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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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断章Ⅻ「ある日のとんぼ」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この話は港川市の居酒屋「とんぼ」の沼田寿大将と沼田雅代女将の、夫婦の対話形式で描かれています。蒼太の三年目の冬、ある夜の話。「とんぼ三部作」(断章Ⅳ・Ⅷ・Ⅻ)の完結編。


 夜の十時半、店の戸を閉めた。暖簾をしまった。


 俺はカウンターの中で、最後の洗い物を雅代に預けて、外側の席に座った。外側の席に座るのは俺にとって、店を閉めた合図だった。三十年続いている合図。


 雅代が洗い物を終えて、カウンターの中から出てきた。


「終わったわよ」


「お疲れさん」


「お疲れさん」


 二人で笑った。


 雅代は奥の台所でお湯を沸かして、ぬる燗を二本、用意してきた。


「今夜、お酒?」


「ええ、お茶じゃなくてお酒。特別な夜だから」


「特別な夜?」


「ええ、特別」


 雅代はぬる燗の徳利を俺の前に置いた。俺の徳利と、雅代の小さなぐい呑み。四十年変わらない組み合わせ。


「乾杯」


 雅代がぐい呑みを上げた。俺も徳利からぐっと酒を含んだ。体の中に、ぬる燗の熱が、ゆっくり広がった。


 


「特別な夜、というのは」


 俺はぐっと雅代に聞いた。


「あなた、忘れた?」


「何を」


「今日、十二月二十日。三十年前の今日、私たち、お店を開いたの」


「えっ」


 俺はぴくっと止まった。


「三十年前」


「三十年前」


「お前、よく覚えてるな」


「あなたが覚えてないだけ」


 雅代は軽く笑った。


「あなたは覚えてなくても、ちゃんと開ける。私は覚えてて、ちゃんと開ける。役割分担」


 俺はその「役割分担」を口の中で繰り返した。四十年結婚してきて、いまさらその「役割分担」がふっと深く聞こえた。


「三十周年か」


「三十周年、おめでとう」


「ありがとう」


「ありがとう」


 二人で笑った。


 


 外、十二月の夜風が店の戸を軽く揺らした。港川市の冬は夜になると、ぐっと冷える。店の中はストーブの熱で、ちょうどよかった。


「あなた、今日ノート書く?」


「書く」


「私も手帳書く」


「並べて書くか」


 俺はふと、そう言った。


 言ってから、自分でも、少し驚いた。


 三十年、俺は奥の事務机でノートを書き、雅代は台所の隅で手帳を書いてきた。同じ店の、同じ夜を、別々の場所で書いてきた。並べて書こうと言ったことは、一度もなかった。


「並べて?」


「並べて。三十周年だ。たまには」


 雅代は少し驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。


「ええ、並べましょう」


 雅代は台所の奥から自分の手帳を持ってきた。俺は事務机から自分のノートを持ってきた。


 カウンターの上に、二つを並べた。


 俺のノート、くすんだ茶色の表紙、五代目。女将の手帳、深い緑の表紙、二十冊目。


 二つが並んで置かれているのは、たぶん三十年で初めてだった。


 俺はその二冊を、しばらく見た。


 茶色と、緑。


 別々の色の、別々の本。


 三十年、別々の場所に置かれてきた。


 


「お互いの、見てもいいか」


「いいわよ」


 俺は事務机の引き出しから一冊目のノートも出してきた。雅代も奥から、開店の年の手帳を出してきた。二人で、開店の日のページを開いた。


 俺の一冊目の、開店の日のページ。


「十二月二十日、店、開店。客、三人。佐藤さん、田中さん、知らない客。鯖の煮魚、出した」


 女将の手帳の、同じ日。


「十二月二十日、開店。佐藤さん、煮魚をぜんぶ食べてくれた。田中さん、半分残された。お酒でお腹いっぱいだったらしい。知らないお客さん、ぜんぶ食べてくれた。次、来てくれるかな」


 俺は雅代のページを読んで、小さく笑った。


「お前、初日からちゃんと書いてたな。俺は二行しか書いてない」


「あなたは最初から料理人の目。私は最初から接客者の目」


「役割分担、最初からか」


「最初から」


 俺は別の一冊を開いた。七年前。


「八月十四日、お盆も開けた。倉田さん、奥さんと二人。煮魚、刺身、出汁巻き」


 雅代の同じ日。


「八月十四日、倉田さんの奥さん、半年ぶり。体調が悪いと聞いてた。けれど今日は元気そう。よかった。倉田さん、奥さんを大事にしている目。私たちも見習いたい」


 俺は、ぐっと、何かがこみ上げた。


「お前、こんなこと、書いてたのか」


「ええ」


「俺、その日、倉田さんの奥さんが来たこと、書いてない」


「あなたは料理の記録だから」


「お前は、客の、いや、人の記録だから」


 俺はその二つのページを、並べて、見た。


 俺のページには、煮魚と、刺身と、出汁巻きが、書いてある。


 雅代のページには、倉田さんの奥さんの目が、書いてある。


 同じ夜だった。同じカウンターで、同じ客を、見ていた。


 けれど俺が見ていたのは、客の前の料理で、雅代が見ていたのは、料理の前の客だった。


 倉田さんの奥さんは、その三年後に、亡くなった。


 俺のノートに、倉田さんの奥さんは、ほとんど出てこない。雅代の手帳には、何度も出てくる。


 もし雅代の手帳がなかったら、倉田さんの奥さんが、この店で、半年ぶりに元気そうな顔を見せた夜は、どこにも、残らなかった。


 ……俺のノートだけでは、店の半分しか、残っていない。


 俺は、そう、思った。


 三十年、俺は、自分のノートが、店の記録だと思ってきた。けれどそれは、店の、料理の半分だった。残りの半分、人の半分は、ぜんぶ、雅代の手帳の中にあった。


 二冊で、ようやく、一つの店だった。


 


「雅代」


「うん」


「俺たち、三十年、別々に書いてきたな」


「ええ、別々に」


「別々の場所で、別々のものを」


「ええ」


「けど、いま、並べてみて、分かった」


 俺はぬる燗を、ぐっと含んだ。


「二つで、一つの店だった。俺のだけでも、お前のだけでも、半分だった」


 雅代は、しばらく、黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「私たちも、そうね」


「俺たち?」


「ええ。四十年、別々の体で、別々のことを考えて、生きてきた。あなたは料理を、私は人を。けれど、合わせると、一つの暮らしだった」


 俺は、雅代を、見た。


「二冊のノートと、私たち二人。たぶん、同じ」


 雅代は、ぐい呑みを、軽く傾けた。


 俺は、何も、言えなかった。


 四十年、隣で寝て、隣で働いて、隣で歳をとってきた。それを、別々の二人だと、どこかで思っていた。けれど、二冊の本が、合わせて一つの店だったように、俺と雅代も、合わせて、一つの暮らしだった。


 別々に見えて、一つだった。


 それが、結婚というものなのかもしれなかった。


 


「あなた」


 雅代がふと口を開いた。


「うん」


「この二冊、これから、どうする?」


「どうする、とは」


「三十年、別々の場所に置いてきた。これからも、別々?」


 俺は、二冊を、見た。


 茶色と、緑。


「……いや」


 俺は、ぽつりと言った。


「今夜から、たまには、並べよう」


「並べる」


「ああ。月の終わりの振り返りは、これから二冊並べて、二人でやる。お前の手帳に、俺の見落とした人がいる。俺のノートに、お前の見落とした料理がある。並べて見ないと、店の全部が見えない」


 雅代は、ゆっくり、頷いた。


「それから」


 俺は、続けた。


「お互いの本に、書いていい。俺の言葉、お前の手帳に。お前の言葉、俺のノートに」


「引用、自由」


「引用、自由。二冊で一つだ。もう、別々の本じゃない」


 雅代は、ぐい呑みを、ことりと置いた。


 その目が、少し、潤んでいた。


「三十年、別々に書いてきて、いまさら、一つにするの」


「いまさら、一つにする」


「いまさらね」


「いまさらだ」


 二人で、笑った。


 俺は、自分のノートに、ペンを取って、こう書いた。


「十二月二十日、三十周年。今夜、三十年で初めて、ノートと手帳を並べた。二冊で、一つの店だった」


 雅代も、手帳に、何か書いていた。


 お互いに、何を書いたかは、聞かなかった。聞かなくても、たぶん、似たようなことだった。


 


「あなた」


「うん」


「この二冊、私たちが、いなくなったら、どうなるのかしらね」


 俺は、手を止めた。


 ぬる燗の徳利を、ことりと置いた。


「……分からん」


「お店を継ぐ人は、まだ、いない」


「いないな」


「息子も、娘も、いない。私たちには」


 雅代は、ぐい呑みを、軽く傾けた。


「でも、この二冊には、三十年の店の温度が入ってる。佐藤さんの煮魚。倉田さんの奥さんの目。間宮さんが初めて来た夜。桐谷くんが、初めて後輩を連れてきた夜」


「ぜんぶ、入ってる」


「ええ。私たちがいなくなっても、この二冊が残れば、誰かがこの店の温度を知ることができる」


 俺は、二冊を、見た。


 三十年分の、料理と、人。


「俺たちは、この店を、誰かに、渡せるかな」


「店は、渡せないかもしれない。建物は、いつか壊れる。けど」


 雅代は、ぐい呑みを置いた。


「温度は、たぶん、渡せる。この二冊が、誰かの最初の地図になる」


「最初の地図」


「ええ」


 俺は、その「最初の地図」を、口の中で、繰り返した。


 俺のノートと、雅代の手帳。茶色と、緑。料理と、人。


 二つを合わせると、店の地図になる。その地図を、いつか、誰かに、渡す。


 渡す相手は、まだ、いない。


 けれど、いつか、現れるかもしれなかった。


 


 その時、店の戸の外で、何か音がした。


 風の音というよりは、人の気配。


 俺と雅代は、同時に、戸の方を見た。


「お客さん、じゃないわよね、こんな時間に」


「閉店、十時半、過ぎてる」


 俺は立ち上がって、戸を軽く開けた。


 戸の外に、桐谷くんがいた。


「大将、夜分、すみません」


「桐谷くん、どうした?」


「あの、僕、先週こちらにノートを置き忘れたと、女将さんから連絡をいただいて。明日取りに来るのを忘れてしまって、今夜思い出して」


 桐谷くんは、申し訳なさそうな顔をしていた。


「寒いから、入って。ノートは奥の事務机に置いてある」


 桐谷くんは、軽く頭を下げて、店に入ってきた。


 雅代がカウンターの中から出てきた。


「桐谷くん、いいのよ。今夜、ちょうど、開店三十周年をお祝いしてたの、二人で」


「三十周年ですか。おめでとうございます」


 桐谷くんは、丁寧に頭を下げた。


 俺は奥の事務机から、桐谷くんのノートを取ってきた。A5判、紺色の表紙。少し角が、ぼろぼろになっていた。


 俺はそのノートを、桐谷くんに渡した。


 渡しながら、ふと、思った。


 ……このノートも、いつか、誰かの、最初の地図になる。


 桐谷くんのノート。紺色の、角のぼろぼろになった、三年目のノート。


 俺の茶色と、雅代の緑と、桐谷くんの紺。


 三冊とも、誰かを見て、振り返って、書き続けてきた本だった。


「桐谷くん」


「はい」


「お前のそのノート、いつか、後輩に、見せてやれ」


「後輩に、ですか」


「ああ。俺たちのノートと手帳が、いつか誰かの最初の地図になる、という話をいま、雅代としてたんだ。お前のノートもたぶん、同じだ。お前の後輩の鈴木さんとか、森山くんとか、その後の誰かの最初の地図になる」


 桐谷くんは、軽く首を傾けた。


「桐谷くん、見るか。俺たちの、ノートと、手帳」


「えっ、いいのですか」


「いい。ちょうど今夜、三十年で初めて、二人のを並べたところだった」


 桐谷くんは、カウンターに近づいた。


 茶色のノートと、緑の手帳が、並んで置いてあった。


 桐谷くんは、二つを、しばらく、じっと見つめた。


 桐谷くんの目に、ふっと、光が強くなった。


「これ、すごい」


「すごい?」


「三十年と、三十年。二つで、六十年。六十年分の、観察と、振り返り」


 桐谷くんは、二冊を、見比べた。


「大将のノートは、料理の記録。女将さんの手帳は、人の記録」


「見抜いたな」


「役割分担、ですか」


「役割分担」


「役割分担、というのは、いいですね」


 桐谷くんは、軽く笑った。


「僕、後輩の鈴木さんや森山くんに、これから伝えていきたいです。観察と、振り返りと、役割分担を」


「いいね」


 俺は、頷いた。


 ……渡す相手は、いた。


 俺は、ふと、そう、思った。


 店は、継げないかもしれない。建物は、いつか、壊れる。俺と雅代は、いつか、いなくなる。


 けれど、観察と、振り返りと、役割分担。その温度は、桐谷くんが、後輩に、渡していく。


 俺たちの二冊は、桐谷くんの紺色のノートに、すでに、半分、流れ込んでいた。桐谷くんは、俺の「振り返らないと続かない」も、雅代の「迷うのはいいこと」も、自分のノートに、書き留めてきた。


 俺たちの温度は、もう、桐谷くんを通して、次へ、渡り始めていた。


 


「桐谷くん、お酒、飲めるか?」


「はい、少しなら」


「ぬる燗、一本、いくか。俺たちの三十周年、付き合ってくれ」


「いいのですか?」


「いい」


 雅代が、ぬる燗を、もう一本、温めた。


 俺の徳利、雅代のぐい呑み、桐谷くんのぐい呑み。


 三つが、カウンターに、並んだ。


「三十周年、おめでとうございます」


「ありがとう」


「ありがとう」


 三人で、軽く、ぐい呑みを当てた。澄んだ、いい音がした。


 二冊のノートと手帳の隣で、三つの杯が、鳴った。


 


 桐谷くんは、ぬる燗を一杯だけ飲んで、帰った。帰り際、桐谷くんはこう言った。


「大将、女将さん、僕、十年目になっても、こちらに通います。今夜のノートと手帳を見て、決めました」


「十年目」


「ええ」


 桐谷くんは、軽く笑った。


「七十八歳まで、お元気で」


「えっ」


 俺と雅代は、同時に、ぴくっとした。


「私たち、さっき、ちょうど、その話を」


「えっ、そうですか?」


「七十八歳まで続ける、って。すごい偶然」


「偶然じゃ、ないかも」


 雅代が、ぽつりと言った。


「観察と振り返りを続けてる人は、たぶん、同じ温度で、考える」


 桐谷くんは、その一行を、ノートに、軽く書き留めた。


「ありがとうございました」


 桐谷くんは、頭を下げて、店を出ていった。戸が閉まる音を聞いた。


 


 俺と雅代は、二人だけに戻った。ぬる燗の徳利は、もう空になっていた。


「桐谷くん、いいお客さんになったわね」


「ええ。三年で、ここまで来た」


 俺は、二冊のノートと手帳を、もう一度、見た。


「雅代」


「うん」


「さっきの、心配、もう、しなくていいかもな」


「心配?」


「この二冊が、誰に渡るか、という心配」


 俺は、徳利を、流しに置いた。


「桐谷くんに、渡す。いや、もう、渡り始めてる。建物は渡せなくても、温度は渡せる。桐谷くんが、後輩に渡していく」


 雅代は、ゆっくり、頷いた。


「そうね。もう、始まってる」


「始まってる」


 俺は、ノートを閉じた。雅代は、手帳を閉じた。


 二つの本を、カウンターから、それぞれの定位置に戻した。ノートは奥の事務机。手帳は台所の隅の棚。


 また、別々の場所に、戻った。


 三十年、別々の場所に置かれてきた、二つの本。


 今夜、一度だけ、並んだ。明日からは、また、別々に戻る。


 でも、もう、前の別々とは、違った。


 今夜から、月の終わりに、二冊は、並ぶ。お互いの本に、書き合う。二冊で、一つの店。そして、その一つの店の温度は、桐谷くんの紺色のノートを通して、次へ、渡っていく。


 別々の二冊が、一つになり、そして、次へ、渡り始めた夜だった。


 


 俺は店の灯りを消した。戸を閉めて、鍵をかけた。雅代と二人で、家のほうに戻った。家は店の二階。


 階段を上がるとき、膝が軽く痛んだ。雅代も後ろから、ゆっくりついてきた。雅代の膝も、最近、痛そうだった。


 二人で寝室に入って、寝る支度をした。俺は布団に入った。雅代も隣の布団に入った。


「あなた」


「うん」


「七十八歳まで、頑張ろう」


「頑張ろう」


「桐谷くんが、十年目になる頃まで。その頃、私たちは、七十二歳」


「七十二歳。そこから、七十八歳まで」


「あと、ずっと、二冊を並べて、二人で振り返って」


「そして、桐谷くんに、渡していく」


「ええ」


 雅代は、ふっと、笑った。


「四十年結婚してきて、いまさら、渡す側になるなんてね」


「四十年結婚してきて、いまさらだ」


 二人で、笑った。布団の中で笑うのは、たぶん、何年ぶりだった。


 


 雅代の寝息が、規則正しくなった。


 俺は、しばらく、目を開けていた。天井の、淡い影を、見ていた。


 ……三十年、続いた。


 心の中で、俺は、つぶやいた。


 あと十年。あと十五年。桐谷くんが十年目になる頃まで。その頃には、桐谷くんは、後輩を、五人くらい、見ているかもしれない。その後輩も、また、後輩を見る。


 俺と雅代の二冊は、その頃には、奥の棚で、静かに、古くなっている。けれど、その二冊に書かれた温度は、桐谷くんを通って、桐谷くんの後輩を通って、まだ、どこかで、生きている。


 料理を出し続けること。観察して、振り返って、二冊に書き続けること。そして、その温度を、若い人に、渡していくこと。


 それが、続けるということだった。


 毎朝四時半に起きて、市場に自転車で行く。それが、俺の三十年続けてきた、答えだった。


 明日も、起きる。


 明日からは、二冊を、並べる。


 俺は、そう決めて、目を閉じた。


 外、十二月の夜風が、店の戸を軽く揺らした。その風の音は、三十年、変わらない音だった。けれど、その音の向こうで、何かが、確かに、次へと、動き始めていた。


 俺は、その音を子守唄に、眠りに入った。


 


 三十年続いた「とんぼ」の、三十周年の夜が、静かに深まっていった。


 桜並木通りの桜は、もうすっかり葉を落として、枝だけになっていた。来年の春、また桜が咲く。来年の春、また新卒の若い人が、ヨキエルに入ってくる。その人もたぶん、いつか「とんぼ」に来る。


 俺と雅代は、その人を、カウンターの中から、見守る。二冊を並べて、振り返って、そして、いつか、渡す。


 別々の二つが、一つになり、次へと渡っていく。それが、とんぼの、三十年目の夜に、始まったことだった。


 俺たちは、そう信じて、眠った。


 


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