第86話「岡崎さん再訪、社内発表の続け方」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十一月の最終週、土曜日の夕方四時。
港川市の中心駅前から徒歩五分。貸会議室「ふじみ」の入り口の前に、僕は立っていた。
建物は四階建ての淡いベージュのタイル張り。一階の小さな書店、二階から四階の貸会議室。初めてのLT登壇でここに立ったのは二年目の八月。あれから一年と三ヶ月。去年の暮れを最後に、勉強会からはしばらく足が遠のいていた。
駅前の銀杏並木は、最後の黄色をまだ少しだけ残していた。
駅前広場を吹き抜ける風が、銀杏の葉をぱらぱらと地面に落としていた。
……一年三ヶ月前は、夏の銀杏が青かった。
心の中で僕はつぶやいた。
MacBookをリュックに入れて来た。けれど今日はLTではない。
今日は岡崎さんの発表を聞きに来た。
先週、港川IT勉強会のSlackに岡崎さんからメッセージがあった。
「桐谷さん、来週勉強会で登壇するのですが、もしよかったら聞きに来ませんか。テーマは『社外LTで得たことを、社内にどう持ち帰るか』。桐谷さんなら、何か考える材料になるかもしれません」
その「桐谷さんなら」が、自分の中に引っかかった。
迷わず答えた。
「行きます」
エレベーターで三階に上がった。
会議室Aの扉のプレートを軽く指で触れてから、ドアを開けた。
会議室の長机は、コの字に組まれていた。一年三ヶ月前と同じ配置だった。
すでに十人ほどが座っていた。岡崎さんは、いちばん前の中央でMacBookをセットしていた。
「岡崎さん」
岡崎さんが顔を上げた。
「桐谷さん。来てくれた」
岡崎さんは、口の端でほんの少しだけ笑った。
その笑い方は、一年三ヶ月前とまったく変わっていなかった。
白い半袖のシャツは、季節に合わせて紺のジャケットに変わっていた。けれど目の色は同じだった。
「お久しぶりです」
「うん。三年目だね、もう」
「ええ、もうすぐ四年目です」
「早いね」
岡崎さんは、MacBookの画面に視線を戻して軽く頷いた。
「あとで、ゆっくり話そう」
「はい」
僕は、コの字のいちばん奥の席に座った。
受付の名簿に自分の名前を書いた。
名簿には、すでに十二人の名前が並んでいた。最後の欄を見ると、勉強会の回数が書かれていた。
第六十五回。
一年三ヶ月で十七回。岡崎さんは毎月続けていた。
十七時、勉強会、開始。
岡崎さんが、いちばん前に立った。
今日のLTは三本。一本目が岡崎さん。二本目が若い人。三本目が岡崎さんと同年代の人。
岡崎さんのスライドのタイトルが、画面に映った。
「社外LTで得たことを、社内にどう持ち帰るか」
タイトルの下に、副題が小さく添えられていた。
「五年と六十五回の続け方」
岡崎さんは軽く咳払いをしてから、口を開いた。
「皆さん、こんにちは。岡崎です。今日の話は、ちょっと内省的な内容になります」
会議室の空気が軽く落ち着いた。
「私、社外でLTを五年やりました。回数で言うと、たぶん百回くらいです。社外で話すのは、もう慣れました」
岡崎さんは続けた。
「でも、社内では最初、ぜんぜんうまくいきませんでした」
岡崎さんはスライドをめくった。
一枚目:「最初の失敗」。
「最初、私はSlackに書きました。『社内勉強会、毎週やります。誰でも参加可能です』。気合の入ったお知らせを書きました」
岡崎さんは少し笑った。
「結果。誰も来ませんでした」
会議室の中で、軽い笑いが起きた。
「次の週も、お知らせを書きました。今度は絵文字を増やしました」
スライドの二枚目に、Slackの画面のスクリーンショットが映った。絵文字が十個以上、並んでいた。
「結果。やっぱり、誰も来ませんでした」
また笑いが起きた。
「三週目で、私はようやく気づきました」
岡崎さんはスライドをめくった。
「観客が、違う」
三枚目のスライドに、その四文字だけが書かれていた。
「社外のLTは、もともと興味のある人が、自分からお金を払って会場に来てくれます」
岡崎さんは続けた。
「社内の勉強会は、興味のない人にも声をかけないと、人が集まりません」
岡崎さんは、コの字の中の参加者の顔を、ゆっくり見渡した。
「次に、私は何をしたか」
スライドの四枚目。
「上司に、直接、頼みに行きました」
会議室の中で、誰かがふっと息を漏らした。
「『この三十分、勉強会に使わせてほしい』と、課長に直接お願いに行きました。Slackじゃない。対面でお願いに行った」
「結果」
岡崎さんは軽く両手を広げた。
「五人、来ました」
五枚目のスライドに、「五人」とだけ書かれていた。
「ゼロから、五人」
岡崎さんは続けた。
「これが、私の社内勉強会の最初の手応えです」
岡崎さんはその後、五年で六十五回、社内勉強会を続けていた。
最初は五人。
いまは毎月、二十人前後。
その「五年で十五人を増やした」過程の、細かい工夫の話が続いた。
六枚目のスライド:「招待状を紙で配る」。
七枚目:「お菓子を用意する」。
八枚目:「上司にも声をかける」。
九枚目:「自分の話だけじゃなく、他の人にも話してもらう」。
十枚目:「失敗をその場で認める」。
どのスライドにも、岡崎さんの五年分の細かい工夫が、淡々と書かれていた。
最後の、十一枚目のスライド。
「外と中は、観客が違う。観客が違えば、語り方も変わる」
その一行が、会議室の白い壁に映った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
拍手がぱらぱらと起きた。
会議室の半円の中で、ぱりぱりと続いた。
その拍手の中に、僕の手も混じっていた。
LTが三本終わって、懇親会に入った。
会議室の長机を、コの字から口の字に組み直して、皆で半時間。ペットボトルのお茶と、コンビニの軽いお菓子。一年三ヶ月前とまったく同じ空気だった。
岡崎さんが僕の隣に座った。
「桐谷さん」
「はい」
「今日、聞いていて、どうだった?」
「自分のことを、考えていました」
「自分のこと?」
「はい」
僕はペットボトルのお茶を軽く回した。
「自分も、社外LTから社内に何か持ち帰る時期に来ているのかもしれないと思いました」
岡崎さんは頷いた。
「うん。三年目だね」
「はい」
岡崎さんは、お茶を口に含んでから付け加えた。
「あとで、もう少し二人で話そうか。終わったあとに」
「はい、ぜひ」
懇親会が終わって、夜八時。
会議室の後片付けを、岡崎さんと一緒に手伝った。
パイプ椅子を十五脚、元の長机の脇に戻した。長机のコの字も元に戻した。
ホワイトボードに「六十五回」と書かれた岡崎さんの字を、丁寧に消した。
一年三ヶ月前とまったく同じ作業だった。
ただ、消す数字が十七、増えていた。
建物を出た。
駅前の銀杏並木の下を、岡崎さんと二人で歩いた。
「岡崎さん」
「うん」
「駅前のカフェ、開いてますかね」
「うん。八時半まではやってる」
駅前の角の小さなカフェに入った。
窓際の、二人がけのテーブル。コーヒーを二つ頼んだ。
「桐谷さん、三年目ですね」
岡崎さんはコーヒーを軽く回した。
「ええ、もうすぐ四年目です」
「初めて会ったとき、あなたの話、聞いていて」
岡崎さんは少し笑った。
「ちゃんと働いている人の言葉だと思った」
一年三ヶ月前、岡崎さんが僕にそう言ってくれたのを覚えていた。
「今日も、思った」
岡崎さんは、コーヒーカップを両手で包んだ。
「三年目になったあなたが、これから何を社内に持ち帰るか」
岡崎さんは僕をまっすぐ見た。
「聞きたい」
その「聞きたい」に、岡崎さんの五年と六十五回分の重みが混じっていた。
僕はコーヒーをひと口含んでから答えた。
「僕、テックリードにはならない選択をしようとしています」
「うん」
「マネージャーも、たぶん選ばない」
「うん」
岡崎さんは、それ以上は訊かなかった。
ただ頷いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外、駅前の銀杏並木の下を、土曜の夜の人々が歩いていた。
「じゃあ、何を選ぶの?」
岡崎さんはしばらくして、低い声で訊いた。
「自分のチームで、自分の半径3メートルで、ちゃんと観察を続けること」
僕は答えた。
岡崎さんは軽く頷いた。
「うん。それは、いい選択だと思う」
岡崎さんは続けた。
「でも、それだけだと、たぶん三年後に止まる」
「止まる?」
「うん」
岡崎さんはコーヒーを置いた。
「観察したことを、社内で発表する。同じチームの中だけじゃなく、他のチームに届ける」
岡崎さんは続けた。
「それが、三年目以降の宿題かもしれない」
その「宿題」という言葉が、自分の中にすとんと落ちた。
「外で語ったことを、中で根付かせる……ですか」
「うん」
岡崎さんは頷いた。
「それが、いちばん難しい」
岡崎さんのその「いちばん難しい」には、五年と六十五回分の自分の経験が混じっていた。
「桐谷さん」
岡崎さんは、コーヒーカップを両手で包み直した。
「私、五年で、たぶんまだ半分もできてない」
「半分も?」
「うん。私の社内勉強会、二十人毎月来てくれる。でも、その二十人は、もともと興味のある人。残りのたぶん二百人くらいの『興味のない人』には、まだ届いてない」
岡崎さんは少し笑った。
「あと五年続ければ、半分にはなるかな」
「十年、ですか」
「うん。十年で半分」
岡崎さんは続けた。
「だから、桐谷さんがこれから始めるなら、十年続ける気で始めたほうがいい」
「十年、続ける気で……」
「うん」
岡崎さんはコーヒーを口に含んだ。
「気合じゃ続かない。技術で続ける」
その一言を聞いた瞬間、自分の中で、二年目のある冬の夕方の間宮先輩の声が重なった。
……オンボーディングは、技術だ。気合と、根性じゃない。
間宮先輩の「気合と、根性じゃない」と、岡崎さんの「気合じゃ続かない」。
同じ言葉が二度、別の場所で僕の耳に来た。
技術として、人を受け入れる。
技術として、観察を社内に届ける。
二つはたぶん、地続きの技術だった。
二つの技術の話が、二人の間で、少しだけ間を置いた頃、岡崎さんが、コーヒーカップの縁を人差し指でなぞりながら、そっと、口を開いた。
「桐谷さん、こういうこと、聞いていいのか、少し迷ったのですけど」
「はい」
「最近、地元のIT界隈でヨキエルさん、なんか、大変らしいですね、という話がぽつぽつ、聞こえてくるんです」
その一行を、岡崎さんは、いつもの穏やかな声のまま、ただ、事実だけを、卓の上に、置いた。
「はい」
僕は、短く返した。
「詳しい中身までは、私も知らないんです。ただ、勉強会の常連の何人かが、『あの会社、いま、動いてるらしいですね』と、口にすることが少し増えました」
「そうですか」
「桐谷さんの、社内の様子まで、私に話す必要はありません」
岡崎さんは、少し笑った。
「ただ、外からも、少し、見えている。それだけ、お伝えしておきます」
「はい」
僕は、頷いた。
岡崎さんは、それ以上、この話を続けなかった。続けないのが、岡崎さんだった。
僕も、詳しくは返さなかった。ただ、胸の内で、外の空気の、その温度を、そっと、確かめた。
組込みの島から流れ続けているSlackの人事チャンネルの一行たちと、この「大変らしいですね」の一行の間には、たぶん、遠い距離があった。距離の長さの中で、何が伝わって、何が消えているのか、僕にはまだ、輪郭が見えなかった。
輪郭が見えないまま、僕はその一行を、岡崎さんのコーヒーカップの脇に、そっと、置いた。
「桐谷さん」
岡崎さんは、コーヒーを最後まで飲み干した。
「あなたの、半径3メートルの観察」
「それを社内で発表したら、たぶん最初は五人くらいしか来ない」
「五人」
「うん。私と同じ。ゼロから五人」
岡崎さんは少し笑った。
「でも、五人の中に一人、ちゃんと聞いてくれる人がいれば、たぶん十年で五十人になる」
その「十年で五十人」が、自分の中でゆっくり輪郭をもち始めた。
今夜、岡崎さんが僕に渡そうとしているのは、たぶんその「十年」の温度だった。
「実は」
僕は半秒置いて、口を開いた。
「来年三月、社内で研修員論文発表会があります。三年の観察を、三十分にまとめて、社内で話します」
「お、それは」
岡崎さんは少し目を細めた。
「そこが、桐谷さんの最初の五人ですね」
「最初の、五人」
「うん。論文発表会は形が決まっている。五人どころじゃない、たぶん部長まで来る。でも、その三十分のあと、どう続けるか。そこからが、十年の側」
……三月の三十分の、その先。
胸の奥で僕はその一行を撫でた。岡崎さんの「気合じゃ続かない。技術で続ける」の助言が、三月の発表会のリハーサルの像として、僕の中で薄く立ち始めた。
二十時半、カフェを出た。
港川市の中心駅から、ヨキエルの寮までは、徒歩十二分。
夜の銀杏並木を抜けて、桜並木通りに入った。
歩きながら、頭の中でひと行を転がした。
……外で語ったことを、中で根付かせる。
もう一行。
……気合じゃ続かない。技術で続ける。
二行は、夜の通りの上で、しばらく並んでいた。
昨日の午後、村瀬社長と話した。
村瀬社長は僕に、この街とヨキエルの四十四年を渡してくれた。
今夜、岡崎さんと話した。
岡崎さんは僕に、十年の続け方を渡してくれた。
二つの「年」の重みを、この二日で受け取った。
四十四年と、十年。
その二つの長さに、自分の三年はまだ小さい。
でも、小さいことが悪いんじゃない。
間宮先輩はこの夏に、そう言ってくれた。
小ささを知ってから、何を選ぶか。
そう遠くないうちに、自分は何かを選ぶ。
選ぶその夜のために、今夜、岡崎さんは僕に十年の続け方を渡してくれた。
寮の自室に戻った。
ノートを机に開いた。
白いページに、今夜の二行を書いてから、もう一行を書き加えた。
……三年目の、宿題。
書いてから、ノートを閉じた。
窓の外、十一月の最終週、夜風が桜並木通りに流れていた。
桜の葉は、もうほとんど落ち切っていた。
明日は日曜日。
この週末は、ゆっくり休める。
近いうちに、もう一度、川沿いを歩こう。
歩きながら、自分の中でゆっくり決断を固めていく。
決断はたぶん、間宮先輩や白瀬さんや村瀬社長や岡崎さんの言葉を、すべて受け取った上での自分の言葉として、立ち上がってくる。
立ち上げる準備は、今夜、整った。
準備が整ったことを、ノートの最後のページにひと行書き留めた。
……今夜、岡崎さんから十年を受け取った。
書いて、ノートを引き出しにしまった。
布団に入って、目を閉じた。
目を閉じたまま、もう一度、岡崎さんの最後の一言を内心で繰り返した。
……気合じゃ続かない。技術で続ける。
その一言が、自分の中でゆっくり熱を持って沈んでいった。
続けるための技術を、僕はまだ、いくつ持っているだろう。
その週明けの、月曜の朝、九時前。
MacBookを開いて、いつものように、社内Slackの人事チャンネルを、目で追った。
新しい一行が、静かに、灯っていた。
「楢原 巡氏(組込みチーム)、来年一月一日付で、新設事業開発部へ異動」
その一行だった。
名前を、目で追った。
……楢原さん。
胸の内で、名前をそっと、なぞった。
女性の、お名前だった。組込みチームで、二〇二五年新卒、と、二年前の入社式の名簿でお名前を見た記憶が、うっすら、あった。それ以上、僕には面識はなかった。
同じ人事チャンネルの上の方に、桧山さんの十月と、花巻さんの十一月の、二つの一行が、まだ薄く残っていた。
……組込みから、また、新設へ。三人目。
胸の内で、僕は、静かに置いた。
置いてから、少しだけ、口の中で、乾いた息を、吐いた。
三人目、という数を、僕はうまく飲み込めなかった。飲み込めないまま、その一行を、朝の島の胸の内に、しまった。
同じ日の、昼休みの終わりに、僕は総務のメンタルヘルス窓口宛の予約フォームを開いた。
産業医の斎藤先生。二年目の秋と冬に、二度、お会いしたことがあった。あの二度は、僕の側の疲れの相談だった。
今回は、少し、違う理由だった。
予約フォームの「相談したい内容の概要」の欄に、僕は、こう書いた。
「自分自身の体調のことではありません。同期のことで、少し頭の中の整理を外の目で、手伝ってほしいです」
書いてから、送信を押した。
三十分後に、返信が来た。
「桐谷さん、承知しました。次の水曜の十六時、いつもの面談室で三十分、お時間を取ります。斎藤」
水曜の十六時。三階の奥の、いつもの静かな面談室。
斎藤先生は、いつもの白衣で、いつもの穏やかな微笑みで、待っていてくれた。
「桐谷さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
僕は、机を挟んで、正面に座った。
「同期の話、と伺いました」
「はい」
僕は息を、一度、静かに整えた。
「アユシュくんが、夏に、ソウルに行きました」
「ええ」
「アユシュくんがいなくなってから、時々、思い出すんです。三年一緒に働いた、あの島の隣の席のことを」
「うん」
「それから、黒木のことが気になっています。組込みの島の中で、黒木は、たぶん、僕には見えていない何かを毎日浴びています」
「はい」
「僕は組込みの外側にいるので、黒木を助ける方法が、はっきりと、分かりません」
斎藤先生は、しばらく、僕の言葉を、静かに、受け止めていた。
受け止めてから、口を開いた。
「桐谷さん、黒木さんが、桐谷さんに何かを頼んできましたか」
「いえ、まだ、直接は、頼まれていません」
「そう」
「ただ、この前、短いLINEが一つ来ました。事件のことじゃなくて、組込みから、また一人、新設に移ったという一行だけ」
「はい」
「その一行の下に、たぶん、黒木の側の何かが隠されていると、僕は感じています。ただ、僕がそれを掘りに行くのは、たぶん、黒木の方が望んでいないと思うんです」
「そうですね」
斎藤先生は、深く頷いた。
「桐谷さん、その距離の取り方は、たぶん、桐谷さんの三年目の、正しい距離の取り方です」
「はい」
「黒木さんが、直接、桐谷さんに頼むまでは、桐谷さんは、その距離のまま、そこにいてあげてください」
「はい」
「そこにいてあげる、というのは、掘りに行くこと、ではないんです。ただ、黒木さんが振り向いた時に、桐谷さんが、その距離のまま、まだそこにいる、ということです」
「はい」
斎藤先生の一行が、僕の中で、静かに沈んだ。
「アユシュさんのことは、時々、思い出していい。思い出すことで、桐谷さん自身の三年目の芯が、静かに、深くなります」
「はい」
「これは、桐谷さん自身の心の話でも、あるんです。同期のことで頭を整理したい、という桐谷さんの言葉の中に、桐谷さん自身の芯を守る仕事も、半分、混じっています」
その一行に、少しだけ、胸が、揺れた。
「はい」
僕は、短く返した。
斎藤先生は、口の端で、穏やかに笑った。
「桐谷さん、また、いつでも、この面談室、開いています。窓口は、閉じません」
「ありがとうございます」
深く、頭を下げた。
面談室を出た廊下で、僕は、胸の内で、諏訪マネージャーの一行と、斎藤先生の一行が、同じ方角を向いて並んでいるのを、静かに、確かめた。
……窓口を、閉じない人たちが、この会社の、まだいる。
その事実を、僕は、その日の夜のノートの隅に、そっと、置いた。




