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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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断章Ⅸ「ある日の鈴木未來」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 四月一日。


 朝、七時半。


 寮の小さな部屋の窓の外、桜並木通りの方角に、満開の桜が広がっていた。


 ピンク色の連なりが、淡い春の朝の光の中でゆっくり揺れていた。


 ……今日から、新卒。


 心の中でつぶやいた。


 新しいスーツの袖をもう一度、直した。


 ベージュのジャケット、淡いシャツ、紺のスカート。先週、母と一緒に、地元の駅前のスーツ屋さんで、選んだもの。母は、レジで支払いをした後に、「未來、似合うよ」と短く笑ってくれた。


 ジャケットの袖口をもう一度整えた。


 胸の奥が、緊張していた。


 


 鏡の前に立った。


 二十二歳の春。


 ショートカットの髪をもう一度整えた。


 鏡の中の私は、緊張した顔をしていた。


 ……四年前の桐谷先輩も、たぶんこの顔。


 胸の奥でつぶやいた。


 一昨年の夏、インターンで初めて桐谷先輩に会った時、私は二十歳だった。桐谷先輩は二十四歳。三年目の夏で、もう芯のところで落ち着いた先輩、だった。


 その佇まいを、私は覚えていた。


 今日、私は桐谷先輩の四年前と同じ場所に、立っていた。


 


 鞄の中をもう一度、確認した。


 社員証の引き換え票、印鑑、書類のファイル、ペンケース、それから。


 いちばん大事なもの。


 新しいノート。


 A5サイズ、罫線入り、表紙は淡いグレー、装飾なし。


 ……桐谷先輩が十二月に、教えてくれた。


 内心で確かめた。


 一昨年の十二月、仕事納めの二日前。私は桐谷先輩に呼ばれて、ヨキエルの三階の小会議室で、三十分の対話を、もらった。


 あの三十分の最後の方で、桐谷先輩はこう言った。


「四月、新卒で入ってくる時もう一冊、新しいノートを買ってほしい」


 桐谷先輩は自分が四年前の春、駅前の文具店で、A5の罫線入りの淡いグレーのノートを買ったと教えてくれた。


 私は桐谷先輩の四年前のノートを、まだ見たことはなかった。


 しかし、私は自分のノートを、桐谷先輩のと同じ形にしたいと思った。


 三月の終わりの土曜日、私は地元の駅前の本屋さんの隣の文具店で、A5の罫線入りの淡いグレーのノートを、一冊、買った。


 ノートの表紙を撫でた。


 まだ、何も書かれていない、淡いグレーの表紙。


 ……初日から、ノートを開く。


 胸の内でつぶやいた。


 桐谷先輩が四年前に、そうしていたと、聞いた。


 私も桐谷先輩と、同じ姿勢から、始めたい。


 いや、最初は桐谷先輩の真似から、入ってもいい。


 最初の一段が、桐谷先輩の真似でも、その上に、私の輪郭が立ち上がってくるはずだから。


 


 寮を出た。


 桜並木通りをゆっくり歩いた。


 満開の桜の下、新人らしいスーツの背中が、ところどころに点在していた。


 みんな、同じ方角を歩いていた。


 ヨキエルの方角。


 私もその流れの中に、入った。


 駅前のロータリーを抜けて、桜並木通りに入った。


 桜の花びらが、淡い春の風にふわっと何枚か、肩の上に降りた。


 肩の上の花びらを、そっと払った。


 ……四年前の桐谷先輩も、同じ通りを、同じ気持ちで、歩いた。


 心の中でつぶやいた。


 桐谷先輩が新卒で入った日と、私の入社初日がふっと重なった。


 


 ヨキエルのビルの前に、辿り着いた。


 ロビーの自動ドアの前で立ち止まった。


 胸の奥が、ふるえた。


 ノートを、鞄の上から、軽く撫でた。


 ノートの薄い背が、芯のある形で、手の中に乗った。


 その感触で、息を整えた。


 ……観察、始める。


 胸の奥でつぶやいた。


 自動ドアに、踏み込んだ。


 ドアが開いた。


 


 ロビーの中で、新卒の同期と挨拶を交わした。


 今年の新卒は、三人。


 私と、男の子二人。


 二人とも、緊張した顔で、ぎこちなくスーツを着ていた。


 私たちは、自分から、お互いの名前を呼んで、握手をした。


 ……自分から、声をかける。


 内心でつぶやいた。


 去年の夏、桐谷先輩が私に教えてくれたこと。


「自分から、声をかける。半秒、迷っても、迷いの先で声を出す。半秒の遅れは、半年の遅れになる」


 桐谷先輩が夏のあの日、フロアの脇のコピー機の前で、笑いながら教えてくれた。


 その一行が、今日私の口の中で動いた。


 声をかけ終わって、自分の握った手のひらが、汗ばんでいた。


 しかし、汗ばんだ手のひらの先に、芯のある熱が残っていた。


 


 九時、研修室に通された。


 長机が、三つ並んでいた。


 新卒三人で横一列に座った。


 人事の沢田さんが、最初の挨拶をしてくれた。


「桐谷くんからよく話を聞いていた、未來さん」


 沢田さんは温かい目で、私を見た。


「桐谷くんは、君が一年で見せた成長をずっと楽しみにしていた」


 その一行を、胸の内で確かめた。


 ……桐谷先輩、ありがとうございます。


 心の中でつぶやいた。


 


 研修の最初の三十分、会社の歴史と、業態の説明を、聞いた。


 私は桐谷先輩のスタイルを、思い出した。


 桐谷先輩はいつも、聞いた言葉を、ノートに、几帳面な字で、書き写していた、と夏のインターンの時、白瀬さんが教えてくれた。


「桐谷くんは、最初の三ヶ月、私が言ったレビューのコメントを全部ノートに書き写してた。私の言葉が桐谷くんの言葉になるまで、何度も書いた」


 白瀬さんは笑った。


 ……私も桐谷先輩と、同じ姿勢から、入る。


 胸の奥でもう一度つぶやいた。


 ノートを、机の上に開いた。


 ペンを握った。


 最初の一行を書いた。


「観察を、始める」


 桐谷先輩の四年前の最初の一行と、ほとんど同じ一行。


 しかし、桐谷先輩は私が同じ一行を書くことを、許してくれていた。


 いや、許してくれた、というより、桐谷先輩はこう言っていた。


「未來さんの、未來さんの一行で書いてほしい。僕のコピーじゃ、なくて」


 ペンが止まった。


 ……私の一行?


 自問した。


 ペンの先が、ページの上で止まった。


 ノートの最初のページの真ん中に、淡い一行が、すでに置かれていた。


 その下にもう一行書いた。


「桐谷先輩からたくさん、受け取った。これから、ここで少しずつ整えていく」


 二行目を眺めた。


 桐谷先輩の真似ではなかった。


 私の、私の一行だった。


 少し、嬉しかった。


 


 研修の途中の休憩、廊下に出た。


 廊下の窓の外、桜並木通りの方角に、満開の桜が広がっていた。


 窓の前で立ち止まった。


 ……桐谷先輩、五年目。


 内心でつぶやいた。


 桐谷先輩はたぶん、いま、チームAの島で、香織さんと、森山さんと、白瀬さんと、いつもの朝の調子で、仕事を回している。


 午後、新卒のフロア紹介の時間に、私たちは、桐谷先輩の島に、お邪魔する。


 そこで、桐谷先輩と、再会する。


 胸の奥が、ふるえた。


 しかし、嬉しいふるえ、だった。


 


 研修の午後、フロア紹介。


 人事の沢田さんに連れられて、私たち新卒三人は、ビルの中を、順番に回った。


 受託開発部のチームA、チームB。


 組込み開発部。


 自社サービス事業チーム。


 パッケージ事業チーム。


 管理部。


 それぞれの島の前で、沢田さんが丁寧に紹介してくれた。


 チームAの島の前で、桐谷先輩が椅子から立ち上がった。


 ベージュのジャケットの背中が、こちらに回った。


「未來さん、おかえり」


 桐谷先輩はいつもの調子で短く頷いた。


「桐谷さん、よろしくお願いします!」


 私は深く頭を下げた。


 お辞儀の角度が、深すぎたかもしれない、とすぐに思った。


 しかし、桐谷先輩は小さく笑った。


「四月一日の佇まい、いいね」


 桐谷先輩はいつもの調子で短く返した。


 白瀬さんも、香織さんも、森山さんも、それぞれの島から、目を上げて、こちらに頭を下げた。


「未來さん、久しぶり」


「鈴木さん、おかえり」


「未來さん、よろしくお願いします」


 三つの一行が、こちらに運ばれた。


 それぞれの言葉を、ノートの中にそっとしまった。


 


 フロア紹介の後、沢田さんが研修の日程を説明してくれた。研修は三週間。配属の発表は、研修の最後の金曜日。


 私の希望は、チームA、桐谷先輩の隣の島。


 桐谷先輩は五年目で、希望が通れば、OJTの担当にもう一度、なってくれるらしい。


 香織さんは三年目になっていた。


 森山さんは、四年目になっていた。


 チームAの島の若手の中で、桐谷先輩はいちばん上の先輩、になっていた。


 しかし、いちばん上、というより、いちばん「芯のある人」、という佇まいだった。


 ……桐谷先輩、いちばん「芯のある人」。


 胸の内でつぶやいた。


 その輪郭を、ノートに書き写した。


 


 夕方、十七時。


 初日の研修が、終わった。


 ロビーで、桐谷先輩が少しだけ、立ち話をしてくれた。


「未來さん、初日お疲れさま」


「桐谷さん、ありがとうございました」


 深く頭を下げた。


「明日からも、たくさん観察してね」


「はい」


「半径3メートルから」


「はい、半径3メートルから」


 短く返した。


 桐谷先輩は薄く笑みを浮かべた。


「未來さん、いい顔してる」


 その一行を、心の中で確かめた。


 桐谷先輩はいつもの調子で、ロビーの自動ドアのほうを見た。


「桜並木通り、満開だね」


「はい、きれいです」


「うん、きれい」


 短く、二人で笑った。


 桐谷先輩は自動ドアのほうにゆっくり歩いていった。


 その背中を、見送った。


 ……桐谷先輩のような人に、なりたい。


 胸の奥でつぶやいた。


 しかし、すぐにもう一度、思い直した。


 ……いえ。


 内心で止まった。


 桐谷先輩のようになるんじゃなくて、私のスタイルで、観察する。


 桐谷先輩が香織さんに、夏に、言っていたこと。


「香織さんも、いつか、自分のスタイルを持てる。必ず」


 その一行を、私は廊下で、立ち聞きしていた。


 桐谷先輩は自分のスタイルが、必ずそれぞれの人の中で、立ち上がる、と信じていた。


 私のスタイルも、必ず私の中で、立ち上がる。


 桐谷先輩の真似から入っても、その上に、私の輪郭が重なる。


 


 寮までの帰り道、桜並木通りをゆっくり歩いた。


 満開の桜の下、夕方の風が、頬を撫でた。


 寮の小さな部屋に、戻った。


 机の前に、座った。


 今日、買ったばかりのノートをもう一度、開いた。


 今日の日付の下、最初の一行をもう一度見た。


「観察を、始める」


 その一行の下に、もう一行書いた。


「私のスタイルで、観察する」


 二行目を眺めた。


 桐谷先輩のコピーじゃない、私の、私の二行目。


 


 三年で、土台を作る。


 最初の三年は、私の場所を作るための、時間。


 ……三年後、私はどこにいるんだろう。


 胸の内でつぶやいた。


 答えは、まだ分からなかった。


 チームAの島に、まだいるのかもしれない。


 別の島に、いるのかもしれない。


 ヨキエルの中の、誰かの後輩を、見ているのかもしれない。


 誰かを、見守る側に、なっているのかもしれない。


 答えは、分からない。


 しかし。


 ……三年後の私が今の私を、誇れるように。


 心の中でつぶやいた。


 その一行を、ノートに書いた。


「3年後の私が今の私を誇れるように」


 三行目を眺めた。


 少し、嬉しかった。


 


 桐谷先輩はたぶん、いま、自分の五年目の最初の日を整えている。


 私は私の一年目の最初の日を整えていた。


 二人の輪郭が、同じ方角に重なっていた。


 しかし、別の方角でも、立っていた。


 桐谷先輩は後輩の土台を貸す側。


 私は土台を、整える側。


 それぞれの三年が、これから、それぞれの輪郭で立ち上がる。


 


 ノートを、一度閉じた。


 もう一度、開いた。


 最初のページの三つの一行をもう一度、目で追った。


「観察を、始める」

「桐谷先輩からたくさん、受け取った。これから、ここで少しずつ整えていく」

「私のスタイルで、観察する」


 その下にもう一行書いた。


「3年後の私が今の私を誇れるように」


 四つの一行を眺めた。


 私の一年目の、最初の四行。


 窓の外、夕方の桜並木通りの方角に、満開の桜が揺れていた。


 


 ……観察。一番大切な言葉。


 胸の奥でつぶやいた。


 桐谷先輩が十二月の会議室で、私に教えてくれた、六つの言葉の中の、いちばん芯の一行。


 その一行をもう一度、声に出さずに確かめた。


 ……私の三年が、始まる。


 内心でもう一度、つぶやいた。


 桐谷先輩のコピーじゃない、私の三年。


 しかし、桐谷先輩から受け取ったものを、芯のところに、抱えた、私の三年。


 嬉しかった。


 緊張していた。


 しかし、緊張の中に、芯のある熱が灯っていた。


 その熱を、胸の内でもう一度確かめた。


 鈴木未來、二十二歳、四月の朝。


 ノートを、机の上に置いた。


 最初のページを開いたまま、夕方の桜並木通りの方角をもう一度見た。


 明日も、観察する。


 明日も、ノートを開く。


 明後日も、ノートを開く。


 三年後の私が今の私を、誇れるように。


 その予感が、机の上に、芯のあるところで、灯っていた。


 


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