第90話「諏訪マネージャーへの報告」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十二月の第四週、火曜日の午後、二時半。
窓の外の桜並木通りは、葉がほとんど落ちて、骨だけの枝が冬の淡い陽の中で静かに立っていた。廊下のリノリウムは、十一月下旬よりさらに半段、冷たかった。
……今日、諏訪さんに、報告する。
心の中で僕はそうつぶやいた。それから、もう一歩、進んだ。
北ウィングの方角に、ゆっくり廊下を歩いた。
諏訪マネージャーの新設事業開発部のオフィスは、十月初旬の引っ越しから、もう二ヶ月半が経っていた。
先週の月曜の朝の十時、僕は同じ廊下を歩いて、諏訪マネージャーの部屋に決断を運んだ。
あの日は決断の運搬のための急ぎ足の朝だった。
今日は違う色合いの午後。
報告というより、お礼のために、もう一度諏訪マネージャーの部屋を訪ねていた。
火曜の朝、社内Slackで諏訪マネージャーに、短く予約のお願いを置いた。
「諏訪さん、先週のご報告のお礼、改めて伺ってもいいですか」
「桐谷くん、もちろん。午後二時半、空いてる」
諏訪マネージャーの返信はいつものとおり温かかった。
扉の前で息を整えた。
ノックを二度。
「どうぞ」
諏訪マネージャーの低く穏やかな声が、扉の向こうから返ってきた。
扉を開けた。
諏訪マネージャーはいつものシンプルなジャケットに、淡いシャツで、応接の小さな丸テーブルの椅子から立ち上がるところだった。
部屋の中は先週よりも整っていた。書類の束はほとんどが書棚の中にすっきり収まっていた。机の上にはMacBookとコーヒーカップが一つ。
「桐谷くん、来てくれたね」
「諏訪さん、お時間、ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「座って」
諏訪マネージャーは穏やかに向かい側の椅子を示した。
ゆっくり座った。
窓の外、十二月の第四週の港川市は、淡い冬の陽の中で静かに広がっていた。先週の月曜から雪は降ったり止んだりで、街路樹の骨だけの枝の上に白い粉が残っている場所がところどころ見えた。
「桐谷くん、改めて、ありがとう」
諏訪マネージャーは穏やかに口を開いた。
「先週、午前十時、君が私の部屋に決断を運んでくれた」
「あの時は急ぎ足のまま、君の声を受け止めた」
「今日、改めて、ゆっくり気持ちをもう一度置き直してもいい?」
「はい」
短く頭を下げた。
「諏訪さん、こちらこそ、改めて三年間、本当にありがとうございました」
深く頭を下げた。
諏訪マネージャーは穏やかに笑った。
「桐谷くん」
「はい」
「君の三年で、私も育ったよ」
その一行は、九月の異動の発表の日、最後の1on1で諏訪マネージャーが置いてくれた一行と、ふっと重なった。
「今日、もう一度その一行を置き直してもいい?」
諏訪マネージャーは穏やかに聞いてくれた。
「はい、お願いします」
短く頷いた。
「君の三年で、私も、育った」
諏訪マネージャーは穏やかにもう一度その一行をこちらに運んだ。
二回目のその一行は、九月の時よりも輪郭がくっきりしていた。
二ヶ月半、諏訪マネージャー自身が新設事業開発部のマネージャーとして、新しい島で自分の責任を運んできた重みが、その一行に確かに乗っていた。
「諏訪さん」
「うん」
「三年前の四月、僕が新卒で入って、最初のチームAの島で、諏訪マネージャーと初めての顔合わせをしました」
「桐谷くん、よく覚えてる、私も」
「六月の初めの最初の1on1で、諏訪さんが僕に置いてくれた一行が、いまふと胸の内に戻ってきました」
声を整えた。
「『君の三年で、私も、育つから』」
「その一行、覚えていますか」
諏訪マネージャーは静かに目を上げた。
穏やかに深く頷いた。
「うん、覚えてる」
「あの一行は、私が君に置いた一行であると同時に」
「私が自分自身に約束した一行だった」
「君の三年に付き合いながら、私自身も育つ、と」
「私の中で、自分に置いた約束の一行」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「その約束を、今日、こうやって君が思い出してくれて」
「私も嬉しい」
「諏訪さん」
「うん」
「あの最初の1on1の日、僕は新卒で、ほとんど何も見えていませんでした」
「諏訪さんが机の上のメモ帳に、三つの期待を書きながら話してくれて」
「JavaとSpringの基礎、白瀬さんから設計の考え方を盗むこと、チームAの仕事の流れ」
「右手の指を三本立てて、一つずつ置いてくれて」
「諏訪さんが穏やかに置いてくれた言葉、いまでも覚えています」
「うん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「あの日、君はメモを取る手が震えていた」
「ペンを持つ指先がかすかに緊張していた」
「うん」
短く頷いた。
「あの日、僕は震えていました」
「いまも覚えています」
「震えながらメモ帳に、三つの期待を書き取りました」
「あの三つの期待が、いまの僕の三年の最初の道しるべになりました」
「諏訪さん」
「うん」
「諏訪さんが僕に置いてくれたものはたくさんありますが、いちばん芯のところで残っているのは、二年目の九月、大きな障害の夜の一行です」
「『すべて、私の管理責任です』」
声を整えた。
「あの夜、大きな障害がお客さんの方角で出てしまった日」
「諏訪さんが電話の向こうの川島部長に、迷わずに僕たちの側に立って、口にしてくださった一行」
「あの一行が、僕の三年のいちばん芯の一行になりました」
「うん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「あの夜の一行を、私自身もよく覚えている」
「桐谷くん、聞いてもいい?」
「はい」
「あの夜、私が『すべて、私の管理責任です』と口にした時、私自身、不安だった」
諏訪マネージャーは穏やかに目元をゆるめた。
「不安、ですか」
「うん」
「自分が、チームの障害を、まるごと自分の管理責任で引き取る、と、お客様に口にして、いいのか」
「迷った」
「しかし、迷う時間より、桐谷くんを守ることが、私の仕事だ、と、胸の奥で決めて」
「口にした」
「うん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「あの夜、私の不安は、電話の向こうからは、何も見えなかったと思う」
「君も、たぶん、見えなかった」
「見えませんでした」
「うん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「マネージャーの仕事は、不安を見せずに、責任を引き取る仕事」
「それを、君がこの夏、インターンの鈴木さんに運んでくれた」
「嬉しい」
「君の選択は、間違いじゃなかった」
「私の選択も、間違いじゃなかった」
諏訪マネージャーは静かに笑みを浮かべた。
「諏訪さん」
「うん」
「諏訪さんから受け取ったものを、後輩に渡します」
頭を下げた。
「いま香織さんと、森山くんと、夏にはインターンの未來さんに渡しているところです」
「私の三年で、まだ半分しか渡せていないかもしれません」
「残りの半分を、これからの三年で渡し終わりたい」
「だから、ヨキエルに残ります」
諏訪マネージャーは静かに目を上げた。
「桐谷くん」
「はい」
「すでに渡してるじゃないか」
その一行は穏やかにこちらに運ばれた。
「鈴木さんに、もう渡してる」
「香織さんと、森山くんにも、もう渡しているところ」
「君が、自分で気づいていないだけ」
「私は二ヶ月半、別の島から、君の島の方角を静かに見ていた」
「君の三年の動きは、ちゃんと、私の目に届いていた」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「諏訪さん」
「うん」
「諏訪さんが、見ていてくれた」
「うん、見ていた」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「別の島に移っても、君の三年は、私の目の中にちゃんといた」
「君が八月、インターンの鈴木さんの小さなバグの日に、私の目の前で『これは私の指導の問題です』と運んでくれた一行も」
「ちゃんと、私の中に残っている」
「嬉しかった」
「あの一行を、君が自分の口で運んでくれた」
「私の三年が、君の三年の中で静かに続いていた」
諏訪マネージャーは笑った。
目の縁がじわりと潤んだ。
しかし、涙は流れなかった。
諏訪マネージャーは、目の縁の潤みを抑えて、穏やかな顔のまま、こちらに視線を戻した。
……諏訪さんの、かすかな潤み。
内心でつぶやいた。
「諏訪さん」
「うん」
「最初の1on1で、諏訪さんが僕に置いてくれた『君の三年で、私も、育つから』の一行」
「あの一行が、いま完成した気がします」
声を整えた。
「『君の三年で、私も、育つから』が、いま『君の三年で、私も、育った』に静かに変わって」
「現在形が、過去形になって」
「約束が、完成形になりました」
諏訪マネージャーは静かに目を上げた。
「桐谷くん」
「はい」
「君の言い方、いいね」
諏訪マネージャーは穏やかに笑った。
「約束が、完成形に」
「私の中でも、確かにその通りになっている」
「嬉しい」
「私のこの三年の、いちばん芯のところに、君がいた」
「君の三年と、私の三年は静かに並走していた」
「並走、いい言葉ですね」
「うん、並走」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「私たち、これからは、別の島で、別の方角を、それぞれ走る」
「しかし、心の中では、これからも、静かに並走している」
「桐谷くん、たまにこちらに来て」
「私と話すのは、私の楽しみだから」
その一行は、九月の最後の1on1で、諏訪マネージャーが穏やかに置いてくれた一行と、もう一度ふっと重なった。
「はい、必ず」
短く頷いた。
「半月に一回くらい、コーヒーでも」
「うん、半月に一回」
諏訪マネージャーは穏やかに笑った。
「半月に一回、北ウィングのこの部屋に訪ねます」
「待ってる」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
ガラスのテーブルの上の、コーヒーカップの細い湯気が、もうほとんど立っていなかった。
窓の外、十二月の第四週の港川市は、淡い冬の陽の中で静かに広がっていた。
「諏訪さん」
「うん」
「最後に、もう一つだけ置かせてください」
「うん、どうぞ」
「諏訪さんが新設事業開発部で、新しい島を立ち上げる方角、応援しています」
「僕のチームAの島から、新設事業開発部の島が見える距離にあります」
「半月に一回、訪ねる以外にも、廊下でお会いしたら、いつものとおり挨拶させてください」
「うん、もちろん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「廊下の角で、半月に一回よりも頻繁にお会いしましょう」
「諏訪さんが新設事業開発部で、新しい島を立ち上げる時に、もし、僕の側で、何かお手伝いできることがあれば」
「声をかけてください」
「僕はヨキエルに残るので、社内の別の島の応援もできる範囲でお手伝いします」
「桐谷くん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「ありがとう」
「もし、君の手を借りたい場面が来たら、声をかけさせてもらう」
「楽しみにしている」
「はい」
短く頷いた。
「諏訪さん」
「うん」
「諏訪さんは、僕の、師、です」
声に出してから、その一文字の重みに少し驚いた。
「あの最初の1on1の日から、いまの今日まで、僕の三年の芯のところで、諏訪さんはずっと、僕の師でした」
「これからも、ずっと、僕の師、です」
「半月に一回、こちらの部屋に伺う時、僕はまだ、諏訪さんから学び続けるつもりです」
諏訪マネージャーは静かに目を上げた。
穏やかに深く頷いた。
「桐谷くん」
「はい」
「私を師、と呼んでくれる、君の声を、ありがたく受け取る」
「しかし、私から、一つだけ、置き直させてもいい?」
「はい」
「君は、もう私だけの生徒ではない」
「君は、香織さんの師、森山くんの師、鈴木さんの師、すでに誰かの師になっている」
「私が君の師であるのと、同じ強さで、君は、誰かの師になっている」
「だから、君と私は、これからは、師と生徒の関係を、二人で、二方向に運ぶ」
「私が、君の師、であると同時に」
「君も、私の、もう一段、別の関係の人、になっていく」
「同志、と、呼ばせてもらおうかな」
諏訪マネージャーは穏やかに目元をゆるめた。
「同志」
その二文字を、胸の内で繰り返した。
杉本さんが先月の終わりの廊下で、僕に置いてくれた一行と、ふっと重なった。
「観察する側の、同志」
杉本さんの一行が、もう一度心の中で立った。
諏訪マネージャーの同志、と、杉本さんの同志、は、別の角度の同志だった。
諏訪マネージャーの同志は、責任を取る側の同志。
杉本さんの同志は、観察する側の同志。
両方が確かに僕の半径3メートルの中で、並んでいた。
「諏訪さん」
「うん」
「同志、嬉しい言葉です」
「二方向の関係、これからも続けてください」
「うん、続ける」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
三時十五分。
握手をして、扉の外まで、見送ってもらった。
諏訪マネージャーの手は、温かく、芯のある手だった。三年前の最初の1on1の日、震えるペンで書き取る僕を、書き終わるまで毎回ちゃんと待ってくれた、あの時間と同じ温度だった。
ドアの脇で、諏訪マネージャーは穏やかに頭を下げた。
「桐谷くん、また」
「諏訪さん、また」
短く頷いた。
扉がそっと閉まった。
廊下の窓の外、十二月の第四週の港川市は、淡い冬の陽を浴びていた。
雪は、降っていなかった。しかし、街路樹の骨だけの枝の上に、先週の雪の白い粉が薄く残っていた。
廊下を、ゆっくり歩いた。
廊下の途中で、一人になった。
息を吐いた。
……諏訪さん、僕の、師。
……これからは、二方向の同志。
二つの一行が、冬の廊下の淡い光の中で静かに並んだ。
北ウィングから、いったん、自分の島に戻った。
ノートを引き出した。
今日の日付の下、最初の一行を書いた。
「諏訪さん、私の、師」
次の一行。
「これからも、ずっと」
次の一行。
「半月に一回、北ウィングのあの部屋に、訪ねる」
次の一行。
「同志、二方向の関係」
最後の一行を、迷ってから、書いた。
「九月に受け取った一行を、今日、置き直してもらった」
ペンを置いた。
窓の外、十二月の第四週の港川市の方角に、淡い冬の陽が降りていた。
火曜日の三時半。
香織さんが自分の島から、こちらの方角をちらと見ていた。
森山くんも、こちらの方角をちらと見ていた。
「桐谷さん」
香織さんが椅子を、こちらに回してくれた。
「諏訪マネージャーの、ところ、ですか」
「うん」
短く頷いた。
「先週の月曜のご報告のお礼、改めて伝えてきた」
「お疲れさまでした」
香織さんは穏やかに頭を下げた。
「桐谷さん、いい顔、してます」
「うん?」
頭を傾けた。
「何か、芯のところで、温かい顔してます」
香織さんは静かに笑みを浮かべた。
「ありがとう」
短く返した。
「桐谷さん、僕にも、いつか、諏訪マネージャーみたいな師になる人、見えてくるでしょうか」
森山くんが椅子を回してくれた。
「うん、見えてくる」
短く返した。
「森山くんの三年の中で、必ず見えてくる」
「楽しみです」
「うん、楽しみ」
短く頷いた。
香織さんも、森山くんも、自分の島の方角に戻った。
自分の島の空気は、いつもの火曜の午後の温度に戻っていた。
しかし、心の中の温度は、もう一段、高くなっていた。
諏訪マネージャーから受け取ったものが、香織さんと森山くんに静かに繋がっていく予感が、立っていた。
継承の連鎖、と胸の奥でつぶやいた。
諏訪マネージャーから、僕に。
僕から、香織さんと森山くんに。
香織さんと森山くんから、いつか、彼らの後輩に。
静かに続いていく予感が、僕の島の上で、温かく降りていた。
夕方、十七時。
いつもより、早めに退社の準備を始めた。
今日は、火曜の夕方。
先週の月曜の朝の決断への、お礼の火曜。
ノートに、最後の一行を書いた。
「継承の連鎖、頂点に確かに届いた」
ペンを置いた。
窓の外、十二月の第四週の港川市の方角に、淡い夕焼けが降りていた。
明日からの三年が静かに立ち上がろうとしていた。
諏訪マネージャーへの報告を、終えて。
桐谷蒼太、二十五歳、冬の火曜日。
半月に一度、北ウィングのあの部屋を訪ねる。師であり、二方向の同志である人のところへ。
その約束を胸に、椅子から立ち上がった。




