断章Ⅹ「遠野CTOと村瀬社長の対話」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
同じ日の、夕方、十七時半。
ヨキエルの本社ビル、三階のいちばん奥のCTO室。
遠野吉彦は、自分の机の脇の応接の椅子に座っていた。両手を、卓の上に、静かに、組んでいた。
卓の向かい側に、人事の沢田五郎が、薄い茶色の革のファイルを膝の上に置いて、座っていた。
「遠野さん、この四ヶ月の退職者の証言の、粗い取りまとめを持ってきました」
沢田五郎は、いつもの低い、少し疲れた声で、そう置いた。
遠野は頷いた。
「拝見します」
沢田は、卓の上に、革のファイルを開いた。
中には、A4の白い紙が、十枚ほど、綴じられていた。それぞれの紙の頭には、退職者の名前と、退職日と、部と、年齢と、性別が、事務の定型の書式で、細く並んでいた。名前の下に、太い黒のゴシックで、一行から二行の証言の要約が、ぽつり、ぽつり、と、置かれていた。
遠野は、一枚ずつ、丁寧に、目で追った。
湊さんの一行。奈良崎さんの一行。吉住さんの一行。越野さんの一行。柊さんの一行。日暮さんの一行。宇津井さんの一行。茅原さんの一行。熨斗さんの一行。菖蒲池さんの一行。朽木さんの一行。
組込みチームの十一名の名前と、それぞれの一行が、A4の白い紙の上に、細く、灯っていた。
名前の一つひとつに、遠野は、目で立ち止まった。
湊さんの一行の末尾に、「大沢マネージャーの朝会の一言」という短い要約が、置かれていた。
吉住さんの一行の末尾に、「女性としての、この会社の三年」という短い要約が、置かれていた。
朽木さんの一行の末尾に、「十一年、この会社で組込みをやってきました。この会社の組込み部長・マネージャーが、私に、何も、残さなかった」という一行が、遠野の胸の真ん中に、静かに、刺さった。
遠野は、そのファイルを、静かに、卓の上に、戻した。
沢田は、しばらく、遠野の顔を、見ていた。
「これは、たぶん来春の組織改編の議論の、いちばんの資料になります」
沢田は、そう置いた。
「はい」
「ただ、資料としてだけでは、私は足りない、と思っています」
「はい」
遠野は、静かに、頷いた。
「組織構造の変革が、必要です」
沢田の一行を、遠野は、卓の上に、置いてもらったまま、静かに、受け止めた。
「今日、桐谷くんが、CTO室に決断を運んでくれました」
遠野は、口を、開いた。
「はい。彼のような若者が、この会社の中で、まだ残ってくれる。その事実の温度と、この十一名の一行の温度を、私はいま、同じ卓の上に並べて見ています」
「並べて見た上で、私はこの二つの温度の両方に、答えなければならない。並べて見ないと、たぶんこの会社の来年は、間違えます」
沢田は、深く頷いた。
「私も、そう思っています」
沢田は、革のファイルを、膝の上に、戻した。
「後日、社長にもお渡しします」
「はい。今夜、私が社長に、事前に少しだけ、お伝えしておきます」
「お願いします」
沢田は、そう置いて、CTO室を、静かに、出て行った。
遠野は、しばらく、卓の上を、見ていた。
薄い革のファイルの、残していった重みが、卓の上に、まだ、置かれていた。
その重みを、遠野は、両手で、静かに、抱え直した。
抱え直してから、遠野は、席を立って、社長室の方角に、廊下を、歩き始めた。
十二月の第三週、月曜日の夜、二十時。
ヨキエルの本社ビル、三階の中央。社長室の扉の前。
遠野吉彦は、薄い革のファイルを片手に廊下を歩いていた。
五十四歳。白いシャツに、グレーのスラックス。ジャケットはCTO室の椅子の背に掛けたまま、ここまで歩いてきた。
社長室の扉の前で、一度立ち止まった。
……桐谷くん、残ってくれましたね。
心の中でつぶやいた。
今日の朝、十時、桐谷蒼太は、北ウィングの諏訪マネージャーの部屋に決断を運んだ。十一時、CTO室の遠野の前に、同じ決断を運んだ。十四時、社長室の村瀬正之の前に、同じ決断を運んだ。
三つの島で、桐谷蒼太は、同じ温度で同じ一行を置いた。
「ヨキエルに、残ります」
あの一行の温度が、夜の二十時になっても、まだ遠野の胸の真ん中に残っていた。
扉を、二度、ノックした。
「どうぞ」
村瀬の低い穏やかな声が、扉の向こうから返ってきた。
扉を開けた。
社長室の中は、いつもの夜の空気だった。
大きな木の机の上に、MacBookが開いたまま。脇に、紙のファイルが積まれていた。窓の外、十二月の港川市の夜の街並みが、街灯の光の中で静かに広がっていた。
村瀬は机の脇の応接の小さなテーブルの椅子から、こちらに振り向いた。
六十七歳。ダークグレーのスーツに、紺のネクタイ。胸ポケットにはいつもの淡いシルクのチーフ。
ヨキエルの四代目社長、就任八年目。
「遠野さん、お疲れ」
村瀬はいつもの低い穏やかな声で、椅子を勧めてくれた。
「村瀬さん、お疲れさまです」
遠野は革のファイルを机の上に置いて、向かい側の椅子にゆっくり座った。
応接のテーブルの上に、湯気の立つお茶が二つ、すでに置かれていた。
「お茶、淹れておいた」
村瀬は軽く笑った。
「ありがとうございます」
遠野は湯飲みをゆっくり持ち上げた。
一口、飲んだ。
お茶の温度は、いつもの村瀬のお茶の温度だった。
静かに整った渋み。
……このお茶を、何回、ご一緒したか。
胸の奥で確かめた。
「桐谷くん、残ってくれましたね」
遠野は湯飲みを置いて、最初の一行をゆっくり置いた。
「ありがたい」
村瀬は短く頷いた。
二人でしばらく無言で、お茶を飲んだ。
窓の外、街灯の光の中で、十二月の港川市の夜の街並みが静かに広がっていた。
「私の半径3メートルと、彼の半径3メートルが繋がりました」
遠野は間を置いて続けた。
「最終面接の日、彼に『三年で土台を作る、それが、ヨキエルに来る人たちの責任です』と置きました。今日、その一行の答えが彼の口から返ってきました」
「答えが?」
「ええ。『変える側に、立ちます』と。三年で土台を作った人の次の一行です」
村瀬は目を上げた。
穏やかに笑った。
「三年前の一行、届いていたんだ」
「ええ、届いていました」
遠野はもう一口、お茶を飲んだ。
「あの面接の日、私は桐谷くんの履歴書を見ながら、迷いました。地方の県立大学、東京の大手に全部落ちた新卒、強い実績はない。しかし、面接の途中で彼の目の奥に芯のある光を見つけた。半秒、止まる目だった」
「半秒、止まる目」
「ええ。観察する側の目」
村瀬は頷いた。
「君がその日、私のところに来て、『ぜひ採りたい新卒がいます』と言った日のことを、私は今でも覚えている」
「あの日、私は迷ったまま、村瀬さんの部屋に来ました」
遠野は笑った。
「桐谷くんを採るか、もう少し慎重に他の候補を見るか。迷ったまま、私は村瀬さんの判断を借りに来ました」
「私は、迷わなかったね」
「ええ、村瀬さんは迷わなかった」
村瀬はお茶を一口飲んだ。
窓の方角に目を上げた。
「遠野さん、君が二十一年前、最初にここに来た時のことを思い出した」
その一行を、村瀬は静かに置いた。
二人で無言になった。
遠野の胸の真ん中で、二十一年前の夜が立ち上がった。
……三十三歳で、最初にここに来た、あの夜。三十歳で潰れかけた、その三年後。
内心で確かめた。
「あの時、村瀬さんが、私を信じてくれた」
遠野はゆっくりもう一言、続けた。
「三十歳で潰れかけて、三年休んで、ここに来た私を、村瀬さんが拾ってくれた」
その一行はいつもより、芯のある声で置かれた。
遠野自身が、自分の二十一年前をこうして言葉にするのは、二回目だった。一回目は一月半あまり前、十月下旬のあの日、CTO室での桐谷蒼太との二度目の対話で、自分の三十歳の夜を自伝的に語った。
あの時の桐谷くんの目を、遠野はまだ覚えていた。
半秒、止まった目。
いま、二回目の自伝を、村瀬の前にもう一度置いていた。
村瀬の目の奥に、淡い光が灯った。
穏やかに笑った。
「遠野さん」
「はい」
「君を拾ったのは、私じゃない」
その一行を、村瀬はゆっくり置いた。
遠野は止まった。
「妻だよ」
村瀬はもう一行続けた。
「あの夜、君を会わせろ、と妻が言った」
二人で無言になった。
遠野は湯飲みを置いた。
……奥さま。
胸の内でつぶやいた。
二十一年前のあの夜、遠野は村瀬の自宅の応接間で、初めて村瀬と会った。あの夜、応接間の隅に静かに座っていた奥さまの姿を、遠野は覚えていた。
奥さまは、ほとんど何も言わなかった。お茶を二人に淹れて、そっと部屋を出ていった。
しかし、その出ていく前に、こちらに小さく頭を下げてくれた、と遠野は覚えていた。
あとで村瀬から聞いたところでは、奥さまはあの夜、お茶を淹れるあいだ、遠野が村瀬の話を聞くときの目の置き方を、静かに見ていたのだという。そっと席を立ったのは、退いたのではなく、見極めて、もう案ずることはない、と判断したからだった。あの小さな会釈は、その判断の合図だったのだ。
「奥さまが、私を村瀬さんに会わせろ、と」
「うん」
村瀬は頷いた。
「私のところに君の話を最初に持ってきたのは、当時の人事の沢田くんだった。沢田くんは君の履歴書を私の前に置いて、『この人、ヨキエルの方角に合う気がします』と短く言った」
「沢田さん、若い頃から、目が芯のあるところで整っていた」
「うん。沢田くんはいまも、同じ目で、新卒を見ている」
村瀬は小さく笑った。
「沢田くんの話を、私は夕飯の席で、妻に何気なくこぼした」
「奥さまが、その夜に」
「うん。妻はこちらに目を上げて、『正之さん、その人、明日家に呼びなさい』と、迷わず言った」
「迷わず」
「うん、迷わず」
村瀬は薄く笑みを浮かべた。
「妻は人の何を見ているのか、私とは別の角度から、いつも自分の目で確かめている人だった。半歩先、というより、私が見落とす半歩横を、妻は見ていた」
間を置いた。
「妻の言葉に、私は押された。だから、君を家に呼ぶことができた」
「あの夜、奥さまがいてくださって、よかった」
「うん、ありがたい」
村瀬は窓の方角に目を上げた。
……奥さまの「あなたが、社長にならないで、誰が、なるの」の一行。
心の中でつぶやいた。
遠野は以前、村瀬自身の口から聞いたことがあった。村瀬が四代目社長に就任する直前、当時三代目社長から打診を受けた夜、奥さまがその一行を村瀬に短く置いた、と。
奥さまの声はいつも、村瀬が見落とす半歩横を、自分の目で見ていた。
そして、その声が、今夜、遠野自身の二十一年前にも繋がっていた。
「だから、私も桐谷くんを信じることが、できた」
村瀬は間を置いて続けた。
「あの夜、妻が君を信じてくれた、その一行が、私の中で、芯のあるところに残っていた。二十一年経って、君が桐谷くんを採りたい、と言ってきた日、私は君の判断を迷わずに信じることができた」
「ありがとうございます」
遠野は深く頭を下げた。
「変革はこうやって続くんだね」
村瀬はふっと笑った。
「四十四年、ヨキエルで続けてこられた村瀬さんが私に教えてくださったことです」
「四十四年、長かったよ」
「長かった、ですか」
「うん、長かった。短くも、あった」
村瀬は目を上げた。
窓の外、十二月の港川市の夜の街並みが広がっていた。
「君を採った日も、桐谷くんを採った日も、私の中で同じところで繋がっている」
「うん」
「半径3メートル、っていう桐谷くんの言葉、いいね」
「あれは、桐谷くんが自分で拾った言葉です。私は教えていない」
「うん、桐谷くんの言葉」
村瀬は笑った。
「自分の手の届く範囲から、観察を始める。半径3メートルの中を、丁寧に整える」
「ええ」
「私の四十四年も、半径3メートルの連なり、だったかもしれない」
村瀬は窓の方角に目を上げた。
「最初の半径3メートルは、初代社長の脇の机。二代目の中興の祖の時代に、半径が少し広がった。三代目の時代にもう一段広がった。私が四代目になって、ヨキエル全体が私の半径3メートルになった」
「ええ」
「桐谷くんも、これから、半径が少しずつ広がっていく」
村瀬は小さく笑った。
二人で静かにもう一度、お茶を飲んだ。
壁の時計、二十時半。
無言の時間が、流れた。
村瀬は机の上の革のファイルを、こちらに引き寄せた。
ヨキエルの新卒三期生、桐谷蒼太の同期六人の、最新の社員名簿。
ページをゆっくりめくった。
目を落とした。
遠野も、こちらに身を乗り出した。
「葉山さん」
村瀬がいちばん上の名前をゆっくり呼んだ。
「ええ」
「東京の中堅SaaSから、声がかかっていたらしい。最終まで行って、しかし自分で断った、と人事の沢田くんが先週教えてくれた」
「ここで、いずれ管理職の話も、来るでしょう」
遠野は短く頷いた。
「葉山さんは最初から、人と組織の方角に芯があった。彼女の三年で育ったものが、ヨキエルの中で、もう一段、立ち上がる」
「うん、楽しみ」
村瀬はわずかに笑みを浮かべた。
次の名前。
「黒木くん」
「ええ」
「組込みチームのリーダーに。テックリードからもう一段、芯が立ち上がる場所」
「もう一歩、踏み出せる」
遠野は短く頷いた。
「黒木くんは、寡黙だが、目の奥に芯のある光がある人。県外を知らないまま、ここで根を深く張る側の人」
「うん、彼の選択は、彼に合っている」
次の名前。
「アユシュくん」
村瀬がゆっくり呼んだ。
「ソウルで、彼自身のキャリアを整えている、と聞いた」
「ええ」
「いつか、日本に戻る日も、あるかもしれない」
村瀬は目を上げた。
「アユシュくんは、ヨキエルで芯のある三年を積んだ。彼がもう一度、日本の方角を見た時、ヨキエルの扉は迷わずに開く」
「ええ」
遠野は深く頷いた。
次の名前。
「丸山くん」
「物流ドメインの専門家として、長く活きる」
遠野は短く頷いた。
「丸山くんは、ドメインの方角への芯のある粘り強さがある。物流の方角で、十年、二十年と積み上がる人」
「うん」
次の名前。
「杉本さん」
「テストの専門家として、本格的なキャリアの入り口に」
「ええ」
遠野は頷いた。
「杉本さんは、二年目の頃から観察する側の目が出てきた。彼女のテストの三年は、芯のあるところで立つ」
「うん、観察する側のテストの専門家、いいね」
村瀬はふっと笑った。
最後の名前。
「桐谷くん」
村瀬がゆっくり呼んだ。
「ええ」
遠野は目を上げた。
「ここでもう一段上の責任に、向かう」
その一行を、遠野はゆっくり置いた。
「うん」
村瀬は深く頷いた。
二人で静かに頷いた。
六人の名前を、それぞれの方角で呼び終えた。
村瀬はファイルを机の脇に置いた。
お茶を、もう一口飲んだ。
「桐谷くんが、いつか、二代目の遠野になるかもしれない」
その一行を、村瀬はふっと笑いながら置いた。
「いや」
遠野は間を置いた。
「彼は、彼自身の道を行くでしょう」
「うん?」
「彼は、観察する人だから」
遠野は窓の方角に目を上げた。
「私は三十三歳で最初にヨキエルに来て、四十歳で一度離れた。四十九歳でCTOとして戻ってきてからの五年と、最初の七年。技術の方角と、組織の方角を両輪で回してきた。CTOとしての私の形は、ヨキエルでの二十一年の中で立ち上がった。しかし、桐谷くんは、私のCTOのコピーにはならない」
「うん」
「彼は、観察する人。半秒、止まる人。奥で考える人。彼の形は、彼自身の三年で、別の方角に立ち上がる」
「別の方角」
「ええ」
遠野はお茶を、もう一口飲んだ。
ゆっくり続けた。
「ただ」
「うん」
「彼が、次に何を観察するかは、私にも分かる気がする」
「ほう」
村瀬は目を上げた。
「自分の3年で、他の人の3年を支える側に、彼はもう半歩、踏み出している」
遠野は間を置いた。
「半歩、か」
村瀬はその二文字を確かめた。
「ええ」
「踏み出している」
「ええ。残りの半歩は、これからの3年で」
遠野はゆっくりそう言った。
二人で無言になった。
窓の外、十二月の港川市の夜の街並みが街灯の光の中で静かに広がっていた。
「他の人の三年を、支える側」
村瀬はその一行を、胸の奥で確かめるように繰り返した。
「うん、いい言葉だ」
「ええ」
「彼は、半歩、踏み出している」
「ええ。残りの半歩は、これからの三年で」
二人で頷いた。
「観察、か」
村瀬はその二文字を、口の中で確かめた。
「いい言葉だ」
「ええ。桐谷くんの三年で、いちばん、芯のところに残った言葉です」
「うん」
「私たちが彼に少しずつ渡してきたものが、彼の中で、観察、という二文字に結晶している」
「うん」
村瀬は頷いた。
「3年で土台。その上に、それぞれが自分の建物を建てる」
「ええ」
遠野は深く頷いた。
「私たちは、土台を丁寧に作り続けるだけ」
遠野は間を置いて、その言葉を続けた。
「うん、土台を、丁寧に」
「四十四年、続けてこられた村瀬さんが教えてくださった一行です」
「うん」
「私のヨキエルでの二十一年は、村瀬さんの四十四年の上に、半段薄く乗っているだけ。桐谷くんの三年は、私の二十一年の上に、半段薄く乗っている。未來さんの三年は、桐谷くんの三年の上に、半段薄く乗る」
「土台の連なり」
「ええ」
遠野は深く頷いた。
「半段ずつ薄く重なって、四十四年、五十年、とヨキエルの土台は続いてきた」
「うん」
「これからも、続く」
「うん、続く」
村瀬は笑った。
壁の時計、二十一時。
二人でお茶をゆっくり飲み干した。
窓の外、十二月の港川市の夜の街並みが街灯の光の中で静かに広がっていた。
港川の方角、銀色のリボンのような川のかたちが、街灯の光の中で揺れていた。
遠野は窓の外に、目を上げた。
「夜の街、いつ見ても、いい」
「うん、いい街だ」
村瀬は小さく笑った。
「私はこの街で、四十四年、少しずつ形を作ってきた」
「私は二十一年、この街に形を借りました」
「うん、君も、もうこの街の人だよ」
「ありがとうございます」
遠野は深く頭を下げた。
二人で無言で、窓の外を、見た。
「遠野さん」
「はい」
「桐谷くんの次の三年、私たちはどう、伴走しようか」
村瀬は目を上げた。
「一歩、引きながら、灯す側に回ろうかと、思っています」
遠野はゆっくり答えた。
「彼の半歩は、彼自身の足で踏み出す。残りの半歩を、彼自身の足で踏み出すために、私たちは引きながら。しかし彼の方角の灯りを消さないでおく」
「うん、いい伴走だ」
村瀬はわずかに笑みを浮かべた。
「私も十五年前、君に同じように、伴走してもらった気がする」
「ええ」
「引きながら、灯りを、消さない」
「うん」
「桐谷くんは、いずれ、自分の足で、もう半歩、踏み出す。その時、私たちは後ろから静かに見守る側に、回る」
「うん、見守る側」
村瀬は深く頷いた。
「観察する側の人を、観察する側で見守るという、二段の構造」
「ええ、二段の構造」
遠野はふっと笑った。
「変革はこうやって続くんだね」
「ええ、続きます」
二人で静かに頷いた。
二十一時半。
遠野は革のファイルを持ち上げて、椅子から立ち上がった。
「村瀬さん、今日は、ありがとうございました」
「うん、お疲れさま」
村瀬も、椅子から、半身立ち上がった。
扉の前まで、二人でゆっくり歩いた。
扉の脇で立ち止まった。
「奥さまに、よろしくお伝えください」
遠野は深く頭を下げた。
「うん、伝える」
村瀬は笑った。
「妻が今夜の話を聞いたら、きっと笑うはずだ。『桐谷くん、いい三年を、過ごしたね』と」
「ええ」
「妻の目は、芯のところで、いつも私が見落とす半歩横を、自分の目で見ている」
「ええ、いつも」
二人で小さく笑った。
扉を開けた。
廊下の淡い光の中に、遠野はゆっくり出た。
「桐谷くんの次の三年が、楽しみだ」
村瀬の声が、廊下に静かに運ばれた。
「ええ、楽しみです」
遠野は振り返って深く頷いた。
「同期六人のそれぞれの三年も、楽しみだ」
「ええ、楽しみです」
「未來さんが、来年の採用試験を越えれば、再来年の四月に戻ってくる」
「ええ、戻ってきてくれるといい」
村瀬は薄く笑みを浮かべた。
「土台の上に、新しい土台が重なっていく」
「ええ、半段ずつ、薄く」
「うん、半段ずつ」
二人でもう一度頷いた。
沈黙の中で、村瀬は、ふと、卓の上の湯呑みを、両手で、そっと、包み直した。
「遠野さん」
「はい」
「事件、もう少し、続くだろうか」
その一行を、村瀬は、二人の間の卓の上に、静かに、置いた。
「事件」の二文字を、村瀬は、いつもの穏やかな声のまま、しかし、いつもより、半段、丁寧に、口に運んだ。
遠野は、しばらく、湯呑みの湯気の残りを、目で、追った。
追ってから、静かに、答えた。
「たぶん、もう少し。組込みの島の中で、まだ動きかけている人が、あと何人か、います」
「うん」
「三月、四月にも、たぶん静かに、一人、二人、続きます」
「うん」
村瀬は、深く、頷いた。
その頷きの中に、二〇二一年の秋の九十七名という数の記憶が、村瀬自身の胸の内で、もう一度、動いている気配を、遠野は横から、感じた。
「ただ、村瀬さん」
「うん」
「桐谷くんのような若者が今日、残ってくれました」
遠野は、その一行を、静かに、置いた。
「うん」
「彼のような若者が、この会社の中で、残ってくれる限り、私はまだ、間に合うと、信じています。三年で間に合わなかったとしても、次の三年で、変える側に、立てる」
「うん」
「その線を、桐谷くんが今日、僕に渡してくれました」
その一行を、遠野は、村瀬の湯呑みの脇に、そっと、置いた。
村瀬は、しばらく、卓の上を、見ていた。
見てから、湯呑みを、ゆっくり、口元に、運んだ。
運んで、一口、静かに、飲んだ。
「うん」
村瀬は、そう置いた。
「桐谷くんに、期待しよう」
「はい」
「そして、私たちは、私たちの側で、来春の組織改編の議論を進めよう」
「はい」
遠野は、深く、頷いた。
「では、遠野さん、また」
「はい、村瀬さん、また」
扉が静かに閉まった。
遠野は廊下をゆっくり歩いた。
三階の中央から、南ウィングのCTO室へ。
廊下の窓の外、十二月の港川市の夜の街並みが街灯の光の中で静かに広がっていた。
……桐谷くん、半歩、踏み出している。
内心でつぶやいた。
残りの半歩は、これからの三年で。
芯のある予感が、胸の真ん中に灯っていた。
CTO室の前で立ち止まった。
扉を開けた。
部屋の中、机の上のMacBook Proの画面が薄く光っていた。
画面の中に、桐谷蒼太から、夕方に届いた、短いSlackの一行が残っていた。
「遠野さん、今日は、ありがとうございました」
短い一行を、しばらく見た。
「桐谷くん、こちらこそ」
遠野は胸の内で返した。
返信は、明日の朝に、書こうと思った。
……明日も、観察する。
心の中でつぶやいた。
CTO室の窓の外、十二月の港川市の夜の街並みが街灯の光の中で静かに広がっていた。
五十四歳の冬の夜。
遠野吉彦の半径3メートルの中は、芯のところで温かかった。
その温かさを、胸の奥でもう一度確かめた。
ヨキエルの土台は、これからも、半段ずつ、薄く続いていく。




