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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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断章Ⅺ「ある日の間宮啓」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この話は、シニアエンジニアの間宮啓の視点で描かれています。蒼太の三年目の夏、ある夜の話です。


 平日の夜、九時。


 俺は自転車で桜並木通りをゆっくり漕いでいた。


 夏の夜風がシャツの首元にふっと入ってきた。風は生暖かい。けれど八月の終わりのほんの少しの秋の気配が混じっていた。


 会社を出たのは七時半。


 いつものように駅前の「とんぼ」に寄って、ぬる燗を一本飲んできた。


 今夜の「とんぼ」は空いていた。倉田さんがいつもの席で新聞を読んでいた。沼田大将と女将さんがカウンターの中で、いつも通りの動きで料理を出していた。


 俺はカウンターの倉田さんの隣の席に座って、ぬる燗を一本だけ飲んだ。


 大将と短い会話をした。


「間宮さん、最近、桐谷くん、連れてきませんね」


「桐谷くん、最近、後輩を連れて行く側ですから」


「ああ、なるほど」


 大将は軽く笑った。


 その「ああ、なるほど」の響きが、俺の中でふっと嬉しかった。


 桐谷くんが後輩を連れて行く側になった。


 俺が桐谷くんをここに連れてきたのは二年前。


 三年で桐谷くんは渡す側になった。


 ……俺の三年は、こうやって終わりに近づいている。


 心の中で俺はぽつりとつぶやいた。


 「終わり」というのは、たぶん正確じゃない。


 俺と桐谷くんの関係が終わるわけじゃない。


 ただ俺が「先輩」として桐谷くんに何かを渡す段階は、たぶんもう終わりに近づいている。


 これからの俺は桐谷くんと、もう少し対等な関係になっていく。


 その変化は嬉しい。けれど少しだけ寂しい。


 その寂しさを俺はぬる燗一本で軽く流してきた。


 大将にはたぶん、その寂しさが伝わったかもしれない。


 大将は何も聞かなかった。けれどぬる燗をいつもより少しだけ丁寧に注いでくれた。


 大将のその「丁寧」が、俺にはありがたかった。


 


 桜並木通りは葉桜が深い緑になっていた。


 街灯の淡い光に、葉の影がちらちら揺れていた。


 俺は自転車を漕ぎながら、桜並木通りをゆっくり進んだ。


 自宅のマンションは桜並木通りから一本、横に入った住宅街の中にあった。築十五年の五階建て。俺の部屋は四階。


 駐輪場に自転車を停めた。チェーンをかけた。膝が軽く痛んだ。


 膝の痛みは最近、出るようになった。三十代の後半に入ってからの新しい癖。


 エレベーターに乗った。


 四階で降りた。


 ドアを開けた。


「ただいま」


 声をかけた。


 返事はすぐに来た。


「おかえり」


 妻のいつもの声。


 妻はリビングのソファで本を読んでいた。三十二歳、専門学校の講師。週に三日、夜の授業を受け持っている。残りの日は自宅で自分の研究をしている。


 俺たちにはまだ子供がいない。


 妻は子供を欲しがっていない。俺も特に欲しがっていない。


 その「欲しがっていない」というのは、二人で何度も話し合った末の、二人の答えだった。


 答えは人それぞれでいい、と俺たちは思っている。


 


「夕食、もう食べてきた?」


 妻がソファから聞いた。


「とんぼで軽く」


「いつもの」


「いつもの」


「ぬる燗、何本?」


「一本だけ」


「あら、早いね」


「うん、早く帰りたかった」


 俺はジャケットを椅子の背に掛けた。


 妻は本に目を戻した。


 俺は台所でお茶を淹れた。


 今夜のお茶はジャスミン。


 妻が好きな香りだった。妻に影響されて、俺もジャスミンが好きになった。


 マグカップを二つ、リビングに持っていった。


 一つを妻の隣のテーブルに置いた。もう一つを自分の手に持って、ソファの別の端に座った。


「ありがとう」


 妻は本にしおりを挟んで、マグカップを手に取った。


「何の本?」


 俺は聞いた。


「歴史小説。江戸時代の町人の話」


「面白い?」


「うん。江戸時代の人たち、いまの私たちとぜんぜん変わらないということに、また驚いてる」


「変わらない」


「ええ。仕事の悩み、人間関係の悩み、家族の悩み、二百年、三百年でほぼ変わらない」


「人間ってそうなんだろうな」


 俺はジャスミンティーを含んだ。


 香りが軽く立ち上がった。


「今日、桐谷くん、来た?」


 妻はふと聞いた。


「来てない。最近、桐谷くんと会う機会、減ってる」


「あら」


「桐谷くんが後輩を持つようになって、たぶん忙しい」


「桐谷くん、何人、後輩、見てるの?」


「二人。橋本さんという女の子と、森山くんという男の子」


「二人見るの、大変?」


「大変、たぶん。けれど桐谷くん、ちゃんと見てると思う」


「あなたの教え子、立派になってるね」


 妻は軽く笑った。


「『教え子』というほどでも」


「『教え子』でしょ。あなたが二年前から、桐谷くんにぜんぶ教えてきた」


「教えた、というか、横で雑談しただけ」


「雑談、というか、ちゃんと構造を語ってる」


 妻ははっきり言った。


「私、あなたが桐谷くんと話す時の声を、何度か横で聞いたことがある」


「横?」


「電話の向こうで」


「ああ」


「あの声、あなた、桐谷くんにちゃんと講義してた」


 妻は笑った。


「『講義』というのは語弊がある」


「『講義』だよ。あなた、桐谷くんにポストモーテムとか、レトロスペクティブとか、PDCAとか、ちゃんと教えてた」


「教えてた、というか」


「教えてた」


 妻は譲らなかった。


「俺、自分で教えてると思ってなかった」


「あなた、自分で思ってないことが得意」


 妻は軽く笑った。


「『自分で思ってないことが得意』というのは」


「自分の影響力、自分でたぶん過小評価してる」


「過小評価」


「ええ」


 俺はふっとジャスミンティーをもう一口含んだ。


 妻の指摘はいつも深かった。


 俺は自分の影響力を過小評価する癖がある。


 その癖は、たぶん若い日の挫折から来ている。


 


 俺は自分の書斎に向かった。


 書斎と呼んでいるが、実際はリビングの隣の四畳半の狭い部屋。


 部屋の壁の三方が本棚。


 本棚には技術書と小説と、それから俺の十二年分のノートが並んでいた。


 ノートは二十冊。


 いちばん古いノートは二十二歳、新卒入社の日に書き始めた。


 最後のノートはいま、机の上に開いてある。


 二十冊目のノートを開いた。


 今日のページはまだ白かった。


 ペンを取った。


 書く前に、俺はいちばん古いノートを本棚から抜き出した。


 ノートの表紙はもう色褪せていた。角がぼろぼろになっていた。


 ページを開いた。


 最初のページにこう書いてあった。


「四月一日、入社。俺、組織を変える」


 二十二歳の俺の字。


 西日本のIT中小企業に新卒で入った、その日の字だった。


 ばからしい、といまの俺なら思うかもしれない。


 けれどばからしいと、いま思いたくはなかった。


 二十二歳の俺の「組織を変える」は本気だった。


 その本気をいまの俺は、軽く笑い飛ばすことができない。


 本気の俺は二十二歳から二十四歳まで、二年、ぐっと走った。


 走って潰れかけた。


 


 二十二歳から二十四歳の二年で、俺は何をしたか。


 社内に新しい技術調査の研究会を立ち上げた。当時、その会社の専務の了解をもらって、自主的にメンバーを集めた。


 社内に新しいドキュメント文化を提案した。Confluenceの導入を推進した。


 社内に新しいレビュー文化を提案した。コードレビューのテンプレートを作った。


 社内に新しいテスト文化を提案した。テストカバレッジの測定を始めた。


 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、提案した。


 提案したものの半分は形になった。


 もう半分は形にならなかった。


 形にならなかった半分が、俺を潰しにかかった。


 二十四歳の春、俺は職場で立てなくなった。


 月曜日の朝、ベッドから起き上がれなくなった。


 会社の産業医に初めて面談を頼んだ。


 産業医の先生は、俺にこう言った。


「間宮さん、変革者はいつか潰れる。それは悪いことじゃない。潰れたあと、もう一度立ち上がる時に、本当の変革者になる」


 その言葉を、俺は二十四歳のノートの最後のページに書き留めた。


「変革者はいつか潰れる。潰れたあと立ち上がる時に、本当の変革者になる」


 二十四歳の四月、俺は西日本のIT中小を辞めた。


 三ヶ月の休養に入った。


 


 その春、二十四歳の俺は実家の山口県関津町に戻った。


 関門海峡が見える窓のある、実家の戸建ての二階。


 俺はそこで三ヶ月、何もしないで過ごした。


 ノートも書かなかった。


 二十二歳から二十四歳の二年でノートを八冊書いた俺は、その春、ノートを開く気力すらなかった。


 ノートを書かない俺はたぶん、自分でもいちばん空っぽだった時期。


 夏、俺は中途採用の求人を見始めた。


 港川市のヨキエル株式会社という、地方の中堅IT企業に応募した。


 関津町からも、同じ西日本の中で行ける距離だった。


 書類選考、面接、内定。


 その年の七月、俺はヨキエルに中途入社した。


 最初の三ヶ月は、意識的に提案ゼロで過ごすことに決めた。


 二十四歳の俺はもう、二十二歳の俺ではなかった。


 


 その秋、ヨキエル中途入社から三ヶ月。


 会社の費用で、東京の外部勉強会に参加することになった。


 大きなホールに、二百人ほどの参加者。


 その夜の登壇者の一人が、遠野吉彦という人だった。


 当時、東京のメガベンチャーで技術部長をしていた人。年齢は四十四歳。


 遠野さんの発表のタイトルは、いまでもはっきり覚えている。


「半径3メートルから始める、組織の変え方」


 俺はその発表を、最前列の右端で聞いた。


 発表が終わった後、懇親会の片隅で、俺は遠野さんに声をかけた。


「間宮といいます。さっきの『半径3メートル』、もう少し詳しく聞かせていただけますか」


「ええ、もちろん」


 遠野さんはビールのグラスを軽く揺らした。


「間宮さん、いま、おいくつですか」


「二十四歳です」


「若いですね」


「最近、潰れかけました」


「ああ」


 遠野さんはひと呼吸、置いた。


「私、若い頃、半径100メートルで変えようとして潰れた。今は半径3メートルで変えている」


「半径3メートル」


「私の周りの三メートル以内の人と仕事だけ変える。それ以上はしない。それで結果として、組織全体がゆっくり変わる」


 遠野さんはビールをぐっと飲んだ。


「間宮さん、もし、もう一度変革者になりたかったら、半径3メートルから始めてみてください」


「半径3メートルから」


「ええ。四十四歳の、いまの私の答えです」


 俺はその言葉を頭の中に書き留めた。


 その夜、新幹線の中で、俺は数ヶ月ぶりにノートを開いた。


 春に閉じた八冊目の続きではなく、新しい一冊。


 九冊目の最初のページにこう書いた。


「半径3メートルから、変えていく」


 その一行が俺の、二十四歳の再出発だった。


 


 二十四歳から三十二歳までの八年。


 俺は半径3メートルの中で変える練習をした。


 自分のチームの毎週の振り返り会を始めた。


 自分のチームのドキュメントを丁寧に書いた。


 自分のチームの新人に雑談で教えた。


 提案は組織全体にはしなかった。自分のチームの中だけでゆっくり整えていった。


 八年で自分のチームは、ヨキエルの中のたぶんいちばん振り返りがしっかりしているチームになった。


 その八年、ノートは八冊書いた。


 二十四歳から二十六歳の最初の二年は、九冊目と十冊目で、ぐっと厚くなった。


 二十六歳から三十二歳は、年に一冊のペースで、十一冊目から十六冊目まで。


 二十二歳から二十四歳の二年で八冊書いた時の勢いは、もうない。


 けれど勢いがない方がたぶん、長く続いた。


 


 三十二歳のある夜。


 俺は駅前で、居酒屋の悪口大会から出てきたばかりの新卒の桐谷くんと行き合った。


 「とんぼ」に連れていった。


 桐谷くんはその夜、初めて「とんぼ」に来た。


 翌日の土曜日、俺は桐谷くんに「権限と責任の乖離」を話した。


 話しながら俺はふっと、自分の二十四歳の挫折を思い出していた。


 二十四歳の俺は組織の「権限と責任の乖離」にぶつかって潰れた。


 いまの桐谷くんは新卒で、まだその「権限と責任の乖離」の入口に立っているだけ。


 俺の役割はたぶん、桐谷くんを潰さないことだった。


 潰さないというのは、桐谷くんに半径3メートルの戦い方を伝えるということだった。


 俺は桐谷くんにこう言った。


「変革者は、たいてい一回、潰れかける。だから、潰れた経験のある変革者の方が、長続きする」


 桐谷くんはその一行をノートに書き留めた。


 俺は桐谷くんを見ながら、ふと思った。


 ……この子、たぶん十年後、俺を超える。


 胸の奥で俺はつぶやいた。


 二十四歳の俺の挫折を、桐谷くんはたぶん経験しないで済むかもしれない。


 桐谷くんには観察ノートがある。


 観察ノートが桐谷くんの半径3メートルを、最初から守ってくれる。


 俺には二十四歳の時、観察ノートを書く習慣はまだなかった。


 観察ノートを書く習慣を身につけ直したのは、二十四歳の秋、東京の勉強会で遠野さんに会ったあと。


 桐谷くんは二十二歳から観察ノートを書いている。


 二年早い。


 二年早く、半径3メートルを守れる。


 ……この子、たぶんすごいことになる。


 俺はその三十二歳の週末、桐谷くんにぽつりとこう言った。


「逃げ場をたくさん、持って」


 逃げ場というのは、俺が二十二歳から二十四歳の走りきった二年で、見つけられなかったものだった。


 俺はヨキエルに移ったあと、自転車とボードゲームと自治会と料理とPodcastと釣りと、それからたまに小説を書くということを、ゆっくり始めた。


 それらが俺の逃げ場だった。


 逃げ場をたくさん持っている俺はいま、たぶん潰れない。


 桐谷くんに逃げ場を伝えたかった。


 桐谷くんはその一行もノートに書き留めた。


 


 三十二歳の夜、桐谷くんに雑談で伝えたことを、俺はノートに書き留めた。


 書き留めながら俺は思った。


 ……俺の桐谷くんへの「先輩としての講義」は、今夜で半分終わったかもしれない。


 内心で俺はつぶやいた。


 残り半分は、桐谷くんが自分で観察して、自分で振り返って、自分で見つけていく。


 俺の役割はたぶん、雑談を続けることだけ。


 雑談を続ければ、桐谷くんは自分で育っていく。


 


 俺の勤め先の島は、組込みチームの島の、通路を一つ挟んだ隣にある。


 毎日、俺は組込みの島の空気の温度を、体で浴びている位置にいる。


 この一ヶ月半、組込みの島の空気の温度が、静かに、半段、重くなっていた。


 朝の朝会が終わって、フロアの半分の照明が落ちる十分間の空気の中で、俺は自席で書きかけのメモを整えながら、隣の島の背中の輪郭を、耳の端で、聞いていた。組込みチームの、大沢マネージャーの朝会の声が、いつもより、半段、乾いていた。


 乾いた声のあとに、藤村さんの背中が、廊下の途中で、いつもより長く、立ち止まる時間を、増やしていた。


 組込みの若手の中の何人かは、この一ヶ月半、目の伏せ方が、少しずつ、深くなっていた。目の伏せ方の深さは、たぶん、俺の側からしか、見えない類の深さだった。組込みの島の中にいる人には、たぶん、この深さは、いつもの深さの延長として、見えている。俺の島は、通路を一つ挟んだ位置にあるから、俺は、いつもの深さと、いまの深さの、差分を、比べて、見ることができた。


 差分は、明日、来週、来月と、静かに、増えていくのが、俺の側からは、たぶん、見える。


 俺は、この差分を、誰にも、言わなかった。


 言うと、俺の側の重量になる。俺の側の重量になった差分は、たぶん、桐谷くんの側にも、静かに、こぼれる。桐谷くんは、まだ、その差分の重量を、抱える段階にはいない。


 だから、俺は、書斎のノートに、差分の輪郭だけを、静かに、書き留めていた。


 書き留めながら、俺は、この差分が、いずれ、組込みの島の外側に、少しずつ、こぼれていく日を、遠くから、予感していた。


 こぼれる日が来たら、俺の役割は、たぶん、いくつか、増える。増える役割の輪郭は、まだ、見えない。ただ、増えることだけは、俺の側で、静かに、受け止める準備を、しておこうと思った。


 


 二年が経った。


 俺は三十四歳になった。


 桐谷くんは二十四歳。新卒三年目の夏。


 桐谷くんは後輩を二人持つようになった。


 橋本香織さんと、森山翼くん。


 俺は桐谷くんからたまに、二人の後輩の話を聞く。


 桐谷くんは二人をちゃんと見ている。


 二人とも桐谷くんを信頼しているらしい。


 二人とも桐谷くんを観察しているらしい。


 桐谷くんが観察される側になっている。


 ……俺、安心したな、桐谷くんを。


 ノートの今日のページに、俺はぽつりとそう書き留めた。


 


 ジャスミンティーをぐっと飲み干した。


 ノートの今日のページに続きを書いた。


「桐谷くん、後輩を二人見ている。安心。俺の役割は半分終わったかもしれない。残り半分はもう少しだけ、雑談で伴走する」


 書き終えてペンを置いた。


 書斎の机の上の二十冊のノートを見上げた。


 十二年で二十冊。


 その二十冊が俺の、二十二歳の本気と二十四歳の再出発、それから半径3メートルの軌跡だった。


 


 書斎の戸がふと開いた。


 妻が立っていた。


「あなた、ボードゲームの新作、出てるらしいよ」


 妻はぽつりと言った。


「えっ、何が」


「『コーヒーロースター』の新作。明日、駅前のおもちゃ屋さんに入るらしい」


「マジで」


 俺はぐっと顔を上げた。


「マジで」


「明日、買いに行く」


「いっしょに行く?」


「ええ、いっしょに行く」


 妻は小さく笑った。


 俺も笑った。


 俺の逃げ場、ボードゲーム。


 その逃げ場を妻と共有できるというのが、俺のいちばんの強さだった。


 妻は書斎を出ていった。


 俺はノートにもう一行書き加えた。


「明日、妻とボードゲームの新作を買いに行く。逃げ場、健在」


 書きながら俺は軽く笑った。


 


 寝る前、俺は本棚のいちばん古いノートをもう一度開いた。


 最初のページの「組織を変える」を見た。


 次のページから、二十二歳の走り書きが続いていた。


 ページをめくった。


 走り書きの中にこう書いてあった。


「俺は誰よりも速く、組織を変える」


 ばからしいと笑い飛ばすことができない。


 二十二歳の俺の本気がここにある。


 ノートを閉じた。


 本棚に戻した。


 三十二歳の頃、ノートに書いた一行を俺はふと思い出した。


「桐谷くんは、たぶん十年後、俺を超える」


 その一行はいま二年経って、すでに半分当たり始めている。


 あと八年で桐谷くんは、たぶん本当に俺を超える。


 俺はその時、たぶん四十二歳。


 四十二歳の俺は桐谷くんを超えられたと、たぶんふっと嬉しくなるだろう。


 超えられるというのは、たぶんいちばん嬉しいことだった。


 自分の役割がちゃんと終わったということだから。


 役割が終わったあとの俺は、たぶんもう少しだけ半径を狭くする。


 会社の中の半径3メートルは桐谷くんに引き継ぐ。


 俺の半径はたぶん、会社の外側に広がっていく。


 ボードゲームと料理と自治会と、それからもしかしたら小説。


 俺の四十代はたぶん、その方向にゆっくり進む。


 


 書斎の灯りを消した。


 リビングに戻った。


 妻はまた本を読んでいた。


 俺は妻の隣に座った。


「もう、寝る?」


 妻が聞いた。


「もう少し起きてる。読み終わったら寝る」


「あなた、最近、夜起きてる時間、増えたね」


「ノートを書いてる時間が長くなった」


「ノートを書く、というのがあなたの最近の趣味?」


「趣味、というか、習慣」


「趣味でいいんじゃない」


 妻は本に目を戻した。


「趣味ね」


 俺はジャスミンティーの空になったマグカップを見た。


 ノートを書くのが趣味。


 妻にそう言われるとふっと軽くなった。


 ノートを書くのは義務でも責任でもない。


 俺の趣味でいい。


 趣味だから続けられる。


 趣味だから楽しい。


 桐谷くんもいつかノートを義務と思わずに、趣味と思える日が来るといい。


 そう思った。


 


 夜、十一時。


 妻が本を閉じた。


「寝る」


「うん、寝る」


 二人で寝室に入った。


 布団に入った。


 妻はすぐに寝息を立て始めた。


 俺はしばらく目を開けていた。


 天井の淡い闇を見ていた。


 ……桐谷くんが俺を超える日が来る。


 胸の内で俺はもう一度つぶやいた。


 その日まで俺はノートを書き続ける。


 書き続ければ、桐谷くんはたぶん俺を超える。


 俺を超えた桐谷くんは、たぶん次の桐谷くんを育てる。


 次の桐谷くんがまた、次の桐谷くんを育てる。


 その連鎖がたぶん、ヨキエルの本当の変革。


 遠野さんが十年前、俺に教えてくれた「半径3メートル」は、いま桐谷くんに繋がっている。


 桐谷くんから橋本さんと森山くんに繋がる。


 橋本さんと森山くんからまた、次の世代に繋がる。


 俺はその連鎖の、ただのひとつの中継ぎ。


 中継ぎというのが俺の、いちばん誇らしい役割。


 目を閉じた。


 眠りに入った。


 外、夏の終わりの夜風が、桜並木通りの葉桜を揺らしていた。


 葉桜のちらちら揺れる音は、俺の家には届かない。


 届かなくても葉桜は揺れている。


 俺は知っている。


 俺が知っているというのが、たぶんいちばん大事なことだった。


 


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