く頭を下げた。


 研修期間中、廊下や食堂やロビーで何度か言葉を交わした三週間が、その「ありがとうございました」のひと言に淡く溶け込んでいた。


 


 諏訪さんが頷いて、自席のほうへ戻った。


 白瀬さんが香織さんに、空いている隣の机を視線で示した。


「香織さん、その机、空いてるから、まず荷物を置いて」


「はい」


 香織さんはバッグを机の脇に置いた。引き出しを軽く開けて、研修用のノートを中に入れた。動作はまだ少し慎重だが迷いはなかった。


 森山くんがすぐに横の島から椅子を回してきた。


「香織さん、これからチームの朝会が十時からあって、そこで全員の自己紹介がもう一周あるから、安心して」


「はい、ありがとうございます」


 森山くんは去年の自分の役を、もう一段上の余裕でやっていた。


 僕は心の中で少しだけ笑った。


 ……森山くん、ちゃんと先輩らしくなってる。


 心の中でそうつぶやいた。


 一年前の春の朝、森山くんは深々と頭を下げて、硬い声で挨拶をしていた。今年の森山くんは新人の隣に椅子を回してくる側にいる。


 


 朝会が始まった。


 チームAの五人プラス橋本香織さん、計六人。


 会議室の白いテーブルを囲んで座った。諏訪さんが立ってホワイトボードに今期のチーム体制を簡単に書いた。金融系受託の案件配分、新人の研修プラン、白瀬さんがテックリードとしてレビューを統括する体制。


 諏訪さんがOJTの構造を説明した。


「橋本さんのOJT担当は桐谷くんです。月に二回の1on1と週次のコードレビュー、それから最初の一ヶ月はペア作業を中心に進めてください」


 香織さんは小さく頷いた。手元のノートに何かを一行書いた。たぶん「桐谷さん、月二回、1on1」と書いている。一年前の僕が同じことを書いた。


 胸の奥でそっと笑った。


「桐谷くん、最初の1on1の日程、橋本さんと調整してください」


「分かりました」


 Slackで、と頭の中で確認した。それからいや、最初は口頭で、と少しだけ思い直した。


 朝会が終わってから、香織さんの席に短く立ち寄った。


「香織さん、最初の1on1、今週の金曜の十六時、空けてもらえますか」


「はい、大丈夫です」


「会議室、僕のほうで取っておきます」


「ありがとうございます」


 短く、お互いに頭を下げた。


 短いやり取り。


 しかしその短さに、研修期間中の三週間の積み重ねが薄く乗っていた。


 


 昼休み。


 社員食堂のカウンターで日替わりのうどんを受け取った。


 窓際の四人掛けの一番奥の席に座った。


 窓の外、桜並木通りの街路樹が薄桃色を見せていた。風で花びらが二、三枚、窓ガラスのほうへ流れてきて、ガラスに軽くぶつかってから舞い上がった。


 うどんの湯気が薄く上がっていた。


 箸を取った。


 啜った。


 いつもの味だった。


 しかしいつもよりほんの少し美味しかった。


 ……変な感じだ。心の中でそう思った。


 香織さんに名前を置いたその小さな出来事一つで、昼のうどんの湯気の温もりが少し上がって感じられた。


 白瀬さんのことを内心で思い返した。


 三年前の春、白瀬さんは僕にどう接してくれたか。


 白瀬さんは初日、自分の席から立ち上がって、まず短く名前を置いてくれた。「白瀬です。よろしく」とだけ言って、それから最初のプルリクエストに二十二件の指摘をくれた。答えを先に渡さず、何が問題で、なぜ問題で、どうすれば良くなるかを三段で書いてくれた。押しつけがましくなく、しかし放置でもなかった。


 諏訪マネージャーは何を言ってくれたか。


 諏訪さんは初日、フロアの入口で「桐谷くん、ようこそ、チームAへ」と言ってくれた。それから、まず島田副部長に挨拶、次にチームの皆さんの紹介、と順番をはっきり置いてくれた。順番が分かるだけで、新人の頭はぐっと軽くなる。


 二人の所作を思い返しながら、うどんを啜った。


 ……今日、僕が香織さんに置いた挨拶。


 胸の内でつぶやいた。


 あれはたぶん、白瀬さんと諏訪さんの最初の所作をなぞったものだった。


 まねたというより、体に染み込んでいたものが、ちょうど今日、自分の番として出てきた。


 


 研修期間中、自分から声をかけ続けた三週間が、今日の挨拶を半段ほぐした気がした。


 半段だけ。


 しかしその半段で、香織さんの肩のあたりが下りた。研修中ずっと固かった表情の縁が、今日の朝、ふっとほぐれた。


 一年目の終わりに、僕は決めた。


 「僕から、声をかけよう」と。


 二年目の終わりに、もう一段決めた。


 「新卒に会ったら、まず名前を覚える。覚えた名前を、自分から呼ぶ」と。


 今日、その二つが形になった。


 うどんをなかば啜ったところで、ゆっくりとそう思った。


 ……一年目の終わりに決めて、二年目の終わりにさらに具体的にしたものが、今日、形になった。


 心の中でそっと息を吐いた。


 


 退社後。


 寮の自室、暗くなりかけた窓のそばで私物のスマホを手に取った。


 同期のLINEグループ。


 投稿欄に短く書いた。


 「後輩、できた」


 送信。


 ほぼ即座に葉山さんの「うん」リアクションがついた。それから返信。


 「桐谷くん、ついに完全な先輩じゃん」


 葉山さんはいつものとおり、簡潔な一行を返してきた。


 黒木の「おめでとう」が短く続いた。


 アユシュくんは「Soota, congratulations. 後輩を持つ、いい春だね」と返した。日本語ベースに、最初の一句だけ英語で。


 丸山くんは「マジっすか! 俺も今年、後輩できたっすよ。お互い頑張りましょう!」と元気に続けた。


 杉本さんは「桐谷くん、おめでとうございます。OJTの相手の方、運がいいと思います」と落ち着いた語尾で添えた。


 五つの短い反応が、ほぼ同時に届いた。


 画面を見ながら、息を整えた。


 ……同期六人、それぞれの場所でそれぞれの春。


 胸の奥でつぶやいた。


 


 ノートを開いた。


 今日の日付の下に、新しい一行を書いた。


 「教える、ということを、学ぼう」


 ペンを置いた。


 窓の外、夜の桜並木通りの方角に、街灯の光が薄く滲んでいた。


 明日からの一年、僕は誰かに教える側で立つ。


 教える、というのは、僕がまだ十分には身につけていない動詞だった。


 しかし、十分には身につけていない動詞でも、自分から名前を呼ぶ、という最初の一行から、たぶん始まる。


 ……三年前、僕は同じ場所で「観察を始める」と書いた。


 内心でつぶやいた。


 今年の僕は、「教える、ということを、学ぼう」と書く。


 ノートを閉じた。


 明日の朝、また同じバス停で、また同じバスに乗る。


 今度は、橋本香織さんと、ロビーで朝の挨拶を交わすところから一日が始まる。


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