プロローグ「3年目、後輩を持つ春」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
四月一日、木曜日。
桜並木通りの桜は、今年も同じ場所で同じように満開になった。
寮を出て、桜並木通りに出た。歩道の隅に薄桃色の花びらが一枚二枚、薄く溜まっていた。風はまだ少し冷たい。けれど指先まで届く冷たさではない。三年目の春の朝の、軽い空気だった。
……三年目の朝。
胸の奥で、その言葉をひとつ確かめた。
二年前のこの通りを、僕はスーツの裾を何度も直しながら歩いた。一年前のこの通りは、もう裾を直さずに歩けた。今朝の僕は、裾のことも、靴のことも、もう何も気にしていなかった。スーツも体も、三年分、馴染んでいた。
バス停に着いた。
いつもの場所だった。
先に二人、スーツの新人が立っていた。男性が一人、女性が一人。どちらも肩を上げ気味で、背筋がやけにまっすぐで、革のビジネスバッグを胸の前で軽く抱えていた。時刻表を、何度も同じ場所で目で確かめていた。
……今日、入社式。
そう、気づいた。
四月一日、木曜日。ヨキエル株式会社の入社式。今年の新卒も数人入る、と諏訪マネージャーから聞いていた。三年前のあの朝、僕も同じバス停で、同じ姿勢で立っていた。革のバッグを胸の前で抱えて、時刻表を何度も見直していた。あの朝は、同じバスの中の誰が同期なのかさえ、見分けられなかった。
二人の新人は、黙って立っていた。
黙りながらも、互いに少しだけ視線を合わせていた。たぶん寮で何度か顔を合わせたのだろう。けれどまだ、名前を覚え合うほどには近くない。
女性のほうが、小さく言った。
「入社式のあと、研修って、三週間でしたよね」
「はい、三週間。配属はそのあとって、案内に書いてありました」
男性が答えた。声が少しだけ硬かった。
「三週間。そのあと、配属」
女性が小さく頷いた。
その頷きは、まだ「初対面の頷き」だった。
……三週間。そのあと、配属。
心の中で、その言葉を確かめた。三年前と同じだった。三週間の研修があって、四月の最終週の金曜に、配属が発表された。今年もきっと、同じ流れだ。
バスが来た。
オレンジ色の地方バス。三年前と同じ車体だった。ICカードをタッチして、慣れた位置に立った。二人の新人も乗って、空いた席に並んで座った。僕は通路を挟んだ後ろの席に座った。
窓の外を、桜並木通りの満開が流れた。
……ぴくっと、しない。
胸の内で、自分のことを確かめた。一年目の僕なら、隣の知らない人の会話に体を固くしていたかもしれない。今朝の僕は、横で初めての会話が始まっても、呼吸が乱れなかった。
ひとつだけ、胸の中で別のものが揺れていた。
……今年は、補佐じゃない。
去年は、森山くんの補佐だった。白瀬さんがメインで、僕はその下で、コードレビューの第一段だけを受け持った。日々の質問対応と、業務の流れの説明。そのあたりから始めて、一年かけて少しずつ、教えるということを覚えた。
今年は、補佐ではない。
前の週の1on1で、諏訪マネージャーがこう言った。「研修が明けて配属が決まったら、今年は君に、一人、メインのOJTを任せたい」と。「補佐ではなく、メインで」と。
……メインで、一人。
その言葉を、もう一度、胸の奥でなぞった。まだ少し、硬かった。
新卒の誰かが、研修を明けてチームAに来る。その一人を、今年は僕がメインで持つ。三年前、白瀬さんや諏訪さんや間宮さんに、僕がいくつ質問を投げただろう。その一つ一つに、誰かが手を止めて答えてくれた。今年からは、その手を止める側に、僕が回る。
……渡す側に、まわる。
そう思った。
会社の最寄りのバス停で、僕は降りた。二人の新人も降りた。彼らは入社式の会場である隣のビル八階の研修室へ向かう。僕は三階のフロアへ向かう。エレベーターホールで、行く階が分かれた。
三階で扉が開いた。
いつもの受託開発部のフロア。いつもの机の並び。いつもの蛍光灯の白い光。
新卒の姿は、まだここにはなかった。今日から三週間、彼らは隣のビルの研修室で過ごす。このフロアにその誰かが立つのは、研修が明けて、配属が決まってからだ。三年前の僕らが、そうだったように。
……たぶん、ひとりは、チームAに来る。
そう思った。
誰が来るのかは、まだ分からない。けれど、来たら、今度は僕から名前を呼ぼう。去年よりも、もう一歩、踏み込んで。
自分の席に着いた。
MacBookを起動した。起動の音を聞きながら、リュックからノートを出した。この朝のためだけに用意した、三冊目の新しいノート。今年は、無地の表紙にした。
最初の白いページを開いた。
ペンを取った。
ゆっくり書いた。
「三年目、渡す側にまわる」
書いてから、しばらくその一行を見つめた。
一年目の最初の一行は「観察を始める」だった。二年目は「仕事の質を見る」だった。今年の一行は、初めて、自分以外の誰かのほうを向いていた。
……渡す側。
もう一度、自分に言い聞かせた。
渡す、と書いて、僕は何を渡せるのか、まだはっきり言葉にできなかった。三年で受け取ったものは、たぶん、たくさんあった。それを、ちゃんと別の誰かに渡せるのか。書いた本人が、まだその一行に追いついていなかった。
たぶん、この一年かけてノートにいろいろなことが書かれて、その上でもう一度この一行を読み返したときに、少しだけ意味が見えるはずだった。
ノートを閉じた。
顔を上げた。
窓の外、隣のビルの八階のあたりに目をやった。あの研修室で、今ごろ今年の新卒が、三年前の僕らと同じように、緊張して並んでいるはずだった。
……始まる。たぶん、もうすぐ。
そう感じた。
三年目の朝。
桜並木通りの満開は、今日も、盆地の四方の山に囲まれた薄い青の空の下で、静かに続いていた。




