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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第85話「村瀬社長との対話」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十一月下旬の金曜日。


 朝九時の朝会のあとで、僕は受付の脇の予約端末の前に立っていた。


 社長室の予約は、初めてだった。


 北ウィングの廊下の窓から、晩秋の淡い陽が床に届いていた。床のリノリウムは、いつもより半段、明るい色をしていた。窓の外、桜並木通りの桜は、もうほとんど葉を落としていた。


 ……社長室、初めて。


 心の中で僕はそう確かめた。確かめた半秒のあとで、予約端末の画面に視線を戻した。


 画面の中の予約システムには、社長室の枠がぽつぽつ並んでいる。来客対応の枠の隙間に、三十分の空きが二か所見えた。


 迷ったのは、半秒だった。


 ……今日の午後の枠で、申し込もう。


 画面の上で指を動かして「桐谷蒼太(チームA・三年目)、十一月二十六日 十五時、社長室、議題:今後のヨキエルについて、桐谷の側から伺いたいこと」と短く打ち込んだ。


 送信を押した。


 ものの五分で、社長秘書の桑原さんから社内Slackの個別メッセージで返事が来た。


「桐谷さん、十五時の枠でお受けしました。社長より、楽しみにしているとのことです」


 その一行を読み返した。


 ……楽しみにしている、か。


 僕の机のノートに、今日の日付の下、最初の一行を書いた。


「十五時、社長室。問いは、ヨキエルは、これから、どうなるか」


 ペンを置いた。


 社長室の予約端末を押すのは、三年目の僕にとっての一つの能動性の到達点だった。一年目の春、僕は廊下で社長の顔を見ても、目を逸らしていた。二年目の夏、エレベーターで一緒になっても、短い挨拶しか返せなかった。三年目の冬、僕は自分から三十分、社長の時間を申し込んでいる。


 自分でも、少し驚いていた。


 


 昼休み、社員食堂のいちばん奥の窓側の席。


 味噌汁の温もりがじんわり口の中で広がった。


 窓の外、晩秋の港川市の街並みは、初冬の淡い陽の中で、軽い水色をしていた。山の方角のもみじはほとんど散って、骨だけになった枝の上に淡い青空が広がっていた。


「桐谷さん」


 香織さんがトレイを向かいに置いた。


「香織さん、お疲れさま」


 短く返した。


「ご一緒、いいですか」


「うん」


 頷いた。


「桐谷さん、午後、社長室ですよね」


 香織さんは穏やかにしかし少し興味のある声で聞いた。


「うん、十五時から」


 社内Slackの島のチャンネルに、午後の予定として僕は「十五時〜十五時半、社長室」とだけ書いておいた。香織さんはたぶん、それを見たのだった。


「ちょっと、緊張されてますか」


「半分、緊張してる」


 笑った。


「半分は?」


「半分は、楽しみ」


 香織さんも小さく笑った。


「私が一年目で、桐谷さんが三年目で、桐谷さんが社長室ですよね」


「うん」


「私が三年目になったら、私も社長室、行けるかな」


 香織さんは考えるような目をした。


「行けるよ、たぶん」


 頷いた。


「行きたいと思った時に行く、それが、三年目」


 その一行は、香織さんに渡しておきたい一行だった。


「覚えておきます」


 香織さんは頭を下げた。


 


 午後二時五十五分。


 ヨキエル本社の三階、社長室の前の廊下に、僕は立っていた。


 廊下の窓の外、晩秋の港川市は、淡い陽を浴びていた。ロビーの観葉植物のシダの葉が、廊下の方角に伸びていた。


 社長室のドアは木目調の落ち着いた色で、ドアの脇に小さなプレートが掛かっている。「代表取締役社長 村瀬 正之」。


 桑原さんが受付の方角から、僕を見つけた。


「桐谷さん、お時間です。どうぞ」


 桑原さんは穏やかにドアの方角を示した。


「ありがとうございます」


 短く頭を下げた。


 ノックを二度。


「どうぞ」


 扉の向こうから、低く穏やかな声が返ってきた。


 ドアを開けた。


 


 社長室は、思っていたよりも、簡素だった。


 窓側に大きな机が一つ、応接の側に三人掛けと一人掛けのソファ、その間に低いガラスのテーブル、奥の壁に古い木製の本棚。本棚の中に、経営の書籍と、地元の郷土史の本が、半分ずつ並んでいた。机の脇に、家族写真の小さな額が一つ。


 村瀬社長は窓側の机から、ゆっくり立ち上がるところだった。


 いつものグレーのスーツに、淡い水色のネクタイ。年齢は六十代後半だが、背筋は伸びている。白くなった髪を短く整えていて、温かい目が、こちらに向かった。


「桐谷くん、来てくれたね」


 社長は穏やかに応接の方角を示した。


「お時間、ありがとうございます」


 深く頭を下げた。


「座って」


 社長は一人掛けのソファに、ゆっくり腰を下ろした。


 僕は三人掛けの端に座った。


 桑原さんがすぐにお茶を運んできてくれた。緑茶の湯気が、ガラスのテーブルの上で薄く立った。


「ありがとうございます」


 短く頭を下げた。


 桑原さんは穏やかに頷いて、静かに退出した。


 扉がそっと閉まった。


 


「桐谷くん、三年目だね」


 社長は穏やかに口を開いた。


「はい」


「諏訪マネージャーから、君の名前は何度か聞いていた」


 社長は薄く笑みを浮かべた。


「ちょっと驚いたよ、君から社長室の予約が来た時」


「驚かせてしまって、すみません」


 頭を下げた。


「いやいや、嬉しい驚きだ」


 社長は穏やかに頷いた。


「三年目の社員が自分から社長室を申し込む、っていうのは、私が四代目になって八年、片手の指で数えるくらいしかない」


 その一行を、噛みしめた。


「桐谷くんで、たぶん四人目か、五人目」


 社長はふっと笑った。


「光栄です」


 短く返した。


「で、何を聞きに来た?」


 社長は急かす感じではなく、こちらの呼吸を待つ構えで聞いた。


 膝の上で、ノートを半分だけ開いた。家を出る前の朝、走り書きで二行だけ書いてきた。


「社長」


 息を整えた。


「ヨキエルは、これからどうなりますか」


 その一行を、声に出した。


「私の三年目の中で、いま半径3メートルの外側のことをもう少し知っておきたくて」


「会社のこれからを、社長の言葉で聞きたくて」


 短く付け足した。


 


 社長は、静かになった。


 窓の外の淡い陽を、目で追った。


 それから穏やかにこちらに視線を戻した。


「いい問いだね」


 社長は笑った。


「答えるのに、たぶん二十分もらうよ」


「ありがとうございます」


 短く頭を下げた。


 社長はお茶を一口運んでから、声を整えた。


「うちは、創業五十七年」


 社長の声がふっと低くなった。


「初代、二代目、三代目、四代目。私は、第4代目の社長として八年目」


 その一行は、社長自身の口で、僕の前に置かれた。


「初代は、創業者の三宅さん。IT黎明期に、地方の小さな受託の会社として立ち上げた人」


「二代目は、中興の祖と呼ばれる藤本さん。五十人を百人近くまで広げた人」


「三代目は、過渡期の柏木さん。受託から少しずつ自社サービスの方角に舵を切ろうとしてくれた人」


「私が、四代目」


 社長は穏やかに湯飲みを置いた。


「私は、五十年目から社長になって、いま八年目」


「先輩たちが残してくれた縦棒の上に、私の八年分の横棒を半段ずつ引いている」


 その語り方は静かに丁寧だった。


 


「社長」


 口を開いた。


「四代目になられた時、迷われましたか」


「迷ったよ」


 社長は小さく笑った。


「私はもともと、エンジニアからこの会社に入った。初代の三宅さんの時代に、二十三歳でうちに来た」


「二代目の藤本さん、三代目の柏木さんの下でずっと現場を歩いた」


「四十四年、ここで働いてきた」


 その一行が、社長自身の口で置かれた。


「エンジニアで八年、営業に出されて六年、経理を七年、人事を七年、それから取締役、そして社長」


「ヨキエルのほぼ全部の仕事を、一回ずつ通った」


「四十四年、ここで働いてきた」


 社長はもう一度同じ一行を静かに繰り返した。


「だからこそ社長を引き受けた時、迷った」


「全部の島を見てきたから、全部の島の難しさが見えていた」


「受託の島の人たちが、自社サービスの島の人たちをどう見ているか」


「自社サービスの島の人たちが、受託の島の人たちをどう見ているか」


「組込みの島の人たちが、自分たちはちょっと違うと感じている、その感じ」


「全部、知っていた」


「だから、社長になっても、半分は前任者の柏木さんの方針を続けようと思った」


 社長は穏やかに頷いた。


「四十四年見てきたから、急に何かを変えると、組織が半分、壊れる」


「半段ずつ、変える」


「それが、私の四代目の方針」


「半段ずつ」


 その一行は静かに低かった。


 


「社長、もう一つ聞いてもいいですか」


 口を開いた。


「うん、どうぞ」


「受託からの脱皮、というのは社内の半分が望んでいない、と聞きました」


 葉山さんの口から、半年前のパッケージ事業チームの話を聞いていた。受託の島の中堅の社員の半分はいまのままで十分だ、と思っている、と。


「うん、半分はたぶん望んでいない」


 社長は穏やかに頷いた。


「現状維持で、半分は生きていける」


「受託の島はいまのところ、ちゃんと利益を出している」


「自社サービスを太くする必要はない、と思っている人もいる」


「私は、それでも半段ずつ舵を切る」


 社長の声に、確かな芯があった。


「桐谷くん、なぜだと思う?」


 社長はこちらに視線を上げた。


「……たぶん、十年後、二十年後を考えると」


 ゆっくり声に出した。


「うん」


 社長は穏やかに頷いた。


「受託の島だけで、いまの百一人を二十年後も食わせていけるか」


「私は、自信がない」


「次の代の社長、五代目、六代目に未来の選択肢を残しておきたい」


「自社サービスとパッケージを、いまのうちに太くしておきたい」


「組込みの島も、AIの方角に伸ばしておきたい」


「それが、私の四代目の責任」


 社長は穏やかに湯飲みを口に運んだ。


「変革は、地味だ」


 社長はわずかに笑みを浮かべた。


「派手にやろうとすると、社員の半分が離れる」


「だから、半段ずつ」


「五年で、売上に占める自社サービスの割合は、十五パーセントから二十パーセントに五ポイントだけ伸びた」


「派手じゃない」


「しかし、五ポイントは、五ポイント」


 社長の声は、低くしかし確かに温かかった。


 


「社長」


 口を開いた。


「四十四年、続けてこられた理由は何ですか」


「いい問いだね」


 社長は穏やかに笑った。


 それから、視線が、机の脇の小さな額のほうにふと落ちた。


 家族写真の額。


 社長の目の色がふっと変わった。


「妻が、いつも私の背中を押してくれた」


 社長は穏やかに低くその一行を運んだ。


 その一行を、僕は胸の奥で受け止めた。


 ……あの数秒。


 入社一年目の夏の全社会議。壇に上がる前、薄暗がりの中で社長が短く目を伏せた、あの数秒。あの時の僕には、その数秒の奥に何があるのか、まだ分からなかった。


 いま、社長自身の口から、その数秒の奥にあったものが、運ばれようとしていた。


「妻が、いつも私の背中を押してくれた」


 その三段目の一行を、僕はノートには書かなかった。


 書かずに、内心で受け止めた。


 書くより、聞くほうが、今日はたぶん正しかった。


 


「妻はね、私がエンジニアの頃から、いつも隣にいてくれた」


 社長はそっと家族写真の額を目で撫でた。


「エンジニアの頃、半年、終電で帰ってこなかった時期も、文句を言わずに待ってくれていた」


「営業に出された時、自信をなくして帰った夜、台所で温かい味噌汁を作ってくれていた」


「社長に、と言われた時、迷う私の背中を押してくれた」


「『あなたが、社長にならないで、誰がなるの』」


「妻のその一行を、私はいまでもそっと胸の内で復唱する」


「妻は、私の背中を押すだけの人ではなかった。私がまだ自分の方角を決めかねていた頃、妻のほうが先に、私の行く方角を自分の目で見ていた」


 社長の声は、低く温かかった。


「だから、四十四年、続いた」


「私の四十四年は、私一人の四十四年じゃない」


「妻の四十四年でも、ある」


 その一行は静かにしかし芯があった。


 


「社員一人一人が、三年で土台を作る」


 社長は穏やかに視線を、家族写真からこちらに戻した。


「その後、何を建てるか」


「それが、私の責任だと思っている」


 その一行は、就活の最終面接で遠野さんが僕に置いた一行と、ふっと重なった。


 「三年で土台を作る、それが、ヨキエルに来る人たちの責任です」。


 あの一行を、いまもう一度別の角度から、僕は聞いた。


「三年で土台を作るというのは、新卒の側の責任ではなくて、会社の側の責任、ということですか」


 聞いてみた。


「うん、両方」


 社長は穏やかに頷いた。


「新卒の側にも、三年で土台を作る責任はある」


「しかし、その土台を作る場所と、材料と、教えてくれる先輩を用意するのは、会社の側の責任」


「両方が、半段ずつ責任を持つ」


「それが、ヨキエルの三年」


 社長は静かに湯飲みを口に運んだ。


「桐谷くんは、三年で土台をちゃんと作ったね」


 その一行は、社長の口から、穏やかに運ばれた。


「諏訪マネージャーからも、白瀬さんからも、遠野さんからも、それぞれの口で、私の耳に君の名前が届いている」


「半径3メートル、両輪、観察」


「君が、自分のノートに書き溜めてきた言葉は、私の耳にも届いている」


 社長はふっと笑った。


「だから、君のような若者が、これからのヨキエルを変えてくれる」


「と、私は信じている」


 社長の声は、低くしかし温かかった。


 


 ……信じている、か。


 その四文字を、心の中で受け止めた。


「社長」


 声を整えた。


「僕はまだ、三年目の冬の入り口にいて、自分の選択を半分迷っています」


「諏訪マネージャーが十月に新設事業開発部に異動されました」


「諏訪さんが選択肢を三つ、置いてくれました」


「諏訪さんについていく、ここに残る、別の会社に動く」


「僕はまだ、決めていません」


 その一行を、社長に置いてみた。


「うん、迷っていい」


 社長は穏やかに頷いた。


「迷うのは、ご褒美」


 その一行は、葉山さんが今月の初めに「澪」の帰り道で僕に運んだ一行と、ふっと重なった。


「君のような三年目が、自分の選択に悩む時間を会社の側は、保証する責任がある」


「私が社長として、保証する」


「だから、半年でも、一年でも、悩んでいい」


「ただ、悩む間も、半径3メートルを続けてほしい」


「観察を続けてほしい」


「両輪を回し続けてほしい」


「それは、いつかの選択の材料になる」


 社長は穏やかに笑った。


「桐谷くん」


 社長は声を整えた。


「私から、もう一つだけ置かせてくれ」


「はい」


 短く頭を下げた。


「もし、三年後、五年後、十年後、君がヨキエルを離れる選択をしたとしても」


「君は、私の味方だ」


 その一行を、社長は穏やかにこちらに運んだ。


「ヨキエルで三年、土台を作った人は、どこに行ってもヨキエルの仲間だ」


「東京に行っても、海外に行っても、別の会社に行っても」


「私たちが見送る側になっても、君は私の味方」


「私も、君の味方」


「それが、ヨキエルの四十四年の中で、私の中で確かに決まっている一行」


 社長は穏やかに頷いた。


 


 ……味方、か。


 その二文字をそっと撫でた。


 窓の外、晩秋の港川市の淡い陽が、社長室の床の上に伸びていた。


 ガラスのテーブルの上で、緑茶の湯気は、もうほとんど立っていなかった。


「社長、ありがとうございます」


 深く頭を下げた。


「いえいえ」


 社長は穏やかに笑った。


「君のような三年目と、こうやって半時間、話せるのは、私の四代目の楽しみ」


「また、来てください」


「はい、必ず」


 短く頷いた。


「決まったら、教えて」


「決まったら、ご報告に上がります」


「うん、楽しみにしている」


「それと」


 社長は穏やかに付け足した。


「三月の研修員論文発表会、社長として、楽しみにしているからね。君の三年を社内に置く三十分。私も聴衆の一人として、座っています」


「はい、ありがとうございます」


 短く頷いた。


 ……社長も、来てくれる。


 胸の奥で僕はその一行を撫でた。入社の日の朝、真っ先に挨拶をくれた人が、三年目の三月の発表会の場に、聴衆の一人として座ってくれる予定だった。


 社長は穏やかに立ち上がった。


 僕も立ち上がった。


 社長はドアの方角まで、見送ってくれた。


 ドアの脇で、社長は穏やかに手を差し出した。


 握手をした。


 社長の手は、温かくしかし芯のある手だった。四十四年、この会社の中で握り続けてきた手の温度がじんわり伝わった。


「桐谷くん、また」


「社長、また」


 短く頷いた。


 ドアの外で、桑原さんが穏やかに頷いてくれた。


 


 社長室の前の廊下を、エレベーターの方角に、ゆっくり歩いた。


 窓の外、晩秋の港川市の街並みは、淡い陽の中で、ゆっくり夕方の方角に傾き始めていた。


 エレベーターの中で、一人になった。


 息を吐いた。


 ……四代目八年目、四十四年。


 ……妻が、いつも私の背中を押してくれた。


 ……三年後、辞めても、君は、私の味方。


 三つの一行が、エレベーターの淡い光の中で静かに並んだ。


 一階のロビーに降りて、いったん自分の島に戻った。


 ノートを引き出した。


 今日の日付の下に、最初の一行を書いた。


「村瀬社長、四十四年、四代目八年目」


 次の一行。


「妻が、いつも私の背中を押してくれた」


 次の一行。


「三年後、辞めても、味方」


 最後の一行を、迷ってから、書いた。


「半段ずつ、変える。それが、四代目の方針」


 ペンを置いた。


 窓の外、晩秋の港川市の街並みは、淡い夕陽を浴びていた。


 僕の選択の方角は薄く見え始めていた。


 半段だけ、しかし、確かに。


 


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