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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第82話「ある日の黒木律、事件の夜」(インタールード⑪)

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この話は、フィクションです。組込みチームの黒木律の視点で、十月末のある夜を描いています。桐谷蒼太の観察の範囲の外で起きていることの、内側の記録です。第82話の直前の夜に相当します。


 十月の第四週の水曜日、夜二十時。


 俺は組込みチームの島に、一人で残っていた。


 フロアの蛍光灯の半分は落ちていた。窓の外、桜並木通りの葉桜の枝はもう半分骨で、街灯の下でぶらぶら揺れていた。


 自分の机の上には、書きかけの設計レビューのメモが半ページ、開いたままになっていた。ペン先を置いた場所から、たぶん十分は動いていない。


 ……集中、切れてる。


 胸の内で俺は短くつぶやいた。


 集中が切れているのは、俺の側の問題ではなかった。


 組込みチームの島の、藤村さんの席のあたりの空気だった。


 


 藤村さんの席は、俺の島の斜め向かい、通路を一つ挟んだ列にある。


 藤村さんは組込みチームの中堅のシニアエンジニアで、俺が一年目の頃から、月に一度、俺とアユシュを昼飯に連れていってくれた人だ。技術は組込みチームの中でたぶん一番深い。機嫌の波は、この島の中では、最も浅い。大沢マネージャーの波の下で、俺とアユシュを長く受け止めてくれた人だった。


 二年前、遠野CTOが人事会議のあとで藤村さんに何かを頼んだ、と俺はどこかで小耳に挟んだことがある。誰も面と向かって俺には言わない。ただ、藤村さんの一年目の秋の、昼飯の席の頻度と、その時の話の順序と、俺のその頃のノートの並びを、今の俺の頭で並べ直すと、あれは頼まれごとだった、という気配が薄く残っていた。


 俺はそのことを、藤村さんに聞いたことはない。


 聞かなくていい類の頼まれごとだった。


 


 その藤村さんが、この一ヶ月、明らかに、疲れていた。


 顔色の話ではない。俺のような若い層には、顔色で人の疲弊を読むほどの経験はまだない。俺が読めるのは、藤村さんの席周りの、動きの遅さだった。


 朝、藤村さんが席に着くまでの時間が、以前より半段長くなっていた。給湯室で紙コップにコーヒーを注ぐ手が、以前より半秒遅くなっていた。廊下で誰かとすれ違ったあと、藤村さんは以前なら二歩で自席に戻ったところを、今は三歩、あるいは四歩、立ち止まる時間を挟んでいた。


 立ち止まる時間、というのは、何かを考えている時間ではないように、俺には見えた。何かを考える前の、体の重さを一度、床の上で確かめている、そういう類の間だった。


 ……藤村さん、たぶん、限界の近くにいる。


 俺は、二週間前から、そう思うようになっていた。


 思っていることを、俺は誰にも言わなかった。


 まず、俺の観察が正しいのかどうかを、自分でもう一段確かめたかった。


 もう一つ、俺が誰かにそれを言うと、藤村さん自身の耳に、どこかで届く。届いた時に、藤村さんが「若い黒木にまで気を遣わせている」と自分を追い詰める種類の人だ、ということも、俺は知っていた。


 だから、俺は、二週間、黙って観察した。


 


 この二週間のフロアの他の景色も、俺は同時に見ていた。


 大沢マネージャーは、朝会の三十分の間、以前より肩を上げていた。アユシュが辞めた月末の直後、大沢さんは朝会で「勝手にやめやがって」と一言、周りに聞こえる声で置いた。俺はその一言を、そのまま自分のノートに書いた。書きながら俺は、この一言はたぶんこの部の何人かにとっての、決定打になる、と思った。


 その予感は、二週間後に、九月末の四つの退職届で、確かめられた。


 湊さん、奈良崎さん、吉住さん、越野さん。組込みチームの中堅と、若手と、女性技術者一人。四人が同時に、二日ほどの間の中で、辞表を出した。四人はそれぞれ、独立に、動いていたらしい。Slackの人事チャンネルに、四つの短い一行が、日を分けて、静かに流れた。


 俺は四つの一行を、ノートに、静かに写した。写しながら、俺は「この四人は、たぶん独立に動いたのだと思う」と、その下に一行だけ、注釈を置いた。


 注釈の理由は、俺にははっきりとは言えなかった。ただ、あの四人の、九月前半のフロアの動きを俺の記憶の中でもう一度並べると、四人は互いに相談していない、という気配の方が、していた気配より、強かった。相談していたら、四つの一行の間の日付が、もう少し詰まっていたはずだった。四つは、二日と三日、日を分けて、置かれていた。


 ……独立、それぞれの手のなかで、決めた。


 俺は胸の内で確かめた。


 確かめた上で、俺は自分の中に、もう一つの一行を、静かに置いた。


 ……次の波は、たぶん、もうすぐ来る。


 


 十月に入って、フロアの空気は、更に半段、静かになった。


 静かさは、平和の静かさではなかった。次に何かが動く前の、体の重さを床で確かめている類の静かさだった。それは藤村さんの立ち止まる時間の質と、同じ地金の静かさだった。


 組込みチームの島の中で、次に動きそうな人が誰か、俺はうっすらと目星を付けていた。柊さんという、俺よりだいぶ年上のシステム設計の先輩と、日暮さんという、俺とほぼ同世代の女性の品質保証の先輩。二人は九月末の四人の退職の後、社員食堂の遠くのテーブルで、一度だけ、静かに向かい合って昼を食べていた。俺はその昼を、たまたま隣の列から見た。二人は、話していなかった。話していなかったことの方が、俺には、意味があった。


 俺の目星が当たるかどうかは、俺にはまだ分からない。ただ、当たるとしたら、たぶんもうすぐだ、と俺は思っていた。


 


 その夜、二十時十五分。


 通路の向こうから、林さんが歩いてきた。


 林さんは組込みチームの初代のテックリードだった人で、五十代の男性、少し猫背、いつも同じような色のニットを着ている。二年前の六月に俺がテックリード補佐に付いた時からずっと、俺の斜め上の相談相手として、静かにそこにいた人だった。今年の六月に補佐が取れた時、林さんはチームのテックリードのロールを俺に譲って、自分は組込み全体の技術判断を取りまとめる別の役割へ移った。ロールは俺の一つ上に上がったが、林さんの席はまだこの島の中にあった。


 林さんは、俺の机の脇でいったん立ち止まった。


「黒木、少しいい?」


 いつもの、低く平らな声だった。


「はい」


 俺は短く返した。


 林さんの誘いは、いつも短い。断らせない類の短さではなく、断る気があるなら断っていい、という余白のある短さだった。


 俺はペンを机の上に置いて、椅子から立った。


 二人で、フロアの奥の、いつも使っていない小さな打ち合わせ席に移った。


 


 打ち合わせ席の丸テーブルを挟んで、林さんが先に座った。俺も向かいに座った。


 林さんはノートを開かなかった。手ぶらだった。


「今日、業務の話じゃない」


 林さんが最初に、そう置いてくれた。


「はい」


「業務の話じゃない席で、俺の方から話しかけたのは、たぶんこの二年で二度目だ」


 林さんは口の端で薄く笑った。


「一度目は、お前を補佐にする話をした時」


「はい」


「今日は、別の話」


「はい」


 林さんは、丸テーブルの上に、両手を、少し離して置いた。


 二秒ほどの沈黙があった。


 林さんは、その沈黙を、林さんの側で埋めた。


「藤村のこと、お前、気にしてるだろう」


 その一行が、俺の胸の真ん中を、静かに突いた。


 俺は半秒、返事に詰まった。


 詰まったのを、俺は林さんに見せていいと判断した。判断してから、口を開いた。


「はい」


 短く返した。


「言葉、選ばなくていい。俺に、そのまま」


 林さんは低く、穏やかに、そう置いてくれた。


 俺は息を、一度、静かに整えた。


「藤村さん、廊下で立ち止まる時間が、長くなっています」


 俺は口に運んだ。


「はい」


 林さんは短く返した。


「朝、席に着くまでが、以前より半段遅い」


「はい」


「給湯室のコーヒーを注ぐ手が、以前より半秒遅い」


「はい」


「顔色の話じゃないです。藤村さんの体が、床の重さを確かめている時間が、増えてる」


 俺はそう置いた。


 置いてから、俺は自分の言葉を、自分でもう一度目でなぞった。


 林さんは、両手をテーブルの上でゆっくり組み直して、こう返した。


「読める人が、読める場所を、ちゃんと読んでる」


 その一行を、林さんは俺の目に、まっすぐ、置いた。


「はい」


 俺は短く返した。


 


 もう一つ、俺は林さんに、置いておきたい一行があった。


 言うべきかどうか、俺は迷った。迷ったが、迷った上で、置くことにした。


「林さん、俺、藤村さんに直接、話しかけたことはありません」


「はい」


「話しかけると、たぶん藤村さんは、俺に気を遣う側に、回ります」


「そうだな」


 林さんは深く頷いた。


「だから、俺、藤村さんに何もしていません。ただ、林さんに一言だけ、伝えたいと思っていました」


 俺はそこまで置いて、少し息を整えた。


「藤村さんが、心配です」


 その一行を、俺は林さんの目に、まっすぐ、置いた。


 置いた瞬間、俺の胸の中で、二週間、俺が一人で持ち歩いていたものが、少しだけ、軽くなった。持ち歩くことをやめたわけではなかった。ただ、俺の胸から林さんの胸へ、その重さの半分を、そっと、渡した気配だった。


 


 林さんは、しばらく黙っていた。


 俺の一行を、林さんの側で、しっかり受け止めてくれている類の沈黙だった。


 二十秒ほどの沈黙のあと、林さんは、口を開いた。


「黒木」


「はい」


「藤村のことは、俺が見る」


 林さんは、短く、そう置いた。


「はい」


「俺が見る、という言い方の中身を、少しだけお前に話しておく」


「はい」


 林さんは、両手をテーブルの上に、もう一度組み直した。


「藤村と俺は、同じ島でもう十年近い。俺は藤村の疲れの底が、どの深さまで来ているかを、たぶんこの部で一番読める側だ」


「はい」


「それでも、俺は藤村に、正面から『疲れてるか』とは聞かない」


「はい」


「聞くと、藤村の型の人はこちらに気を遣う側に回る。お前が藤村に直接話しかけない、と判断したのと同じ理由だ」


「はい」


 俺は静かに頷いた。


「俺の側の見方は、少し違う道具を使う。藤村に、業務の頼み事を一つずつ、以前より軽くしていく。技術判断の相談も、必要なもの以外は俺の側で先に閉じる。藤村の机の周りの業務の重量を、俺の側で、地味に削っていく」


「削る」


「うん。減らす、ではなく、削る。差分の作業だ。藤村の側からは、たぶん気付かれない速さで」


「はい」


「削って、藤村の側の余白を、少しずつ増やしていく。余白ができたら、藤村は、たぶん自分で回復し始める。それができる人だ」


「はい」


「回復し切らなかったら、次の段は、俺とあと一人か二人で相談する」


「あと一人か二人」


「うん。名前は、今はまだ、お前に置かない」


 林さんは口の端で薄く頷いた。


「ここから先の話は、俺の側の担当だ」


「はい」


「お前は、俺に一言伝えた。それで、お前の側の役割は、今夜済んだ」


「はい」


 俺は、短く返した。


 


 二秒ほどの沈黙のあと、林さんは、少し声のトーンを、下げた。


「もう一つ、俺の側の話を、置いておく」


「はい」


「たぶん、この部は、これから、もう少し形が変わる」


 その一行が、俺の胸の中に、静かに落ちた。


「はい」


「俺が上に何をどう伝えているかは、俺の担当だ。ただ、お前のような、若い層に一つだけ言っておきたいことがある」


「はい」


「今、この部で起きていることは、たぶん経営の側でも、静かに動いている」


「はい」


「動いている、と俺は感じている。動いていない、という感触は俺にはない」


「はい」


「動いた結果、この部がどうなるかは俺にもまだ分からない。ただ、動くべき所は、動いている」


 林さんは、口の端でわずかに笑った。


 その笑いは、俺が知る限り、林さんが見せる笑いの中で、いちばん静かで、いちばん深い種類の笑いだった。


「だからな、黒木」


「はい」


「お前は、お前の道を続けろ」


 林さんは、まっすぐ、そう置いた。


「組込みの、たぶん、これからの形が変わる中で、お前が続けていることが、たぶんいちばんの支えになる」


「はい」


「藤村のことは、俺が見る。お前は、お前の仕事を続けろ。それが、俺と藤村と、たぶんこの部の他の何人かを、いちばん助ける」


「はい」


 俺は短く返した。


 林さんの一行の中の、「たぶん、これからの形が変わる」の部分が、俺の胸の中で、まだ薄い霧の形をしていた。


 畳めない霧を、俺は今夜、畳もうとしなかった。畳まないまま、胸の内に、そっと、置いた。


 


 打ち合わせ席を、二人で立った。


 林さんは、俺の肩を、軽く一度、叩いた。叩き方は、いつもの林さんの、余白のある叩き方だった。


「あと、黒木」


「はい」


「今夜のこと、家に持って帰るな」


「はい」


「持って帰ると、寝られなくなる。若いお前は、まだそこの区切りをつける道具を、持ってないだろう」


 林さんは、口の端で薄く笑った。


「フロアで置いて、フロアで、拾いに来い」


「はい」


 その一行を、俺は自分の側の言葉として、胸の内に写した。


 


 自分の島に戻った。


 机の上のメモは、俺が離れた時と、同じ場所に開いていた。


 俺はペンを持ち直して、書きかけの設計レビューのメモの続きを、静かに書いた。


 書きながら、俺の胸の中の、二週間持ち歩いていた重さの半分が、林さんの側に、たしかに渡された気配が、まだ残っていた。


 半分は、俺の側に残ったままだった。それは、今夜、この島で、俺が持ち続けるべき半分だった。


 メモの続きは、思ったより、静かに進んだ。


 


 二十一時、俺はフロアを出た。


 エレベーターホールで、私用のスマホを取り出した。


 同期の6人室ではなく、桐谷蒼太への個別のLINEを開いた。


 俺は同期の全員には、まだ、この一行を送るべきでないと判断した。全員に送ると、俺が「何かを共有した」ことが、俺の側の重量になる。俺の中で「今夜、桐谷にだけ、一行、送る」の判断が、静かに立った。


 桐谷は、俺が入社の頃から、俺のノートの一番近くの読者だった。俺の一行を、俺の側の重量にせずに、桐谷の側で薄く受け止めてくれる、そういう類の読者だった。


 俺は、指で、短い一行を打った。


「花巻さん、新設に移った。同じ組込みから、もう1人、たぶん次で3人目」


 既読は、たぶん明日の朝までに、つく。


 返事は、たぶん、来ない。桐谷は、こういう類のLINEに、すぐには返さない側の読者だった。


 俺は送信を押して、スマホをポケットに戻した。


 


 寮までの帰り道を、俺は自転車で、いつもより少しゆっくり漕いだ。


 途中、桜並木通りのケヤキ並木の下で、俺は自転車を、一度、止めた。


 枝の隙間から、街灯の光がぱらぱら落ちていた。


 俺は自転車のハンドルに、両手を、軽く置いたまま、その光を、しばらく眺めた。


 ……藤村さんのことは、林さんが見る。


 胸の内で、俺は、林さんの一行を、もう一度、なぞった。


 ……俺は、俺の道を、続ける。


 林さんの、二行目を、なぞった。


 二つの一行を、俺の胸の中で、上下に、そっと、並べて置いた。


 並べて置いた二行の下に、俺は、自分の言葉で、もう一行、静かに置いた。


 ……組込みは、たぶん、これから、形が変わる。


 その一行は、俺の言葉ではあったが、俺の判断ではなかった。林さんが今夜、俺の側に、そっと預けてくれた一行だった。


 預けてもらった一行を、俺は、俺の側の言葉として、そのまま受け止めた。


 受け止めたことを、俺は、自分のノートには、書かなかった。書かない類の一行だった。


 書かないまま、胸の内に、置いた。


 


 自転車を、もう一度、漕ぎ出した。


 寮の男子棟の入口の、指の静脈認証の機械に、右手の人差し指を、そっと当てた。


 機械が、緑に光った。


 部屋に戻って、上着を脱いだ。


 机の上のノートは、開かずに、そのままにした。


 今夜、俺は、ノートを開かない側の夜として、置いておくことに決めた。


 布団に入って、目を閉じた。


 目を閉じた最後の一秒、俺の胸の中で、林さんの「フロアで置いて、フロアで、拾いに来い」の一行が、そっと、灯った。


 その灯りを、俺は今夜の枕元に、そっと、置いた。


 


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