エピローグ「四年目の春の予感」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
三月最終週、土曜日の午後。
四年目の春の前の、最後の休日。
先週、社内大会議室で研修員論文発表会が終わった。三年間の観察ノートを三十分にまとめて、社内で発表した。同期の四人もそれぞれが、自分の三年を社内に置いた。夜は、会社が貸し切ってくれた座敷の慰労会で、最後は皆、すっかり出来上がった。ソウルにいるアユシュくんにも、皆で乾杯した。今日の午後は、その熱からふっと一段、間を置いた時間だった。
寮の小さな窓の外、桜並木通りの方角は、淡い春の陽の中でゆっくり溶けはじめていた。冬の白い層は、もうどこにも残っていなかった。桜の木の枝の先には、ふくらみはじめた蕾がほのかに灯っていた。
ダウンジャケットの代わりに、軽い春のジャケットを着て、玄関を出た。
風は、冬の角をふっと、削っていた。
……四月一日まで、一週間。
心の中で撫でた。
城跡公園の方角にゆっくり歩いた。
寮から徒歩、二十五分。
桜並木通りの脇道を抜けて、駅前の文具店の前を、横切った。
三年前、特急を降りた直後、駅前のこの文具店で、A5の罫線入りのノートを、一冊、買った。
今日ももう一度、新しいノートを買いに来た。
しかし、店に入る前に、城跡公園に登ろうと胸の奥で決めた。
……ノートを買うのは、戻りの時に。
内心で短く、順番を整えた。
文具店の前を、通り過ぎた。
城跡公園の高台にゆっくり登った。
階段、八十段ほど。
一段ずつ、足の裏で踏んだ。
一年目の六月、初めてここに登った。
一年目の終わりの三月、ここに登った。
二年目の終わりの三月、ここに登った。
三年目の終わりの今日もう一度、ここに登る。
……これで、四回目。
胸の内で軽く撫でた。
高台の上に、辿り着いた。
展望台の柵の前に立った。
港川市の街並みが淡い春の陽の中でゆっくり広がっていた。
四方の山々が、ぐるりと街を取り囲んでいた。盆地の中央を、銀色のリボンのように、港川が静かに流れていた。
桜並木通りの方角、まだ咲いていない蕾の連なりが、淡い桃色の予感をそっと立ち上げていた。
……あと一週間で満開。
心の中で撫でた。
四年目の春の蕾は、三年前の春の蕾と半段、同じ高さに立っていた。
しかし、半段違う高さでも、立っていた。
三年前の蕾は、僕の方角を、まだ知らなかった。
今日の蕾は、僕の三年の重みを、知っていた。
……いや、知っているのは、蕾じゃなくて、僕。
胸の奥で軽く笑った。
蕾はいつも、蕾。
変わったのは、僕の側。
展望台の柵の前のベンチに、座った。
鞄から、三冊のノートを引き出した。
一冊目は、三年前、駅前の文具店で買った、A5の罫線入りの淡いグレーのノート。
三冊目は、もう、最後のページに近かった。
一冊目の、最初のページからゆっくりめくった。
三年前に書いた、最初の一行。
「明日から、観察を始める」
短い一行が、最初のページの真ん中に置かれていた。
その次のページから、毎日の一行が連なっていた。
白瀬さんのレビュー、諏訪マネージャーの1on1、葉山さんの「ぴくっと」、黒木の寡黙、アユシュくんの英語、丸山くんの天気、杉本さんの観察、遠野CTOの夜の対話、村瀬社長の対話。
三冊のノートの上に、三年分の観察が積み重なっていた。
三冊目の、最後のページの半分が、まだ空白だった。
三冊目のノートの、最後の数ページに、最近の一行をもう一度なぞった。
「香織さん、僕のスタイル、と呼んでくれた」
「森山くん、来年OJT担当。君のスタイルでと返した」
「未來さんに三十分で三年分を、渡した」
「観察、が、継承、になっている」
「渡せた。三年分を、三十分で。けれど、これは、始まりだ」
五つの一行が、ノートの上に並んでいた。
その並びを、指で軽くなぞった。
……三年で、土台を作った。
最初の一行を、声に出さずなぞった。
「3年で土台」、と遠野CTOが、最終面接で置いてくれた一行。
その一行が、いま、僕のノートの中で確かに完成形になっていた。
現在形の「土台を、作る」が、過去形の「土台を、作った」に、変わっていた。
三冊目のノートの、最後の数ページの、更にその手前のページを、僕はもう一度、めくり戻した。
この四ヶ月と半、社内Slackの人事チャンネルに流れた、退職と異動の一行たちを、僕はページの隅に、日付だけを、静かに、数えて置いてきた。
八月末、アユシュくん。九月末、四人。十月末、二人。十一月、一人。十二月、二人。一月、二人。二月、二人と、一人。三月にも、たぶん、あと何人か、静かに流れる予感がある。
数えた指の分だけの一行が、ページの隅に、細く、灯っていた。
……こんなに、多かったんだ。
胸の内で、僕は、そっと、置いた。
置いてから、数の中身までは、僕は、なぞらなかった。中身の輪郭は、四ヶ月と半、僕には、届かないままだった。届かないまま、数だけが、僕のノートの隅に、静かに、積もった。
同じページの反対側の隅には、この四ヶ月と半、僕の耳に入ってきた噂の断片が、二つ、三つ、書かれていた。
四月一日から、組織図が、少し変わるらしい。
その一行だった。詳しくは、まだ、公示されていない。組込みの島と、新設事業開発部の島の輪郭が、四月から、静かに、置き直されるらしい、という気配だけが、寮の廊下と、フロアの給湯室と、澪のカウンターの隣の席の、それぞれの隅で、僕の耳の端に、灯っていた。
僕は、その一行の下に、何も書き足さなかった。書き足せる中身を、僕は、まだ、持っていなかった。
……諏訪さんが引き受けた三つのお願いを、僕はまだ、知らない。
三年目の秋の、あの朝の一行を、僕はもう一度、胸の内でなぞった。
……ただ、新設は、たぶん、思っているより、大きな装置。
その一行だけは、今夜のノートの上に、輪郭のある形として、置いた。
輪郭の中身までは、たぶん、四月一日の公示のあとで、少しずつ、僕の側にも、見えてくる。それまでは、輪郭のまま、置いておいていい。それが、三年目の三月末の、僕の側の、正しい距離の取り方だった。
しかし、土台が、できた、ということは。
「これから、何を建てるか、楽しみだ」
短い一行を、ノートに書いた。
ペンの先が、ページの上で止まった。
……何を、建てる?
心の中で、自問した。
三年で、土台ができた。
次の三年で、土台の上に、何を建てる?
短く考えた。
答えは、まだ輪郭が、ぼんやりしていた。
ペンを軽く、止めた。
ノートの新しいページを、めくった。
空白のページの真ん中に、ペンで薄く、三段の階段の図を描いた。
一段目、二段目、三段目。
ノートの罫線をまたいで、三つの段が立ち上がった。
一段目の脇に書いた。
「最初の3年:自分の土台」
二段目の脇に書いた。
「次の3年:後輩のための土台」
三段目の脇に書いた。
「その先:チームのための土台」
三段の図を軽く眺めた。
……いや、この図、絵が下手だな。
内心で軽く笑った。
一段目と二段目の幅が、揃っていなかった。三段目の天井に至っては、罫線から半段はみ出していた。三年経っても、図解の腕は、半段も上がっていなかった。
しかし、図の熱は、芯のところで、立っていた。
絵の下手さは、図の熱の芯を、削っていなかった。
一段目は、もう立っていた。
今日までの三年で、自分の場所の土台を、芯のあるところまで、整えた。
二段目は、これから。
香織さん、森山くん、未來さん。それから四月以降に入ってくる新人たち。彼らの土台のために、僕の一段を、これからの三年で貸す。
三段目は、その先。
まだ、輪郭が、ぼんやりしていた。
……もう一段上の責任。
胸の内でつぶやいた。
リーダーシップの形が、どんなものになるのかは、まだ見えない。
しかし、観察し続ければいつか、輪郭が見えてくる。
半年で半段。
一年で、もう半段。
三年で、芯のところまで立ち上がる。
いまの僕が三年前の僕の土台の輪郭を、芯のところで持っているのと、同じ手応えで。
三年前、この街に来たあの日。
特急を降りた直後、僕は自分の三年の輪郭が、まだ何も見えていなかった。
今日の僕は自分の次の三年の輪郭が、まだぼんやりしていた。
しかし、三年前の僕と、今日の僕の間には、芯のある違いがあった。
……三年前の僕は、輪郭が見えないことに不安だった。
今日の僕は輪郭が見えないことに、不安では、なかった。
観察し続ければいつか、輪郭が見えてくる、ということを、三年で、芯のところまで、知っていた。
ぼんやりしている、ことが、出発点であって、終着点ではない。
ぼんやりしているからこそ、観察を、続ける。
観察を続ければ、ぼんやりが少しずつ、輪郭になる。
……これが、三年で、芯のところに残ったもの。
心の中で確かめた。
ノートの階段の図の脇にもう一行書いた。
「もう一段上の責任。リーダーシップの形。まだ、輪郭はぼんやりしている」
次の一行。
「けれど、観察し続ければいつか、輪郭が見えてくる」
ペンを短く、止めた。
空の方角を見上げた。
淡い春の青空。
雲の輪郭がゆるやかに流れていた。
来年、また新人が、ヨキエルに来る。
そしていつか、その先の新人の中に、鈴木未來さんがいてくれたら、と思う。これからの採用試験を、未來さんが越えてくれたら。
香織さんも、森山くんも、それぞれの島でそれぞれの三年を、続ける。
葉山さんは、ヨキエルのパッケージで、数字の世界をもう一段。
黒木は、組込みチームのリーダーとして、もう一歩。
アユシュくんは、ソウルで、彼自身のキャリア。
丸山くんは、物流ドメインの専門家として、長く。
杉本さんは、テストと品質の専門家として、本格的な入り口。
同期六人の輪郭が、それぞれ、別の方角に立ち上がりはじめていた。
六人で、半径3メートルの中で重なっていた一年目の春から、ちょうど三年。
六人それぞれの半径3メートルが、いま、別の方角に広がりつつあった。
半径3メートルの中身は、変わった。
しかし、半径3メートルの外側で、六人が繋がっていることは、変わらなかった。
たまに、社内Slackで。
たまに、LINEで。
たまに、ソウルや、港川で、半年に一回、顔を合わせて。
……繋がっている。
胸の奥でつぶやいた。
展望台のベンチから、立ち上がった。
深く、呼吸した。
春の風がふっと、頬を撫でた。
四年目の蒼太。
四年目の春の前の、土曜日の午後。
「観察を、始めよう」
胸の奥で、その一行をもう一度なぞった。
三年前、初めてノートに書いた最初の一行と、同じ重さの一行。
しかし、少し違う重さの一行でも、あった。
三年前の「明日から、観察を始める」は、白紙の方角への、輪郭のない一行だった。
今日の「観察を始めよう」は、三年で芯のところまで整えた土台の上にもう一度、静かに置く一行だった。
……楽しみだ。
内心でつぶやいた。
「次の3年が」
短く続けた。
「楽しみだ。次の3年が」
もう一度、内心で、続けてつぶやいた。
四年目の蒼太の、最初の宣言だった。
城跡公園をゆっくり降りた。
階段、八十段。
一段ずつ、足の裏で踏んだ。
一年目の六月、初めてこの階段を登った日から、まもなく三年になる。
今日の僕は軽い足取りで、降りていた。
……足が、軽い。
胸の内でつぶやいた。
次の三年の輪郭が、まだぼんやりしていることに、不安は、なかった。
観察し続ければいつか、輪郭が見えてくる。
その芯のある予感が、足の裏に確かに乗っていた。
階段を降り終えた。
桜並木通りの方角をもう一度、見上げた。
蕾の連なりがふっと、ふくらんでいた。
あと一週間で満開。
その満開の朝、新人たちが桜並木通りを歩いてくる。
そしていつか、その先の新人たちの中に、未來さんが来てくれたら。
桜並木通りの脇道をゆっくり歩いた。
駅前の文具店の前でふっと立ち止まった。
……新しいノートを、買いに。
心の中でつぶやいた。
扉を押した。
ベルがちりんと鳴った。
店の中は、三年前と、ほぼ、同じ空気だった。
壁一面の文房具の棚。レジの脇の小さなカウンター。レジの奥に、店主のおばあさんがいつもの椅子にゆっくり座っていた。
「いらっしゃい」
店主のおばあさんは短く、目を上げた。
「こんにちは」
短く、頭を下げた。
「ノートを一冊、お願いします」
「うん、どの棚?」
「A5、罫線入り、表紙はグレー、装飾なし」
その四つを声に出した。
「うん、こっちの棚のいちばん下の段」
店主のおばあさんは、椅子から立ち上がって、棚の前まで、歩いてくれた。
A5の罫線入りの、淡いグレーのノートが、棚の下段に積まれていた。
三年前の春に買ったものと、同じ表紙、同じ罫線。
一冊、手に取った。
「これ、お願いします」
「うん、四百八十円」
レジの脇で、お金を渡した。
店主のおばあさんはふっと、こちらの顔を、見た。
「あんた、三年前にも、ここでノート買ってくれたよね」
その一行が、こちらに運ばれた。
ふっと止まった。
「はい」
短く頷いた。
「ベージュのジャケット、淡いシャツ。三年前の春は、もう少し緊張した顔してた」
店主のおばあさんは、穏やかに笑った。
「今日は、いい顔、してる。気持ちの整った顔」
「ありがとうございます」
短く返した。
店主のおばあさんは、ノートを、白い紙袋に入れて、こちらに渡してくれた。
「次の三年も、頑張りな」
「はい、ありがとうございます」
深く、頭を下げた。
扉を押した。
ベルがもう一度、ちりんと鳴った。
寮への帰り道。
桜並木通りの脇道をゆっくり歩いた。
紙袋の中の、新しいノートの軽い重みが、手の中に、芯のある形で乗っていた。
寮の小さな机の前に、座った。
紙袋から、新しいノートを引き出した。
表紙の淡いグレー。罫線入り。装飾なし。
三年前の春に買ったものと、同じ表紙、同じ罫線。
しかし、ノートの中身は、まだ空白。
最初のページを開いた。
ペンを握った。
ふっと止まった。
最初の一行を書いた。
「4年目、観察を、始める」
その一行を短く眺めた。
……三年前と、ほぼ同じ重さの一行。
胸の奥で確かめた。
しかしもう一行、書く。
ペンをもう一度、握った。
二行目を書いた。
「次の3年で、後輩の土台になる」
その二行目を短く眺めた。
……三年前には、書けなかった一行。
内心で確かめた。
三年前の僕は自分の土台を、整える側だった。
今日の僕は後輩の土台の、一段を貸す側に、なっていた。
二行目が、四年目の僕の、新しい輪郭だった。
ただ、と思った。発表会の日に見た、育てる側の当たりと外れ。あの外れの側に、自分が立たない保証は、どこにもなかった。三年で受け取ったものを、ちゃんと渡せるかは、これから毎日、試される。
その不安は、たぶん消えない。消えないまま、僕はそれを足場の隣に置いて、次の三年を歩く。
ペンを置いた。
窓の外、桜並木通りの方角、淡い夕焼けがゆっくり降りていた。
蕾の連なりの上に、淡い桃色の予感がふっと、立ち上がっていた。
……あと一週間で満開。
胸の内でつぶやいた。
その満開の朝、新人たちが桜並木通りを歩いてくる。
そしていつか、その先の新人たちの中に、未來さんが来てくれたら。
四月一日の朝、また、ここから、新しい春が、始まる。
ノートの最初のページをもう一度、開いた。
二行の一行が、淡い罫線の上に置かれていた。
「4年目、観察を、始める」
「次の3年で、後輩の土台になる」
その二行を、目でなぞった。
心の中でもう一度短く宣言した。
「楽しみだ。次の3年が」
ペンを、机の上にそっと置いた。
窓の外、淡い夕焼けが、桜並木通りの方角にゆっくり降りていた。
桐谷蒼太、二十五歳、研修員としての最後の土曜日。
半径3メートルの中に灯った四年目の春の予感が、机の上で、芯のあるところで、温かかった。




