第80話「遠野CTOとの2度目の対話」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十月下旬。金曜日の午後、一時半。
港川市は前夜から急に冷えた。桜並木通りの葉は、月曜の夜の雨でぱらぱら落ちていた。歩道の隅に、葉が淡い茶色の塊で溜まっていた。
昼休みのフロアの窓を半分開けると、秋の風が頬にちくりと刺さった。一週間前まではまだ夏の湿気が残っていた。月曜の夜から、季節は半段、はっきり進んでいた。
月曜の夜、寮の自室で、十字を書いた新しいノートを読み返して閉じてから、僕は半週間、迷っていた。
遠野CTOに、もう一度、時間をもらうべきか。
迷う理由はたぶん二つあった。一つ目は、自分の側でまだ答えが半分しか見えていないこと。もう一つは、忙しい人の時間を、迷いの最中で奪っていいのかという遠慮。
その遠慮を、最後に背中から押したのは、葉山さんがいつか軽い調子で言った一言だった。桐谷くんなら、どの選択でも大丈夫。その言葉を、家に帰ってからもう一度、反芻していたら、ふと、遠野さんの二年目のCTO室の声が、その隣に並んだ。
遠野さんは変革者として、地味で孤独な仕事を、どうやって続けてきたのか。
その問いを、いま、聞いておきたかった。
金曜日の朝、受付に立ち寄って、CTO秘書の予約システムから三十分の枠を取った。「桐谷蒼太(チームA・三年目)、十月二十二日 十五時、CTO室」。送信を押すと、十分後に「承知しました」とだけ書かれた短い返信が、社内Slackで届いた。
午後三時の五分前。
CTO室の前の廊下はいつものように、ひっそり静かだった。
窓の外、港川市の十月下旬の空は高く、ところどころに淡い秋の雲が浮いていた。受付フロアから遠野さんの部屋までの長い廊下を、三年目になった僕は一年目の時よりは落ち着いて歩いた。
ドアの前で息を整えた。
ノックを二度。
「どうぞ」
いつもの低い声が、扉の向こうから返ってきた。
ドアを開けると、遠野さんはいつもの白いシャツに、グレーのスラックスで、窓側の机から立ち上がるところだった。
「桐谷くん、来たね」
遠野さんは穏やかに、こちらに身体を向けた。
「お時間、ありがとうございます」
僕は短く頭を下げた。
「座って」
遠野さんは応接の小さな丸テーブルに、ゆっくりと移ってくれた。
白い小さなテーブルの上には、何も置かれていない。秘書の人がお茶を運んできて、湯飲みを二つ、静かに置いた。湯気が薄く立った。
「桐谷くん、三年目だね」
遠野さんは穏やかに口を開いた。
「はい」
「去年の冬以来か、二人で話すのは」
遠野さんは笑った。
二年目の冬。あれは、二年目の十二月、初めてこの部屋に呼ばれた日だった。半径3メートルの円の図を、遠野さんが青と赤のマーカーで描いてくれた、あの日。
「あれから、もうすぐ一年、ですね」
「うん。早いものだ」
遠野さんはお茶を一口運んだ。
「今日は、何の話を聞きに来た?」
その聞き方は、急かす感じではなかった。むしろ僕の話をゆっくり待つ構えだった。
僕はノートを膝の上で半分だけ開いた。家を出る前に、走り書きで一行だけ、質問を書いてきた。
「遠野さん」
息を整えた。
「変革者として、地味で孤独な仕事を、どうやって続けてきたのか、教えてください」
その一行を、声に出した。
遠野さんは静かになった。
窓の外の秋の空を目で追った。
それからこちらに視線を戻して、小さく笑った。
「いい質問だね」
その声は、低く温かかった。
「答えを、半分は、私の側で言葉にしてある」
「もう半分は、桐谷くんと一緒に、いま、言葉にしてみよう」
遠野さんは立ち上がった。
部屋の壁際のホワイトボードに、ゆっくりと向かう。二年目の冬、青と赤のマーカーで半径3メートルの円の図を描いてくれた、あの同じホワイトボードだった。
遠野さんは今日は、黒のマーカーを取った。
「私の答えは、三つある」
遠野さんはホワイトボードに向き直って、まず縦に円を一つ描いた。続いてその下にもう一つ。さらにその下に三つ目。三つの円が縦に並んだ。
……三つの円。
二年目のあの日は、半径3メートルの円の図を青と赤で。今日は三つの円を、縦に黒一本で。
描きながら話す、あの日と同じ所作がここでも生きている、と心の中で思った。
「①半径3メートルだけ、見ること。それ以外は、まず置いておく」
遠野さんはそう言いながら、一つ目の円を黒のマーカーで太くなぞった。
「変革者は、よく、社会全体を変えようとして燃え尽きる」
遠野さんはホワイトボードに身体を向けたまま、続けた。
「最初は自分の半径3メートルだけ」
円の中心に、小さな点を一つ打った。
「自分のチーム、自分の島、自分の顧客」
「その半径だけを、まずちゃんと観察する」
「観察ができてから外を見る」
二つ目の円に、マーカーを移した。
「②自分の家族を、大事にすること。仕事だけじゃなく」
遠野さんは二つ目の円を、今度は別の角度から太くなぞった。最初の円とは、少し違う傾きでなぞる線が僕の目に残った。
「私には妻がいる。娘が一人いて、もう東京の大学に出た。いまは、妻と二人の家だ」
遠野さんは声を一段、低くした。
「仕事だけで、人は変革者になれない」
「家族の半径3メートルをちゃんと持っている人だけが、会社の半径3メートルを地味に守れる」
その一行に、僕の中でそっと何かが置かれた。
「三つ目」
遠野さんは三つ目の円にマーカーを移した。
「③逃げ場を、複数持つこと。趣味でも別のコミュニティでも」
三つ目の円のまわりに、外側に向かって短い線を何本か放射状に引いた。三本、四本、五本と、線が円の外に向かって伸びる。
「私は本を読むのと、近所の銭湯と、月一の中学の同窓会、この三つを逃げ場にしている」
遠野さんは少し笑った。
「会社が、人生のすべて、になると、変革は続かない」
「逃げ場を複数持っていると、半径3メートルが、息を吹き返す」
黒のマーカーをキャップに戻して、遠野さんはホワイトボードの前で半身こちらに向き直った。
僕はノートにペンを走らせかけた。
遠野さんが片手を浅く上げた。
「メモは、後でいい」
その声は、低く穏やかだった。
「今は僕の声を、聞いてほしい」
ペンを止めた。
ノートを閉じた。
遠野さんは応接の椅子に戻って、もう一度、お茶を一口運んだ。
「変革は、地味だ」
ホワイトボードの三つの円を目の端で見やった。
「でも、地味だから、続く」
「派手にやろうとすると、燃え尽きる」
その一行のところで僕の中で、ある人の顔が立ち上がった。
古川先輩。
二年目の秋、とんぼのカウンターで、お猪口を片手に燃え尽きの輪郭を見せてくれた、あの先輩。
「古川先輩のように、ですか」
声に出した。
遠野さんは深く頷いた。
「彼も、若い頃は、熱意があった」
「彼が二十代後半でチームAの中心だった時期があった、と聞いている」
遠野さんは視線を遠くに置いた。
「その頃の彼の熱量は、本物だったんだと思う」
遠野さんは声を、もう一段、下げた。
「私もな、三十歳の時、潰れかけた」
その一行で、CTO室の空気がふっと重くなった。
「三十歳の手前、当時いた別の会社で、変革の提案を出し続けていた」
「跳ね返された提案が、三十七件。残業は月に百二十時間。心身の両方でボロボロになった」
「三十歳の誕生日の夜、心療内科の待合室に自分で歩いていったのを覚えている」
遠野さんは湯飲みを両手で温めた。
「指先が震えていた」
「帰りの電車の窓に、自分の顔が薄く映っていた」
「あの顔は、自分じゃなかった」
遠野さんは湯飲みをテーブルにそっと戻した。
「だから彼の燃え尽きが、他人事じゃない」
その一行で、二年目の秋のとんぼの夜から、ずっと自分の中で答えの出ていなかった部分が、ようやく言葉になった気がした。
遠野さんが、なぜ、古川先輩のような中堅を、切り捨てる側に立たずに見てきたのか。
他人事じゃないから、だった。
遠野さんはこちらに視線を戻して、穏やかに続けた。
「だから君は、地味に続ける道を、選んでほしい」
「派手にやろうとしないで」
「半径3メートルを、ちゃんと温度を下げないで続けてほしい」
僕は深く頷いた。
声に出すべき言葉はまだ見つからなかった。
「遠野さん」
息を整えてから、口を開いた。
「遠野さんの、半径3メートルは、どこですか」
遠野さんは小さく笑った。
「ヨキエルだ」
迷いのない一行だった。
「最初に転職してきたのは、二十一年前」
「一度、東京で別の場所も歩いた。CTOとしてここに戻ったのが、五年前」
「最初の半径3メートルは、二十一年前の当時のチームBの五人だった」
「そこから半段ずつ、半径3メートルが別の半径3メートルとつながって」
「東京を経て戻ってからの五年で、いまは会社全体が、半径3メートルの集合になっている」
遠野さんはお茶をもう一口運んだ。
「面白いのはな、桐谷くん」
声が、もう一段、温かくなった。
「私の半径3メートルが、君の半径3メートルと、繋がる時、変革が起きる」
その一行が、CTO室の空気の中に置かれた。
僕は深く頷いた。声は出なかった。
遠野さんはこちらの沈黙を待ってくれた。
「メモ、いま、取っていいよ」
遠野さんは穏やかに、もう一度薄く笑った。
僕はノートを開いていまの一行を、急いで写し取った。
「半径3メートルが繋がる時、変革が起きる」
書き終わってからその一行を見つめた。
壁の時計を見上げると、三時の三十分の枠は、ほとんど使い切っていた。
「お時間、ありがとうございました」
僕は立ち上がって、深く頭を下げた。
「いいよ」
遠野さんも立ち上がってこちらの背中を見送るかたちで、ドアの方角に身体を向けた。
「桐谷くん」
ドアの近くで、遠野さんが半身、こちらに振り向いた。
「三年目の十月、君は、半径3メートルが、ちゃんと見えてきている」
「自分の縦棒と横棒も、たぶん薄く見えてきている」
その言葉に心臓がとくんと跳ねた。
縦棒と横棒。
寮の自室で、十月の第二週の土曜日、新しいノートに描いた十字。あれを、遠野さんには、まだ話していなかった。
しかし、遠野さんは、それを言い当てた。
僕は目を見開いて、それから小さく頷いた。
「はい」
短く返した。
「これから、何を建てるか、その問いを、ちゃんと持っていなさい」
遠野さんは最後にその一行を僕に置いてくれた。
「はい」
もう一度、深く頷いた。
遠野さんは、ドアの取っ手に手をかけて、半秒だけ、動きを止めた。
止めてから、こちらの方に、もう一度、視線を戻した。
「桐谷くん、それから、もう一つだけ」
「はい」
「事業と、技術は、両輪です」
「はい」
「両輪を、回す人が、この会社の中で、少しずつ、増えています」
遠野さんの声のトーンは、いつもの静かな低さのままだった。ただ、その一行の中の「両輪を、回す人」の三つの単語だけが、いつもより、半段、丁寧に置かれていた。
僕は、その「少しずつ、増えています」の意味を、その場では、うまく掴めなかった。
半径3メートルが繋がる時、変革が起きる、の一行と、両輪を回す人が少しずつ増えている、の一行が、遠野さんの中でどうつながっているのか。今日の僕には、まだ届かなかった。
届かないまま、僕は、その一行を胸の内に、そのままの温度で、置いておく側に立った。
「はい」
短く返した。
CTO室を出た。
長い廊下をゆっくり歩いた。
エレベーターは、三階で待っていた。乗り込むと、ボタンを押した瞬間、扉が静かに閉まった。
箱の中、一人。
階数表示が、三、二、一と、ゆっくり下がっていく。
ノートを開いた。
まだエレベーターの中だが、いま、書いておきたかった。
「半径3メートルが繋がる時、変革が起きる」
遠野さんの最後の核心の一行。
その下に、もう一行、足した。
「家族、逃げ場、地味に続ける」
さらに下に、もう一行。
「他人事じゃない」
古川先輩の燃え尽きへの、遠野さんの態度の、その根っこの三文字。
箱の表示が、一階を示した。扉がゆっくり開く。
ロビーに、夕方の早い気配が流れ込んでいた。
外に出る前に、ノートを胸ポケットの上で押さえた。
……三年目の十月、僕は半径3メートルの本当の意味の、もう半分を、たぶん受け取った。
その半分を、これからの三十歳までの何年かで、自分の縦棒と横棒の上に少しずつ建てていくこと。
遠野さんの三つの円が、頭の中に、まだ、ほのかに残っていた。
港川市の十月下旬の夕方は、空気が一段、冷えていた。
駅前まで歩く間、山際の空に、秋の雲が、ゆっくり東に流れていた。




