第87話「蒼太の決断、前夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十二月の第二週、土曜日。
夜十九時。
港川市の川沿いの住宅地を、ひとりで歩いた。
冬の風はもうぴんと硬い。コートの襟を立てて、両手をポケットに入れた。歩道の脇の銀杏は、最後の一枚を落としかけていた。落葉の上を踏みながら歩いた。
「澪」の灯りが、川沿いの古い民家の塀の角の向こうにぼんやり見えた。
小料理屋「澪」。
一ヶ月ぶりだった。
十一月初旬に葉山さんと一緒に来た夜以来。あの夜、葉山さんは僕の三つの道を一緒に考えてくれて、「君はたぶん、ここに残るんじゃないかな」、と置いてくれた。
今夜、僕はひとりで「澪」に来た。
月曜の決断の準備のために。
……月曜、決断を運ぶ。
その四文字をつぶやいた。
白木の引き戸を押した。
ガラリ、と低く音が立った。
「いらっしゃい」
篠原玲奈さんの低く穏やかな声が、奥のカウンターから返ってきた。
「桐谷さん、お久しぶり」
玲奈さんはこちらに身体を向けて、笑った。
「玲奈さん、お久しぶりです」
短く頭を下げた。
カウンター六席のうち、奥から二番目の席に、ひとりで座った。客はいまのところ、僕ひとりだった。
冬の土曜の夜の十九時、この店は客の入りが少ない、と聞いたことがあった。今夜はちょうど、その静かな夜だった。
「お任せで、いいですか」
「お任せで、お願いします」
「日本酒は?」
「玲奈さんに、お任せします」
「冷たいの、温かいの、どちらか」
「温かいので」
「はい」
玲奈さんは穏やかに頷いた。
白木のカウンターの感触は、いつもと同じだった。指先で撫でた。木目の隙間に、ぬくもりがあった。
「桐谷さん、今日は特別な日?」
玲奈さんは小さな徳利を、燗の鍋に入れながら聞いた。
迷った。
迷ってから頷いた。
「玲奈さん」
「うん」
「月曜に、決断します」
短く返した。
玲奈さんはこちらに視線を上げた。
大げさな驚きでもなく、大げさな祝福でもなく、ただ穏やかな受け止めの目で、僕を見た。
「お祝い、しましょうか」
「それとも、静かに?」
玲奈さんは穏やかに聞いてくれた。
「静かにお願いします」
「はい」
玲奈さんは短く頷いた。
「お祝いは、決断したその日に」
「はい」
「今日は、静かに」
「お願いします」
もう一度頭を下げた。
玲奈さんはそれ以上、何も聞かなかった。
徳利を、燗の鍋の中で回した。
鍋の縁の細い湯気が、立ち上った。
最初のお皿が、僕の前に置かれた。
季節の魚の薄づくり。
白い磁器の皿の上に淡く赤い切り身が扇の形に並んでいた。脇に紫蘇の葉と、白いおろし大根、少しの山葵。
「鰤、です」
「冬の脂がほどよく乗り始めています」
玲奈さんは穏やかに説明してくれた。
「ありがとうございます」
箸を取った。
切り身を一切れ、口に運んだ。
脂が、口の中で広がった。冬の魚の、しっかりした脂。
「美味しい」
短く口に出した。
「ありがとうございます」
玲奈さんは小さく笑った。
徳利が温まって、玲奈さんは僕の前に置いてくれた。
お猪口に注いだ。
湯気が薄くお猪口の上で立った。
一口、口に含んだ。
温かい酒が、喉の奥をゆっくり降りていった。
……ちょうどいい。
心の中で小さく頷いた。
二品目は出汁の効いた茶碗蒸しだった。
蓋を取ると、ふわりと湯気が立った。中に、銀杏と、薄切りの鶏肉と、椎茸。
スプーンですくった。
出汁の温もりが、口の中で広がった。
……温かい。
玲奈さんは、僕がスプーンを動かす音だけを聞いてくれていた。何も話さなかった。
しばらく、静かな間が、カウンターの上で続いた。
その静かさを、玲奈さんは守ってくれていた。
……静かにお願いします、と頼んだのは、僕だった。
玲奈さんは、その一行をちゃんと守ってくれていた。
茶碗蒸しを半分まで運んでから、僕はバッグの中から新しいノートを取り出した。
十月に開いた、十字を書いた新しいノート。十月末から今日まで、CTO室の対話、「澪」での葉山さんの一行、ソウルからのアユシュくんの一行、社長室での村瀬社長の一行を、順に記録に重ねてきた、いまのノート。
カウンターの白木の上に置いた。
最初のページに、ペンを動かす前に、過去の三冊を、胸の奥で目で追った。
一年目のノート。
二年目のノート。
三年目のノート。
いまのページの前に、三年分の記録が静かに積み重なっていた。
最初に、内心で並べたのは、いちばん古い一行だった。
「三年で土台を作る、それが、ヨキエルに来る人たちの責任です」
就活の最終面接で、遠野さんが僕に置いてくれた一行。
その一行を、いまもう一度胸の内でなぞった。
……三年で、土台を作った。
自分の三年を、自分でも、認めてもよかった。
次に、入社式の朝の遠野CTOの三つの言葉。
「半径3メートル」
「両輪」
「観察」
あの三つの言葉のうちの半径3メートルを、二年目の冬に、CTO室のホワイトボードの前で、遠野さんが青と赤のマーカーの円の図に描き直してくれた。あの十二月の日が、僕の三年の節目だった。
次に、諏訪マネージャーの一行。
「すべて、私の管理責任です」
二年目の九月、大きな障害の日に、諏訪マネージャーが迷わずに口にしてくれた一行。一年目の七月、僕の最初の障害の日にも、諏訪さんは同じ形で責任を引き受けてくれた。
その一行を、僕は、三年目の八月、後輩の鈴木未來さんの小さなバグの日に繰り返した。「諏訪さん、これは私の指導の問題です」。
継承の連鎖の、最初の一行が、その日に、形を持った。
次に、白瀬さんの所作。
白瀬さんは、何度も口で教えてくれた人ではなかった。背中で教えてくれた人。プルリクエストのレビューの仕方、お客さんへの誠意の運び方、踏み込む優しさ、距離を取る距離感。
いまの僕のレビューの中に、白瀬さんの所作がほのかに染みている。香織さんが最初のレビューの日に「あの、桐谷さんのレビュー、白瀬さんに似ていますね」と言ってくれた一行を、思い出した。
次に、遠野CTOの一行。
「半径3メートルが繋がる時、変革が起きる」
十月末、CTO室の二度目の対話で、遠野さんが穏やかに置いてくれた一行。
「私の半径3メートルが、君の半径3メートルと、繋がる時」
その一行を、ノートの新しいページに書き写した。
次に、村瀬社長の、先日の一行。
「三年後、辞めても、君は、私の味方だ」
先日、社長室の応接の椅子で、社長が穏やかに置いてくれた一行。
その一行を書き写した。
次の行に、書き足した。
「半段ずつ、変える。それが、四代目の方針」
社長は四十四年、ヨキエルの中で、いろんな島を見てきた。エンジニア、営業、経理、人事、事業部長、そして社長。半段ずつ変える、というのは、四十四年の重みの上に置かれた方針だった。
次に、葉山さんの一行。
「君は、たぶん、ここに残るんじゃないかな」
十一月初旬、「澪」のカウンター越しに、葉山さんが穏やかにしかし芯のある声で置いてくれた一行。
あの一行はたぶん、葉山さんが、人のこれからを外からちゃんと見られる人だからこそ、置けた一行だった。
「君の観察、ヨキエルの中で、実を結びつつあるから」
その続きの一行を、心の中で繰り返した。
最後に、アユシュくんの一行。
「Follow your『観察』」
「自分の『観察』に従えばいい」
三日前、LINEのメッセージで、ソウルからアユシュくんが置いてくれた一行。
観察に従えばいい。
その一行を、ノートの新しいページに書き写した。
ペンを置いた。
ノートの新しいページに、今日の日付の下、六つの一行が並んでいた。
半径3メートル/両輪/観察。
すべて、私の管理責任です。
半径3メートルが繋がる時、変革が起きる。
三年後、辞めても、味方。
君は、たぶん、ここに残る。
Follow your『観察』。
六つの一行を、目で追った。
六つの一行は、それぞれ別の人の口から、それぞれ別の場面で、僕の前に置かれた言葉だった。
しかし、いま六つを並べてみると、同じ方角をそっと指していた。
……ここに残る。
心の中で、その四文字を置いた。
置いてみて、芯のある温度が、胸の真ん中でそっと立った。
燃えるような熱さでは、ない。
しかし、芯のところで、確かに、温度が、ある。
それは派手な決断の温度では、たぶん、なかった。
地味な決断の温度。
遠野CTOが、十月末のCTO室でそっと置いてくれた一行を、思い出した。
「変革は、地味だ。でも、地味だから、続く」
その一行と、いまの胸の真ん中の温度はそっと同じ方角を指していた。
ノートの最後のページに、新しい一行を書こうとした。
ペンを宙で止めた。
……まだ、書かない。
迷ってから、ペンを置いた。
書くのは、決断を運ぶ朝。
月曜の朝、目を覚ましてから、もう一度その温度がまだ胸の真ん中に残っていたら、書く。
残っていなかったら、もう一日寝かせる。
……それでいい。
玲奈さんがいつのまにか三品目の小鉢を置いてくれていた。
菜の花のお浸し。
春先の菜の花が、もうこの時期に出回るのですか、と聞こうとして、聞かなかった。
玲奈さんはたぶん、季節を先取りして、僕の前に置いてくれた。
……あ。
胸の奥で短く一文字を置いた。
今夜の小鉢は冬の魚で始まって、茶碗蒸しで温もりを運んで、三品目で春先の菜の花だった。冬から春先に半段ずつ運ばれていた。玲奈さんはたぶん、僕がいま春の方角に動こうとしていることを、もう察していた。聞かなくても、聞けなくても、小鉢の選び方の順番だけで、温かく頷いていた。
その観察を、口には出さなかった。
「玲奈さん」
口を開いた。
「うん」
「今日、ありがとうございます」
「いえいえ」
玲奈さんは穏やかに笑った。
「月曜に決まったら、教えてください」
「はい、必ず」
「お祝いは、決まった日に別の形で」
「お願いします」
頭を下げた。
玲奈さんは穏やかに頷いた。
二十時半。
お会計をして、引き戸を押した。
外の冬の風が、首筋にひやりと触れた。
「桐谷さん、また」
玲奈さんは穏やかに見送ってくれた。
「玲奈さん、また」
短く返した。
引き戸が、ガラリ、と低く閉まった。
川沿いの夜の道を、ゆっくり寮の方角に歩いた。
冬の星空は澄んでいた。
川の水面に、街灯の光がゆらゆら揺れていた。
桜並木通りに出ると、街路樹の桜の枝は、葉を全部落として、骨だけになっていた。骨の上に、淡い冬の月が引っかかっていた。
……月曜、桜並木通りを、僕は、どんな足取りで、歩くんだろう。
その問いを、内心で確かめた。
寮の自室に戻った。
部屋の灯りをつけて、コートをハンガーに掛けた。
机の上に、新しいノートを置いた。
布団を敷いた。
歯磨きをして、洗面所で鏡の中の自分を見た。
二十五歳、冬の入り口。
目の色は、いつもより、低い。
しかし、芯のところでほのかに温かい。
その温もりを撫でてから、洗面所の灯りを消した。
布団に入った。
部屋の灯りも消した。
窓のカーテンの隙間から、淡い街灯の光が入ってきていた。
目を瞑った。
すぐには、眠れなかった。
六つの一行が、胸の内で静かに並び続けていた。
半径3メートル。
両輪。
観察。
管理責任。
半径3メートルが繋がる時、変革が起きる。
三年後、辞めても、味方。
六つの一行が静かに僕の三年の上に降りていた。
……月曜、決断を運ぶ。
胸の奥で、もう一度その一行を繰り返した。
燃えるような熱さでは、ない。
けれど、芯のところで、確かに、温度が、ある。
その温度を抱いたまま、僕はゆっくり眠りに落ちていった。
窓の外、桜並木通りの方角の夜空に、冬の月がぽつんと浮かんでいた。




