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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第91話「後輩へ、自分が受け取ったもの」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十二月の最終週、月曜日の午前。


 仕事納めの三日前。


 チームAの島の窓の外は淡い曇り空だった。気象予報は午後から雪と告げていた。フロアの空気は年末の少し緩んだ温度で、しかし芯のところには年内最後の納品を控えた緊張が残っていた。


 九時前、自分の島に着いた。


 白瀬さんがすでに席にいた。


「おはようございます」


「おはよう、桐谷くん」


 白瀬さんはいつもの調子で短く頷いた。


 香織さんは九時ちょうどに来た。


「桐谷さん、おはようございます」


 森山くんは九時五分。


「おはようございます」


 いつもの月曜の朝の温度。


 しかし、香織さんの肩のあたりにいつもより、芯のある緊張がそっと乗っていた。


 ……今日、香織さんのプルリクエストが上がってくる予定だ。


 心の中で頷いた。


 


 十時ちょうど。


 社内Slackにレビュー依頼の通知が来た。


「桐谷さん、お願いします」


 香織さんの短い一行と、プルリクエストのリンク。


 マウスでリンクを開いた。


 差分の量はいつもより多かった。チームAの担当している金融系の業務システムの、新しい画面の追加。バリデーションの分岐がやや複雑な箇所だった。


 香織さんはこの一ヶ月、この機能を一人で組み上げていた。年末ぎりぎりまで粘って、最後の最後で僕にレビューを回してきた。


 ……年内に、自分の手で、納品まで運びたい。


 香織さんの思いを、胸の奥で確かめた。


 画面を軽く、整えた。


 差分をゆっくり読みはじめた。


 


 最初の三十分。


 全体の構造を、頭の中で組み立てた。


 画面のクラス分割、メソッドの単位、命名の傾向。香織さんがこの一ヶ月で書いたコードの設計の輪郭がゆっくり立ち上がってきた。


 白瀬さんがこの三年で僕の中に静かに置いてくれた、設計を「最初に俯瞰してから個別を読む」という順番の癖が、自然と手に出ていた。


 ……白瀬さんの読み方が、僕の指の中で動いている。


 内心で短く、その事実に立ち止まった。


 しかし、長く撫でなかった。


 香織さんが待っている。


 次の三十分。


 個別のメソッドに、一つずつ、コメントを置いていった。


 ここの変数名、もう一歩、意図が読み手に届く名前にできる。


 このメソッドは、責任が二つ混ざっている。分けたほうが、半年後に読む人の負担が下がる。


 このバリデーションは、エラーメッセージの文字列が、ユーザーの方角からはわずかに、意味が取りにくい。お客さんの読み手の気持ちをもう一段、想像してみてほしい。


 一行ずつ、丁寧に。


 計、二十件のコメントを置いた。


 最後のコメントの下にいつもの一行を添えた。


「全体の設計は、芯のところでちゃんと立っています。お疲れさまでした。修正のあともう一度回してください」


 送信した。


 


 十一時すぎ。


 香織さんが自席から立ち上がって、こちらの島に来た。


「桐谷さん、ありがとうございます」


 香織さんは穏やかに頭を下げた。


 目の縁に、少し疲れの残った光があった。しかし、その光の奥には、芯のある温もりも確かに混ざっていた。


「香織さん、お疲れさま」


 短く返した。


「コメント二十件、いつものペースで確認しますね」


「うん、よろしく」


 香織さんはすっとこちらの机の脇に立ったまま続けた。


「桐谷さん」


「うん?」


「桐谷さんのレビュー、最近白瀬さんに似てるだけじゃなくて」


 香織さんは短く言葉を整えた。


「桐谷さんのスタイル、になってます」


 その一行を、胸の内で受け取った。


 ふっと、止まった。


 ……いや、ほとんどコピーから入った。


 心の中で軽く、自分にツッコミを入れた。


 しかし、その一行はもちろん、口には出さなかった。


「そうかな」


「はい。白瀬さんのレビューが芯にあって、その上に桐谷さんの『読み手の温度を想像して』っていう一段が乗ってます。最初の三ヶ月は、白瀬さんのコピーの輪郭が強かった。最近の桐谷さんは桐谷さんの輪郭、出てます」


 香織さんは穏やかに笑った。


 ……香織さんが僕のレビューを、こちらより細かく見ていた。


 胸の奥で軽く、頭を下げた。


「ありがとう、香織さん」


 短く返した。


「私もいつか、自分のスタイルを持てたら」


「持てるよ。必ず」


 迷わずに、その一行を返した。


「香織さんの三年で、必ず香織さんの輪郭が出てくる」


「はい」


 香織さんは深く頷いて自席に戻った。


 


 十一時半。


 森山くんがこちらの島に椅子を回してきた。


「桐谷さん」


「うん」


「来年の春、僕もOJT担当することになりそうです」


 森山くんは少し緊張した目で、机の角に手を置いた。


「諏訪マネージャーの後任のマネージャーから、内示が来ています。次の四月、新卒の中の一人を僕が見るかも、って」


「うん」


 短く頷いた。


「森山くん、楽しみだね」


「楽しみです。けど、不安もあります」


「うん、その不安、僕も三年前持ってた」


 森山くんはすっと目を上げた。


「桐谷さん、不安、ありましたか?」


「あった。たぶん、いまの森山くんと同じ種類の不安」


「桐谷さんでも、ですか」


「うん、誰でも」


 短く間を置いた。


「森山くん、一つだけ。君のスタイルでやればいい」


「僕の、スタイル?」


「うん。僕は白瀬さんのスタイルを最初、コピーから入った。それは、それで悪くない。けれど、森山くんが僕のスタイルをまるごとコピーする必要はない。森山くんには、森山くんの三年がある。森山くんの三年から、森山くんのスタイルが必ず立ち上がってくる」


「桐谷さんから学んだ部分も、ちゃんと芯のところには残るでしょうか」


「残る。むしろ、残ったまま、その上に森山くんのものが重なる」


「重なる」


 森山くんはその二文字を内心で繰り返した様子だった。


「桐谷さんから、学びました」


「うん、嬉しい」


 短く返した。


 森山くんは深く頷いて自席に戻った。


 


 森山くんの背中を短く、見送った。


 ……僕、もう教える側、なんだ。


 胸の内で軽く、動揺した。


 三年前、白瀬さんの机の脇で、ペンを震わせていた自分が、ふと浮かんだ。あの時の僕は教わる側だった。今日の僕は教える側、と森山くんの口の中で呼ばれていた。


 しかし、その動揺は、嫌なものではなかった。


 むしろ、嬉しい動揺だった。


 窓の外、空が一段、暗くなった。雪がそろそろ降りはじめる頃合いだった。


 ノートを引き出して、午前の一行を書いた。


「香織さん、僕のスタイル、と呼んでくれた」


 次の一行。


「森山くん、来年OJT担当。君のスタイルでと返した」


 次の一行を少し迷ってから書いた。


「教える側、になっている」


 ペンを置いた。


 午前の空気は芯のところで温かかった。


 


 昼休み。


 社員食堂で、一人で味噌汁を温めた。


 窓の外、ようやく細かい雪が降りはじめていた。


 昼食を終えて、フロアに戻る前に、自分のスマートフォンでLINEを開いた。


 未來さんと僕の、二人だけの小さなトーク。


 夏のインターンが終わったあと、未來さんが大学に戻ってからも、半月に一回くらいの軽い近況のやり取りを、ここで続けていた。


 夏の最後の日、未來さんは「他の会社も見て、温度を確かめて、私の手の中で結論を出します」と言って大学に戻った。秋の終わり、未來さんは「結論が出ました。ヨキエルを第一志望にします」と短く知らせてくれた。本選考は来年、未來さんが大学四年になってからだ。


 受かれば、未來さんは再来年の四月、新卒として、ヨキエルに戻ってくる。


 ……あの時、夏に渡しはじめたものを、いまのうちにもう一段、渡しておきたい。


 心の中で軽く、考えた。


 LINEに、短い一行を書いた。


「未來さん、年内、一日だけヨキエルに来れる?」


「インターン期間の最後の挨拶、っていう名目で人事の沢田さんに話は通しておく。明日の朝、もし大学のスケジュールが空くなら」


 送信した。


 三分後、返信が来た。


「桐谷さん、もちろん、行きます! 明日の朝、九時にはヨキエルのロビーに着けます」


 短く、しかし芯のある返信だった。


「ありがとう。会議室、確保しておく。一時間だけ、もらえる?」


「はい、もちろん」


 LINEを閉じた。


 ……明日、未來さんに、全部、渡す。


 胸の奥で決めた。


 ノートに、昼の一行を書いた。


「明日、未來さん。三十分、もらう。三年分を、渡す」


 ペンを置いた。


 


 月曜日の午後と夕方は、香織さんの修正レビューと、年内最後の納品の最終確認で過ぎた。


 香織さんは午後三時にコメント二十件の修正をすべて反映してもう一度プルリクエストを回してきた。差分は最初より、かたちが整っていた。読み手の方角への距離が、近くなっていた。


「香織さん、いい。マージするよ」


 短い一行を、Slackで返した。


「桐谷さん、ありがとうございます」


 香織さんの一行はいつもより温かかった。


 夕方の六時。


 窓の外、雪は本格的に降りはじめていた。桜並木通りの方角は、淡い白の層が薄く積もりはじめていた。


 退社の前に、ノートに、月曜の最後の一行を書いた。


「明日、朝の会議室。未來さんに三十分で三年分を、渡す」


 ペンを置いた。


 寮への帰り道、雪の中、傘を差して桜並木通りを歩いた。


 桜の木の骨だけの枝の上に、淡い白が薄く積もっていた。


 ……明日。


 内心でもう一度つぶやいた。


 


 火曜日。十二月の最終週の火曜、仕事納めの二日前。


 朝八時、ロビーに降りた。


 ロビーの外、桜並木通りは、昨夜の雪が薄く残ったまま、淡い朝の光の中で静まっていた。


 八時五十分、未來さんがロビーに入ってきた。


 ベージュの薄手のコート、首に巻いた淡いマフラー、肩から下げた小さな鞄。鞄の中から、A5サイズのノートの背が、わずかに見えていた。


 夏のインターンの時より、肩のあたりの輪郭が整っていた。大学三年の冬の佇まい。


「桐谷さん、おはようございます!」


 未來さんは深く頭を下げた。


「未來さん、おはよう。雪、大丈夫だった?」


「はい、駅から歩いて来ました。雪、きれいでした」


「うん、よかった」


 短く頷いた。


「会議室、三階の小さい部屋を取った。九時十五分から、一時間」


「はい」


 未來さんはノートを軽く撫でた。


 その撫で方がふっと、三年前の僕に似ていた。


 


 三階の小会議室。


 長机、椅子四脚、窓は北向き。窓の外、雪の積もった港川市の街並みが淡い朝の光の中で静かに広がっていた。


 扉を閉めた。


 二人で机を挟んで向かい合った。


 壁の時計、九時十五分。


 MacBookは、二人とも、机の上には置かなかった。未來さんは鞄の中からA5のノートとボールペンだけを出した。僕も自分のノートとペンを、机の上に置いた。


「未來さん、三十分だけもらえる?」


 声を整えた。


「はい」


 未來さんは姿勢を整えた。ペンを軽く握って、ノートの新しいページを開いた。ペンの先が、ページの上で短く、待った。


 ……全部、伝えたい。


 胸の内で決めた。


 しかし、慌てない。


 一つずつ、丁寧に渡す。


 ノートの上で、ペンの先がふっと止まった。


 


「半径3メートル」


 最初の一行を声に出した。


「未來さん、夏に、僕が言った言葉、覚えてる?」


「はい、覚えてます」


 未來さんは深く頷いた。


「半径3メートル。自分の手の届く範囲から観察を始める。それが、半径3メートル」


 短く、そのかたちをもう一度なぞった。


「最初の三年で、半径3メートルの中の人と、技術と、お客さんを整える。三メートルの外側は、最初から見ようとしなくていい。三メートルの中を整えれば、外側は自然と見えてくる」


「はい」


 未來さんはノートに、几帳面な字で「半径3メートル」と書いた。書きながら、目を上げた。ペンを止めて、こちらに目を合わせた。


 ……ノートを書く手が、止まらないように。


 心の中で軽く、未來さんのペンを見た。


 しかし、未來さんはペンを止めず、ノートを取り続けた。三年前の僕の手の動きと似ていた。


 


「両輪」


 二つ目の一行を声に出した。


「両輪、っていう言葉も覚えておいてほしい」


「両輪、ですか」


「うん。技術と、事業。どちらか一方じゃなくて、両方を同時に回す」


「両方、同時」


「技術だけ磨くと、自分のコードが誰の役に立っているのかが置き去りになる。事業の数字だけ見ていると、技術の芯が立たない。両方がちゃんと回っていることが、長く仕事を続けるための芯の条件」


「両輪」


 未來さんはノートに「両輪、技術と事業、同時に回す」と書いた。


「これは、入社式で遠野CTOが最初に置いた言葉。二年目に、諏訪マネージャーが事業の数字の側からこの言葉を翻訳して見せてくれた。技術の縦棒と、事業の横棒。二本で少しずつ、僕の三年の両輪が回りはじめた」


「遠野CTOと、諏訪マネージャー」


「うん」


 未來さんは小さく頷いた。


 


「観察」


 三つ目の一行を声に出した。


「観察。これがたぶん、僕の三年でいちばん芯のところに残った言葉」


「観察」


「見るんじゃなくて、観察する。違いは、見るだけじゃ気づかないものに観察なら気づくこと」


 短く間を置いた。


「見るは、目の表面を通り過ぎる。観察は、目の奥で半秒、止まる。半秒、止まると、相手のわずかな変化に気づける」


「半秒、止まる」


「うん、半秒」


 未來さんはノートに「観察、半秒止まる」と書いた。


「桐谷さん」


「うん」


「これ、最初に、誰から、教わりましたか」


 未來さんはペンを止めて、目を上げた。


 短く考えた。


「最初は、遠野CTO。一年目の春、入社式で遠野CTOが言った。『自分の目で見て、自分の頭で考えてほしい』って」


「遠野CTO」


「うん」


「それから、白瀬さんが僕のレビューの中で、止まる呼吸を見せてくれた。諏訪マネージャーが1on1のたびに、僕の話を奥で止めて聞いてくれた」


「先輩たち、みんなで」


「うん、みんなで」


 未來さんはノートに「観察、先輩たちみんなから」と書いた。


「忘れません」


 未來さんは短く、その一行を置いた。


 ふと、もう一つ、付け加えたくなった。


「未來さん、観察を長く続けるには、もう一つ、いるんだ」


「もう一つ」


「視座、視野、視点。三つ揃って、初めて見え方が決まる。どれか一つだと、見え方が歪む」


「視座、視野、視点……」


「視点は、何に焦点を合わせるか。視野は、どこまで見えるか。視座は、どこから見るか。順番に動かす時期が、たぶん二年目か三年目に来る」


「動かす、時期」


「うん。動かしてから、わかる。先に、わかってたら、動かす必要はない」


 未來さんはノートに「視座・視野・視点、動かしてからわかる」と書いた。


 ……これは、たぶん、二年目以降の宿題。今すぐ、わからなくていい。


 そう置いた。


 


 ……時間が、惜しい。


 胸の奥で軽く思った。


 壁の時計、九時二十五分。十分が、もう経っていた。


 しかし、慌てない。


 一つずつ、丁寧に渡す。


 もう一度、心の中で、その姿勢を確かめた。


 


「四種類の優しさ」


 四つ目の一行を声に出した。


「夏のインターンの時に少し、渡したと思う。覚えてる?」


「はい。磨く優しさ、放置する優しさ、気付かない優しさ、気付いていても言わない優しさ」


 未來さんはすらすらと、四つの名前を、口の中で並べた。


 ふっと止まった。


 ……ちゃんと、覚えていた。


 内心で頷いた。


「未來さん、覚えてくれてた」


「夏のあと、何度もノートを開きました。半年で、たぶん二十回くらい」


「うん、ありがとう」


 短く返した。


「四種類の優しさ、夏の僕はまだ輪郭が淡かった。半年経って、もう半段輪郭が出てきた」


「もう半段、ですか」


「うん。磨く優しさは、相手の五年後、十年後の方角に半段、踏み込む優しさ。短い今日の楽さは半段、削ぐ。けれど、長い未来の方角に芯のある贈り物が残る」


「白瀬さんの、レビュー」


「うん、白瀬さん的な優しさ」


 未來さんはノートに「磨く、白瀬さん的、長い未来に贈り物」と書いた。


「放置する、気付かない、気付いていても言わない、は夏の僕の整理から、輪郭はほとんど変わっていない。ただ、半年経ってもう一段、自分の中でこう思うようになった」


 短く間を置いた。


「四種類のどれが正しいとか、四種類のどれが間違いとかは、たぶんない。場面と相手と、自分の状態の中で、四種類の中の一つを選ぶ。選ぶ責任は、選んだ人にある。選んだあとで半秒、止まって、自分が選んだ優しさが相手の方角にどう届いたかを観察する」


「選んだあとで、観察」


「うん」


 未來さんはノートに「四種類、選んで、観察」と書いた。


「忘れません」


 もう一度短く、その一行を置いた。


 


「責任は、上から順」


 五つ目の一行を声に出した。


「これは、諏訪マネージャーが僕の一年目の朝に置いてくれた一行」


「上から、順」


「うん。組織の中で責任を取る順番は、上から、下じゃない。下から、上じゃない。マネージャーがまず、自分の管理責任を引き取る。その後で、メンバーが自分の手元の責任を引き取る」


「マネージャーが、先に」


「うん、先に」


 短く間を置いた。


「下から責任を取らせる組織は、長く続かない。下の士気が芯のところでじわじわ削れていく。組織の土台が少しずつ、崩れていく」


「諏訪マネージャー、いま、新設事業開発部、ですよね」


「うん、十月に異動」


「未來さんも、諏訪マネージャーには、夏、お会いしましたよね」


「はい。諏訪マネージャーは私の中で、いちばん芯のあるマネージャーの姿です」


「うん、それでいい」


 未來さんはノートに「責任は上から順、諏訪マネージャー、芯のあるマネージャー」と書いた。


「これは、夏の僕ももうひとつちゃんと言葉にしておきたかった一行。今日、ちゃんと渡せた」


「忘れません」


 三回目の「忘れません」を、未來さんは短く置いた。


 


「3年で土台」


 六つ目の一行を声に出した。


「これは、遠野CTOが僕の最終面接で、最後に置いてくれた一行」


「3年で土台」


「うん。最初の三年は、自分の場所を作るための土台を整える時間。何かを建てるのは、その後でいい」


「土台、ですか」


「うん。土台が、薄ければ、その上に何を建てても半年で傾く。土台が、芯のあるところまで少しでも整っていれば、その上に何を建てても長く立ち続ける」


「最初の三年は、建てない」


「うん、建てない。整える」


 短く間を置いた。


「未來さんのこれからの三年も、同じ歩幅の三年になると思う。一年目で土台がうっすら見える。二年目で、輪郭が立ち上がる。三年目で、自分の場所の土台が芯のあるところまで整う」


「桐谷さんの三年と半段、重なる歩幅、ですか」


「うん、半段重なる。けれど、未來さんの三年は、未來さんの三年。僕の三年の完全なコピーじゃない」


 短く間を置いた。


「同じ土台の言葉でも、未來さんの土台は、未來さんの輪郭で立ち上がる」


「私の、輪郭」


「うん」


 未來さんはノートに「3年で土台、私の輪郭で」と書いた。


「3年で土台、覚えました」


 短く、その一行を声に出した。


 


 壁の時計、九時四十分。


 二十五分が、経っていた。


 ノートを書く未來さんの手がふっと止まった。


 ノートの上に、六つの言葉が、几帳面な字で、縦に並んでいた。


 半径3メートル。

 両輪。

 観察。

 四種類の優しさ。

 責任は上から順。

 3年で土台。


 六つの言葉の縦の連なりを軽く眺めた。


 ……渡し終えた。


 胸の内でつぶやいた。


 三十分のうちの、二十五分で、三年分を、渡した。


 残りの五分。


「未來さん、ごめん、一気に話しすぎた」


 短く返した。


「いいえ」


 未來さんはノートを軽く撫でた。


「全部、ノートに書きました」


「うん、ありがとう」


「桐谷さん、見てください」


 未來さんはノートをすっと、こちらに回した。


 ノートの上の、几帳面な字を短く眺めた。


 六つの言葉が、淡い罫線の上に、均等な間隔で、縦に並んでいた。


 ……僕の三年前と、同じ姿勢だ。


 心の中で軽く笑った。


 三年前、白瀬さんの机の脇で、僕がノートを書いていた頃と同じ姿勢だった。


「未來さん、いい字書くね」


「ありがとうございます」


 未來さんは小さく、はにかんだ。


 


「未來さん」


「はい」


「四月、新卒で入ってくる時もう一冊、新しいノートを買ってほしい」


「新しい、ノート、ですか」


「うん。このノートは、未來さんの『学生時代のノート』。新卒で入る日の朝、駅前か、寮の近くか、桜並木通りの脇の文具店でもう一冊、買ってほしい。四月一日の朝の新しいノート」


「桐谷さんも、ですか」


「うん。三年前の春、特急を降りた直後、駅前の小さな文具店でA5のノートを一冊買った。表紙は淡いグレー、罫線入り、装飾なし。最初のページに、最初の一行を書いた」


「最初の一行、なんでしたか」


「『明日から、観察を始める』」


 未來さんはすっと目を上げた。


「私も四月一日、最初の一行、書きます」


「うん」


 短く頷いた。


「未來さんの、未來さんの一行で、書いてほしい。僕のコピーじゃなくて」


「私の、一行」


「うん」


 未來さんはノートに「四月一日、新しいノート、私の一行」と書いた。


 


 壁の時計、九時四十五分。


 三十分の終わり。


 二人で椅子から立ち上がった。


「未來さん、来てくれて、ありがとう」


「桐谷さん、こちらこそ、ありがとうございました」


 未來さんは深く頭を下げた。


 会議室の扉を開けた。


 廊下に、二人の足音がそっと響いた。


 三階の廊下の角を曲がったところで、ふっと、別の足音と、すれ違った。


 香織さんと、森山くんだった。二人は三階の給湯室の方角から、紙コップを手に、戻ってくるところだった。


 半秒、目が合った。


 香織さんは、未來さんに小さく頭を下げて、こちらにも、小さく頷いた。森山くんも、軽く頷いて、紙コップを軽く持ち上げた。


 言葉は、交わさなかった。


 二人はそのまま、給湯室の方角と反対の、廊下の奥に静かに歩いていった。


 ……見られていた。


 胸の奥で思った。


 しかし、見られていたことは、嫌なものでは、なかった。むしろ、温かかった。同じ三階のチームAの島の二人が、三階の小会議室の方角にいた未來さんと僕の半時間を、そっと知っていてくれた。


 窓の外、雪は、もう降っていなかった。桜並木通りの方角は、淡い白の層が、まだ薄く残っていた。


「未來さん、再来年の四月、また」


「はい、再来年の四月一日、桐谷さん、よろしくお願いします」


 ロビーまで、二人で歩いた。


 ロビーの自動ドアの前でもう一度、頭を下げ合った。


 未來さんは雪の残った桜並木通りの方角にゆっくり歩いていった。


 ベージュの薄手のコートの背中が、白い通りの中ですっと、輪郭を立てた。


 その背中を見送った。


 


 自分の島に戻った。


 白瀬さんがふっと、こちらに目を上げた。


「桐谷くん、いい顔してる」


 白瀬さんはいつもの調子で短く頷いた。


「ありがとうございます」


 短く返した。


 香織さんも、森山くんも、こちらの方角をちらと見ていた。


「未來さん、来てたのですか」


 香織さんが椅子を回してきた。


「うん、年内、一日だけ。再来年の四月、新卒でここに戻ってくるつもりでいる」


「楽しみです」


 森山くんが笑顔で頷いた。


「楽しみだね」


 短く返した。


 ノートを引き出した。


 午前の終わりの一行を書いた。


「未來さんに三十分で三年分を、渡した」


 次の一行を少し迷ってから書いた。


「いや、渡したのは、僕じゃない」


 もう一行。


「諏訪マネージャーから、白瀬さんから、遠野CTOから、僕の三年の中に流れ込んだものが、未來さんのノートに渡った」


 次の一行。


「観察、が、継承、になっている」


 ペンを置いた。


 火曜の午前の島は、芯のところで温かかった。


 


 午後、年内最後の納品の最終確認。


 チームAの島はいつもの午後よりも、芯のある集中の空気に整っていた。


 香織さんも、森山くんも、白瀬さんも、それぞれの島でそれぞれの仕事を回していた。


 午後四時。


 香織さんのプルリクエストに、富岡マネージャーから新しいコメントが入った。


 画面を開いた。


 富岡マネージャーのコメントは、香織さんのバリデーション周りの一行に静かに下がっていた。


「香織さん、ここのエラー文言、桐谷さんの目で見た時に何が引っかかった? 桐谷さんの目で見たことを、香織さん自身の言葉で説明してください」


 短く、しかし芯のある問い返しだった。


 ……諏訪さんとも、白瀬さんとも、違う型。


 内心で思った。


 諏訪マネージャーは、迷わず引き受ける型だった。「すべて、私の管理責任です」のあの一行が、諏訪マネージャーの芯だった。


 白瀬さんは、口で説明せずに磨く型だった。プルリクエストの上にコメントを置いて、半年後に読む人の負担を下げる、あの距離感が白瀬さんの流儀だった。


 富岡マネージャーは、対話で問い直す型だった。答えを置かない。問いを置く。問いを返されたメンバーは、自分の口で答えを組み立てる。組み立てる過程で、自分の中に芯が立つ。


 四種類の優しさ、磨く優しさ、放置する優しさ、気付かない優しさ、気付いていても言わない優しさ。


 富岡マネージャーの問い返しは、たぶん、そのどれにも、ぴったりは収まらなかった。


 強いて言えば、第五の優しさ。


 ……問い返す優しさ。


 胸の内でその名前を置いた。


 香織さんが自席で短く息を吸って、ノートを開いた。富岡マネージャーの問いに、自分の口で答えを組み立て始めていた。


 その姿勢を、こちらの席から短く見た。


 ……香織さんが、自分の口で組み立てる。


 心の中で頷いた。


 諏訪マネージャーの引き受け型でも、白瀬さんの磨く型でもない方角から、香織さんの三年が、これからもう一段、別のかたちを立ち上げていく予感がそっと立った。


 五時半。


 納品の最終確認が、無事に通った。


 富岡マネージャーから、社内Slackで「桐谷さん、お疲れさまでした。年内、いい仕事でした」と短い一行が来た。


 短く頷いた。


 窓の外、雪は完全に止んでいた。


 桜並木通りの方角、淡い夕焼けが、白い層の上にそっと降りていた。


 


 六時。


 退社の準備をしながら、ノートに、夕方の一行を書いた。


「今日、午前、未來さんに三十分で三年分を渡した」


 次の一行。


「観察、継承の連鎖の中に、僕も入った」


 次の一行を少し迷ってから書いた。


「諏訪マネージャーから、白瀬さんから、遠野CTOから、僕に。僕から、未來さんに。香織さんに。森山くんに」


 もう一行。


「いつか、未來さんから、未來さんの後輩に。香織さんから、香織さんの後輩に。森山くんから、森山くんの後輩に」


 最後の一行を短く、迷ってから書いた。


「渡せた。三年分を、三十分で。けれど、これは、始まりだ」


 ペンを置いた。


 ……順風の中の観察を、渡すのではない。


 もう一つの一行を、胸の内で、そっと、書き足した。


 ……事件の中でも、続ける観察を、渡す。


 その二行の下に、僕は、三ヶ月後の三月の宿題を、そっと、置いた。


 ……三ヶ月後、もう一度、三十分で渡す。


 胸の奥で僕はその一行を確かめた。三月の研修員論文発表会で、僕は社内全員の前で、三年分をもう一度、三十分で渡す。今日の朝の三十分が一回目、三月の三十分が二回目。三十分の継承が、半段ずつ、形を変えて続いていく。


 その三月のための論文は、まだ、書きかけだった。提出は、一月の末。年明けの机の上で、三年分のノートと、その締切が、僕を待っている。


 窓の外、十二月最終週の港川市の方角に、淡い夕焼けが降りていた。


 


 ロビーに降りた。


 自動ドアの外、雪の残った桜並木通りが、淡い夕方の光の中で静かに広がっていた。


 寮までの道をゆっくり歩いた。


 桜の木の骨だけの枝の上に、淡い白が、まだ薄く残っていた。


 ……三年前、この通りを、僕は一人で歩いた。


 内心でつぶやいた。


 あの時の僕はまだ、何も、渡されていなかった。何も、渡していなかった。半径3メートルの中身は淡く、空っぽだった。


 今日の僕の半径3メートルの中には、三年分の言葉が確かに詰まっていた。


 その三年分の言葉が、今朝未來さんのノートに静かに流れていった。


 桐谷蒼太、二十五歳、年の瀬の火曜日。


 継承の連鎖の中に、半ば入った。


 三年前は一人で歩いたこの通りを、今日は、渡したものと一緒に歩いていた。


 


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