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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第83話「葉山の決断、黒木の決断」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十一月中旬の金曜日。


 昼休みの少し前だった。


 チームAの島で、午前のレビューを一本片付けて、コーヒーを取りに、フロアの端の給湯スペースに歩いた時だった。


「桐谷くん」


 うしろから、葉山さんの声がした。


 振り向くと、葉山さんが、ベージュのカーディガンの袖を片手で軽く押さえて立っていた。


「昨日の。少しだけ、いい?」


 その声は、昨日の夜のLINEの一行と、同じ温度だった。


「うん」


 短く頷いた。


 給湯スペースの奥、窓際の、誰もいない方角に、二人で半歩だけ動いた。


 窓の外、桜並木通りの枝は、もうほとんど、骨だけになっていた。


 葉山さんはコーヒーの紙コップを、両手で半秒、温めた。


 それから、口を開いた。


「断りました」


 その一言だった。


 


 最初の半拍、何のことだか分からなかった。


「オファーを」


 葉山さんは、もう一行、足した。


「東京の、中堅SaaS。半年くらい前から、声をかけてもらってて」


「ぜんぶ、オンラインで。定時のあと、面接を何回か」


 葉山さんの声は、淡々としていた。


「最終まで行って、オファーももらった」


「でも、断りました」


 


 その時、僕の中で一枚の絵が、静かにつながった。


 昨日の朝の、葉山さん。


 パッケージ事業チームの島で、MacBookの画面をじっと見ていた、あの横顔。コーヒーの紙コップを持つ手の固さ。画面を見る目の、半段の張りつめ。声の返事の、半拍の遅れ。


 何かの、当日か、前日の、あの温度。


 ……昨日が、オファーに返事をする、その日だったのか。


 心の中で、そう思った。


 聞かなくてよかった、とも思った。


 


「どうして、とは」


 葉山さんは、薄く笑った。


「ぜんぶは、言わないでおく」


「うん」


 頷いた。


「いろいろ考えた。年収のこととか、東京のこととか」


「でも、いちばん最後に残ったのは、たぶんもっと単純なこと」


 葉山さんは紙コップに視線を落とした。


「もう少し、ここで、やってみます」


 その一行で、葉山さんは止めた。


 理由の続きも、結論の先も、置かなかった。


 もう少し、ここで、やってみます。


 その一行だけを、窓際の十一月の光の中に、そっと置いた。


 


 僕は、その先を聞かなかった。


 聞けなかったのではなかった。


 聞かなかった。


 葉山さんがいちばん最後に残ったものを一行で止めたなら、その一行を一行のまま受け取るのが、たぶん、いちばん葉山さんに対して誠実だった。


 


 葉山さんが、もう少しここにいる。


 その一行が、胸の奥でそっと揺れた。


 なぜ揺れたのかは、自分でもうまく言葉にならなかった。


 揺れの理由も揺れの先も、僕は言葉にしようとはしなかった。


 ただ、揺れた、という事実だけが、胸の奥に静かに残った。


 


「今夜の同期飲み」


 葉山さんは、顔を上げた。


「皆にも、軽く話すね」


「うん」


「桐谷くんには、先に言っておきたかっただけ」


 葉山さんは、いつもの落ち着いた響きに、半分だけ戻っていた。


「ありがとう」


 短く返した。


 葉山さんは、紙コップの縁を、指先で一度なぞってから、口を開いた。


「実は、決める少し前に、中本さんにも話したの」


「うん」


「中本さん、私の話を最後まで静かに聞いてくれた」


 葉山さんは、少しだけ、視線を、窓の外の方角に、動かした。


「聞き終わったあとで、中本さんはこう置いてくれた。『葉山さんは、葉山さんの決めることを、決めてください。決めた道を、私は応援します』」


「うん」


「そのあとに、もう一行置いてくれたの」


「うん」


「『新設事業開発部で、新しい取り組みが、静かに始まっているらしいです。組込みから移ってきた方の中に、女性の方も、一人か二人、いらっしゃるみたい』」


 葉山さんは、その一行を、そのままの温度で、僕に、渡した。


「うん」


「私、その一行を、中本さんの部屋を出るまでうまく飲み込めなかった」


「うん」


「でも、部屋を出て廊下を歩いてる時、その一行が、私の中の別の一行と、静かに重なった」


「うん」


「この会社にも、新しい何かが始まりかけている、という一行」


 葉山さんは、少しだけ、口の端で笑った。


「その重なりは、私の決断のいちばんの理由じゃない。ただ、最後の背中を、半段だけ押してくれた」


「うん」


 僕は、その一行を、頷きだけで、受け取った。


 葉山さんの決断は、葉山さん自身の中で決まったものだった。中本さんの一行は、その決断の背中の、いちばん最後の半段だった。半段の重みは、決断の全体の重みではなかった。ただ、半段は、半段の意味を、確かに、持っていた。


 何に対しての「ありがとう」なのかは、自分でも半分しか分かっていなかった。


 葉山さんは、小さく頷いて、パッケージ事業チームの島の方角に、戻っていった。


 その背中は、昨日の朝より、半段、軽くなっていた。


 


 夜、十九時半。


 港川駅前から二本入った路地の「居酒屋・かいかん」はいつもの金曜の混み具合だった。引き戸を引くと、油の匂いと、卓の上の淡い湯気とサラリーマンの低い笑い声が、もわっと塊で迎えてくれた。


「いらっしゃい」


 大将の若い声が奥のカウンターから飛んできた。


「同期飲みで、五人予約していたのですが」


 声に出した。


「桐谷さん、奥の小上がり押さえてあります」


 大将はにっと笑って、店の奥を指した。


「ありがとうございます」


 短く頭を下げて、靴を脱いだ。


 小上がりの座敷は六人座れる大きさで、テーブルの中央に、ちょうど卓上コンロが置かれていた。十一月の小鍋セットを、葉山さんが事前に頼んでくれていた。


 座敷に上がると、すでに黒木と丸山くんと杉本さんが、こちらに目を上げた。


「桐谷くん、こっち」


 黒木が穏やかに手を上げた。


「お疲れさまです」


 上座の方角に滑り込んで、座った。


 黒木はいつものグレーのスウェットの上に薄手のネルシャツ。丸山くんは現場帰りに見える、紺の作業ベスト。杉本さんはベージュのワンピースに、淡いカーキのカーディガン。


「葉山さんはまだ?」


「あと五分で来るって、LINEに」


 杉本さんが笑った。


「六人だと、ちょうど座敷が埋まるんすけどね」


 丸山くんが頭の後ろを掻いた。


「アユシュさん、いないと、一席空くっす」


「アユシュは、ソウルで、もう落ち着いたらしいよ」


 黒木が低く言った。


「この前、俺のLINEに、ひさしぶりに、近況をくれた」


「元気そうでした?」


 杉本さんが聞いた。


「元気そうだった。韓国の冬、港川より冷えるって、書いてた」


 黒木は薄く笑った。


 アユシュくんの席が、ひとつ、空いている。


 しかしその空席は、欠けた席ではなく、遠くにつながった席だった。


 八月の送別の夜、アユシュくんが最後に言った「また会おう」の一行が、心の隅で、静かに灯った。


 


 十九時三十五分。


 引き戸が軽く開いた。


「お待たせ」


 葉山さんが座敷の縁に立った。仕事帰りの、ベージュのカーディガンに、白いシャツ。


「葉山さん、ここ」


 杉本さんが横にずれた。


「ごめん、五分遅れた」


 葉山さんは穏やかにふっと笑って座った。


「もう注文、いい?」


 大将に向かって手を上げた。


 小鍋の具材と五人分のハイボール、それから丸山くんの好きな唐揚げ、杉本さんの好きな出汁巻き、黒木の好きな冷奴、自分の好きな枝豆を、一気に頼んだ。


「桐谷くんは何、頼む?」


「今日は皆の組み合わせで十分」


 ふっと笑って、返した。


「相変わらず桐谷くん、無欲」


 葉山さんが小さく笑った。


「無欲じゃなくて、皆が頼んだものが全部好きなだけ」


 笑い返した。


 


 ハイボールが、五杯、運ばれてきた。


 五人でグラスを合わせた。


「とりあえずお疲れさま」


 黒木の声が、低く穏やかに卓の上に置かれた。


 五人でハイボールに口をつけた。


「今日はいちおう、目的、決まってるんだよね」


 葉山さんが卓を見渡した。


「うん」


 杉本さんが頷いた。


「皆、十一月までのそれぞれの決断を、報告する」


 葉山さんが声を整えた。


「で、最後に桐谷くんの番」


 葉山さんは身を傾けて、こちらを見た。


「僕はまだ、決まってない」


 笑って、先に予防線を張った。


「うん、それでいい」


 葉山さんは穏やかに頷いた。


「決まってないのも、いまの桐谷くんの一行」


「じゃあ私から、いきますね」


 葉山さんはハイボールを卓に置いた。


 


「私、転職、考えてました」


 葉山さんは、卓の四人に、淡々と切り出した。


「東京の、中堅SaaS。オンラインで、面接を、何回か」


「うわ、葉山さん、ぜんぜん、気づかなかったっす」


 丸山くんが目を丸くした。


「言ってなかったからね」


 葉山さんは薄く笑った。


「最終まで行って、オファーももらった」


 杉本さんが、息を、半分、のんだ。


「でも、断りました」


 葉山さんの声は、迷いがなかった。


「私、ヨキエルに残ります」


 卓の上で、空気が、半秒、止まった。


「断った、のですか」


 杉本さんが、小さく聞いた。


「うん、断った」


 葉山さんは頷いた。


「理由は、ぜんぶは、言わない。いろいろあったから」


「でも、いちばん最後に残ったのは、もう少しここでやってみたい、っていう、それだけ」


 葉山さんは、枝豆を一つ、口に運んだ。


「研修員、まだ、やりきってない。三月の論文発表会も、ちゃんと、終わってない」


「自分で答えを出してから、動いても、たぶん、遅くない」


 葉山さんは、そこで止めた。


 


「葉山さん」


 黒木が、低く頷いた。


「君の決断、応援する」


「俺は、葉山さんが残るの、正直、嬉しい」


 黒木の一行は、いつもの黒木らしく、低く穏やかだった。


「ありがとう、黒木くん」


 葉山さんは、穏やかに笑った。


 


 僕は、何も言わなかった。


 昼に給湯スペースの窓際で先に受け取っていた一行を、葉山さんがいま、卓の上にもう一度置き直していた。


 昼の一行と、夜の一行は、同じ言葉だった。


 しかし、昼に胸の奥で揺れたものは、夜の卓の上では、もう揺れていなかった。


 ただ、温かい場所に静かに置かれていた。


 


「次、俺、いっすか」


 丸山くんが手を軽く上げた。


「うん丸山くん、どうぞ」


 葉山さんが頷いた。


「俺、ヨキエルに残るっす」


 丸山くんはハイボールを置いた。


「物流ドメインのエンジニアとして残るっす」


「港川物流の佐々木さんが最近、俺のこと『丸山くん、現場、ちゃんと分かるね』って、繰り返し言ってくれる」


「あの一行、俺、嬉しいんすよ」


 丸山くんは小さく笑った。


「東京とか海外とか考えなかったわけじゃないっす」


「でも俺の縦棒はたぶん運送ドライバー時代から、ずっと地場物流」


「ヨキエルの中で地場物流のシステムを地味に作る側に、残るっす」


「丸山くん」


 葉山さんがわずかに笑みを浮かべた。


「あんたの『っす』、東京じゃ薄れそうだからヨキエルで正解だと思う」


「葉山さん、それ誉めてます?」


 丸山くんが笑った。


「誉めてる、誉めてる」


 葉山さんも笑った。


「丸山くん、こっちの地域に残ってくれてありがたい」


 黒木が頷いた。


「黒木さんの組込みチームともまた、システムの境界で絡む機会、あるんで、よろしくっす」


 丸山くんは頭を下げた。


 


「次、俺、いきますね」


 黒木が声を整えた。


「俺、ヨキエルに残る。テックリードとして」


 黒木の一行は、短かった。


「この六月に、組込みチームのテックリードが正式になったのは、皆、知ってると思う」


「補佐が取れて、ただのテックリードになって、半年」


 黒木はハイボールを、卓に置いた。


「正直、軽く返すっていう選択肢も、たぶん、あった」


「テックリードっていう役割は、まだちゃんとした制度になってない。給与の幅とも、まだ半分しかつながってない」


「でも」


 黒木は、声を低いまま続けた。


「組込みチームの三人を、もう半年、ちゃんと育てるところまで、責任を見たい」


「俺の縦棒は、組込みで、横棒は、まだこれから」


「ヨキエルで、両方、続ける」


 黒木の声は、いつものとおり、低かった。


「黒木さん」


 丸山くんがふっと笑った。


「テックリード、似合うっすよ」


「ありがとう」


 黒木は小さく頷いた。


「桐谷くんが、いてくれると、組込みチームの境界の話、まだ続けられる」


 黒木は僕に視線を移した。


「ヨキエルに残るなら、俺、ありがたい」


 黒木は声を整えた。


「でも君が選んだ道なら、応援する」


 その一行は、黒木らしい、距離の取り方の一行だった。


 


「私、いきますね」


 杉本さんが声を整えた。


「私、テストの専門の道を進めてもらえそうです、パッケージ事業チーム内で」


「葉山さんの、その、残るっていう話の上で言うの、ちょっと変な感じですけど」


 杉本さんは、葉山さんのほうを、半秒、見た。


「いいよ、続けて」


 葉山さんが、穏やかに頷いた。


「来年の四月から、私、テストの専門で、やっていきます」


「サポート/QAの三年で、テストが、いちばん自分に向いてるって、わかって」


「文系出身でIT完全未経験でヨキエルに入って、まさか、テストの技術で立つなんて、入社の時は想像してませんでした」


「でもいまは、楽しみです」


「テストアナリストの級にも、春に、もう一度挑んで、受かりました」


「ヨキエルに、品質を、文化として根づかせたくて。いつか、その、最初の一人になれたら」


 杉本さんが笑った。


「杉本さん」


 葉山さんが頷いた。


「あなた、ちゃんとヨキエルの中で、自分の道、見つけたね」


「葉山さんのおかげも、半分あります」


「葉山さんが同じパッケージ事業チームにいて、何度か要件整理の作業を一緒にやらせてもらった日が、私の縦棒の根っこになりました」


 杉本さんは深く頭を下げた。


「私こそ、ありがとう、杉本さん」


 葉山さんは穏やかに笑った。


 


 卓の上で空気が、温かい場所に置かれた。


 葉山さんはヨキエルのパッケージ事業チーム。


 黒木はヨキエルの組込みテックリード。


 丸山くんはヨキエルの物流ドメイン。


 杉本さんはヨキエルのパッケージ事業チームの、テストの専門。


 それぞれの三年が、それぞれの場所に、地に足の着いた形で、降りていた。


 卓を囲む四人は、皆、ヨキエルに残る側だった。


 動いたのは、アユシュくん一人。


 しかしアユシュくんの「動く」も、ソウルの半径3メートルの中で、今夜と同じ温度で、続いていた。


 残るのは、僕だった。


 


「桐谷くんは?」


 黒木が、低く聞いた。


「僕はまだ、迷ってる」


 短く返した。


「三つの道、ある」


 ハイボールを置いた。


「諏訪マネージャーの異動先の新設事業開発部に、来年四月の異動公募で出すこと」


「いまのチームAに残って、富岡マネージャーの下で、ヨキエルの中で変える側に立つこと」


「別の会社に動くこと。東京、地方、海外」


 卓の四人は、僕の三つを聞いていた。


「ヨキエルに残るなら、俺、ありがたい」


 黒木が低く頷いた。


「俺、桐谷さんが、どこに行っても、地場で、ちゃんと佐々木さんとの仕事は続けるっす」


 丸山くんが頭の後ろを掻いた。


「桐谷くん、私はヨキエルで、テストの専門でやっていくので、桐谷くんがヨキエルにいてくれると心強いです」


 杉本さんが小さく頷いた。


「正直、桐谷くんが、どの道を選んでも」


 葉山さんが、薄く笑みを浮かべた。


「私は、桐谷くんの観察が、いちばん近くで見られる道が、嬉しい」


 葉山さんの一行は、押し付けの温度ではなかった。


「皆、ありがとう」


 深く頭を下げた。


 


 卓に残った五人で、しばらく、何も言わなかった。


 卓上コンロの小鍋の湯気が、ゆっくりと五人の真ん中の上で、薄く立ち上っていた。


「いい絆だね、私たち、たぶん」


 杉本さんが笑った。


「三年で、皆それぞれの場所にいて。アユシュさんはソウルで、私たちはヨキエルと港川で」


「うん」


 葉山さんも小さく頷いた。


「六人で、ニックネーム研修の春から、ここまで来た」


「うん、いい絆」


 黒木も、低く頷いた。


 六人の三年。


 ニックネーム研修の春から、ここまで変わって変わらないまま、来た六人。


 一人は遠いソウルに、四人は港川のヨキエルに、一人はまだ、三つの道の前に。


 その絆はたぶん続いた。


 


 卓上コンロの火を、大将が覗きにきて小さくしてくれた。


「お会計、もうちょっと待ちます?」


「もう少しいいですか」


 黒木が低く返した。


「はいはい」


 大将はにっと笑って奥に戻った。


 葉山さんがハイボールの最後の一口を運んだ。


「桐谷くん」


「うん」


「迷うのは、ご褒美」


 葉山さんは小さく笑った。


 先週の「澪」の帰り道で、葉山さんが僕に置いてくれた一行を、もう一度、ここで卓の上に置き直した。


「うん、その一行、ありがとう」


「決めたら、また、皆に教えて」


「教える、教える」


 頷いた。


 


 二十二時半。


 居酒屋・かいかんの引き戸を五人で抜けて、外に出た。


 港川駅前の路地は十一月中旬の初冬の風で冷えていた。


 桜並木通りの方角の街灯が、ぼんやりと滲んで光っていた。


 帰り道、五人で桜並木通りの方角に歩いた。黒木と丸山くんが先を行き、杉本さんがその半歩あとに続いた。


 それぞれの三年が、同じ通りの上を、同じ寮の方角にゆっくり進んでいった。


 葉山さんと二人で、少し遅れて、桜並木通りをしばらく歩いた。


 葉は、もうぜんぶ落ちていた。街灯の光の輪の中で、桜の枝は骨だけになっていた。


「桐谷くん」


 葉山さんが、こちらを見ずに口を開いた。


「昼に、皆より先に話して、ごめんね」


「ううん」


 短く返した。


「桐谷くんには、先に、見ててほしかったんだと思う。たぶん」


 葉山さんは、それ以上は言わなかった。


 僕も、それ以上は聞かなかった。


 寮の共用の入口で、葉山さんは女子棟のウイングの方角に歩き出した。


 ベージュのカーディガンの背中が、ラウンジの明かりの中をゆっくり遠ざかっていった。


 その背中は、昨日の朝より、ずっと軽くなっていた。


 


 寮の自室に戻って、ノートを開いた。


 今日の日付の下に、最初の一行。


「葉山さんは、オファーを断って、ヨキエルに残る。もう少し、ここでやってみる、と」


 次の一行。


「黒木は組込みテックリード。丸山くんは物流。杉本さんはテストの専門。アユシュくんはソウルで落ち着いた」


 その次の一行。


「皆、それぞれの道。残るのは、僕」


 ペンを、半秒、止めた。


 最後に、もう一行だけ、足した。


「葉山さんが、もう少し、ここにいる」


 その一行を書いてから、しばらく見つめた。


 なぜその一行を、いちばん最後に書いたのかは、自分でもまだ分からなかった。


 しかし、書かずにはいられなかった。


 ペンを置いた。


 机の脇に積まれた三冊のノートに、半秒、目を落とした。一冊目、二冊目、三冊目。一年目、二年目、三年目。その手前に、十月から書きはじめた、十字の白い無地のノート。


 その横に、白い紙袋。先週、駅前の文具店で買っておいた、新しい一冊。まだ封を切っていなかった。


 その新しい一冊の最初の一行は、三つの道を、自分で選び取ったあとで、書く。


 まだ、書くのは、早い。


 窓の外、桜並木通りの街灯が、十一月の夜の中で、ぼんやりと滲んで光っていた。


 三年で築いた六人の信頼が、僕の中で温かく置かれていた。


 その温かさの隅に、昼に揺れた一行が、まだ静かに残っていた。


 ……三つの道のうち、僕の選択は、どれだろう。


 胸の奥で、短く撫でた。


 答えは、まだ、立ち上がってこなかった。


 しかし、急がない。


 観察を続けていれば、輪郭は、少しずつ、立ち上がってくる。


 ノートを閉じて、机の上に、そっと置いた。


 


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