第84話「ある日の杉本結と、ある日の丸山健司」(インタールード⑫)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、杉本結と丸山健司、それぞれの視点で描かれています。
前半、杉本結
十一月の第四週、火曜日の朝。
港川市の女子寮の私の部屋は東向きで、朝七時の光が机の上を白く照らしてくれる。
布団から出てカーディガンを羽織り、机の前に座る。机の上には、昨日の夜に上司の上田PMから預かった新規顧客の要件メモのA4三枚と、私のいつものA5の手帳。
今朝起きたら、まず上田さんから預かった要件メモを、私の言葉で整理し直そうと思っていた。
私は文系出身。
大学は地方の私立大学の史学科。専攻は江戸後期の戯作と近世の古文書解読。卒業論文は、上田秋成の『雨月物語』の写本三系統を比較して本文の異同を整理する仕事だった。
IT、完全未経験。
大学三年の秋に、就活でいくつかの業界を見て、出版業界に半分希望を出していた。出版業界は厳しくて、なかば諦めかけた頃に、就職課でヨキエル社のパンフレットを見つけた。地方の中堅ITで新卒採用で文系も歓迎、というところに目が留まった。
文系を歓迎するITの会社は、当時の私の周りには珍しかった。
受けてみたら、最終面接で村瀬社長が私の卒論の話を、興味深そうに聞いてくれた。
「古文書の解読、というのは、要件整理に似ているかもしれませんね」
社長は、穏やかに笑った。
「写本の異同を整理する力は、お客さんの言葉の異同を整理する力に繋がるかもしれない」
その一行で、私はなかばヨキエルに来ることを決めた。
入社して三年が経った。
配属は、パッケージ事業チームのサポート/QAチーム。
最初の一年は、顧客からの問い合わせメールをひたすら整理する仕事だった。「画面が動きません」「ボタンが反応しません」「印刷が崩れます」。顧客の言葉はそれぞれに揺れていた。
その揺れを私は、古文書を写本三系統で比較する時のように丁寧に整理した。
「画面が動きませんというのは、画面全体ですか、特定のページの特定のボタンですか」
「印刷が崩れますというのは、レイアウトですか、文字化けですか、画像ですか」
顧客の最初の一行から深い層を引き出す質問を丁寧に重ねる作業。
半年もすると、上司から「杉本さん、要件整理、ちゃんとしてるね」と短く言ってもらえた。
二年目から、QAの仕事も半分混ぜてもらった。仕様書を読んでテスト項目を起こす仕事。これも古文書の解読に似ていた。仕様書の文字列を別の角度から眺めて、書かれていない隙間を想像する作業。
その隙間の見つけ方に、ちゃんと名前があることを、私はQAチームの真鍋さんに教わった。JSTQBという、テストの資格。二年目のはじめに、いちばん下の級に受かった。そこからは、同値分割も、境界値も、デシジョンテーブルも、教わった技法を、ひとつずつ、ほんとうの仕様で試した。要件定義書も、設計書も、コードも、ぜんぶ、壊れ方を読む対象だった。
Advanced Levelのテストアナリストという級は、簡単ではなかった。二年目の夏に一度、落ちた。悔しかった。でも、悔しくて、もっと深く知りたくなって。三か月をあけて、今年の春、もう一度受けて、受かった。
いまは、その上の、テストマネジメントという級を、勉強している。受けるには、まだ実務の年数が足りない。だから、いまは、読むだけ。でも読んでいるうちに、テストを管理する、というのは、人と、計画と、どこが危ないかを見て、限られた時間をどう配るかを決めることだと、わかってきた。
真鍋さんは、いつか、テストを自動で回す仕組みも要る、と言っていた。白瀬さんたちが、もう少しずつ、始めている。でも、地方の私たちの現場では、まだ手探りで、技術が追いついていない。それも、私のこれからの宿題のひとつだった。
来年の四月、私は研修員ではなくなる。三年の研修員期間を終えて、担当になる。その節目に、これからのキャリアを、ちゃんと考える1on1があると聞いていた。テストを、もっと深く極める道。要件整理の力を、もっと製品の近くで活かす道。どちらも、まだ私の中で、形になりきってはいない。でも、どちらの道も、根っこは、同じだった。壊れ方を、誰よりも早く、読む。
二年目の終わり、同期に、テストを極めたいと言った。あの夜の言葉は、まだ、私の中で生きていた。
机の上の要件メモを、もう一度目で追った。
上田PMが昨日の夜「明日の朝、ちょっと整理してみて」と預けてくれた新規顧客の要件メモ。A4三枚に上田PMの手書きの字で走り書きが並んでいる。
「在庫管理を、もう少し見やすくしたい」
「複数の倉庫のそれぞれの在庫を一つの画面で見たい」
「警告が出るタイミングを、もう少し早くしたい」
顧客の言葉と上田PMの記録、その間にかすかな揺れがあった。
私はA5の手帳を開いた。
左のページに顧客の言葉を、そのまま写す。
右のページに私の整理を書く。
まず左ページに、上田PMのメモの中の顧客の三つの一行を、そのまま写した。
右ページに考えた。
「『見やすくしたい』は表示の問題か、画面の階層の問題か、両方か」
「『一つの画面で見たい』はダッシュボードの設計か、フィルタの設計か」
「『警告が早く出てほしい』は閾値の問題か、通知のチャネルの問題か」
三つの問いを右ページに並べる。
その下にもう一段、深い問いを書いた。
「顧客はいま、何がいちばん痛いのか」
「在庫が見えていないということが、業務のどの場面でいちばん損失を出しているのか」
その問いにいますぐ答えは出ない。
しかし、その問いを上田PMにぶつけてみれば、上田PMの中の答えの半分は、たぶん引き出せる。
古文書の解読は似ていた。本文の異同にすぐに答えを出すのではなく、まず異同の場所をちゃんと特定する。場所が特定できれば別の写本に問いを投げる。問いの投げ方が半分、答えの形を決める。
要件整理もたぶん、同じ。
手帳を閉じた。
窓の外、港川市の十一月の朝、淡い陽が、女子寮の中庭のケヤキの最後の葉を白く照らしていた。
私の三年は変化が見えにくい三年だったと、自分でも思う。
葉山さんのように、東京からのオファーを自分で断る、というような、はっきりした決断は、私の三年にはなかった。
黒木くんのように、組込みのテックリードになる、というような明るい節目も、私の三年にはなかった。
丸山くんのように、現場の佐々木さんから「丸山くん、現場、分かるね」と、繰り返し言ってもらえる、というような温かい光景も、私の三年には乏しい。
桐谷くんのように、半径3メートルの観察をノートに地味に重ねて、遠野CTOと差しで対話の時間をもらう、というような物語性も、私の三年にはなかった。
しかし、私の三年はちゃんと、私の縦棒と横棒を、静かに整えた三年だった。
縦棒は、テスト。壊れ方を、作る前に読む力。
横棒は、顧客の言葉を、文学のように読む力。
古文書を解読してきた手の感覚が、ヨキエルのサポート/QAチームで、テストという新しい衣を着て、生きていた。
昨日の午後、私はいつもの月一のQA相談で、真鍋さんと二人で、小さな会議室に座っていた。
「杉本さん、来年からのテスト自動化の話、少し置いておきたい話がある」
真鍋さんは、いつもの穏やかな声で、そう置いた。
「はい」
「社内で、新しい取り組みが静かに始まっているらしい。新設事業開発部、という諏訪さんの新しい部署」
「はい」
「その新設で、QAの位置づけも、これまでとは少し違う形で置き直される可能性があるらしいの」
真鍋さんの声のトーンは、いつもと、変わらなかった。ただ、「新設」の三文字の置き方だけが、いつもより、半段、丁寧だった。
「私も、詳しいことはまだ知らない。でも、杉本さんのこれからのテスト自動化の取り組みが、いずれその新設と静かにつながる、という可能性は、頭の隅に置いておいていい」
「はい」
私は、静かに頷いた。
真鍋さんの一行は、命令ではなかった。ただの、遠くの気配の共有だった。
真鍋さんは、その気配を、私の側に、そっと、置いてくれた。私はそれを、そのままの温度で、胸の内に、しまった。
同じ日の夕方、中本さんが、私の島の脇を通りすがりに、少しだけ立ち止まった。
「杉本さん、最近忙しくない?」
「大丈夫です」
「そう」
中本さんは、口の端で薄く笑った。
「それならいいの。ただ、うちのチームは、私と真鍋さんでちゃんと守るから。杉本さんは、自分のテストと要件整理の縦棒を、遠慮せず続けていいのよ」
「はい」
私は、頷いた。
中本さんの「守る」の二文字の中に、他の部の空気の話は、一言も、混じっていなかった。ただ、「うちのチームは、守る」の一行だけが、静かに、置かれた。
その置き方の背後に、たぶん、他の部で起きている何かの気配を、中本さんは知っている、と私は思った。ただ、中本さんは、それを私に運ばなかった。運ばないことで、うちのチームを、守っていた。
その運ばなさが、私の三年目の秋の、いちばん静かな安心の形だった。
私はその夜、母に電話をした。
久しぶりに、ちゃんと十五分くらい話した。
「お母さん、私、来年から、テストの専門で、やっていくことにした」
「テストって、何?」
「ソフトがちゃんと動くか、確かめる仕事。壊れる前に、どこが壊れるか読む仕事」
「ふうん」
母は考えていた。
「文系から、IT、いいわね」
その一行は私の中で温かく置かれた。
「私、最初ITに行くって言った時、お母さん、心配してたよね」
「うん、心配してた」
母は笑った。
「文系の娘が、コンピュータの会社でちゃんとやれるのか、半分想像できなかった」
「でも、三年やってテストで一本立てられそう、ってこと」
「ヨキエル、いい会社を選んでくれた、と思う」
私は頷いた。
「お母さん」
「うん」
「卒論の古文書の解読の力が、テストにも要件整理にも、活きてるんだよ」
「あら、そうなの」
母は嬉しそうな声を出した。
「お父さんに、その話しておくね。お父さん、あなたの卒論、ずっと誇りにしてるから」
「うん」
目が、じわりと滲んだ。
「お母さん、ありがとう」
「あなたが自分の場所、見つけてくれたから、お母さん嬉しい」
その一行で、私の三年の、私の中での意味がちゃんと見えた気がした。
午後、社内で桐谷くんと廊下ですれ違った。
「杉本さん」
桐谷くんはこちらに身体を向けた。
「桐谷くん、お疲れさま」
短く返した。
「先週の金曜の、かいかん、お疲れさまでした」
「桐谷くんも」
小さく笑った。
「桐谷くんまだ、迷ってる?」
聞いてみた。
「うん、まだ迷ってる」
「迷うのは、ご褒美、ですよ」
葉山さんが先週のかいかんで桐谷くんに置いた一行を、私も別の場所で、桐谷くんに置き直した。
「ありがとう」
桐谷くんは薄く笑みを浮かべた。
「杉本さん、JSTQBの上の……テストアナリスト、だっけ。受かったんだってね。おめでとう」
「ありがとうございます」
頭を下げた。
「桐谷くん、私、桐谷くんのこと同志と思ってる」
その一行は声に出してから、自分でも驚いた。
「同志?」
桐谷くんも目を上げた。
「観察する側の、同志」
「桐谷くんは半径3メートルの、観察」
「私は顧客の言葉の、観察」
「同じ縦棒ではないけれど観察、という横棒はたぶん似ている」
「だから同志」
桐谷くんは頷いた。
「うん、たぶんそう思う」
「三年で、私も私の縦棒と横棒を見つけたかも」
その一行を、私は桐谷くんに置いてみたかった。
「うん、ちゃんと見つけてる」
桐谷くんは穏やかに頷いた。
「じゃあ私、戻ります」
「うん」
廊下の奥のサポート/QAチームの島の方角に、戻った。
戻る途中、自分の足が軽くなっているのに気づいた。
後半、丸山健司
十一月の第四週、水曜日の朝。
港川市の男子寮の、俺の部屋。
六時半に、目覚ましのアラームが鳴る前に自分で目が覚める。
元運送ドライバーの頃の、半ば習慣の名残っす。
昔は朝の四時に起きてトラックの点検をして、五時前には湾の方角の倉庫に向かっていた。あの頃に比べたらいまの六時半の起床は楽。
布団から出て台所に立つ。台所っていっても、寮のシンクの脇の半畳の小さな空間。コンロは、IHが一口ぽつんと埋め込まれているだけっす。
ヤカンに水を入れて、IHのスイッチを押す。
水が温まる音が、かすかに立つ。
俺の朝の儀式っていうのが、一個ある。
コーヒーカップの天気予報、っす。
戸棚の中から白地に紺の縁取りの安いマグカップを取り出す。
マグカップを机の上に置く。
ヤカンのお湯が沸いたら、インスタントコーヒーの瓶からスプーン一杯半、マグカップに入れる。
お湯を注ぐ。
湯気が、立つ。
その湯気の、立ち上がり方を観察するっす。
今朝は、湯気が、まっすぐ上に上がった。
すぐにふっと、両側に分かれずにまっすぐ上に伸びた。
……今日はたぶん、晴れ。
二年目のはじめの頃に、この観察を始めたっす。こつこつ続けてきた習慣を、三年目のいまも、ほぼ毎朝、続けている。
コーヒーカップの湯気が、まっすぐ上に上がる日は、空気が乾いている。乾いた空気はたぶん、晴れ。
逆に、湯気が、立ち上がった直後に横に流れる日は、空気が、湿っている。湿っている日はたぶん、雨か、曇り。
元運送ドライバーの頃、朝のトラックの点検の時に似たような観察をしていた。倉庫前の白い線の上で、トラックのフロントの上に立つ朝霧の動き方を見ると、その日の高速の路面の様子が読めた。
あの観察をいま、俺は寮の台所の、コーヒーカップの湯気で、続けている。
地味な観察っす。
でも、俺の朝の縦棒の根っこたぶん、ここっす。
マグカップを片手に、机の前に座る。
机の上には、昨日、港川物流の佐々木さんからもらった、現場のメモ。
佐々木さんは港川物流の倉庫長で、五十八歳。トラックドライバー上がりで、現場をずっと知っている人。俺が運送ドライバーから独学でIT中小に転職して、ヨキエルに来て、物流ドメインのエンジニアとして配属された一年目から、佐々木さんの倉庫の現場には足を運んでいる。
佐々木さんのメモは、いつもA4のコピー用紙の裏に太字のマジックで書かれている。
「丸山くん、棚卸し、十二月の第二週」
「在庫のずれ、最近増えてる」
「システムなんとかなる?」
佐々木さんの一行は、いつも現場の温度のまま、ぽんと運ばれてくる。
俺はその一行を現場の温度のまま、自分のノートに写す。
ノートの隣に、システム側のメモを書く。
「棚卸しは、十二月の第二週」
「棚卸し前に、システム側で在庫差分のダッシュボード、整える」
「差分の出ているSKUの一覧を佐々木さんに、紙でも画面でも、両方で渡せるようにする」
現場の人は紙の方が安心する。
システム側の俺たちは画面の方が効率がいい。
その間を橋渡しするのが、俺の仕事っす。
マグカップのコーヒーを口に運ぶ。
昨日の夜、佐々木さんからもう一行、もらった。
「丸山くん、現場、ちゃんと分かるね」
その一行はもう何度目だっけ。三回目? 四回目?
いやたぶん、もっと多いっす。
佐々木さんは口数が少ない人で、誉め言葉もたぶん、年間で五回くらいしか出さない。その五回のうち二回か三回が、俺に向かっていれば上等っす。
昨日の佐々木さんの一行はいつもの「現場、分かるね」だった。
しかし、昨日のその一行は声の調子がいつもの一行よりも、もう半段温かかった気がした。
「佐々木さん、現場で生きてきた人だから分かるんすよ」
俺は佐々木さんにそう返した。
「俺がちゃんと分かろうとしている、というよりも」
「佐々木さんがちゃんと現場の言葉で、教えてくれるから」
「俺の側は教えてもらっているだけっす」
佐々木さんはふっと笑った。
「丸山くん、それは謙遜が過ぎる」
「でも、嬉しいよ、その一行」
佐々木さんの返しの一行はたぶん、年間五回の誉め言葉の枠の外のボーナスっす。
寮を、七時半に出る。
桜並木通りの方角を、徒歩二十分。
ヨキエル社の本社ビルに、八時前に着く。
俺の上司の江口マネージャー。
江口マネージャーは相変わらず、俺の仕事に関心が薄い。
俺が受託開発部チームBの物流ドメイン担当で佐々木さんの現場と組んで仕事をしていることは、知っている。
しかし、江口マネージャーは月に一回の1on1の場でこちらの近況を聞くことはない。
「丸山くん、何か困ってる?」
「いえ、特に」
「そう、ならいいよ続けて」
たいてい、十分で終わる。
昔はそれが寂しい時もあった。
いまは気にしないっす。
俺の半径3メートルは江口マネージャーじゃない。
佐々木さんと、港川物流の倉庫の現場と、それとヨキエルの中で物流ドメインのエンジニアとして組んでくれている、システム側の二人の同僚っす。
その三方向で俺の縦棒と横棒は、ちゃんと地に足が着いている。
……葉山さんがいた頃は、もうちょっと、楽だったっすけどね。
俺が現場で「これ、回らないっす」って言うと、葉山さんが、それを要件の順番に、きれいに並べ直してくれた。俺の肌感を、ちゃんと仕様の言葉に翻訳してくれる人だったっす。
去年の十一月に、葉山さんはパッケージのほうに異動した。あの噛み合いは、もう、ない。
いまは、その翻訳も、半分は自分でやるっす。最初は手こずったっすけど、やってるうちに、ちょっとずつ、できるようになってきた。
……まあ、葉山さんに、鍛えてもらったようなもんっす。
江口マネージャーが無関心でも俺の仕事は回る。
自分の道を進む、というのは誰かに認められなくても自分でちゃんと進む、ということっす。
俺はその構えで、三年過ごしてきた。
昼休み、社内Slackで桐谷さんからダイレクトメッセージが来た。
「丸山くん、お疲れさま。先週のかいかん、ありがとう」
桐谷さんの一行はいつもの、礼儀正しい調子。
「桐谷さん、お疲れさまっす」
「こちらこそ、ありがとうっす」
「桐谷さんまだ、迷ってる?」
ちょっとだけ軽くからかう調子で返してみた。
「うん、まだ迷ってる」
桐谷さんは笑う絵文字みたいなのは使わない人っす。
でも、その「まだ迷ってる」の一行に、桐谷さんが薄く笑った気配は感じる。
「桐谷さんは、頭で観察、俺は現場で観察っす」
俺はその一行を、ダイレクトメッセージに、ぽん、と置いた。
「桐谷さんの観察はノートの上で形になる」
「俺の観察は佐々木さんの倉庫の床の上で形になる」
「同じ観察っていう言葉でも出口、違うっす」
「でも、二つともたぶんいい観察」
桐谷さんからの返事はすぐに来た。
「うん、たぶん二つともいい観察」
「丸山くんの『現場で観察』、僕、ヨキエルに残るかどうかの問いの中で参考にさせてもらってる」
「俺の観察が桐谷さんの参考?」
「嬉しいっす」
俺は小さく笑った。
「3年で、俺も俺なりの場所、見つけたっす」
その一行を、俺は桐谷さんに置いた。
「物流ドメイン、佐々木さん、ヨキエル」
「この三つの組み合わせの中の、俺の半径3メートル」
「地味っすけどちゃんと俺の場所っす」
桐谷さんは頷くような絵文字を、ぽんと一個送ってきた。
「丸山くんの場所、ちゃんと見えてる」
「桐谷さんも自分の場所、ちゃんと見つけてください」
俺はその一行で、桐谷さんとの今日のやり取りを締めた。
夕方、佐々木さんから電話が来た。
「丸山くん、悪い、今週の金曜の午後倉庫に来れる?」
「行きます、行きます、佐々木さん」
頷いて返した。
「棚卸しの事前の確認。現場で、一緒に、画面見ながらやろう」
「了解っす」
「いつもの十三時半、倉庫の二階の事務室」
「行きます」
佐々木さんは短く電話を切った。
俺の道は、たぶんこれで続く。
ヨキエルの中で、物流ドメインのエンジニアとして、佐々木さんの倉庫の現場とずっと組み続ける。
……正直に言えば、一度だけ、別の道を考えた夜があった。
二年目の冬のことだった。寮の部屋で転職サイトの画面を、なかば本気で眺めた。東京の物流系の中堅IT、千葉の倉庫システム会社、大阪の関西物流ベンチャー。求人票の年収はヨキエルの一・五倍。福利厚生も厚かった。書類はいつでも書ける状態だった。
画面を見ながら、ぽつりと一行考えた。
……俺が東京に行ったら、佐々木さんの倉庫の朝霧を、誰が見るんだろう。
俺が運送ドライバーをやめてヨキエルに来たのは、年収のためじゃなかった。トラックの荷台で動かしていた段ボールの中身が、誰の家のどんな食卓に届くのか、その先を見たかったから。佐々木さんの倉庫は、その先の一つだった。
ヨキエルにいれば、佐々木さんの倉庫の現場と、ずっと組める。東京の中堅ITに行けば、佐々木さんの倉庫とは縁が切れる。縁が切れた先で、もっと大きな倉庫と組めるかもしれない。けれど、その大きな倉庫の朝霧を佐々木さんがいない場所で見ても、たぶん俺の中で熱が立たない。
転職サイトのタブを閉じた。
三年目の秋、同期がそれぞれの決断を口にした頃、その夜のことを、もう一度思い出した。閉じたタブの音は、誰の決断とも違う、俺だけの音だった。それでも、俺の道だった。
佐々木さんとの初対面は、一年目の十二月だった。
配属から半年あまり経った冬。江口マネージャーから「丸山くん、明日、港川物流の倉庫長さんが棚卸しのシステムについて相談したいと言ってる。一人で行ってきて」と、付箋一枚で振られた。江口マネージャーは、俺が元運送ドライバーだったことを、たぶん知らなかった。
港川物流の倉庫の二階の事務室で、佐々木さんは茶色いジャンパーを着て、書類の山の前に座っていた。俺の顔を半秒だけ見て、口の端でぽつりと言った。
「あんた、たぶんIT畑じゃない方の出身でしょ」
俺は驚いた。
「分かるんすか」
「分かるよ。靴の汚れ方が、現場の人の汚れ方だ」
その一行で、俺と佐々木さんの三年が始まった。
佐々木さんは現場の言葉で話してくれた。俺は元運送ドライバーの言葉で受け取った。あいだに教科書はなかった。一年目の冬の二階の事務室の温度がいまも俺の中でほのかに灯っている。
佐々木さんは、倉庫長で、現場を一人で背負ってる。その背中を見るたび、俺は、親父を思い出す。中古のトラック一台で、一人親方の運送業をやってた、俺の親父。荷主と値段の交渉をして、繁忙期と暇な時期で資金繰りにひいひい言って、それでも現場に立ち続けた背中。俺は、商売をやる人の夜の顔を、子供のころからずっと見てきた。だから、佐々木さんが画面のこっち側で何を心配してるのか、なんとなく、肌で分かる。技術の話をしてるはずなのに、俺の足は、いつも商売の地面に着いてる。それはたぶん、親父がくれた、俺だけの財産っす。
葉山さんが東京を断って残るのとも、別の道っす。
黒木さんの組込みテックリードとも別の道。
杉本さんのテストの道とも別の道。
しかし、俺の道っす。
それにしても、と思う。葉山さんも、黒木さんも、杉本さんも、桐谷さんも、みんな俺より年下だ。同期だけど、ときどき、弟や妹みたいに見える。あいつらが迷ってると、つい、前の会社ではどうだったとか、年長者から見てどうとか、年寄りくさいことを言いたくなる。けど、あいつらは、俺がトラックの助手席でうろうろしてた歳に、もう、ちゃんとエンジニアをやってた。だから俺も、兄貴面してる場合じゃない。負けてられないっす。……まあ、たまには頼られると、悪い気は、しないっすけど。
そういえば、先週の夜、佐々木さんに、一度、飲みに誘ってもらった。
港川物流の倉庫の裏手の、赤提灯のさがった、名前も知らない小さな居酒屋っす。カウンター五席の店で、大将は佐々木さんと同世代くらいの、いつも同じネクタイのおじさん。
佐々木さんは瓶ビール、俺はハイボール。
最初の二十分は、いつもの棚卸しの話と、今年の年末繁忙期の見通しの話。話が一段落したところで、俺は、コースターの縁を指で軽く回しながら、ぽつりと、置いた。
「佐々木さん、うちの会社、最近空気変っす」
佐々木さんは、ジョッキを卓に置いてから、こちらの顔を、半秒だけ見た。
「そうか」
短く返した。それ以上、佐々木さんは、詳しくは聞かなかった。聞かないのが、佐々木さんだった。
俺も、詳しくは、話さなかった。話す代わりに、こう続けた。
「うちの部の一つ隣の組込みのフロアから、この二ヶ月で静かに人が減ってるっす。俺の直属の江口マネージャーは、たぶんそれに気づいてない。江口さん、朝会の背中がいつもより硬いんすけど、たぶん本人は自覚してないっす」
「うん」
「同期のみんなが、心配で」
俺は、ハイボールをひと口飲んで、そう置いた。
佐々木さんは、しばらく、卓の上のお通しの小鉢を、静かに眺めていた。眺めてから、口を開いた。
「丸山くん、そういう時期はあるっすよ、どこの会社でも」
佐々木さんの「っす」は、俺ののつられ移しだった。倉庫で長く一緒に働いてると、佐々木さんもたまに「っす」で返してくる。それを聞くたび、俺は少しだけ笑いそうになる。
「はい」
「でも、丸山くん、あなたは今の会社で腐る人じゃないっすよ」
「腐らないっす」
「うん、そう」
佐々木さんは、口の端で薄く笑った。
「ただ、同期のみんなが心配で、って言葉大事にしなよ」
「はい」
「あんたが心配してる、その気持ちが、たぶんあの子たちの半径3メートルの外側のいちばん暖かい壁になる。あんたは自分で気づいてないだろうけど」
「……はい」
俺は、少し、詰まった。
「同期、大事にしてください」
佐々木さんは、そのあと、その一行だけを、俺の卓の上に、置いた。
あの夜の佐々木さんの一行の温度が、今日の帰りの通勤路の途中で、まだ、俺の背中の真ん中に、静かに残っていた。
帰り道。
桜並木通りの十一月の夜。
街灯の下をゆっくり歩いた。
寮の自室に戻る前、駅前のコンビニでホットコーヒーを買った。
帰り道に、ホットコーヒーの紙コップを片手に持つ。
紙コップの蓋の小さな飲み口から湯気が、すっと出る。
その湯気の流れ方を見た。
今朝の寮の台所のマグカップと同じ流れ方だった。
ほぼ、まっすぐ上に。
……今日も晴れ。
夜の桜並木通りは、上の方の空が薄く晴れていた。
星がいくつか、見えた。
俺の三年は地味だった。
しかし、俺の三年っす。
ホットコーヒーの最後の一口を口に運んで、桜並木通りの街灯の下をゆっくり歩いた。




