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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第92話「二月、論文を詰める」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 二月の第一週、火曜日の夕方。


 窓の外、桜並木通りの枝はまだ裸だった。蕾の気配が、枝の先に薄く灰色に固まっている。あと一月半で、あの蕾が半分ほど開く。そのころには、僕の三年も、いったん閉じる。


 一月の終わりに、僕は論文を提出していた。


 研修員論文。三年間の観察を、A4で十数ページにまとめたもの。題は「半径3メートルの観察、三年間の記録」。三年前の入社式で遠野CTOが最初に置いた、あの言葉から借りた。


 提出した日の夜は、少しだけ眠れなかった。三年分のノートを一冊に綴じ直す作業は、思っていたよりずっと重かった。香織さんのメイン担当も、運用当番も、白瀬さんからの日々のレビューも、止まってはくれない。論文はその合間に、夜と週末に、少しずつ積んだ。二年目の夏に書いたLT原稿のv0.1とは、重さがまるで違った。


 提出して、終わりではなかった。


 二月は、レビューの月だった。


 


 水曜日の午前、富岡マネージャーに呼ばれた。


 富岡さんは、十月に諏訪さんが異動したあとの、チームAの新しいマネージャーだった。別のIT中小から中途で入ってきた人で、僕の三年を、まだ四か月しか見ていない。


 会議室のテーブルに、僕の論文が印刷されて置かれていた。赤いペンの書き込みが、ところどころにあった。


「桐谷くん、読んだよ」


「ありがとうございます」


「よく書けてる。三章の数字の話、いいね」


「はい」


 富岡さんの指摘は、丁寧だった。丁寧だったけれど、どこか表面を撫でていた。誤字、言い回し、章の順番。直せばよくなる類いの指摘ではあった。ただ、僕の三年のいちばん奥のところには、まだ手が届いていない気がした。


 ……諏訪さんなら。


 僕はその名前を半秒だけ撫でた。


 諏訪さんなら、たぶん三行目で止まって、「桐谷くん、これ、本当に書きたかったことなの」と問うてくれた。富岡さんはまだ、そこまで僕を知らない。それは富岡さんのせいではなかった。四か月では、三年は見えない。


 その日の午後、白瀬さんが僕の隣の席で、同じ論文をもう一部開いていた。


「桐谷くん」


「はい」


「富岡さんの赤、見た?」


「はい。直します」


「うん。あれは、入り口」


 白瀬さんはそれだけ言って、自分の開いた論文の、五章のところを指でとんと叩いた。


「ここ。観察が継承になる、って書いてるところ。桐谷くんがいちばん書きたかったの、たぶんここでしょう」


「……はい」


「なのに、いちばん短い」


 胸の奥を、軽く突かれた気がした。白瀬さんは、四か月ではなく、三年見ていた。


「怖かった?」


「……たぶん」


「いちばん書きたいところほど、人は短く書く。怖いから」


 白瀬さんは赤ペンではなく鉛筆で、五章の余白に小さく問いを書いた。「これを、誰に渡したい?」と。答えは書かなかった。


「決めるのは、桐谷くん」


 いつもの、白瀬さんの余白だった。


 


 その週の金曜日、富岡さんの姿が、夕方のフロアになかった。


 週明けの月曜日に、分かった。富岡さんは新設事業開発部まで行って、諏訪さんと一時間ミーティングをしてきたらしい。議題は、僕の論文だった。


「諏訪さんに、君の三年を教わってきた」


 富岡さんは、照れも隠しもせず、そう言った。


「一年目の本番障害のこと。二年目の産業医の先生のこと。君が三年、ノートをつけ続けていること。私は四か月分しか知らないから、前の分を知っている人に借りてきた」


 二度目のレビューは、最初のレビューと、別物だった。


 誤字や章の順番の話は、もう出なかった。富岡さんは五章の余白を指して、聞いた。


「ここに書いてある『継承』は、君が受け取った側の話だね。渡す側に回ってから、何がいちばん怖かった?」


 その問いは、表面ではなく、いちばん奥に向かって投げられていた。


 ……この人は、追いつこうとしてくれている。


 心の中で、僕はそう思った。諏訪さんのようにではなく、富岡さんのやり方で。分からないことを分からないと言い、借りられるものを借りて、それでも自分の足で、僕の三年に追いつこうとしてくれていた。その姿を見ているうちに、僕のほうも、富岡さんという人が、少しずつ分かり始めていた。


 


 その翌週から、僕は会社に残って書くようになった。


 研修員は、本当は残業しない。一年目に沢田さんから言われた。「新卒の皆さんは、基本、定時で帰ってください」と。育てる側の、健康への配慮だった。


 ただ、論文の追い込みのこの時期だけは、例外だった。事務局を通して、島田副部長の承認が下りていた。二月のあいだ、研修員は論文のために、夜、机に残ってよい。二十二時までと、決められていた。


 二十二時。僕は何度か、その時刻ぎりぎりまで残った。


 残ると、たいてい、白瀬さんも残っていた。


 白瀬さんは、深夜や休日の障害対応のために、仕事を家に持ち帰る特例を持っている。本当なら、家に帰って書いてもいい人だった。それなのに、僕の隣の席に、ただ座っていた。


「白瀬さん、家でよかったのに」


「うん。でも、ここのほうが桐谷くんが詰まったとき、すぐ聞ける」


「すいません」


「謝らないで。これ、私の仕事でもあるから」


 その「私の仕事でもある」の意味を、僕はそのときは、なかばしか分かっていなかった。


 富岡さんも、よく残っていた。


 実際の指導は、白瀬さんに任せてくれていた。口を挟みすぎない。ただ、自分の席で自分の仕事を広げながら、いつでもレビューに付き合える距離に、いてくれた。僕と白瀬さんが詰まった気配を出すと、ふっと顔だけ上げて「いま、どこで詰まってる?」と聞いてくれる。その距離の取り方が、富岡さんの付き添い方だった。


「桐谷くん、進み具合は毎週島田副部長に共有してある」


 ある夜、富岡さんは画面から目を離さずに、軽く言った。


「部長レビューの枠も、再来週の頭にもう押さえた。指摘をもらってから、直す時間がちゃんと取れるように」


「ありがとうございます」


「段取りだけは、私の得意分野だから」


 富岡さんは、ちょっとだけ笑った。


 三度目のレビューで、富岡さんは五章の最後まで踏み込んできた。


「桐谷くん、ここ、もっと書いていい。これは、受託開発部が幹部の前に出す論文だ。うちの部の代表だと思って書いて」


「代表、ですか」


「うん。恥ずかしいものは、出せない」


 部門の代表、という言葉は、重かった。重かったけれど、嫌な重さではなかった。誰かが、僕の三年を、部の名前を懸けて磨こうとしてくれている。その重さだった。


 


 ある木曜日の夜、二十一時過ぎ。


 休憩スペースで缶コーヒーを買っていたら、ちょうど丸山くんが、フロアの出口のほうへ歩いていくのが見えた。リュックを背負っていた。帰るところだった。


「丸山くん、お疲れ」


「お、桐谷さん、お疲れっす」


「論文、進んでる?」


「ぼちぼちっす。今日はもう、帰れって言われたんで」


「帰れ?」


「うちの江口さん、定時で帰れって。残業付けるなって」


 丸山くんは、いつもの「っす」のまま、軽く言った。軽く言ったぶん、かえって、その奥が見えた。


「江口さん、論文見てくれた?」


「見てない……っすね。提出する前に一回出したら、『いいんじゃない、出して』って。それだけっす」


「それだけ」


「中身、たぶん読んでないっす」


 丸山くんは、缶コーヒーの僕のほうを見て、ちょっと笑った。


「まあ、うちはそういう感じっすから。慣れてるっす」


 慣れてる、という三文字が、僕の奥に、ちくりと刺さった。


「丸山くん、土曜、寮のラウンジで論文の見せ合いするっす。桐谷さんも来れたら、ちょっと俺の見てもらえないっすか」


「うん。行く」


「助かるっす。黒木さんと杉本さんも来るっす」


 丸山くんは軽く手を挙げて、帰っていった。


 その背中を、僕は半秒、見送った。


 ……江口さんは、付き合わない。


 胸の奥で、僕はそう確かめた。


 残業に付き合うかどうか。論文を読むかどうか。それは、小さな差のように見えて、たぶん、三年の育ちの差になる。僕の隣には、帰っていいのに残る白瀬さんがいて、丸山くんの隣には、帰れと言って自分も帰る江口さんがいた。


 丸山くんは、足りないぶんを、同期に頼んでいた。土曜の、寮の一階の、共用ラウンジだった。


 席に戻って、ノートを開いた。最近のページに、僕は一行だけ書いた。


 育てる側に、当たりと外れがある。


 書いてから、その下に、もう一行、足した。


 黒木の給料のことと、たぶん、同じ場所にある。


 二年目の終わり、僕は黒木の役職と給料の乖離を、ノートに書いて、追い続けると決めた。今日の丸山くんの「慣れてるっす」は、その隣に、静かに並んだ。


 


 黒木のほうは、また少し違っていた。


 黒木の組込みチームのマネージャーは、大沢さんだった。機嫌の波の、はっきりある人。


 土曜の寮のラウンジで、黒木はぼそりと言った。


「大沢さん、波がある。論文、見てくれる日と、見てくれない日がある」


「波?」


「機嫌のいい日のレビューは、鋭い。悪い日は、開きもしない」


「それ、大変だね」


「うん。でも、いい日を狙えばいい」


 黒木は、それだけ言った。


 黒木は、強かった。大沢さんの波の高い日を見つけて、その日に当てにいく。当たらなければ、自分で詰める。テックリードの本体になって半年あまり、黒木はもう、自分で自分の足場を組める人になっていた。


 結局、大沢さんは黒木の論文を、最後まできちんとは見なかったらしい。黒木が強いことに、たぶん、甘えていた。江口さんのように「読まずに出して」と言うのとは、形が違う。けれど、育てきっていないことは、同じだった。黒木が自走できたから、表向きは何も起きなかっただけで。


 でも、と僕は思った。黒木みたいに自走できる研修員ばかりではない。波の低い日にしか当たれなかったら、その人の三年は、磨かれないまま、幹部の前に出る。


 付き合う課長と、付き合わない課長。読む課長と、強い部下に甘える課長。その差は、三月の幹部の前で、たぶん誰の目にも、静かに見えてしまう。


 ラウンジのテーブルの上で、僕は丸山くんの論文を読んだ。


 中身は、よかった。物流の現場の話。港川物流の佐々木さんとの、最初の三か月の噛み合わなさ。運送ドライバーから独学でエンジニアになった、その重み。素材は、僕の論文より、ずっと地に足がついていた。


 ただ、構成が、ばらけていた。いちばんいい話が、真ん中に埋もれていた。幹部が聞いたら、たぶん最初の三分で、これは何の話だろうと迷う。


「丸山くん、この佐々木さんの話、いちばん前に出したほうがいい」


「お、そうっすか」


「うん。これが、丸山くんのいちばんの一行だから」


「なるほどっす」


 丸山くんは、素直にメモした。


 それは、本当なら、江口さんが言うべき一言だった。


 


 二月の最後の週。


 スライドの締め切りが来た。論文の本体も、ここまでなら差し替えてよかった。富岡さんと白瀬さんの赤を入れた五章を、僕は最後にもう一度、書き直した。怖くて短かった「観察が継承になる」のところを、今度は、いちばん長く書いた。白瀬さんの鉛筆の問い、「これを、誰に渡したい?」に、僕なりの答えを置いた。香織さんと、森山くんと、まだ顔も知らない来年の新人へ。


 提出する前に、白瀬さんが、ぽつりと言った。


「桐谷くん、いい論文になった」


「白瀬さんのおかげです」


「ううん。書いたのは、桐谷くん」


 白瀬さんは、少しだけ間を置いてから、続けた。


「私も、これで一段、上がれるかもしれない」


「一段?」


「ううん。こっちの話」


 白瀬さんは、ふっと笑って、それ以上は言わなかった。


 あとで、富岡さんが、廊下で軽く教えてくれた。諏訪さんが、異動する前に、富岡さんと白瀬さんに、僕の論文のことを託していったらしい。「桐谷の三年は、最後まできちんと見届けてやってほしい」と。それは僕のためでもあり、たぶん、白瀬さん自身のためでもあった。指導をやり切ることが、白瀬さんの、次の段への実績になる。諏訪さんは、異動の前に、そこまで見て、置いていった。


 ……諏訪さん。


 内心で、僕はその名前を、もう一度撫でた。


 諏訪さんは、もういない。でも、諏訪さんの目論見は、富岡さんと白瀬さんの中で、ちゃんと動いていた。受け取って、渡す。諏訪さんは、自分が抜けたあとのことまで、組み直して、出ていったのだった。


 


 スライドの練習は、寮のラウンジでやった。


 黒木が、フォントのサイズを見てくれた。二年目の夏、僕の最初のLTのときと、同じ助言だった。「二十八。可能なら三十二」。


 葉山さんも、一度だけ顔を出した。忙しいはずなのに、僕のスライドの「空白」を、いつものように直してくれた。


「桐谷くん、ここ、詰めすぎ。空白は、引き算じゃなくて、設計」


「はい」


 杉本さんは、僕の発表の流れの、迷子になりそうなところを、静かに指さした。


 四人で、僕の三十分を、何度か通した。


 二回目の通しが終わったところで、丸山くんが、両手を大きく回して伸びをした。


「桐谷さん、いったん、十分休憩しません?」


「そうしよう」


 黒木が短く同意した。


 葉山さんは烏龍茶のペットボトル、杉本さんはお茶、僕はコーヒー、丸山くんは缶コーヒーを、それぞれ手にした。低いテーブルを、五人で、囲み直した。十月上旬の水曜の夜と、同じ配置だった。ただ、あの夜と違って、丸山くんはいま、飲み物ではなく、二段の目盛りを持って、そこにいた。


「桐谷さん、四ヶ月前の集まりから、フロアの空気、更に、重くなってるっす」


 丸山くんは、缶コーヒーのプルタブを、ぱきりと開けた。


「江口さんの朝会の背中、あの時は、いつもより硬いだけだったんすけど、いまは、いつもより丸まってきてるっす。潰れそう、ではないけど、傾いてる」


 その二段の目盛りを、丸山くんは、静かに置いた。


 葉山さんは、烏龍茶の蓋を、指先で軽く回してから、口を開いた。


「あのね、私、東京のオファー、断ったの」


 その一行を、葉山さんは、静かに、卓の上に、置いた。


「ここで、続けることにした」


「うん」


 僕は、短く頷いた。杉本さんも、黒木も、丸山くんも、それぞれの温度で、静かに、頷いた。


「それから、もう一つ。うちのフロアの、うちのウイングの寮のほうに、楢原さん、というお名前の方が、最近越してきた。組込みから、新設に移った方。二〇二五年の新卒。私と、廊下で、二度お茶を飲んだ」


 葉山さんは、そこで少し、間を置いた。


「楢原さん、こう言ってた。『新設で、女性の技術者同士のネットワークが、静かに、できはじめてるみたい』って」


「うん」


「女性の技術者同士の。真鍋主任と、私と、杉本さんと、楢原さんと、あと、たぶん、他部の何人か」


 葉山さんは、少しだけ、口の端で笑った。


「これは、静かに、始まってる」


 その一行を、葉山さんは、五人の卓の上に、置いた。


 黒木が、缶ビールをひと口飲んで、その隙間に、置いた。


「藤村さん、疲れてる」


「藤村さん」


 僕は、繰り返した。組込みチームの中堅、と、僕は名前だけ知っていた。


「うん。組込みチームで、俺が一年目の頃から、月に一度、俺とアユシュの昼飯を、連れていってくれてた人」


「うん」


「俺、林さんに、一度、話しに行った。俺の側から、林さんに、藤村さんが心配です、って、一行だけ、置いた」


「うん」


「林さんが、その一行を、林さんの側で、受け止めてくれた。俺の側の役割は、その夜で、済んだ」


「うん」


「林さんが、俺に、もう一つだけ、置いてくれた。組込み、たぶん、これから、形が変わる」


 黒木は、それ以上、続けなかった。続けないのが、黒木らしかった。ただ、続けない分の重さが、卓の上に、静かに、残った。


 杉本さんが、両手でお茶のカップを温めながら、静かに口を開いた。


「他の部の噂を、私、この四ヶ月、ぽつぽつと聞いてきた」


「うん」


「うちのチームは、中本さんと、真鍋さんが、守ってくれてる。だから、私、遠くから聞いてる側」


「うん」


「聞きながら、思ったの。品質保証されていない組織って、こういう風に見えるのかな、って」


 その一行は、杉本さんの、QAの手の中の、静かな観察だった。


「他部の噂の中に、テストの話、品質保証の話、レビューが機能してない話、そういう固有の言葉が、時々混じってる。混じり方の背後に、たぶん、その部の品質保証のプロセスが、静かに、崩れているのが、私には、少しだけ、輪郭で見える」


「うん」


 僕は、五人の中で、いちばん静かに、頷いた。


 僕の側からは、Slackの人事チャンネルの一行たちしか、見えていなかった。丸山くんの体、葉山さんの寮の隣、黒木の組込みの内側、杉本さんのQAの手。四つの目盛りが、五人の卓の上で、初めて、同じ方角を向いて、並んだ。


 ……新設事業開発部は、組込みから、逃げる場所にも、なっているのかもしれない。


 胸の内で、僕は、静かに、その一行を、置いた。


 置いてはみたが、その一行を、僕は、口には出さなかった。口に出す代わりに、胸の内の、輪郭のある形として、そこに、置いた。


 葉山さんが、少し、こちらの顔を、見た。


「みんな、大丈夫か?」


 葉山さんの、いつもの、ハブの温度の一行だった。


「大丈夫」


「大丈夫っす」


「大丈夫」


「はい」


 僕たちは、それぞれの短い一行を、それぞれの温度で、静かに、卓の上に、置いた。


「三年目、最後まで、一緒に、走ろう」


 葉山さんが、その一行で、休憩を、閉じた。


 僕たち五人は、それぞれの短い頷きで、その一行を、受け止めた。


 葉山さんが、スマホを取り出して、五つの飲み物の並んだ低いテーブルの上を、俯瞰で、一枚、撮った。


 ソウルのアユシュくんに、六人のLINEグループの方に、静かに、送った。


 三分後に、アユシュくんから、短い返事が来た。


「見てる」


 二文字だった。


 その二文字が、五人の卓の上で、静かに、灯った。


 休憩は、そこで終わった。


 三回目の通しに、僕たちは、静かに、戻った。


 


 通しながら、僕はふと、いない一人のことを思った。


 ……アユシュくんがいたら。


 僕はつぶやいた。


 アユシュくんは、夏に、ソウルに行った。研修員論文発表会には、もういない。退職する前に、簡易の論文を社内のドキュメントに置いて、旅立っていった。


 もしアユシュくんがここにいたら、どんな論文を書いただろう。たぶん、Computer visionと低リソース言語の境界の、研究の話。観察が、国境を越えていく話。アユシュくんの英語混じりの発表は、きっと、この四人の誰とも違う角度から、会場を一度、静かにさせただろう。


 いないアユシュくんの発表を、僕は、見られない。


 その見られなさが、少しだけ、寂しかった。


 


 二月の最後の夜。


 提出した発表資料の、最後のスライドを、僕はもう一度だけ見た。結びの一行に、こう置いた。


「観察は、半径3メートルから始まる。そして、たぶん、半径3メートルに、返っていく」


 三月の第三週、木曜日。本社の大会議室。幹部の席。


 その白い壁と、まだ顔の見えない聴衆を、僕はぼんやり想像した。


 怖さは、あった。


 でも、怖さの隣に、別のものも置かれていた。富岡さんの「部の代表」、白瀬さんの鉛筆の問い、諏訪さんの目論見、丸山くんの「慣れてるっす」、黒木の波の読み方、葉山さんの空白、杉本さんの指。そして、いないアユシュくんの、見られない発表。


 ぜんぶ、僕の三十分の中に、確かに入っていた。


 ノートを閉じた。


 窓の外、桜並木通りの蕾は、まだ固かった。


 ……あと、三週間。


 心の中で、僕はそう確かめた。


 三週間後、僕は、三年を、十数ページと三十分にして、置く。


 置いたあとに何が見えるのかは、まだ分からなかった。分からないまま、僕は、その日まで、もう少しだけ、机に向かう。


 


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