第89話「蒼太の決断」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十二月の第三週、月曜日。
朝六時半、目が覚めた。
いつもの目覚ましのアラームが鳴る前に、自分で目が開いた。
窓のカーテンの隙間から、淡い冬の朝の光が入ってきていた。
布団の中で、息を整えた。
……今日、運ぶ。
その三文字をつぶやいた。
燃えるような熱さでは、ない。
昨日の夜、「澪」で四人と画面で二人、計六人と過ごした後の温度が、胸の真ん中に芯のある形で残っていた。
その温度のまま、布団から出た。
六時四十五分。
寮の小さな台所で、湯を沸かした。
マグカップに、インスタントコーヒーをスプーン一杯入れた。湯気がまっすぐ立ち上がった。
……今日、天気は、たぶん、晴れ。
丸山くんの観察を、心の中でそっと借りた。
机の前に座った。
ノートを開いた。
今日の日付の下に、まだ何も書かない。今日の予約の三つを、もう一度胸の奥で並べた。
諏訪マネージャー、十時、新設事業開発部のオフィス、三階の北ウィング。
遠野CTO、十一時、CTO室、三階の南ウィング。
村瀬社長、十四時、社長室、三階の中央。
三つの予約は、先週の金曜の夕方、諏訪さんには社内Slackで、遠野CTOと社長にはそれぞれの秘書経由で、静かに取り付けてあった。桑原さんからは「桐谷さん、お祝いの予約ですね」と明るい返信が社内Slackで来ていた。
お祝い、という言葉を、僕はまだ自分で口に出したくはなかった。桑原さんは先回りして、温かい言葉を返してくれただけだった。
七時半、寮を出た。
いつものバス停まで、コートを着て歩いた。
桜並木通りの方角の街路樹は、葉を全部落としていた。骨だけの枝の上に、淡い青空が広がっていた。
バスはいつもより空いていた。
月曜の朝七時半の上りは混むはずだったが、今日はたまたま空席が多かった。
いちばん後ろの窓側に座って、ノートを膝の上に置いた。
書くつもりはなかった。
ただ、ノートが隣にいてくれるだけで、心の温度が整った。
窓の外、晩秋から初冬の境目の港川市の街並みが、ゆっくり後ろに流れた。
……運ぶ。
心の中で、もう一度復唱した。
八時五十分、社内に入った。
いつもの島で、白瀬さんと、香織さんと、森山くんに朝の挨拶を返した。
「おはようございます」
「おはよう、桐谷くん」
白瀬さんはいつもの調子で頷いた。
「桐谷さん、おはようございます」
香織さんは小さく頭を下げた。
「おはようございます、桐谷さん」
森山くんはお辞儀した。
「今日、僕、十時から十一時、十四時から十四時半、席を空けます」
島に向けて、報告した。
「了解です」
白瀬さんは穏やかに頷いた。
「桐谷さん、何かありますか」
香織さんは聞いてきた。
「ある」
短く頷いた。
「夕方には、戻ります」
「了解しました」
香織さんは穏やかに頷いた。
香織さんはたぶん、先週の社長室の予約のことを覚えていた。何かを聞きたそうな目を、引いてくれた。
その引き方が、香織さんの三年目の予感の形だった。
九時の朝会を、いつも通りに済ませた。
九時十五分、自分の島で、メールとSlackの未読をざっと整理した。
九時四十五分、立ち上がった。
ノートを左の手に持った。
ペンは胸ポケットに軽く差した。
北ウィングの方角に、ゆっくり歩いた。
廊下の窓の外、十二月の月曜の朝の港川市は、淡い青空の下で静かに広がっていた。
十時。新設事業開発部の小さな会議室。
三階の北ウィングの奥、十月初旬に諏訪マネージャーが引っ越したばかりの島の、応接の小さな部屋。
扉の前で、息を整えた。
ノックを二度。
「どうぞ」
諏訪マネージャーの低く穏やかな声が、扉の向こうから返ってきた。
扉を開けた。
諏訪マネージャーは、いつものシンプルなジャケットに淡いシャツで、応接の小さな丸テーブルの椅子から立ち上がるところだった。
「桐谷くん、来てくれたね」
「諏訪さん、お時間、ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「座って」
諏訪マネージャーは穏やかに向かい側の椅子を示した。
ゆっくり座った。
諏訪マネージャーの新設事業開発部のオフィスは、まだ引っ越しの匂いがする部屋だった。壁の白い塗装がまだ新しかった。机の上には、まだ書類が整理しきれない束で置かれていた。
「先週、Slackで予約、ありがとう」
諏訪マネージャーは穏やかに口を開いた。
「予約の件名に『ご報告』とあったので、たぶん、何か見えたんだろう、と」
諏訪マネージャーは穏やかに笑った。
「はい」
短く頷いた。
ノートを膝の上で開いた。
書いたものは、何もなかった。
ただ、ノートが隣にいてくれた。
声を出す前、僕は胸の内で、この四ヶ月の重さを、静かに、確かめた。
八月末のアユシュくんの退職の通知から、今日までの、社内Slackの人事チャンネルの、退職の一行と異動の一行。数えたわけではないが、たぶん、指の両手では、足りない数だった。指の両手で足りない数の一行たちが、この四ヶ月、僕の朝の島の胸の内に、順に、しまわれてきた。
組込みの島から、静かに、人が減っていた。同じ組込みから、諏訪マネージャーの新設事業開発部の方に、桧山さん、花巻さん、楢原さん、と三人が、移った。数の後ろにある動きの輪郭を、僕はまだ、はっきりとは掴めていなかった。ただ、掴めない輪郭のまま、こう思うことだけは、できた。
……新設事業開発部は、たぶん、僕が思っているよりも、大きな装置だ。
その一行を、僕は、今日のこの会議室に運んでくる前に、寮の机の上で、一度だけ、書いた。書いてから、書いた一行を、しばらく眺めていた。
新設は、諏訪マネージャーが受け取った、たぶん、いくつかの一行の集まりだった。あの日、CTO室の隣の小会議室の扉の内側で、諏訪マネージャーが受け取ったものの内容までは、僕には、届かない。届かないまま、諏訪マネージャーは、いま、その装置の現場で、一人、立っている。
そして、その装置の外側の、いまのチームAの島で、僕は、これから、続けようとしている。
……壊れかけている場所で、変える側に立つ、というのは、こういうことか。
その一行を、僕は、この会議室に来る前の桜並木通りの朝の街灯の下で、初めて、自分の言葉として、置いた。
壊れかけている、と、僕は自分の地の文で、ちゃんと書いていいと判断した。全部の中身までは、僕には、まだ、見えていない。ただ、一つの島の空気が半段重くなり、そこから静かに人が減り、隣の島の空気も少しだけ硬くなる。その温度の重なりを、僕は、四ヶ月、朝の島で、浴びてきた。浴びた温度の中で、それでも、続けたい、と、僕の芯が言った。
その芯の一行を、いま、諏訪マネージャーの前に、運ぶ。
「諏訪さん」
息を整えた。
「僕は、ヨキエルに、残ります」
その一行を、声に出した。
「九月に、諏訪さんが、三つの道を置いてくれました」
「諏訪さんについていく、ここに残る、別の会社に動く」
「三ヶ月、迷いました」
「諏訪さんから受け取ったもの、白瀬さんから学んだもの、遠野さんから聞いた言葉、社長から託された期待」
「全部、ここで、続けたい、と思いました」
「変える側に、立ちます」
短く続けた。
諏訪マネージャーは静かに僕の声を聞いていた。
穏やかに目を温かくした。
「桐谷くん」
「はい」
「君の選択を、応援する」
その一行は、低くしかし芯のある声でこちらに運ばれた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「私についてくる、を、選ばなかった理由は、聞いてもいい?」
「はい」
息を整えた。
「諏訪さんについていく、は、安心な道、でした」
「諏訪さんの新設事業開発部で、諏訪さんの下で、新しい島を見られる」
「魅力的な道、でした」
「しかし、迷ってから、僕はいまの島で続けたい、と思いました」
「諏訪さんから受け取ったものを、後輩の香織さんと森山くんに、渡す途中だから」
「諏訪さんが今年の春、僕に渡してくれたものを、僕はまだ半分しか渡せていない」
「あと半分、渡し終わるまで、いまの島に残りたい」
「それから、もう一段、別の道を選んでもいい、と思いました」
諏訪マネージャーは静かに頷いた。
「桐谷くん」
「はい」
「君の半分の理由は、私が聞きたい理由だった」
「ありがとう」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「香織さんと森山くんに渡す途中、というのは、君らしい理由」
「君の三年で、私も育った」
その一行は、九月の異動発表の日の最後の1on1で、諏訪マネージャーが置いてくれた一行と、ふっと重なった。
「諏訪さん」
「うん」
「これからも、たまにこちらに来ます」
「君と話すのは、私の楽しみだから」
諏訪マネージャーは穏やかに目元をゆるめた。
「桐谷くん、頑張れ」
「はい」
深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
諏訪マネージャーは穏やかに立ち上がった。
握手をして、扉の外まで見送ってくれた。
廊下の窓の外、月曜日の十時半の港川市は、淡い陽を浴びて静かに広がっていた。
十一時。南ウィングの方角に、ゆっくり歩いた。
CTO室の前の廊下は、いつものように静かだった。
ノックを二度。
「どうぞ」
低く穏やかな声が扉の向こうから返ってきた。
扉を開けた。
遠野さんはいつもの白いシャツに、グレーのスラックスで、ホワイトボードの前に立っていた。
ホワイトボードには、十月下旬の二度目の対話の時に、遠野さんが黒のマーカーで描いた三つの円が薄くまだ残っていた。
①半径3メートル。
②家族。
③逃げ場。
三つの円が薄く残っていた。
遠野さんはこちらに視線を上げた。
「桐谷くん、来たね」
「お時間、ありがとうございます」
短く頭を下げた。
「座って」
遠野さんは応接の小さな丸テーブルに移ってくれた。
いつもの場所、いつもの位置。
お茶は、今日はまだ運ばれていなかった。三十分の予約に、お茶は省かれていた。
「先週の予約、件名『ご報告』、楽しみにしていた」
遠野さんは静かに笑みを浮かべた。
「はい」
「で、答えは出た?」
遠野さんは穏やかに聞いた。
その聞き方は、急かす感じではなく、ただ温かく待つものだった。
「遠野さん」
「うん」
「僕は、ヨキエルに、残ります」
その一行を、声に出した。
「変える側に、立ちます」
「諏訪さんから受け取ったもの、白瀬さんから学んだもの、遠野さんから聞いた言葉、社長から託された期待」
「全部、ここで、続けます」
遠野さんは静かに僕の声を聞いていた。
穏やかに頷いた。
「いい答えだ」
遠野さんは静かに低く頷いた。
「半径3メートルが繋がる時を、楽しみにしている」
その一行は、十月下旬の二度目の対話で遠野さんが置いてくれた「半径3メートルが繋がる時、変革が起きる」の一行と、同じ方角を指していた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「桐谷くん」
「はい」
「君が残る、ということは、私と君の半径3メートルが、繋がる、ということ」
「これから、楽しみだ」
遠野さんは笑った。
「桐谷くんの島と、私のCTO室は距離は遠いが」
「ノートと、観察で、繋がる」
「はい、繋がります」
短く頷いた。
「桐谷くん、もう一つだけ、置かせて」
「はい」
「変革は、地味だ」
「秋の終わりに、私が置いた一行を、もう一度置く」
「派手にやろうとすると、燃え尽きる」
「君は、地味に続ける道を選んでくれた」
「ありがとう」
遠野さんは穏やかに頷いた。
「いえ、こちらこそ」
頭を下げた。
「桐谷くん」
「はい」
「ホワイトボードの三つの円、覚えてる?」
遠野さんはホワイトボードの方角を目で示した。
「はい」
「①半径3メートル、②家族、③逃げ場」
「君も、自分の三つを整えていって」
「特に、③逃げ場は、忘れがちだから」
「同期の六人、行きつけの店、会社の外の友人、複数持っていて」
「持ってます」
短く頷いた。
「ご褒美だね」
遠野さんは穏やかに笑った。
「頑張って」
「はい」
深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
遠野さんは扉の外まで見送ってくれた。
廊下の窓の外、月曜日の十一時半の港川市は、淡い陽の中で明るくなり始めていた。
十二時から、社員食堂の窓側のいつもの席に、ひとりで座った。
日替わり定食、鯖の塩焼き、味噌汁、ご飯、小鉢の切り干し大根。
箸を運びながら、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
同期六人のLINEグループを開いた。
グループは、十一月中旬の同期飲み以降、雑談でひと月、温まっていた。
葉山さんが三日前「パッケージの新機能、年内に出せそう」と書いていた。
黒木が二日前「組込みチームの新人の宮岡くん、伸びてきた」と書いていた。
丸山くんが昨日「『澪』、もう一回行きたいっす」と書いていた。
杉本さんが今朝「いとこの結婚式、楽しかったです」と書いていた。
アユシュくんが半日前「ソウルの仕事、楽しい」と書いていた。
画面を、目で追った。
それから、新しい投稿欄に、指を動かした。
短く一行だけ書いた。
「残ることにしました」
ペンの代わりに、送信ボタンを押した。
時計は、十二時十五分。
自分の机の上のお茶を、口に運んだ。
送信から、三秒。
丸山くんの通知が、最初に、画面に立ち上がった。
「マジっすか…っす」
続けて、もう一行。
「桐谷さんらしいっす」
葉山さんが続いた。
「うん、桐谷くんらしい」
アユシュくんが続いた。ソウルからの返信。
「Soota, congratulations. I knew it」
画面の中の文字が、温かく立ち上がった。
黒木が続いた。
「うん」
一文字、しかし重い、低い一文字。
杉本さんが続いた。
「桐谷くん、よかったです」
五つの返信が、ほぼ同時に、画面の中に並んだ。
……五つ、で。
胸の奥で、その温度を確かめた。
誰一人、長く語らない。
しかし、五つの返信は、確かにこちらに伝わっていた。
丸山くんの「っす」。
葉山さんの「うん」。
アユシュくんの英語と日本語の混じり方。
黒木の一文字の「うん」。
杉本さんの「です」。
五つの語尾が、それぞれの三年の温度を運んでいた。
もう一行、画面の中に小さく追加で立ち上がった。
黒木からの一行だった。
「いま、組込みチームのチャンネルで大沢さんからも、お疲れ、と一言来ました」
短く、運ばれた。
画面の中の七文字を、二度、目で追った。
……大沢さん、お疲れ。
内心で、その七文字を繰り返した。
八月末のアユシュくん送別の夜、大沢マネージャーが「お前、よく頑張った」と置いてくれた一行から、もう三ヶ月。あれ以降、大沢マネージャーは後景に静かに下がっていた。しかし組込みチームの島から、ちゃんと、今日の空気を見ていた。
半身は気付かない、半身は見ている、大沢マネージャーの温度。
いまも、変わっていなかった。
「黒木、ありがとう」
短く、LINEに返した。
黒木は、それ以上、何も書かなかった。
黒木らしい運び方だった。
……半径3メートルの、いちばん内側の五人。
その三年の絆を確かめた。
お茶を、もう一口口に運んだ。
味噌汁が温かかった。
昼休みを終えて、十三時に、自分の島に戻った。
午後の島は、いつも通り静かだった。
香織さんはレビューに集中していた。
森山くんはお客様への、メールの返信を打っていた。
白瀬さんはいつもの席で、コードに集中していた。
MacBookの画面の通知欄に、白瀬さんからの社内Slackの個別メッセージがふっと点った。
開いた。
短く一行だけ書かれていた。
「桐谷くん、いい選択だ」
目を上げて、白瀬さんの席を見た。
白瀬さんは、こちらに目を上げなかった。
画面に集中したまま、コードを書いていた。
……白瀬さんの、いつもの距離感。
内心で小さく頷いた。
白瀬さんは、口で何かを言う人ではなかった。
半行のSlackのメッセージで、十分な人。
その一行で、十分だった。
返信を書いた。
「白瀬さん、ありがとうございます」
送信した。
白瀬さんからの返信は、なかった。
それでよかった。
白瀬さんの一行と、僕の一行で、完結していた。
……半径3メートルの、次の一段。
胸の内でつぶやいた。
十三時半。
午後の打ち合わせのために、廊下を、北ウィングの方角に歩いた。
別の会議室の予約があった。チームAの定例の振り返り会議が、十三時半から十三時五十分、北ウィングの会議室一号で入っていた。
廊下の角を曲がろうとした、その瞬間。
向こう側の角から、諏訪マネージャーが歩いてきた。
諏訪マネージャーは新設事業開発部から、別の会議の方角に移動しているところだった。
お互い目が合った。
諏訪マネージャーは何も言わなかった。
ただ、穏やかに低く、深く頷いた。
その頷きには、お祝いの言葉も、激励の言葉も入っていなかった。
ただ、深く頷いただけ。
その頷きが、すべてだった。
僕も、何も言わなかった。
同じ深さで、頷き返した。
二人の頷きは、廊下のいつもの空気の中でそっと重なった。
諏訪マネージャーは、向こう側の方角にゆっくり歩いていった。
僕はこちら側の方角にゆっくり歩いていった。
廊下の角で、もう一度振り返ろうとして、振り返らなかった。
……諏訪さんの頷きで、十分。
心の中で頷き返した。
諏訪マネージャーの頷きの温度は、十時の応接の小さな部屋で受け取ったものと、同じ深さだった。声に出さなくても、同じものが、廊下の角でもう一度運ばれた。
十三時半からの振り返り会議を、いつも通りに終えた。
香織さんが来週のスプリントの進捗を、丁寧に報告した。森山くんが新しいテストケースの考え方を共有した。白瀬さんが穏やかにそれぞれに頷いた。
会議が終わって、十四時の少し前。
社長室の方角に、廊下をゆっくり歩いた。
CTO室の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
CTO室のガラスのドア越しに、遠野さんがこちらに気づいた。
遠野さんは、机の前のMacBook Proから、視線を上げた。
ガラス越しに、こちらと目が合った。
遠野さんは静かに低く頷いた。
お祝いの言葉も、激励の言葉もなかった。
ただ、軽く頷いただけ。
その頷きが、十一時の応接の小さな丸テーブルで運ばれたものと、同じ深さだった。
僕も、廊下の側から頷き返した。
ガラス越しの、短い頷きの交換。
遠野さんは視線を、MacBook Proの方角にゆっくり戻した。
僕は廊下を、社長室の方角に歩き続けた。
……ガラス越しの頷きで、十分。
胸の奥で頷き返した。
半径3メートルの、もう一段、外側の灯り。
灯りが、一段ずつ、温かく、僕の側にぽつぽつ点いていた。
社長室の前の廊下、十四時の一分前。
桑原さんが奥の方角からこちらに歩いてきた。
「桐谷さん、お時間です」
「ただ、社長、いま来客対応の最後の方で、五分押しています」
「お待ちいただけますか」
「はい、もちろん、お待ちします」
短く頭を下げた。
「社長室のドアの脇のソファで、お待ちください」
「はい」
桑原さんは穏やかに頷いた。
社長室のドアの脇に、小さな二人掛けのソファが置かれていた。
ゆっくり座った。
窓の外、月曜日の十四時の港川市は、淡い陽の中で静かに広がっていた。
社長室のドアがそっと開いた。
来客の方が、お二人、出てこられた。
市役所の方角の方、と見えた。スーツの色と、お辞儀の作法が、市役所のお作法だった。
社長は、ドアの脇まで見送りに立っていた。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
社長は穏やかに低く頭を下げた。
来客の方々は、エレベーターの方角にゆっくり歩いていった。
社長は、ドアの脇で、来客の足音が廊下の角を曲がるまで見送っていた。
その立ち姿は、四十四年、ヨキエルの中で、お客さんを送ってきた人のものだった。芯のある立ち姿。
来客の足音が遠く消えた。
その瞬間、社長は、ふと廊下の窓の外の方角を見た。
ふっと、短い沈黙。
わずかに、社長は、窓の外の冬の空を、目でそっと撫でた。
その沈黙の中に、お祝いの言葉も、激励の言葉も入っていなかった。
ただ、立ち止まって、窓の外を目で撫でただけ。
しかし、その短い沈黙が、祝福になっていた。
社長は、こちらに視線を戻した。
「桐谷くん」
穏やかに低く口を開いた。
「五分、お待たせした」
「いえ、こちらこそ」
頭を下げた。
「どうぞ、入って」
社長は穏やかにドアの方角を示した。
社長室の応接の三人掛けのソファに座った。
社長は一人掛けの椅子に、ゆっくり腰を下ろした。
桑原さんがすぐにお茶を運んできてくれた。緑茶の湯気が、ガラスのテーブルの上で薄く立った。
扉がそっと閉まった。
「桐谷くん、ご報告、と、Slackの件名で見たよ」
社長は穏やかに口を開いた。
「先日、社長室で、君から聞いた問いの答えの方角、たぶん、今日運んでくれる、と思っていた」
社長は穏やかに笑った。
「はい」
ノートを膝の上で整えた。
「社長」
「うん」
「僕は、ヨキエルに、残ります」
その一行を、声に出した。
「諏訪さんから受け取ったもの、白瀬さんから学んだもの、遠野さんから聞いた言葉、社長から託された期待」
「全部、ここで、続けます」
「変える側に、立ちます」
社長は静かに僕の声を聞いていた。
穏やかに深く頷いた。
その頷きは、午前の諏訪マネージャーの頷きとも、午前の遠野CTOの頷きとも、違う深さだった。
四十四年、ヨキエルで働いてきた人の頷きの深さだった。
芯のある、低い頷き。
「桐谷くん」
「はい」
「君は、私の味方だ」
その一行を、社長は穏やかに低くこちらに運んだ。
「先日、私がもしいつか君が離れる選択をしても、君は私の味方、と置いた一行を覚えているかい」
「はい」
「今日、君が残るという選択を、自分の口で運んでくれた」
「嬉しい」
「しかし、もし君が別の選択を運んでくれていても、私の一行は、同じだった」
「君は、私の味方」
「私も、君の味方」
「それが、四代目八年目、四十四年の中で、決まっている一行」
社長は穏やかに頷いた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「桐谷くん」
「はい」
「三年後、もし、また君が選択する時期が来た時、君が自由に選べるように」
「私たちも、頑張る」
「君のいるヨキエルが、君が残ってよかった、と思える場所であり続けるように」
「経営側も、努力する」
「半段ずつ、変える」
「先日、置いた一行を、もう一度君に約束する」
社長は穏やかに低く頷いた。
「はい」
短く頭を下げた。
「社長」
「うん」
「半段ずつ、変える、というのは、僕の三年と、同じ歩幅です」
「僕も、半段ずつ、観察を続けます」
「半径3メートルから、もう一段、外側に広げていきます」
「うん」
社長は穏やかに深く頷いた。
「君と私、たぶん、同じ歩幅」
「嬉しいね」
社長は小さく笑った。
握手をして、社長室の扉の外まで、見送ってもらった。
ドアの脇で、社長は穏やかに頭を下げた。
「桐谷くん、また」
「社長、また」
短く頷いた。
扉がそっと閉まった。
桑原さんが廊下の奥から軽く頷いてくれた。
「桐谷さん、いいご報告ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
頭を下げた。
社長室の前の廊下を、ゆっくり歩き出した。
廊下の窓の外、十二月の月曜日の十四時半の港川市は、淡い陽の中で明るく広がっていた。
十五時。長い廊下の途中で、一人になった。
息をそっと吐いた。
……五つの返信、白瀬さんの一行、諏訪さんの頷き、遠野さんの目線、社長の沈黙。
心の中で、五つの反応の温度を並べた。
拍手は、なかった。
誰も、大声で騒がなかった。
しかし。
胸の真ん中で、何かが、確かに燃え始めていた。
芯のある火。
派手な火では、ない。
地味な、しかし、芯のある火。
遠野さんが秋の終わりの午後、CTO室で置いてくれた一行を、内心でもう一度なぞった。
「変革は、地味だ。でも、地味だから、続く」
その一行と、いま胸の真ん中の火は、同じ方角を指していた。
……同期五人、白瀬さん、諏訪さん、遠野さん、社長。
半径3メートルが、内側から外側へ、順に灯っていく感覚。
いちばん内側の同期五人の輪。
その外側の白瀬さんの輪。
その外側の諏訪さんの輪。
その外側の遠野さんの輪。
その外側の社長の輪。
五つの輪が、胸の内で灯っていた。
遠野さんが二度目の対話で言った「半径3メートルが繋がる時、変革が起きる」の一行が、いま形を持っていた。
……半径3メートルが、繋がった。
その一行を、心の中で繰り返した。
ふと、二年目の終わりの、あの夜のことが戻ってきた。
同期で集まって、それぞれの場所を地図の上で確かめ合った夜。あのとき、僕の場所だけが、まだ白かった。
黒木は、まだ固まっていないテックリード補佐の椅子に、自分から座った。杉本さんは、ヨキエルにまだ十分でない品質を、文化として立てる側に回ろうとしている。丸山くんは物流の現場に、アユシュくんは韓国の研究の場所に、それぞれ自分で線を引いた。
……僕も、誰かに用意された椅子じゃなく、自分で形を決める側に立ちたい。
その一行が、いま、白かった場所に、ようやく降りていた。
二年目の終わりの夜、葉山さんが僕に置いてくれた一行も、戻ってきた。
……桐谷くんは桐谷くんで、考え抜いてから決めればいい。
あれから一年。僕はたぶん、ぎりぎりまで考え抜いた。三つの開発部を歩いて、遠野さんと二度話して、社長と話して、「澪」で何度も独りで言葉を並べ直した。考え抜いた末に降りてきたこの一行は、だから、ぐらつかなかった。葉山さんが、あの夜、もうひとつ置いてくれた通りだった。悩み方がぎりぎりまで深いと、決めたあとは、ぐらつかない。
顔を上げた。
いつの間にか、自分の島の近くまで戻ってきていた。
チームAの島の方角に、ゆっくり歩いた。
島の手前で、富岡マネージャーがこちらに気づいた。
「桐谷くん、おかえり」
富岡マネージャーは穏やかに声を整えた。
「ただいま戻りました」
短く頭を下げた。
富岡マネージャーは十月初旬から、チームAに着任した新しいマネージャー。
「いいご報告、できた?」
富岡マネージャーは穏やかに聞いた。
富岡マネージャーは、たぶん、僕の今日の予約を、知っていた。新しいマネージャーとして、僕の三つの予約の意味を察してくれていた。
「はい」
短く頷いた。
「お疲れさま」
富岡マネージャーは穏やかに薄く笑った。
「こちらでも、楽しみにしている」
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げた。
富岡マネージャーの言葉は、諏訪マネージャーとは違う温度だった。しかし、誠実だった。
これからのチームAでの三年が、たぶん、温かい場所で続いていく予感がそっと立った。
自分の席に座った。
ノートを、机の上で開いた。
今日の日付の下、空白のページの最初の一行に、ペンを動かした。
「決めた」
置いた。
「残って、変える側に、立つ」
次の一行。
「諏訪さんに、十時、伝えた」
次の一行。
「遠野さんに、十一時、伝えた」
次の一行。
「社長に、十四時、伝えた」
次の一行。
「同期五人、十二時十五分、LINEで」
次の一行。
「白瀬さん、十三時、Slackで一行」
次の一行。
「諏訪さんの頷き、十三時半、廊下で」
次の一行。
「遠野さんの目線、十四時十分前、ガラス越しで」
次の一行。
「社長の沈黙、十四時、社長室前で」
九つの一行が静かに並んだ。
ペンを止めた。
最後の一行を、書いた。
「半径3メートルが、内側から外側へ、順に灯った」
ペンを置いた。
窓の外、十五時の港川市の方角に、視線を上げた。
淡い光の中に、何かが降りていた。
……雪。
桜並木通りの方角の街路樹の骨だけの枝の上に、淡い冬の雪が降り始めていた。
今シーズン、最初の雪。
白い小さな粒が、ゆっくり空から降りてきていた。
……雪、か。
胸の奥で、その一文字をつぶやいた。
雪は派手ではなかった。
地味に、ゆっくり降りていた。
いまの僕の胸の真ん中の火と、同じ温度の地味さでしずかに降りていた。
静かだ。
誰も、大声で祝ってくれない。
でも、それが、いい。
この静かさの中に、僕の三年が静かにある。
拍手は、ない。
しかし。
燃えている。
胸の真ん中で、何かが、確かに、燃えている。
燃えるような熱さでは、ない。
しかし、芯のところで、確かに、温度が、ある。
その温度を、胸の奥で確かめた。
ノートの最後のページに、もう一行だけ書いた。
「拍手はない。でも、燃えている」
ペンを置いた。
窓の外、桜並木通りの方角に、雪がしんしんと降り続けていた。
桐谷蒼太、二十五歳、冬の月曜日。
人生の選択を、自分の口で運んだ日。
半径3メートルが、内側から外側へ、順に灯った日。
胸の真ん中で、確かに、火が、灯った日。
ノートを閉じた。
窓の外の雪がしんしんと降り続けていた。




