第81話「3つの道、選び取る前夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十一月初旬の月曜日の朝。
港川市は、もうほとんど冬の入口だった。寮の窓を開けると、空気が一段、刺すように冷たかった。アーケードの方角から、商店街の搬入トラックの音が、いつもより遠く聞こえた。
月曜の朝の通勤路、葉の落ちかけたケヤキ並木の下を歩きながら、僕は頭の中で、三つの道のことを考えていた。
道一。
諏訪マネージャーの異動先、新設事業開発部に、これからついていく道。十月以降、諏訪マネージャーは「桐谷くん、もし新設事業開発部の立ち上げに興味があれば、来年の四月の異動公募に出してみないか」と、社内Slackのダイレクトメッセージで、一行だけ、選択肢を置いてくれていた。
道二。
いまのチームAに残り、富岡マネージャーの下で、ヨキエル社の中で、変える側に立つ道。富岡マネージャーはまだ着任して一ヶ月だが、僕の縦棒を面白がってくれている気配があった。
道三。
別の会社に動く道。東京の中堅SaaS企業、地方のIT企業、海外の現地法人。アユシュの選んだ韓国は、その極端な一例だった。
三つの道は、どれも、現実的だった。
遠野CTOの三つの円とは、別の三つだった。
会社に着いて、九時前、自分の島でMacBookを開いた。社内Slackの人事チャンネルに、月曜の朝の定例の異動告知が、静かに一行、流れていた。
「花巻 慶介氏(組込みチーム)、十一月一日付で、新設事業開発部へ異動」
その一行だった。
名前を目で追った。花巻さん、というお名前は、僕は面識がなかった。組込みチームの、たぶん中堅の側の人。年齢も、経歴も、僕には見えていない。
同じ人事チャンネルの、少し上の方に、桧山さんの十月一日付の一行が、まだ薄く残っていた。
……組込みから、また、新設へ。
胸の内で、僕は、そう置いた。
置いてから、それ以上は、なぞらなかった。二つの一行の間に、何がどうつながっているのか、僕の側からは、まだ、輪郭が見えない位置にいた。
輪郭が見えないままの一行を、僕は、朝の九時前の自分の島の胸の内に、そっと、しまった。
遠野CTOとの二度目の対話の翌週から、僕は寮の自室で、夜、ノートに三つの道の損得を、地味に書き出していた。
書き出してみると、損得の表は行き止まりだった。
道一の損得を書き、道二の損得を書き、道三の損得を書く。それぞれの欄に、それぞれの理屈が並ぶ。しかし、どれかが圧倒的に他を上回るわけではなかった。三つとも、似たような重さで、机の上に並んでいた。
最後の決め手が足りない。
その足りない最後のひと押しを、誰かに、話してみたかった。
月曜の朝、ノートに「葉山さんと、澪で」と、一行だけ書いた。
昼休みに社内Slackで、葉山さんに短くダイレクトメッセージを送った。「葉山さん、今週の水曜の夜、澪、いける?」。十分後に、返事が来た。「いいよ、十九時で大丈夫?」。「ありがとう、十九時で」と返した。
水曜日の十九時。
川沿いの住宅地、藍色の暖簾の下の「澪」の引き戸を引いた。鈴の音が低く二度鳴った。
「いらっしゃい」
篠原玲奈さんがカウンターの内側から穏やかに口を開いた。
「お邪魔します」
体を半分入れて店内を見渡すと、白木のカウンターのいちばん奥の席から、葉山さんがこちらに手を上げていた。
ベージュのカーディガンに、白いシャツ。仕事帰りに見えるいつもの葉山さんの落ち着いた身なり。
「桐谷くん、こっち」
葉山さんの声はいつもの、落ち着いた響き。
隣の席に着くと、玲奈さんが「お飲み物、お決まりになったら」とやわらかく笑って、奥に戻った。
「ハイボール、二つ」
葉山さんが短く頼んだ。
「いいの? 勝手に決めて」
笑って受けた。
「桐谷くんもこれは、ハイボールでしょ」
葉山さんも笑った。
ハイボールが、二つ、運ばれてきた。
二人でグラスを合わせた。
「葉山さん、今日は聞いてほしいことがあって」
声に出した。
「うん」
葉山さんは穏やかに頷いた。
「三つの道で、迷ってるんでしょ」
葉山さんは先回りして、こちらを見た。
「分かる?」
「桐谷くんの顔、最近ずっと損得の表を書いてる顔してた」
葉山さんは小さく笑った。
「どこと、どこと、どこを?」
葉山さんは待ってくれた。
「三つあって」
ハイボールに口をつけた。
「一つ目は、諏訪さんの新設事業開発部に、来年四月の異動公募で出すこと」
葉山さんは頷いた。
「二つ目はいまのチームAに残って、富岡マネージャーの下で、ヨキエルの中で、変える側に立つこと」
「三つ目は、別の会社に動くこと。東京、地方、海外」
葉山さんはハイボールに口をつけてから、ゆっくり置いた。
「三つ、ちゃんと並んでるね」
葉山さんの声は、穏やかだった。
「三つ並べただけ、桐谷くんらしい」
小さく笑った。
「葉山さん」
ハイボールのグラスに、指の腹を当てた。
「葉山さんはどう思う」
葉山さんは視線をカウンターの上の小皿に落とした。お通しの、小さな茄子の煮物。
「桐谷くんなら、どの選択でも大丈夫だと思う」
穏やかな一行だった。
「うん」
頷いた。
「でも」
葉山さんは視線を上げた。
「君はたぶん、ここに残るんじゃないかな」
その一行に息が止まった。
「なんで、そう思う?」
葉山さんのほうに向き直った。
葉山さんはハイボールを口に運んだ。
「君の観察、ヨキエルの中で、実を結びつつあるから」
ゆっくりした声だった。
「三年目の春から、君が書いてきたノート。私、たまにしか見せてもらってないけど、見せてもらったページは、いつもヨキエルの誰かの一行がちゃんと残ってる」
「鈴木さんの一行、丸山くんの一行、間宮先輩の一行、諏訪さんの一行、遠野さんの一行」
「桐谷くんのノートは、ヨキエルの人の一行でできてる」
葉山さんの声は温かかった。
「そういうノートを、よその会社に持っていっても、そこで同じノートが書けるかはたぶん、別の話」
「君の半径3メートルは、ヨキエルなんだと思う」
半径3メートル、という言葉を、葉山さんがこんな本気の温度で僕の前に置いたのはたぶん、初めてだった。
葉山さんは普段、その言葉を、ニックネーム研修の名残くらいの軽さで扱っていた。本気で扱っているのは、僕の側だけのつもりだった。
しかし、葉山さんは今日、本気で、その言葉を僕に返してきた。
「君が変える側に立つ姿、見たい気がする」
葉山さんは口の端で薄く笑った。
「ヨキエルの中で、変える側に立つ桐谷くんの姿」
「それは、葉山として、見たい気がする」
僕は何も答えなかった。
葉山さんの一行が、僕の中に、静かに置かれた。
変える側に立つ姿を見たいという、葉山さんが外側から僕を観察した結果の一行。
その一行は、葉山さんの中ではたぶん、本気だった。
「葉山さん」
ハイボールを置いた。
「ありがとう」
短く返した。
「答えはまだ、出ない」
「うん、いいよ」
葉山さんは穏やかに頷いた。
「決めるのは、桐谷くん」
「私はただ見てるだけ」
「お料理、お持ちしました」
篠原玲奈さんがカウンターの内側から皿を置いてくれた。
白い小皿に、湯気の立つ、煮魚と、根菜の煮物。「澪」のいつもの十一月の煮物。
「ありがとうございます」
葉山さんが頭を下げた。
「玲奈さん、相変わらず、湯気の出し方上手ですよね」
葉山さんは薄く笑みを浮かべた。
「ふふ、ありがとうございます。前にお二人でいらしたのは、半年前でしたね」
玲奈さんも、穏やかにわずかに笑った。
「半年前は、葉山さんのご相談だった」
玲奈さんは僕のほうに、目を向けた。
「今日は、桐谷さんの迷いですか」
「半分当たりです」
ふっと笑った。
「もう半分?」
「もう半分は、葉山さんに、背中を半分だけ押してもらう話です」
玲奈さんは穏やかに頷いて、カウンターの内側に静かに戻った。
葉山さんとの会話は、煮魚と根菜の上で和らいだ温度に戻った。
その合間に葉山さんは僕の三つの道のうちのどれかに、軽く触れた。
「諏訪さんの新設事業開発部、私、ちょっと桐谷くん向きだと思う」
「諏訪さんの観察と、桐谷くんの観察、相性悪くない」
葉山さんらしい、押し付けない助言の言い方だった。
「うん、それは、僕も半分そう思ってる」
頷いた。
「ただ富岡マネージャーの下も、半分面白い」
「富岡さん、観察、という言葉、よく使う人なんだよね、最近」
「ふうん」
葉山さんは興味深そうに頷いた。
「諏訪さんの観察と、富岡さんの観察、二つ並べると、桐谷くんの中で何かがおぼろげに見えてくるかもね」
葉山さんはハイボールをもう一口運んだ。
その一口のあと、葉山さんの視線が、半秒だけ、僕の肩越しの遠くに置かれた。
店の壁の、何でもない木目のあたり。
葉山さんは何かを、口の中で半分だけ転がして、それから飲み込んだように見えた。
……葉山さん、今日、自分の話は、一つもしていない。
心の中で、僕はそう思った。
しかし、聞かなかった。
葉山さんが自分から置かない一行を、こちらから引き出すのは、たぶん、僕のやり方ではなかった。
時計は、もう二十一時を回っていた。
玲奈さんがレジの脇から穏やかに「そろそろ、お会計ですか」と聞いてくれた。
「お願いします」
軽く、頷いた。
葉山さんと二人で会計を半分ずつにした。玲奈さんは「次は、決まったら、また」と、やわらかく笑って、暖簾の下まで見送ってくれた。
商店街のアーケードを抜けて、桜並木通りの方角に、葉山さんと二人で歩いた。
桜並木通り、十一月の。
葉は、ほとんど落ちていた。歩道の脇に、淡い色の葉が積もっている。街灯の下で、桜の枝が、ぼんやりと立っていた。
葉山さんと二人でゆっくり歩いた。
ふと、僕の中で、ある人の歩き方が思い出された。
間宮先輩。
二年目の秋、駅前を二人で歩きながら話した夜があった。いつもはとんぼのカウンターでお猪口を傾けながら話す人が、あの夜だけは立ち止まらずに話を続けた。歩きながらの言葉には、カウンター越しとは違う温度があった。
葉山さんと並んで歩いている今のこの時間もたぶん、あの夜の「歩きながら話す」温度の側だった。
「桐谷くん」
葉山さんがこちらを見ずに、口を開いた。
「いつか君の選択を、教えて」
その一行は、桜並木通りの十一月の夜の温度の中で優しかった。
「うん、そうする」
短く頷いた。
寮の前まで、二人で歩いた。同じ一棟の寮でも、僕は男子棟、葉山さんは女子棟。共用の入口から先は、別のウイングだった。
「ここから、別れますね」
「うん」
葉山さんはこちらに向き直った。
「桐谷くん」
「はい」
「迷うのは、いいことだよ」
笑った。
「三年目で、ちゃんと三つの道で迷えるって、それたぶん、桐谷くんの三年のご褒美だと思う」
息が止まった。
ご褒美、という言葉を、こういう場面で出す葉山さんらしさに、僕は笑った。
「ありがとう、葉山さん」
「うん」
葉山さんはもう一度、小さく頷いて、女子棟のウイングの方角に、歩き出した。
ベージュのカーディガンの背中が、共用ラウンジの明かりの中を、ゆっくり遠ざかっていった。
その背中が、ほんの少しだけ、いつもより、何かを抱えて見えた。
しかし、その何かを、僕はやはり、聞かなかった。
葉山さんが女子棟のウイングに消えたあと、共用ラウンジのソファの、いつもと違う方角の隅に、杉本さんが一人で座っていた。
膝の上に、うっすらと開いた紙の本を置いていた。ラウンジの照明の下で、本の表紙のタイトルは、こちらからは読み取れなかった。
「桐谷くん」
杉本さんが、こちらに気づいて、少しだけ姿勢を整えた。
「杉本さん、まだ起きてたの」
「はい、少しだけ。本、読んでたら、時間飛んだ」
杉本さんは、口の端で薄く笑った。
僕は、ソファの、杉本さんの少し離れた側の端に、腰かけた。
しばらく、二人で無言だった。杉本さんは、本を膝の上で軽く畳んで、両手で表紙を、ゆっくり撫でていた。
「桐谷くん」
杉本さんが、少し間を置いて、口を開いた。
「うん」
「私、一年目の秋に、一度、迷ったこと、あるでしょう」
「うん」
「あの時、自分の道が、どこにあるのか、私、しばらく、見えなかった」
「うん」
「二年目の途中で、私、中本さんに、拾ってもらった。真鍋さんに、指導役を、引き受けてもらった。あの二人がいたから、今、私は、この道でよかった、と思えてる」
「うん」
杉本さんは、両手の中で、本の表紙を、もう一度、静かに撫でた。
「桐谷くんが、いま、何かを、迷ってる、というのは、私、なんとなく、感じてる」
「うん」
「何を迷ってるかまでは、私、聞かない」
杉本さんは、静かに、そう置いた。
「うん」
「ただ、桐谷くんも、自分の道、見つかるといいね」
その一行を、杉本さんは、こちらの目を、ちゃんと見て、置いてくれた。
「はい」
僕は短く返した。
杉本さんは、それ以上、続けなかった。膝の上の本を、そっと閉じて、立ち上がった。
「じゃあ、私、そろそろ部屋に戻るね。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
杉本さんが、女子棟のウイングの方角に、静かに歩き出した。
その背中が、静かに、ラウンジの照明の中を、遠ざかっていった。
……杉本さんの、拾ってもらった、という言葉。
胸の内で、僕はその四文字を、そっと、なぞった。
拾ってもらった側の人が、自分の道の芯を、静かに立てている。その静けさは、たぶん、三年目の同期の中で、僕が最も学ぶべき静けさの、ひとつだった。
寮の自室に戻って、ノートを開いた。
今日の日付の下に、最初の一行を書いた。
「3つの道。僕はまだ、決めていない」
もう一行、足した。
「葉山さんの予感:君はたぶん、ここに残る」
さらにもう一行。
「諏訪さんの観察と、富岡さんの観察、二つ並べると、何かがおぼろげに見えてくるかもしれない」
最後に一行。
「迷うのは、ご褒美」
ペンを置いた。
窓の外、桜並木通りの方角の街灯が、ぼんやりと滲んで光っていた。
三年目の十一月、僕の前にはまだ、三つの道が並んでいた。
しかし、その三つの中の、一つの道の輪郭が、葉山さんとの今夜の対話の中で太くなっていた気がした。
ノートを閉じた。
それから、一週間あまりが過ぎた。
十一月中旬の木曜日の朝。
港川市は、前夜の冷え込みで、桜並木通りの残りの葉が、ほとんど落ちきっていた。
会社のフロアに上がると、いつもより少し早い時間だった。窓際のパッケージ事業チームの島に、葉山さんの姿があった。
すでに席に着いて、MacBookの画面をじっと見ていた。
「葉山さん、おはよう」
声をかけた。
「あ。おはよう、桐谷くん」
葉山さんはこちらを向いた。
その返事が、半拍、遅かった。
いつもの葉山さんなら、こちらが声をかける前に、先に気配で気づいて、顔を上げる。今朝の葉山さんは、画面の中の何かに、半分、置いていかれていた。
ベージュのカーディガンはいつもどおり。髪も、いつもどおり。
しかし、コーヒーの紙コップを持つ手が、いつもより少しだけ固かった。画面を見る目の温度が、いつもより半段、張りつめていた。
……葉山さん、今日、何かが違う。
心の中でそう思った。
何かの当日か、前日。
そういう種類の張りつめ方だった。
しかし、僕はやはり、聞かなかった。
聞かない、というのは、見ていない、ということではなかった。見ているからこそ、聞かない、という距離が、僕の中にはあった。
「じゃあ、また、あとで」
短く言って、チームAの島の方角に歩いた。
葉山さんは「うん、また」と、半分だけこちらに返した。
残りの半分は、まだ画面の中の何かに置かれていた。
その日は、いつものように過ぎた。
夕方、定時を回ったあたりで、窓際のパッケージ事業チームの島を見ると、葉山さんの席はもう空いていた。いつもより少し早い時間だった。
夜、二十二時過ぎ。
寮の自室で、その日のノートを閉じて、机に向かっていた時だった。
机の上のスマートフォンに、LINEの通知が一つ灯った。
葉山美月。同期のグループではない、個別のメッセージ。
「桐谷くん、明日、少し話したいです」
一行だけだった。
いつもの葉山さんの軽い絵文字も、語尾のやわらかさも、今日はなかった。
一行だけの、まっすぐな明日。
「うん、もちろん。いつでも」
短く返した。
送信のあと、画面の上の一行を、もう一度目でなぞった。
明日、少し話したい。
その一行の温度を、今朝の葉山さんの温度の隣に、そっと並べてみた。
画面を見る目の半段の張りつめ。コーヒーの紙コップを持つ手の固さ。声の返事の半拍の遅れ。
何かの当日か、前日の、あの温度。
それが、この一行と、たぶんつながっている。
しかし、それが何かは、まだ分からなかった。
分からないまま、僕はそれを、急いで言葉にしようとはしなかった。
観察は、急がない。
明日になれば、葉山さんが自分から、一行を置いてくれる。
その一行を、ちゃんと受け取る。
今夜、僕にできるのは、それだけだった。
窓の外、桜並木通りの街灯が、十一月の夜の中で、ぼんやりと滲んで光っていた。
……明日、葉山さんは何を話すのだろう。
胸の奥で、短く撫でた。
答えは、まだ、立ち上がってこなかった。
しかし、急がない。
スマートフォンをそっと伏せて、机の上に置いた。




