第94話「三年、やり切った夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
研修員論文発表会の、すべてのプログラムが終わった。
壇上の灯りが一段落とされ、長机が後ろから順に片付けられていく。会場の空気が、行事の張りつめから、ふっと日常の側へ戻っていくのが分かった。三年前の入社初日、研修室のいちばん後ろの席で、沢田さんが「三年目の三月には、研修員論文発表会があります」と置いた、あの遠い三月が、今日、ひとつの一日として、静かに閉じた。
発表を終えた体は、芯のところにまだ熱を残していて、指先だけが少し冷たかった。話し切った、という疲れと、出し切った、という充足が、半分ずつ、胸の中で静かに混ざっていた。
十七時四十分。会場の外、廊下に出た。
葉山さん、黒木、丸山くん、杉本さんが自然とこちらの方角に集まってきた。
「桐谷くん」
葉山さんが低く口を開いた。
「うん」
「最後の一行、よかった」
「『観察、が、継承、になっている』」
「あの一行で、私の三年も、輪郭が立った」
葉山さんは穏やかに目元をゆるめた。
「葉山さんの三年も、僕の三年の中に静かに流れていた」
短く返した。
「黒木」
「うん」
黒木は低くひとつ頷いた。
「林さんから半段ずつ譲り受ける、いい言葉だった」
「うん」
黒木はもうひとつ低く頷いた。
「桐谷さん、俺、ヨキエル残りますから。物流の現場の横棒、太くしてくっす」
丸山くんが温かく頷いた。
「丸山くん、頼もしい」
「私も、品質の場所、半段ずつ立てていきます」
杉本さんが丁寧に頭を下げた。
「杉本さん、楽しみ」
短く返した。
……五人の三年が、五つの方角に広がりはじめている。
胸の奥でつぶやいた。
廊下の窓の外、三月の港川市の方角は淡い夕方の光の中で静かに広がっていた。
桜並木通りの方角に、まだ咲いていない蕾の連なりが点々と立ち上がっていた。
……あと一週間。
内心で軽く撫でた。
来週の土曜日、城跡公園に登る。
三年前と同じ道、しかし少し、登り方が変わっている気がした。
その先に、新人たちの四月一日が静かに待っている。
そしていつか、その先の新人の中に、未來さんがいてくれたら。
……四年目の春。
胸の内でその五文字を、芯のところに静かに置いた。
十八時半。発表慰労会。
会場は、会社が手配してくれた、駅前のちょっといい居酒屋の二階だった。普段、同期で行く「かいかん」や「澪」より、半段いい店。高すぎて緊張するほどではなく、いつもよりは特別な、ちょうどいい店だった。
二階の宴会場を、まるごと貸し切りにしてあった。あとで沢田さんが教えてくれた。会場の選定は、CISOの確認を通したらしい。研修員の三年分の話が、社内の情報をいくつも含む。知らない誰かの耳に漏れない場所を、きちんと選んである。会社の行事だから、費用も会社持ちだった。
座敷だった。靴を脱いで、低い座卓がいくつか並んでいた。椅子のテーブルではなく、座敷。あとで分かったけれど、座敷は、席を移りやすかった。
新卒五人、メンターの白瀬さんたち、各チームのマネージャー、各部の部長。そして、いちばん奥に、村瀬社長と遠野CTO、CFOの滝口さんが座っていた。
……社長と、同じ座敷。
心の中でつぶやいた。普段、社長と同じ部屋でご飯を食べる機会など、研修員には、まずない。
全員のグラスが行き渡ったところで、遠野CTOがゆっくり立ち上がった。
「乾杯の前に、一言だけ」
遠野さんは穏やかに低く運んだ。
「この発表会は、五年前に私が始めました。今日が三回目です」
「『三年で土台を作る』と、私はずっと言ってきました。今日、五人がその土台を見せてくれました」
遠野さんは、新卒五人の顔をゆっくり順番に見た。
「磨いてくれた先輩たち、課長、部長にもお礼を言いたい。育てるのは、教わる側だけの仕事ではない。今日の五人の三十分の奥には、付き添った人たちの時間が確かに入っています」
その一行のところで、白瀬さんが、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ここからが、本番です。では、乾杯」
「乾杯」
座敷の中で、声が一斉に重なった。
最初の三十分は、主役は新卒だった。
村瀬社長が、まず五人を順番に労ってくれた。葉山さんの数字の視座、黒木の継承の連鎖、丸山くんの現場の横棒、杉本さんのまだない場所、僕の観察。一人ずつ、ちゃんと名前を呼んで。
「桐谷くんの『観察、が、継承、になっている』。あれは、私が四十四年待った答えの一つです」
社長は、低く穏やかに置いた。
それから、社長は、白瀬さんたち指導役のほうにも、グラスを向けた。
「育て切るのは、育てる側も育つということです。今日、いちばん成長したのは、案外先輩たちかもしれない」
白瀬さんが、低くひとつ頷いた。その頷きの奥に、別の感慨があった。あとで富岡さんが廊下で教えてくれた。諏訪さんが異動の前に、僕の論文指導を白瀬さんに託していったこと。指導をやり切ることが、白瀬さんの、次の段への実績になること。白瀬さんは、僕の三年を磨きながら、自分の視座を、静かに動かしていた。
座敷の真ん中あたりで、村瀬社長が、ふと僕の隣に座を移してきた。
「桐谷くん、隣、いいかな」
「はい」
社長と、座卓を挟まず、横に並んだ。
「君のノートの第一行、『明日から、観察を始める』。あれを書いた朝の港川は、どうだった?」
「……桜の蕾が、半分だけ膨らんでいました」
「そうか」
社長は、ふっと笑った。
「私が二十三歳でこの会社に入った朝も、たぶん同じ蕾を見た。四十四年前の、同じ通りの、同じ蕾だ」
……四十四年前の、同じ蕾。
胸の奥でつぶやいた。
社長の視座は、いちばん高いところにあって、いちばん長く会社を見ていた。僕の視点は、現場の、三年分しかない。普段は交わらない、遠い二つの場所だった。けれど座敷の上で、四十四年前の蕾と、三年前の蕾が、一瞬だけ重なった。
「では、聞こう。明日からの、四年目の第一行は」
社長は、穏やかに問うた。
「……『次の3年で、後輩の土台になる』」
迷わずに、その一行が出た。
社長は、深く頷いた。
「私と、同じ歩幅だ。嬉しいね」
それから、社長は、少しだけ声の調子を変えた。
「現場から見て、いま、この会社に足りないものは何だと思う」
社長は、穏やかに問うた。
僕は、少し考えてから、丸山くんと黒木の顔を、ふと思い浮かべた。
「……育てる人を、育てる仕組みが、まだ足りないように思います」
社長は、目を細めた。それから、深く頷いた。
「うん。私にも、それは見えている。君の現場からも見えたなら、たぶん本当だ」
遠い視座と、現場の視点が、同じものを一瞬、別の角度から照らした。社長は、それ以上は言わなかった。ただ、グラスを軽く合わせて、また奥の席に戻っていった。
入れ替わるように、遠野CTOが、グラスを片手に僕の近くに腰を下ろした。
「桐谷くん。半径3メートル、両輪、観察。三年前に私が置いた三つの言葉が、今日は、君の言葉になっていた」
「ありがとうございます」
「あれが、私がこの三年で、君に渡したかったことです」
遠野さんは、穏やかに言った。それから、グラスを少しだけ傾けた。
「次の三年、君は半径3メートルをどうしたい」
「……半径3メートルの中に、後輩の半径3メートルをもう一段重ねます。香織さん、森山くん、未來さん。それぞれの半径を、僕の半径の中で半段ずつ灯します」
「いい答えだ。次の三年も、楽しみだ」
遠野さんは口の端でふっと笑って、グラスを軽く合わせた。
遠野さんが奥に戻ったあと、今度は富岡さんが、ビールの瓶を持ってやってきた。
「桐谷くん、今日の三十分、部の代表として立派だった!」
富岡さんの声は、いつもより少し大きかった。グラスに注いでもらいながら、僕は、ずっと言いたかったことを、ちゃんと口にした。
「富岡さん、引き継ぎから間もないのに、あれだけ指導していただいて本当にありがとうございました」
「いや」
富岡さんは、少し照れた。
「私は途中から乗せてもらっただけだ。諏訪さんが敷いて、白瀬さんが磨いた線路に。……でも、君の三年を追いかけた二か月は私のマネージャー人生でも、いちばい濃い二か月だった」
「いちばい?」
「いちばん、だ。もう回ってるな、私は」
二人で笑った。発表会の講評で胸に置かれた「この人で、よかった」が、グラス越しに、もう一度温かく確かめられた。四月からも、この人が、チームAの課長だ。それが、素直に、心強かった。
乾杯が二巡したころ、誰がというでもなく、新卒が一人ずつ、一言を置く流れになった。
葉山さんが、最初に立った。
「私はここに残ります。三年、ありがとうございました。ヨキエルの数字が私の横棒の根っこです。四年目も、もう少しここで」
黒木が、短く。けれど、いつもより顔が赤かった。
「林さんから、半段ずつ。これからも、半段ずつ」
「黒木さん、二文字が三文字になってるっす」
丸山くんが、すかさず突っ込んだ。座敷がどっと笑った。
「丸山、うるさい」
黒木が、三文字で返した。また笑いが起きた。
丸山くんが、立った。
「俺、ヨキエル残ります。物流の現場、いちばん分かるエンジニアになるっす」
杉本さんは、いつもより少しだけ饒舌だった。
「品質を、ヨキエルの文化に。私が立ち上げます。今日の発表で、そう決めました」
杉本さんはそこで、少し間を置いて、静かに、続けた。
「私、三年、真鍋さんに拾ってもらったから、今の私があります。あの人がいたから、私は、この道の芯を立てることができました」
その一行を、杉本さんは、卓の上に、そっと、置いた。
真鍋さんは、この座敷にはいなかった。ただ、杉本さんが真鍋さんの名前を、この座敷で口にしたことで、真鍋さんの静かな指導が、今夜の五人の卓の温度の、いちばん奥に、静かに、灯った。
最後に、僕が立った。
「皆、ありがとう」
短く言ってから、僕は、いない一人のことを、口にした。
「今日、ここにアユシュくんがいたら、きっと誰よりおもしろい発表をしたと思います」
座敷が、一瞬、静かになった。
「アユシュくんは、いまソウルにいます。本物の研究の論文を、たぶんいま頃書いています」
「だから……アユシュくんにも、乾杯」
誰かが、すぐにグラスを上げた。葉山さんだった。
「アユシュくんに、乾杯」
「乾杯」
いないアユシュくんの名前が、座敷の真ん中で、いちばん温かく立ち上がった。
座敷のいちばん端のほうに、江口マネージャーと大沢マネージャーが、少し離れて座っていた。
二人とも、おとなしかった。盛り上がる座敷の中で、目立たないように、小さくグラスを傾けていた。
富岡さんや白瀬さんや諏訪さんの周りには、入れ替わりで誰かが座りに行く。座敷は、席を移りやすい。だから、距離がそのまま、見えてしまう。二人の周りにだけ、畳が半畳ぶん、空いていた。
江口さんは、丸山くんの発表の、あの会場の空気を、たぶん感じていた。大沢さんは、黒木の発表で、自分の名前が「波を読む対象」としてしか出なかったことを、たぶん分かっていた。
育てなかった課長は、こういう夜に、いちばん居心地が悪い。同じ課長という肩書で、この距離。論文の二月が作ったものと、作らなかったものの差だった。
僕は、それを一瞬、目の端で見た。でも、すぐに、丸山くんの陽気な「っす」に引き戻された。今日は、そういう夜ではなかった。今日は、五人の夜だった。
諏訪さんが、少しだけ、席を立って、廊下の方角に、電話に出るために出て行った。
富岡さんが、諏訪さんの背中を目で見送ってから、僕の隣に、ふと、座った。
「桐谷くん、諏訪さん、最近新設で忙しそうだね」
富岡さんは、いつもの穏やかな声で、そう置いた。
「はい」
「私も諏訪さんとは、月に一度、業務の引き継ぎで短く会う」
「はい」
「会うたびに、諏訪さんの持ち場が少しずつ増えているのが見える。新設は、たぶん、これからも少しずつ、大きくなる」
「はい」
富岡さんは、それ以上、詳しくは、続けなかった。ただ、「少しずつ、大きくなる」の一行の中に、たぶん、僕には見えていない何かの輪郭が、静かに、灯っていた。
富岡さんの一行を、僕は、今日の座敷の温度の中に、そっと、しまった。
二十一時を過ぎるころには、新卒五人は、すっかり出来上がっていた。
「だから! 佐々木さんの軽トラはっすね! 港川でいちばん、いい匂いがするんすよ!」
「丸山、それ、今日三回目」
「三回目でも、いい話っす!」
「あと、あの属人化の質問! 悔しかったっす! 明日から、全部ドキュメントに書き残すっす!」
「丸山くん、それ、いい悔しさ」
葉山さんが笑った。ムチが、もう次の一歩に変わっていた。
黒木は、顔を真っ赤にして、三文字どころか、文章で喋っていた。座卓の向こうでは、杉本さんが、声を上げて笑っていた。あの控えめな杉本さんが、肩を揺らして、止まらずに笑っていた。
「桐谷くんの発表のときね、私、ちょっと泣きそうだったの!」
葉山さんが、僕の肩を軽く叩いた。三年をやり切った夜の温度に、目の縁が少しだけ潤んでいた。
「葉山さん、酔ってる」
「酔ってない! ……うん、酔ってる」
座敷のあちこちで、笑い声が重なった。白瀬さんが、めずらしく頬をゆるめて、林さんと何か笑い合っていた。沢田さんは、若手の輪の真ん中で、三年前の研修室の話を陽気に蒸し返していた。普段は静かな人たちの顔が、座敷の灯りの下で、みんな一段、明るかった。
僕も、たぶん、いつもの心のツッコミが、すっかりゆるんでいた。
やり切った。
三年、やり切った夜だった。
お開きが近いころ、諏訪さんが、すっと僕の隣に座った。
「桐谷くん」
「はい」
「私からは、一行だけ」
諏訪さんは、グラスを置いて、まっすぐこちらを見た。
「君の三年で、私も育ちました。ありがとう」
半年前、異動の前に置いてくれた一行が、座敷の隅で、もう一度だけ、静かに運ばれた。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
締めに、村瀬社長が、もう一度だけ立った。
「皆さん、四月から担当です。名刺の役職欄は、まだ空白のままだけれど」
社長は、穏やかに笑った。
「その空白に、いつか自分の言葉で、何かを入れてください。今日のように」
「お疲れさまでした」
座敷が、深く頷いた。
慰労会のお開きは、二十一時半すぎだった。
寮に戻って、小さな机の前に座った。
ノートを机の上で開いた。
今日の日付の下、空白のページの最初の一行に、ペンを動かした。
「研修員論文発表会、無事に終わった」
次の一行。
「三十分で、三年分を、置いた」
次の一行。
「村瀬社長の問い、遠野CTOの問い、諏訪マネージャーの一行」
次の一行。
「富岡さんの講評。この人で、よかった」
次の一行。
「同期四人と、廊下で温度を重ねた」
次の一行。
「慰労会、座敷。村瀬社長と、四十四年前の同じ蕾の話をした」
次の一行を、少し迷ってから書いた。
「アユシュくん、今日はいなかった。でも、慰労会でみんなで乾杯した」
もう一行。
「アユシュくん、ありがとう」
ペンを止めた。
一拍、間を置いてから、もう一行書いた。
「幹部の言葉が変わり始めている。預かる、から、共に成長する、へ。入社、から、joinへ」
もう一行。
「でも、現場の全部はまだ追いついていない。今日の講評で、その差が見えた。その差は、たぶんこれからの仕事」
もう一行だけ書いた。
「僕の三年が、次の研修員のための材料になるかもしれない」
ペンをふっと持ち直した。
最後の一行を、内心で少し迷ってから書いた。
「観察、が、継承、になっている。会場でもう一度、声に出して置けた」
ペンを置いた。
窓の外、三月の港川市の方角は淡い夜の空気の中で静かに広がっていた。
桐谷蒼太、二十五歳、研修員、最後の春の前。
会場で今日いちばんの拍手をくれた、あの音が、まだ耳の奥に残っていた。研修員としての三年が、その音の中で、静かに幕を下ろそうとしていた。




