第93話「研修員論文発表会」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
三月の第三週、木曜日の午後。
四年目の春まで、あと半月。
ヨキエル本社一階の社内大会議室の扉の前で、息を整えた。
扉の脇の縦長のパネルに、淡いグレーの紙が一枚だけ丁寧に貼られていた。
「本年度の 研修員論文発表会」
社内行事のフォーマットそのままの一行。研修員、の三文字が淡い罫線の中で芯のある形で立っていた。
……三年前の入社初日の朝に、沢田さんが教えてくれた一行。
心の中でつぶやいた。
一年目の四月一日、研修室の一番後ろの席で沢田さんが置いた声がふっと戻ってきた。「ヨキエルでは新卒の三年間を、『研修員期間』と定めています」。
「三年目の三月には、研修員論文発表会があります」
あの一行の三月が、いま扉の向こうにあった。
扉の前で、自分のジャケットの襟をふっと整えた。
会場にゆっくり入った。
大会議室のいちばん奥、ホワイトボードの脇に、簡素な演台が置かれていた。演台の上にマイクが一本ぽつんと立っていた。
長机が三列に並べられていた。前から二列が部長やマネージャーたちの席。三列目以降は各研修員のOJT担当の先輩席、希望者の席。
会場のいちばん前の中央に、村瀬社長と遠野CTOの席が少し間隔を空けて置かれていた。
その後ろの列に、諏訪マネージャーの後ろ姿が見えた。
新設事業開発部の方角から半時間早く下りてきてくれた。
諏訪マネージャーはいつものシンプルなジャケットに淡いシャツ。芯のある背中の輪郭のまま椅子に座っていた。
……諏訪さん、来てくれている。
心の中でつぶやいた。
大沢マネージャー、富岡マネージャー、林さん、白瀬さんがそれぞれの席に静かに座っていた。各部部長も後ろの列に並んでいた。
会場にいるのは、社内の人間だけだった。
研修員の論文には、お客様の名前も、事業の数字も入る。機密の塊だった。だからこの会は、社外には開かない。
演台の脇で沢田五郎さんが司会の準備をしていた。
沢田さんはいつもの低くゆっくりとした調子。三年前とほぼ同じ声。
ただ三年前より目の縁の皺が少し深くなっていた。
五人の研修員がそれぞれの席に静かに座っていた。
葉山美月さんはパッケージ事業チームの島の方角から来た。来期も、パッケージ事業チームに残る。
黒木律は組込みチームの島の方角から来た。補佐が取れて、いまはテックリード本体。
丸山健司は受託開発部チームB、物流ドメインの席。来年もヨキエルに残る。
杉本結さんはパッケージ事業チームのサポート/QAの席。テストと品質の方角に輪郭を立て始めている。
僕はチームAの三列目の席にゆっくり座った。
葉山さんがふっとこちらに目を上げた。薄く頷いた。
黒木は低くひとつ頷いた。黒木らしい運び方。
丸山くんは笑った。
杉本さんは丁寧に頭を下げた。
言葉はまだ交わさなかった。
……五人、揃った。
胸の奥でつぶやいた。
そして、五人とも、緊張していた。
最前列に社長とCTO。その後ろに各部の部長たち。幹部の前で三十分を話すのは、全員、入社して初めてだった。葉山さんの頷きはいつもより硬く、黒木の背中はまっすぐすぎた。丸山くんは何度もネクタイを直し、杉本さんは膝の上で重ねた手を、動かさなかった。
部長たちの列の中で、組込み開発部の寺岡部長の左右の席が、ぽつり、ぽつりと、空いていた。組込みチームの席、と分かる方角の列も、真ん中の三席が、空いたままだった。
三年前の一年目の初日、僕は組込みチームの島の輪郭を、遠目に眺めた。あの日の島の島影の輪郭よりも、今日の島影の輪郭は、間違いなく、半段、細くなっていた。
三席の空席の意味を、僕は、この会場の中で、たぶんいちばん静かに、受け止める側にいた。
僕は、自分の心拍を数えるのを、途中でやめた。
「皆さま、お忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます」
沢田さんの低い声が会場の空気を整えた。
「本日は本年度の研修員論文発表会を開催いたします」
沢田さんは穏やかに、新卒六人の最初の研修室とほぼ同じ落ち着きで続けた。
「この発表会は、五年前に遠野CTOが発案された制度です。発表会としては、今年で三回目」
沢田さんの声が少しだけ低くなった。
「発案のとき、遠野は『親御さんからお預かりした新卒の方に、きちんと育ってもらうための制度』と言っていました。いまは、こう言っています。『チームに加わってくれた皆さんが、それぞれきちんと成長して、力を発揮できるように、会社が手助けをする。皆さんの成長が、そのまま会社の成長になる』。そのための形として、私どもで運用してまいりました」
……言い方が、変わっている。
僕はその差を確かめた。三年前の入社初日に聞いたのは、「お預かりした」だった。預かる、という言葉には、庇護の温度があった。いまの言い方には、別の温度がある。加わってくれた。同志の温度。アユシュくんがいたら、たぶん「join、ですね」と言っただろう。
……「私ども」の三文字に、沢田さんの三年間の思いが乗っていた。
「制度はまだ若い。皆さまの今日の発表が、次の一歩の材料になります」
会場が静かに頷いた。
「発表は五名、お一人三十分です。発表のあと、幹部の皆さまから質疑をいただき、続いて、それぞれの指導課長から講評をいただきます。アユシュ・タパさんは昨年八月にご退職され、退職前に簡易の論文を社内に残されています。本日のご参加はありません」
会場が静かに頷いた。
「順番は葉山さん、黒木さん、丸山さん、杉本さん。休憩を挟んで、最後に桐谷さん。桐谷さんの発表のあと、村瀬社長と遠野CTOから一言いただきます」
沢田さんは新卒五人の顔をゆっくり順番に見た。
目が合った時、軽く頷いてくれた。
……三年前と同じ目の色。
内心でつぶやいた。
「では、葉山さん、お願いします」
十四時。葉山さんが、芯のある背中で演台の前に立った。
白いシャツに濃紺のジャケット。三年前の入社初日とほぼ同じ服装の組み合わせ。しかし立ち姿の輪郭は、三年で確かに整っていた。
葉山さんはマイクの位置を整えた。
「葉山美月です。パッケージ事業チーム、研修員です」
その一行はいつもの葉山さんの低い声で会場に運ばれた。
いや、いつもより、ほんの少しだけ細かった。マイクを持ち直す指先が、最初だけかすかに震えていた。気づいたのは、たぶん同期だけだった。葉山さんは一呼吸置いて、それから、いつもの低さに戻った。
「発表のタイトルは『事業の数字と、技術の縦棒の交差点』」
葉山さんはスライドを一枚ずつ進めた。
売上、解約率、顧客満足度、ARR。四つの数字が並んでいた。
「私は二年目から、数字の側で観察を続けました。技術の縦棒は白瀬さんや林さんのような先輩たちに預けて、私は横棒の数字の方角を自分の視座で見続けました」
「数字の方角から、技術の縦棒の太さが半年ごとに薄く見えるようになりました」
「太い縦棒の上で横棒の数字が伸びていく。横棒の数字が伸びる時、その下の縦棒は誰かが芯のあるところまで太くしてくれていた」
葉山さんは低い声で続けた。
「この三年で、数字の方角から技術を見る視座を、私は自分の中に作りました」
「ヨキエルでの三年が、私の横棒の最初の三年。四年目も、この場所で、その横棒を、もう一段、太くします」
葉山さんはスライドを最後の一枚に進めた。
「ありがとうございました」
その一行を声に出して頭を下げた。
拍手が起きた。会場のねぎらいの、今日最初の拍手だった。
……葉山さん、芯のあるところで整っていた。
胸の内でつぶやいた。
質疑は、CFOの滝口さんからだった。外部から招かれた、財務統括の人。
「数字の側から技術を観察するとき、距離はどう保ちましたか。近づきすぎると、数字は技術に遠慮しますが」
おもねりのない、財務の視座の問いだった。
葉山さんは一拍だけ間を置いて、低く返した。
「私が、技術の側に立たなかったからです。立たない、と最初に決めたことが、私の距離でした」
滝口さんは、短く頷いた。
講評は、指導課長の中本マネージャーだった。五十代の女性。いつか葉山さんが話していた、沢田さんが「私が知ってる中でいちばんちゃんと聞く人」と言った、その人だった。
「葉山さんは、この一年、会議の最初に必ず『今日決めること』を一行書く人でした。数字の見方だけではなく、場の整え方を、チームに残してくれました。これからも、その一行は通用します。私が保証します」
短く、具体的で、一年ぶんの観察が入った講評だった。
もう一度、拍手が起きた。葉山さんは、深く頭を下げた。
十四時三十五分。黒木が演台の前に立った。
黒のシャツ、グレーのスラックス。いつもの服装。
マイクの位置を整えた。
「黒木律です。組込み開発部、組込みチーム、研修員です」
短い一行。黒木らしい運び方。
ただ、その声は、いつもより半拍、硬かった。寡黙な黒木の、精いっぱいの丁寧語だった。マイクを握る手の甲に、力が入っていた。
「タイトル、『組込みの朝六時十五分、テックリードという形』」
黒木はスライドを一枚進めた。
組込みラボの朝、林さんの席、レビューの画面。三枚の写真が並んでいた。
「僕の朝は六時十五分に始まります。誰もいないフロアで、いちばん難しいコードを片付ける習慣を、自分で決めました」
「八時五十分、テックリードの林さんがフロアに入ってきます」
「林さんは多くを言いません。ただ、レビューの一行で、構造の本質を置きます」
「僕はその一行を、三年、横で観察しました」
黒木は次のスライドを進めた。
「テックリード補佐、という肩書は、二年目の六月にもらいました」
「補佐の二文字は、もう外れています」
「補佐から本体になるまでに、林さんから半段譲り受けたものを、この場所で並べます」
黒木はスライドを一枚ずつ進めた。
構造を一行で置くレビュー、コードレビューの距離感、新人の宮岡くんへの一言、大沢マネージャーの機嫌の波の読み方。
四つのことが並んでいた。
「林さんから半段ずつ譲り受けたものをいま、僕が宮岡くんに半段ずつ渡しています」
「テックリード、という形はたぶんこうやって半段ずつ譲り受けて、半段ずつ渡す連鎖の中にあります」
黒木は最後のスライドで頭を下げた。
「以上です」
拍手が起きた。
林さんが後ろの席で、低く、満ちた頷きをひとつ置いた。
質疑は、遠野CTOからだった。
「あなたが林さんから、まだ受け取れていないものは、何ですか」
鋭い問いだった。受け取ったものの発表に、受け取れていないものを問う。
黒木は、一拍だけ黙った。それから、いつもの低さで返した。
「林さんの、待ち方です。林さんは、新人が自分で気づくまで、三日でも待ちます。僕はまだ、一日で口を出します」
「自分の課題を、正確に知っていますね。それも観察です」
遠野CTOは、短くそう置いた。
講評は、指導課長の大沢マネージャーだった。
「えー、黒木くんは、その、見ての通り、技術がしっかりしているので。はい。テックリードとしても、よく、やってくれていると思います。今後も、期待しています」
言葉は、それだけだった。
黒木の三年の、どこを見ていたのかが、入っていない講評だった。波の高い日の鋭さは、今日は、出てこなかった。出てくるはずがなかった。論文を、最後まで読んでいないのだから。
黒木の発表の中で、大沢さんの名前は一度だけ出た。「大沢マネージャーの機嫌の波の読み方」。育ててくれた人としてではなく、波を読む対象として。その意味を、会場のたぶん半分は、いまの講評で理解した。林さんの満ちた頷きの横で、大沢さんは座るときに視線を落とした。
それでも、拍手は起きた。拍手は、黒木の三十分に向けられていた。
……黒木らしい、まっすぐな三十分。
心の中でつぶやいた。
十五時十分。丸山くんが演台の前に立った。
いつものスーツ、いつものネクタイ。しかしいつもより襟元が整っていた。
マイクの前で、丸山くんは深く息を吸った。肩が、はっきり緊張していた。
「丸山健司と、申します。受託開発部チームB、物流ドメイン担当、研修員です」
一語ずつ、置くように言った。いつもの丸山くんの、倍ゆっくりだった。
「タイトルは、『物流の現場と、ヨキエルの島』……っす」
最後の二文字が、滑り出た。
丸山くんは一瞬固まって、それから、深く頭を下げた。
「すみません。ついつい、前職の癖で『っす』が出てしまいますが、頑張って、標準語で話します。これも、自分の成長です」
会場の空気が、温かくゆるんだ。最前列の村瀬社長の口元も、ふっとゆるんだ。
丸山くんは、たどたどしい丁寧語で、続けた。
スライドを一枚進めた。港川物流のトラックの写真、佐々木さんの顔、荷捌き場の低い天井の写真。
「私は、前職で、運送のドライバーを、七年、しておりました。独学で、エンジニアになりました」
「高校を出てから、トラックに乗っていました。同期の中で、いちばん年上の、新人です。学歴も、IT業界の経験も、ありませんでした」
「ですので、年齢も、前の仕事も、いったん脇に置いて。新卒と、同じ待遇で、ゼロから、裸一貫で、入りました。それで、よかったと思っています。まっさらな目で、現場の温度を、もう一度、見られましたので」
「ヨキエルに入って、最初の配属が、受託開発部のチームBです。担当のお客様が、港川物流の佐々木さん……佐々木様です」
「佐々木様と私は、最初の三ヶ月、うまく、噛み合いませんでした」
「私が、技術の側に寄りすぎていたからです。佐々木様は、現場の温度の側に、いらっしゃいました」
丸山くんはスライドを一枚進めた。
「半年経って、私は、佐々木様の軽トラックに、同乗させていただきました」
「現場の温度が、肌に乗りました」
「もう一つ、現場から、持ってきたものが、あります」
丸山くんは、スライドを戻して、運送会社の頃の写真を映した。出発前の点呼の風景だった。
「運送の現場で、叩き込まれたことがあります。事故や、ヒヤッとしたことは、必ず振り返る。出発の前には、指差して、声に出して、確認する。面倒です。でも、それをやらない現場は、必ず、同じ事故を、繰り返します」
「ヨキエルに来て、気づきました。リリースの手順書も、障害の振り返りも、レビューも、根っこは、運送の安全と、同じでした。品質は、才能ではなくて、振り返る習慣だと、私は思います」
……振り返る習慣。
一年目の夏、皆でとんぼに流れる前の、居酒屋の廊下で丸山くんがこぼした言葉を、僕は思い出した。振り返る現場は、強い。あのとき同期三人でうなずき合った一言が、三年かけて、幹部の前の、一枚のスライドになっていた。
「それから三年。私は、技術の縦棒と、物流の現場の横棒の間に立つ、ドメインエキスパート、という肩書を、自分で見つけました」
「肩書は、まだ名刺に書けません。ですが、佐々木様は『丸山さん、うちの会社のことをいちばん分かってくれてる』と、言ってくださいます」
丸山くんは最後のスライドで頭を下げた。
「私は、次の三年、物流の現場の横棒を、もう一段、太くします……太くするっす」
最後の最後で、もう一度だけ滑った。
会場がくすりと笑った。温かい笑い。たどたどしい丁寧語で運ばれた三十分が、会場の空気を、誰の発表よりも温かくしていた。
拍手が起きた。温かさのぶんだけ、長い拍手だった。
質疑は、受託開発部の島田副部長からだった。
「丸山さんの現場の知見は、いまは、丸山さん個人のものですね。チームのものにする計画は、ありますか」
鋭い問いだった。おもねりのない、管理職の視座の問い。
丸山くんの顔が、固まった。
「えっと、それは……その……」
マイクの前で、丸山くんは、しどろもどろになった。想定していなかった問いだった。想定の練習に、誰も付き合っていなかった。
長い沈黙のあと、丸山くんは、頭を下げた。
「すみません。ちゃんと、考えたことが、なかったです」
正直に、そう言った。
「でも……属人化したら、まずいです。俺しか分からないのは、現場で、いちばん危ないことです。明日から、書き残します……書き残すっす」
最後がまた滑って、会場が少しだけ温かく笑った。島田副部長は「期待しています」と短く頷いた。正直さが、ぎりぎりのところで、丸山くんを支えていた。
講評は、指導課長の江口マネージャーだった。
「丸山くんは、その、現場に、強いので。お客様にも、好かれていますし。ええ。引き続き、頑張ってもらえればと、思います」
それだけだった。
論文の中身には、どこにも触れなかった。触れられるはずがなかった。読んでいないのだから。
拍手は起きた。拍手は、丸山くんの三十分と、さっきの正直さに向けられていた。
丸山くんの話は、今日のどの発表より、地に足がついていた。佐々木さんの軽トラ、荷捌き場の天井、現場の温度。素材は、本物だった。
でも、構成は、荒かった。いちばんいい佐々木さんの話が、中盤に埋もれていた。そして、さっきの長い沈黙。理由は、誰の目にも明らかだった。
いちばん前の列に、ほんの少しの間が流れた。村瀬社長と遠野CTOの、わずかな視線の動き。ある部長が、隣のマネージャーに何か小さく囁いた。
……江口さん、見てないな。丸山、可哀想だ。
会場に、その空気がそっと流れた。江口マネージャーが、後ろの席で、小さくなった。
でも、と僕は思った。丸山くんは、独学と同期の力だけで、ここまで持ってきた。もし江口さんが本気で見ていたら、この三十分は、どこまで磨かれただろう。その想像が立つぶん、丸山くんの素材の本物さが、かえって際立っていた。
ノートの端に、小さく一行だけ書いた。育てる側の、当たりと外れ。それは幹部の前で、誰の目にも静かに見えてしまう。
……丸山くん、地に足のついた三十分。
胸の奥でつぶやいた。
十五時四十五分。杉本さんが演台の前に立った。
白いブラウスにグレーのカーディガン。三年前とほぼ同じ服装の組み合わせ。
しかし立ち姿の輪郭は、三年で芯のある形に整っていた。
杉本さんはマイクを整えた。
「杉本結と申します。パッケージ事業チーム、サポート/QA、研修員でございます」
杉本さんの声は低く丁寧。ただ、最初の一行だけ、薄く細かった。マイクを包む両手が、白かった。三年前とほぼ同じ温度に戻ったのは、二枚目のスライドからだった。
「タイトル、『文学部の文章読解と、テスト設計』」
スライドを一枚進めた。
雨月物語、上田秋成、近世日本史。三つの言葉が並んでいた。
「私は大学の文学部史学科で近世日本史を研究していました。卒論は上田秋成の雨月物語の、三系統の写本の比較研究」
「三年前の入社初日、ITまったくの未経験、と自己紹介しました」
杉本さんは穏やかに笑った。
「三年経って、文学部の文章読解の癖と、テストの仕事が、ゆっくりつながりはじめました」
スライドを一枚進めた。
「雨月物語の三系統の写本の比較は、同じ原典が別の人の手で別の方角に少しずつずれていく過程を丁寧に観察する作業です」
「テストの仕事も似ています。同じお客さんの要件が、営業の側、エンジニアの側、運用の側で、別の方角に少しずつずれていく。仕様の言葉の食い違いや、書かれていない隙間。そのずれと隙間を、壊れる前に、丁寧に読む」
「壊れ方を、作った後ではなく、作る前に読む」
杉本さんはスライドを一枚進めた。
「ヨキエルの品質は、まだ、一人ひとりの頑張りに支えられています」
「一人ひとりの頑張りに支えられている品質は、その一人が、離れると、静かに、崩れます」
杉本さんはそこで、半秒だけ、目を、卓の縁のあたりに、落とした。
それから、静かに、続けた。
「私はそれを、組織の文化に変えたい。テストを、もっと深く極めて、品質を、ヨキエルに根づかせたいと思っています」
「四年目から、半段ずつ」
「七年か八年で、品質を、ヨキエルの文化と呼べるところまで、立ち上げる」
杉本さんは最後のスライドで頭を下げた。
「これが私の、次の七年か八年の観察の方角です」
会場が深く頷いた。
拍手が起きた。
諏訪マネージャーが低く深く頷いた。
質疑は、村瀬社長からだった。
「まだ根づいていない文化を、組織に根づかせるとき、最初の敵は何だと思いますか」
いちばん高い視座からの、まっすぐな問いだった。
杉本さんは、両手でマイクを包み直してから、丁寧に答えた。
「……『前例がない』という言葉だと、思います。ですが、テックリード補佐も、黒木さんが最初の一人になるまで、前例はありませんでした。前例は、誰かが最初の一人になると、できます」
会場の席で、黒木が、ほんの少しだけ顔を上げた。
村瀬社長は、深く頷いた。
「いい答えです」
講評は、葉山さんと同じく、中本マネージャーだった。
「杉本さんの『壊れ方を、作る前に読む』は、発表のための言葉ではありません。彼女が毎週、テストの項目を起こす前に、必ずやっている、実際の手順です。私は隣で一年、それを見てきました。私が保証します」
ここでも、見てきた人にしか言えない講評だった。
もう一度、拍手が起きた。
……杉本さん、芯のある三十分。
内心でつぶやいた。
十六時二十分。司会の沢田さんが「休憩、十分」と告げた。
会場がふっと緩んだ。
葉山さん、黒木、丸山くん、杉本さんが自然とこちらの席の方角に歩いてきた。
「桐谷くん」
葉山さんが低く声をかけた。
「うん」
「最後、ね」
「うん」
葉山さんが口の端で小さく笑った。
「いつもの調子で運んで」
「うん」
短く頷いた。
黒木が低くひとつ頷いた。
「桐谷さん、楽しみっす」
丸山くんが温かく頷いた。
「桐谷くんの三年、聞かせてください」
杉本さんが丁寧に頭を下げた。
「ありがとう、四人とも」
短く返した。
……四人の気持ち、芯のところで温かい。
胸の内でつぶやいた。
会場の壁の時計が十六時二十五分を指していた。
十六時三十分。休憩の十分が終わり、会場が静かに戻った。
本来なら、ここにもう一人、いたはずだった。
……アユシュくん。
心の中で、僕はその名前をつぶやいた。
練習の夜にも、同じことを思った。アユシュくんがいたら、どんな三十分になっただろう、と。Computer visionと低リソース言語の境界の、観察が国境を越えていく話。あの、日本語に核心語の英語が混じる運び方。
今日、この会場で思うのは、その先だった。アユシュくんの三年は、消えていない。退職の前に置いていった簡易の論文が、いまも社内のドキュメントに残っている。発表されなかっただけで、アユシュくんの三年も、ちゃんとこの会社の中にある。
だから、寂しさは、練習の夜より、少し和らいでいた。
代わりに、僕は決めた。このあとの僕の三十分に、アユシュくんの三年を、少しだけ混ぜて運ぶ。
十六時三十五分。沢田さんがこちらの方角を見た。
「最後、桐谷蒼太さん、お願いします」
席からゆっくり立ち上がった。
演台の前までゆっくり歩いた。
マイクの位置を整えた。
会場をゆっくり見渡した。
いちばん前の村瀬社長、遠野CTO。
その後ろの諏訪マネージャー、大沢マネージャー、富岡マネージャー、林さん、白瀬さん、各部部長。
葉山さん、黒木、丸山くん、杉本さん。
……半径3メートルが、内側から外側へ、順に灯っている。
三ヶ月前、十二月の月曜の冬の雪の中で胸の真ん中に灯った温度を、もう一度確かめた。
心臓が、自分でも分かるくらい、鳴っていた。最前列に、社長と、CTO。幹部の前で三十分を話すのは、僕も、生まれて初めてだった。二月に何度も練習した三十分が、一瞬、まっしろになりかけた。
重ねた三冊のノートの、いちばん上の表紙に、指で触れた。三年分の重さが、指先から戻ってきた。
マイクの前で息を整えた。
「桐谷蒼太です。受託開発部、チームA、研修員です」
その一行を低く運んだ。
「タイトル、『半径3メートルの観察、三年間の記録』」
演台の上に、三冊のノートを重ねて置いた。一冊目の、最初のページを開いた。
その最初の一行を、声に出した。
「明日から、観察を始める」
会場が静かに頷いた。
「三年前、特急を降りた直後、駅前の文具店でA5の罫線入りの淡いグレーのノートを一冊買いました」
「最初のページに、ペンでその一行を書きました」
「翌朝、研修室で遠野CTOがホワイトボードに、三つの言葉を書いてくださいました」
「半径3メートル。両輪。観察」
遠野CTOがいちばん前の席で静かに頷いた。
「三つの言葉が僕の三年の、最初の地図になりました」
ノートのページをめくった。
「一年目、僕は半径3メートルの中の人と技術とお客さんを、つぶさに観察しました」
「白瀬さんのレビューの距離感、諏訪マネージャーの1on1の温度、葉山さんの『ぴくっと』、黒木の寡黙、アユシュくんの英語、丸山くんの現場、杉本さんの観察」
「同期六人と白瀬さんと諏訪マネージャーの輪郭を、半径3メートルの中で受け取りました」
会場が静かに頷いた。
「二年目、半径3メートルの中の技術の縦棒が半段太くなりました」
「SWEBOK。世界中のエンジニアで合意した地図」
一年目の六月の社内勉強会のことを、心の中で思い返した。
「遠野CTOがその地図の十八本の線をホワイトボードに並べてくださった夜から、僕は自分の三年を、その地図の上で一本ずつ確かめるようになりました」
「二年目の終わり、僕は地図の上に技術の縦棒を立てました」
「三年目、横棒を伸ばしはじめました」
ノートを、三冊目に持ち替えた。
「三年目の十月、寮の机の上で三冊のノートを並べました」
会場が静かに頷いた。
「一年目の淡い大学ノート、二年目の少し厚いA5のリングノート、三年目の半分使った無地のノート」
「三冊の手前に、四冊目の白いノートを置きました」
「最初のページに十字を書きました」
「縦棒の上に『技術』、横棒の左に『事業』」
「縦棒と横棒の十字が、僕の三年の土台の最初の形でした」
三年目の十月のあの土曜の朝の温度を、胸の奥で思い返した。
「縦棒の上半分はJava、Spring Boot、設計レビュー、運用当番、DORAメトリクスで埋まりました」
「下半分はまだ白いままです」
「横棒の側はまだ線が淡い。けれど確かに、引かれはじめていた」
ノートのページをめくった。
「三年目の十月、諏訪マネージャーが新設事業開発部の方角に異動されました」
諏訪マネージャーが後ろの席で芯のある背中の輪郭で頷いた。
「諏訪マネージャーは僕の一年目から、『責任は上から順』の一行を置いてくださいました」
「二年目の大失敗の夜、諏訪マネージャーは『組織の責任として、私が引き取ります』と置いてくださいました」
「あの一行を、僕は三年間、心の真ん中で撫で続けました」
「あの一行が僕の三年の、芯のところに立っています」
会場が深く頷いた。
「諏訪マネージャーから受け取ったものを、僕はいま後輩の香織さんと森山くんと未來さんに、半段ずつ渡しはじめています」
ノートのページをめくった。
「三年目の十二月、僕は自分の口で『ヨキエルに残る』と運びました」
「諏訪マネージャー、遠野CTO、村瀬社長、白瀬さん、同期五人」
「九人の半径3メートルが、内側から外側へ順に灯った日でした」
「拍手はありませんでした」
「しかし芯のところで確かに燃えていました」
三ヶ月前の月曜の温度を、もう一度内心で撫でた。
「燃えるような熱さではありませんでした」
「地味な、しかし芯のある火」
「遠野CTOが秋の終わりに置いてくださった『変革は、地味だ。でも、地味だから、続く』の一行と、同じ方角の火」
遠野CTOがいちばん前で低くひとつ頷いた。
「三年目の十二月の最終週、後輩の鈴木未來さんに、年内一日だけヨキエルに来てもらいました」
「三十分の小会議室で、僕は三年分を未來さんのノートに渡しました」
「半径3メートル。両輪。観察。四種類の優しさ。責任は上から順。3年で土台」
「六つの言葉が未來さんのノートに、几帳面な字で縦に並びました」
「渡し終えたあと、僕は自分のノートに一行書きました」
ノートのページをめくった。
「『観察、が、継承、になっている』」
三ヶ月前の十二月の温度を、胸の内でそっと撫でた。
「諏訪マネージャーから、白瀬さんから、遠野CTOから、村瀬社長から、僕の三年の中に流れ込んだもの」
「その流れが未來さんのノートに渡った」
「観察、という言葉が僕の中で三年経って『継承』に輪郭を変えました」
「これが三年で、芯のところまで残ったものです」
一拍、息を置いた。
「冒頭、沢田さんが『制度はまだ若い』と置いてくださいました」
「僕のこれからの一行、として置きたいことがあります」
「研修員制度の、次の三年分を、僕も内側から半段ずつ運びたい、と思っています」
遠野CTOがいちばん前の席で低くひとつ頷いた。
ノートのページを、最後の白いページに開いた。
「最後にもう一行だけ、置かせてください」
「三年前のノートの第一行『明日から、観察を始める』」
「今日のノートの最後の一行『観察、が、継承、になっている』」
「二つの一行の間に僕の三年が、確かに立っています」
ノートをゆっくり閉じた。
演台の上にそっと置いた。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
会場が、一瞬、静まった。
心が動いたときの、あの静けさだった。
それから、今日いちばんの拍手が起きた。
顔を上げた。いちばん前の村瀬社長が穏やかに深く頷いた。遠野CTOが低くひとつ頷いた。諏訪マネージャーが後ろの席で芯のある背中の輪郭で頷き、白瀬さんがいつもの距離感で低くひとつ頷いた。葉山さん、黒木、丸山くん、杉本さんが、それぞれの席で小さく頷いた。
質疑は、製品開発部の藤野部長からだった。
「観察ノートは、あなた個人の財産ですね。会社の財産にするつもりは、ありますか」
鋭い問いだった。三年の観察の、その先を問う。
二月に、富岡さんと白瀬さんと、何度も想定した方角の問いだった。僕は、息をひとつ置いてから、答えた。
「はい。この論文が、その最初の一歩です。それから、後輩に渡すたびに、ノートは少しずつ、僕だけのものではなくなっていきます。最後まで会社のものには、ならないかもしれません。でも、会社の中の誰かの足場には、なっていくと思います」
藤野部長は、口の端でふっと笑って、頷いた。
「いい答えです。楽しみにしています」
講評は、富岡さんだった。
富岡さんは立ち上がって、一度、会場をゆっくり見てから、口を開いた。
「正直に言います。私は十月にチームに来たばかりで、桐谷くんの三年を、知りませんでした。だから、前任の諏訪に、教わりに行きました」
会場の後ろで、諏訪さんが薄く笑みを浮かべた。
「この論文は、私が二か月かけて追いかけて、やっと追いついた三年です。五章だけ、三回、書き直してもらいました。いちばん書きたいことを、いちばん怖がっていたからです。今日、その五章が、いちばん伝わった章だったと思います」
「指導した、というより、私が桐谷くんの三年に、教わりました。以上です」
短い講評だった。短いのに、二月の夜の机の音まで、全部入っていた。
……この人で、よかった。
胸の奥で、その一行が、すとんと置かれた。十月に諏訪さんが抜けたとき、僕の中にかすかにあった不安は、もう、どこにもなかった。富岡さんへの信頼が、この講評で、完成した。
もう一度、拍手が起きた。
……半径3メートルが、内側から外側へ、順に灯っている。
心の中でつぶやいた。
十七時十五分。沢田さんがゆっくり立ち上がった。
「村瀬社長、お願いします」
村瀬社長がゆっくり演台の方角に歩いてきた。
マイクの前で姿勢を整えた。
「五人の研修員の皆さん、お疲れさまでした」
社長は穏やかに低く運んだ。
「三年前、私たちは皆さんを、『3年で土台を作る』という言葉とともに迎えました」
「今日、五つの土台を見せてもらいました」
「数字の側から見る土台。譲り受けて渡す土台。現場の温度の土台。壊れ方を読む土台。観察を継承に変える土台」
「五つとも、形が違う。形が違うことが、私には何より嬉しい」
社長は会場をゆっくり見渡した。
「遠くソウルにいる人も、ここに残る人も、皆さんの土台は、ヨキエルの三年で作られました」
「その上に何を建てるかは、これからの皆さんのものです」
「三年間、ありがとう」
社長は深く頭を下げた。
会場が深く頷いた。
演台をゆっくり降りた。
沢田さんが続けた。
「遠野CTO、お願いします」
遠野CTOがゆっくり演台に立った。
マイクの前で姿勢を整えた。
「半径3メートル、両輪、観察。三年前の研修室で、私がホワイトボードに置いた三つの言葉です」
遠野さんは穏やかに低く運んだ。
「今日、その三つが、五人それぞれの言葉になって返ってきました」
「数字の横棒として。譲り受けて渡す連鎖として。現場との間に立つ場所として。壊れ方を読む観察として。そして、継承として」
「三つとも、もう私の言葉ではない。皆さんの言葉です」
「これが、私がこの発表会で、皆さんの三年に渡したかったことです」
遠野さんは新卒五人の顔をゆっくり順番に見た。
「制度は、毎年半段ずつ、皆さんの三年で形を変えていくものです」
「今日の五人の三年が、次の三年の研修員の土台になりました」
「ありがとうございました」
遠野さんは穏やかに頷いて、演台を降りた。
十七時三十分。沢田さんがゆっくり演台の脇に立った。
「以上で本年度の研修員論文発表会を閉会いたします」
「五名の研修員の皆さま、お疲れさまでした」
「四月一日から皆さまは、ヨキエルの『担当』になります」
沢田さんは新卒五人の顔を、ゆっくり順番に見た。
「三年間、本当にお疲れさまでした」
その一行を、低くしかし芯のある声で置いた。
会場が深く頷いた。
席に戻って、三冊のノートを鞄にそっとしまった。一冊目の表紙の手触りが、三年前に駅前の文具店で買った日より、ずっと手に馴染んでいた。角が、少しだけ丸くなっていた。
三十分で、三年分を社内に置いた。話している間は無我夢中で、終わってみると、自分が何を話したのか、半分も覚えていない。けれど、最後の一行を声に出して置けたことだけは、芯のところにはっきりと残っていた。観察、が、継承、になっている。三年前のノートの最初の一行と、今日の最後の一行。その二つの一行の間に、僕の三年が、確かに立っていた。
……まだ、終わっていない。
胸の奥で、そう思った。
研修員としての三年が、いま、ひとつの区切りを迎えようとしていた。けれど不思議と、終わった、という手応えはなかった。発表会は終わりではなく、たぶん、受け取ったものを次へ渡しはじめる、その最初の一歩だった。三年前、研修室で遠野CTOがホワイトボードに「半径3メートル」と書いた朝、その先にこんな三月が待っているとは、知らなかった。知らないまま、僕はあの朝、最初の一歩を踏み出していた。
ノートをしまった鞄を、肩にかけた。三年分の重さが、肩に、芯のあるところで乗っていた。
会場の喧騒が、少しずつほどけていく。発表を終えた研修員と、見届けてくれた先輩たちが、それぞれの方角に立ち上がりはじめていた。慰労会は、十八時半から。会場は、駅前の店だと、沢田さんが言っていた。




