第71話「鈴木さんの戸惑い、立花先輩の流し方」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
七月の第二週、火曜日の朝。
鈴木未來さんがインターンに入って、ちょうど一週間半が経っていた。
最初の一週間、彼女は僕の隣の机で社内システムの読み解きと用語の書き写しを黙々と続けた。僕と香織さんと森山くんが脇から少しずつ声をかけ続けた。
二週目に入って、鈴木さんは少しずつ、チームAの島の他の人とも自分から話せるようになってきた。
白瀬さんに業務システムの設計の質問。
諏訪マネージャーに、来週のチームミーティングへの参加可否の確認。
森山くんに、お昼の食堂のおすすめのメニュー。
いずれの会話も、鈴木さんの側から短く声をかけ始める形に、馴染んできていた。
火曜日の午前、十時半ごろ。
立花先輩が、自分のチケットの中の単純作業を一つ、鈴木さんに振りに来た。
「鈴木さん、これ、お願いできる?」
立花先輩の声はいつもの立花先輩の調子だった。表面に薄く貼った笑顔、語尾は柔らかく上がる。
「はい、何でしょう」
鈴木さんは顔を上げた。
「テスト用のCSVファイルを、二十件、ダミーデータで作るやつ。フォーマットはこれ。ね、簡単でしょ?」
「はい、やってみます」
鈴木さんはノートにフォーマットを書き写した。
立花先輩は淡い笑顔のまま自席に戻った。
立花先輩のいまのやり方は、一年目のあの頃の、僕に対しての立花先輩のやり方と、似ていた。
……表面の笑顔のまま、自分の手の中の単純作業を、こちらに流す。
一瞬だけ思った。
しかし立花先輩の手は、鈴木さんを陥れる側に動いているわけではなかった。
たぶん立花先輩の中では、これは「インターンの子に簡単なことを任せている」「優しく接している」という温度の作業だった。
……立花先輩は、たぶん、本人としては悪意はない。
心の中で、もう一段、頷いた。
午前十一時すぎ。
古川先輩が珍しく自席に座っていた。
古川先輩はチームAのベテランだった。机に半身、沈み込んだ姿勢のまま、いつも淡々と仕事を回す人。二年目のあの夏、僕は初めて古川先輩の天井に向いた平らな目線を見た。それ以来、古川先輩の中の何かを、まだ全部は知らないままにしていた。
鈴木さんが、フロアのコピー機の脇で古川先輩の動線と重なった。
「おはようございます」
鈴木さんは小さく頭を下げた。
古川先輩は一瞬、目を上げた。
その目はいつもの古川先輩の天井に向いた平らな目線のままだった。
「うん」
古川先輩はそれだけ返した。
頭は下げ返さなかった。
名前も聞かなかった。
鈴木さんは戸惑った顔をしてから、コピー機のほうへ歩き直した。
古川先輩は自席に戻って、机に半身、沈み込んだ。
……古川先輩、相変わらず、揺れない。
胸の奥で、その平らさを確かめた。
昼休み、十二時十五分。
鈴木さんが社員食堂で僕の隣の席に着いた。
今日は森山くんはお客様先で外出。香織さんは別件の打ち合わせで遅れて食堂に来る予定。
二人での昼食になった。
Aランチを二人で頼んだ。
味噌汁を半口、運んでから、鈴木さんがためらった顔をして口を開いた。
「桐谷さん、聞いてもいいですか?」
「うん」
「この職場、優しい人ばっかりですよね」
鈴木さんはそう置いた。
僕の箸が止まった。
……来た。
内心で、その二文字を確かめた。
優しい人ばっかり。
一週間半、観察した二十歳のインターン生の口から、ちゃんと出てきた言葉だった。
立花先輩は笑顔で仕事を振ってくれる。
諏訪さんは丁寧に説明してくれる。
白瀬さんは静かに教えてくれる。
森山くんは明るく付き合ってくれる。
香織さんは隣で一緒に困ってくれる。
古川先輩は……名前は聞かないが、特に冷たい言葉も言わない。
表面だけを見ると、たしかにこの職場は「優しい人ばっかり」に見える。
三年前の僕も、入社一週間目に同じことを心の中で思っていた。
しかし三年いて二回目の夏を越えた今、その「優しい」という一言の中に、別の方向の温度が何本も混ざっていることが、見えるようになった。
僕は箸を置いた。
味噌汁の椀の縁を、指で軽く撫でた。
「未來さんから見ると、そう見えるかもしれない」
短く運んだ。
「でも、三年いると、見える景色が変わる」
鈴木さんは首をかしげた。
「景色が、変わる?」
「うん」
僕は息を整えた。
胸の奥で去年の七月の座敷の四つの背中を、もう一度思い返した。
赤坂先輩、立花先輩、白瀬さん、古川先輩。
あの座敷で、四人の背中はそれぞれ別の角度で、別の温度で並んでいた。
あの夜、僕はノートに四行、書いた。
磨く優しさ、放置する優しさ、気付かない優しさ、気付いていても言わない優しさ。
四つの名前のうち、後ろの二つは「仮にその名前を置いてみた」というところで止めた。
あれから一年。
あの仮置きの二つを、今日、僕は鈴木さんに対して、最後まで運ぼうと思った。
コップの水を一口、運んだ。
「優しさには、四種類あります」
短く置いた。
鈴木さんの目が、止まった。
「四種類、ですか?」
「うん」
ノートを取り出していいですか、と鈴木さんが目で聞いた。
「うん、書きたかったら書いて」
鈴木さんはカバンからA5のノートを取り出して、表紙の「観察」の文字の下のページを開いた。
ペンを構えた。
「ひとつめ」
短く置いた。
「磨いてくれる優しさ」
鈴木さんがペンを走らせた。
「相手のために、半段、踏み込んでくれる優しさ。相手のコードの、相手の文章の、相手の仕事の、半歩先のいい姿を見せてくれる優しさ」
「半段、踏み込む」
鈴木さんは口の中で繰り返した。
「白瀬さんが、僕の一年目に、レビューで二十二件のコメントを置いてくれたことがあった。LGTM一行ではなくて、二十二件。それは僕の今日の楽さを少しだけ削って、僕の五年後、十年後の僕のために、白瀬さんが一歩、踏み込んでくれた優しさだった」
鈴木さんはノートに小さく書いた。
「白瀬さん、二十二件、一歩踏み込む」
もう一行、僕は付け加えた。
「同じ温度の優しさを、チームCの間宮先輩からも、僕は受け取っている。間宮先輩は一年目の僕に『権限と、責任の乖離』という一行で、出来事の奥の構造を渡してくれた。やり方は白瀬さんと違うけど、踏み込んで磨く、という温度は同じだった」
鈴木さんはノートにもう一行、書き写した。
「ふたつめ」
間を置いた。
「放置する優しさ」
鈴木さんがペンを止めた。
「ほうち、ですか?」
「うん」
「踏み込まないで、相手の場所をそのまま置いておく優しさ」
コップの水をもう半口、運んだ。
「相手のコードに、LGTM一行だけ返す。指摘も改善案も置かないで、そのまま通す。それは、相手の今日の楽さは守る。けれど相手の五年後、十年後は、磨かれないままになる」
「うん……」
「これは具体的な人の名前は今は置かないでおきます。でも、ヨキエルの中に、その温度で動いている人は何人もいる。そのうちの一人は、いま、隣の事業部に異動した先輩。その先輩は、一年前まで僕のOJTトレーナーだった」
鈴木さんはノートに「放置する優しさ」と書いた。
「踏み込まない、楽さは守る、磨かれない」と短く三行、添えた。
「ここまでは、一年前の僕のノートにも、書いてあった二つ」
短く置いた。
「磨く優しさ、放置する優しさ。一年前の僕は、優しさを二つに分けて、それで世界を読もうとしていた」
「でも、二つでは足りなかった」
鈴木さんは顔を上げた。
「足りなかったのですか?」
「うん」
「去年の七月、僕のOJTトレーナーだった先輩の異動の送別会のあと、僕はもう二つの形に、気づき始めた」
内心で二年目のあの夜のノートの四行を、もう一度確かめた。
「みっつめ」
ペンの音が、鈴木さんのノートの上で止まった。
「気付かない優しさ」
「気付かない、ですか?」
「うん。自分の優しさが、相手のための優しさになっていないことに、本人が気付いていない優しさ」
「あ……」
「LGTMを返す側の人が、自分はちゃんと優しくしている、と本気で信じている。本人としては悪意はない。むしろ、優しく接しているつもり。でも、その『優しく接している』が、相手の磨かれる機会を削っていることに、本人は気付いていない」
鈴木さんはペンを止めた。
「それは、たぶん、放置する優しさ、と隣り合わせ、ですよね?」
鈴木さんが小さく聞いた。
「うん。隣り合わせ。けれど、少し違う」
僕は胸の内で言葉を選んだ。
「放置する優しさは、本人が『自分は踏み込んでいない』と知っていて選んでいる側の優しさ。気付かない優しさは、本人が『自分は優しい』と信じていて、踏み込んでいないことに気付いていない側の優しさ。同じ行動でも、本人の中の温度が、違う」
鈴木さんはノートにもう一段、丁寧に書いた。
「気付かない優しさ」
「自分の優しさが、相手のためになっていないことに、本人が気付かない」
「組込みチームの大沢マネージャーも、たぶんこの形の優しさを、半身、持っている人だと、僕は思ってる。本人は機嫌の波で部下を下げてしまうことに、たぶん気付いていない。けれど、推薦書はちゃんと書く。半身は気付かないまま、半身はちゃんと見ている。人間は、たぶん全部一色ではない」
鈴木さんはノートに「大沢マネージャー、半身は気付かない、半身は見ている」と書いた。
「よっつめ」
ペンの音がもう一度、止まった。
「気付いていても言わない優しさ」
鈴木さんが顔を上げた。
「言わない、ですか?」
「うん。相手の優しさの向きを、ずっと前から見抜いている。見抜いていて、しかし何も言わない。指摘しない。それも、たぶん一つの形の優しさ」
僕はコップの水のいちばん最後の半口を運んだ。
「これは、いちばん難しい温度の優しさ」
「難しい」
「指摘しないことで、相手の振る舞いはたぶん変わらない。けれど、指摘することで関係が崩れたり、相手が大きく傷つくことを、見抜いている側の人は知っている。だから、見抜いたまま、置く」
鈴木さんはペンを止めた。
「置く、というのは」
「指摘の機会を、その人本人に返すこと。自分の口から言うのではなく、本人が気付くべき」
僕は古川先輩の天井に向いた平らな目線を、心の中で思い返した。
「これは、たぶん、フロアの中でいちばん年長クラスの人が、自分の選択として続けている温度のひとつ。机に半身、沈み込んだ姿勢のままで、しかし全部、見ている人」
具体的な名前は今日も置かなかった。
しかし鈴木さんのノートには、ちゃんと残った。
「気付いていても言わない優しさ」
「見抜いている、しかし指摘しない、関係を崩さない、相手本人が気付くべき」
鈴木さんはノートの四行を、上から順にもう一度、目で追った。
磨いてくれる優しさ。
放置する優しさ。
気付かない優しさ。
気付いていても言わない優しさ。
鈴木さんの目が、その四行の中でかすかに揺れた。
しかし最後まで、ノートを閉じなかった。
「桐谷さん」
「うん」
「具体的な人の名前を、最後まで、教えてくれないのですね」
鈴木さんはそう聞いた。
僕は箸の脇に置いた手を、軽く握り直した。
「うん」
「未來さん、自分の目で、観察してください」
短く置いた。
「答えは、僕が言うんじゃなくて、未來さんが見つけるべき」
間を置いた。
「白瀬さんが、僕の一年目に、コードのいい書き方を、一度も『正解』として手渡してくれなかったのです。白瀬さんは二十二件のコメントの中で、僕に問いを置いてくれた。答えは僕がノートの上で組み立てるしかなかった。だから僕は、いま自分の手の中に持っている答えを、本物の自分の答えだと思える」
「うん……」
「未來さんに、僕がいま、四つの名前を渡したのは、ノートの上で組み立てる材料です。立花先輩がどの優しさか、古川先輩がどの優しさか、それは未來さんの目で、二ヶ月の中で、少しずつ、組み立ててください」
鈴木さんはノートに、もう一行、書いた。
「答えは、自分で見つける」
ペンを止めて、ノートを閉じた。
ノートの表紙の「観察」の二文字を、鈴木さんはそっと指で撫でた。
「桐谷さん」
「うん」
「分かりました、観察します」
鈴木さんはそう置いた。
声は、しっかりしていた。
戸惑いの色は、まだ残っていた。
しかしその戸惑いの上に、観察する側の決意が薄く乗っていた。
昼休みが終わって、フロアに戻った。
午後の業務は、いつもどおりの流れだった。
鈴木さんは香織さんの隣で、午前中の続きのドキュメントを読んでいた。
しかし時々、フロアの中の人々を目で追っている瞬間が、僕の側から見えた。
立花先輩の表面の笑顔の角度。
古川先輩の天井に向いた平らな目線。
白瀬さんの口の端のほんの少しの動き。
諏訪マネージャーの落ち着いた声。
森山くんの明るい語尾の弾み方。
香織さんの研修明けのかすかな緊張。
鈴木さんの目は、もう、ただ「優しい人ばっかり」と読み取る目ではなくなっていた。
観察、というのは、たぶん、こういう目に変わることだ。
夕方、五時半。
鈴木さんが帰り支度を始めた。
「桐谷さん、今日、本当にありがとうございました」
鈴木さんは深く頭を下げた。
「うん、お疲れさま」
「私、帰りに、もう一冊、ノートを買って帰ります」
「もう一冊?」
「観察ノート、と別に、観察日記、を分けて書きたいのです」
「いい考えだね」
「桐谷さんに、観察日記、も、私、書きます」
鈴木さんはそう置いてから、もう一度、深く頭を下げて、フロアを出ていった。
歩いていく後ろ姿が、フロアのドアの向こうに消えた。
……観察ノートと、観察日記、二冊。
その発想を確かめた。
二冊に分けるという発想は、たぶん、僕の中にもなかった発想だった。
観察と、観察の中の自分の感情を、別々に置く。
鈴木さんは、もう先を行っていた。
退勤の前に、ノートを開いた。
今日の日付の下に書いた。
「鈴木さんに『四種類の優しさ』を渡した」
もう一行。
「磨いてくれる、放置する、気付かない、気付いていても言わない」
もう一行。
ペンを止めた。
もう一行、添えた。
「教えるとは、答えを与えないこと」
書いてから、その一行を目で追った。
白瀬さんが三年前の僕に、答えを与えなかった。
間宮先輩も、答えを与えなかった。
諏訪さんも、答えではなく、事実だけを置いてくれた。
その三人の温度を、いま、僕は鈴木さんに対して、自分の口でやり直していた。
ノートのページを、もう一枚、めくった。
空いた次のページに、もう一行、書いた。
「四種類の優しさ、未來さんに渡した。二年目のあの夏の仮置きを、今日、僕は完全言語化した」
書き終えてから、その一行を見つめた。
一年前の僕は、ノートの上に「仮にその名前を置いてみた」とだけ書いた。
今日の僕は、その仮置きを、二十歳の後輩の前で、一行ずつ、最後まで運んだ。
自分の手の動きの跡を、ノートの上で見つめた。
……一年前の僕は、二つに分けていた。今日の僕は、四つに分けて、それでも足りないかもと思う。未來さんは、いつか五つに気づくかもしれない。
心の中で、そう置いた。
四という数字は、たぶん、僕がいま手の中に持てるいちばん遠くの形だった。
しかし鈴木さんは僕の半歩先を、すでに歩き始めている。
観察ノートと観察日記を、二冊に分けて持つという発想が、その証拠だった。
二ヶ月後、鈴木さんが大学に戻る時には、鈴木さんのノートに僕の知らない五つめの優しさの名前が、すでにそっと書かれているかもしれない。
それは、たぶん、悪い未来ではなかった。
ノートを閉じた。
窓の外、七月の第二週の夕暮れ。
桜並木通りの葉桜の影が、夕日の中でちらちら揺れていた。
夏が、深まり始めていた。




