第79話「視座と視野、白瀬・間宮との夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十月の第三週、金曜日の夕方。
三年分のノートを机に並べた朝から、もう一週間が過ぎていた。あの土曜日に書いた「縦棒、横棒」の十字を、僕は毎日ノートの最初のページで確認していた。
十字は自分の中で固まり始めていた。
固まり始めながら、まだ足りない、と自分でも思っていた。
十字の周りに、もう少し何か輪郭が要る気がしていた。
その何かが何なのか。
まだ自分の言葉ではつかめていなかった。
十七時、Slackに間宮先輩から一行が届いた。
「白瀬と二人でとんぼ行くんだけど。桐谷くんも来る?」
迷わずに答えた。
「行きます」
二十秒後に、間宮先輩からもう一行。
「十八時半、とんぼ集合」
その一行に絵文字も補足もなかった。
いつもの間宮先輩らしい簡潔な誘いだった。
十八時半、とんぼの暖簾をくぐった。
大将の沼田さんは、奥のテーブルに三人分の椅子を用意してくれていた。煮魚の匂いが、壁の杉板にほのかに染みていた。
白瀬さんと間宮先輩は、もう奥のテーブルに座っていた。
白瀬さんはいつもの薄いブルーのシャツ、グレーのパンツ。間宮先輩はいつもの黒いセーターに、肘の皺が深く入った紺のジャケットを羽織っていた。袖口だけ、軽くまくられていた。
「桐谷くん、お疲れ」
白瀬さんが軽く頷いた。
「お疲れさまです」
僕は空いていた椅子に座った。
大将がおしぼりを運んできた。三人分。倉田さんがカウンターの端で、軽くこちらに目を向けた。それから自分のジョッキに視線を戻した。
間宮先輩が、メニューも見ずに注文した。
「ビール三つ、あと出汁巻き、煮浸し」
迷いがなかった。たぶん毎週、似たような頼み方をしている。白瀬さんは小さく笑って、「相変わらず」とだけ言った。間宮先輩は、肩をすくめた。
「迷うと、店に悪い」
三杯のビールが運ばれてきた。
軽くジョッキをぶつけた。
最初の一口は誰も何も言わずに飲んだ。間宮先輩は飲み終わってから、口の端を手の甲で軽く拭った。
「今日、何の話?」
間宮先輩が白瀬さんに振った。
白瀬さんはジョッキを置いてから答えた。
「桐谷くん、最近迷ってる顔してるから」
僕は思わず自分の頬を触った。
「迷ってるの、顔に出てましたか」
「出てる」
白瀬さんは即答した。
「ちゃんと迷ってる」
その「ちゃんと」が少しだけ温かい響きだった。
「自分の選び方、これでいいのかな、って」
僕はぽつりと口にした。
あえて選び方の中身は言わなかった。テックリードを選ばないこと、マネージャーを選ばないこと、自分のチームに残ること。三年目の十月、自分の中でぼんやりと輪郭が見え始めていることは、白瀬さんも間宮先輩もたぶんもう察していた。
間宮先輩はジョッキを軽く回した。
しばらく、テーブルの上の湿った輪っかを見ていた。
それから低い声で訊いた。
「焦点、合ってる?」
「焦点、ですか」
「うん。桐谷くんが見たいものに、ちゃんと焦点が合ってるか」
間宮先輩は続けた。
「それを視点、って言うんだと思う」
……視点。
心の中でその言葉を繰り返した。
視座、という言葉を、夏に自分で見つけた。あれと似ているけれど、違う。
視座は、どこから見るか。
視点は、何に焦点を合わせるか。
二つの言葉が、自分の中で少しずつ整理され始めた。
「桐谷くんの視点は、合ってると思う」
間宮先輩は続けた。
「桐谷くんが見たいのはたぶん、半径3メートルのちゃんとした観察。それは合ってる」
「……はい」
「合ってるんだから、迷う必要はない部分もある」
その一言が、自分の中にふっと落ちた。
合っているところは、合っている。
迷う必要がない部分は、ある。
全部に迷う必要はなかった。
白瀬さんが、ジョッキを置いた。
しばらく黙ってから、ぽつりと口を開いた。
「視点があっても、それだけだとしんどいよ」
「しんどい?」
「うん」
白瀬さんは、続けた。
「視野も、いる」
間宮先輩が、軽く頷いた。
「うん。視野もいる」
白瀬さんは、ジョッキの縁を、指でなぞった。
「視野って、どこまで見えるか、ね」
「どこまで、見えるか……」
視座、視点、視野。三つの似た言葉が、自分の中で並び始めていた。並んでみると、似ているのに、中身は別物だった。
白瀬さんは、ジョッキの縁から、指を離した。
しばらく、テーブルの一点を見ていた。
それから、声を少し低くして続けた。
「私、視野は広げたつもりだったけど」
白瀬さんは、ジョッキを両手で包んだ。
「視座は、二十代のまま動かしてなかった気がする」
……視座は、動かしてなかった。
その一言の重みが、テーブルの上に、しばらく漂った。
間宮先輩は、何も言わなかった。
ただ、白瀬さんの方を見ていた。
白瀬さんは、もう、三十歳になっていた。
三十歳になった白瀬さんが、いま、自分の視座について、何かを考え始めていた。
その温度が、テーブルの上で、ゆっくり流れた。
「視座、というのは……」
僕は、確認するように訊いた。
「どこから見るか」
白瀬さんは、答えた。
「私、ずっと新人の視座のまま視野だけ広げてた。それで、何かが足りない気がしてた」
「新人の、視座……」
「うん。新人のころに、自分が何を見て、何を感じたか。あの感覚を、忘れないようにずっと保っていた」
白瀬さんは、続けた。
「それはたぶん、悪いことじゃなかった。新人の視座を保つことで、レビューが優しく書けた」
僕は、頷いた。
白瀬さんのレビューの、あの「決めるのはあなたです」という余白。あれが、白瀬さんの「新人の視座」から生まれていたことを、僕は、もう知っていた。
「でも、最近、思う」
白瀬さんは、ジョッキを軽く置いた。
「新人の視座だけだと、新人にしかなれない」
白瀬さんは、続けた。
「私、いま、たぶん初代テックリードとして、もう少し別の視座から見るべき時期に来てる」
その一言を、白瀬さんは、淡々と口にした。
淡々としているのに、その下に、確かに温度があった。
白瀬さんが、自分の節目を、自分の言葉で認めようとしていた。
「白瀬さん」
間宮先輩が、低い声で言った。
「視座を動かすって、けっこうしんどい作業だよ」
「うん。わかってる」
白瀬さんは、頷いた。
「動かしたら、これまで見えていたものが見えなくなるかもしれない」
「うん」
「でも、見えなくなったものは別の人が見ればいい」
白瀬さんは、それだけ言って、ジョッキを、もう一口含んだ。
間宮先輩は、それ以上は言わなかった。
ただ、頷いた。
白瀬さんが、ふと、思い出したように、僕の方を見た。
「そういえば、桐谷くん」
「はい」
「古川さん、最近、少し目線が変わった気がしません?」
突然の話題転換だった。
でも、僕は、その問いに、自分の中で、すぐに答えが見つかった。
「はい。そう思います」
古川先輩。チームAの中堅エンジニア。二年目のあの夜、アユシュの選択を巡って、自分の本音を漏らしたあの夜以来、何かが、少しずつ変わっていた。
ただ、その変化を、自分から口にする機会はなかった。
白瀬さんが、軽く頷いた。
「私も、思ってた。古川さん、最近見ている場所が変わった」
「変わりましたね」
間宮先輩が、二人の会話を聞きながら、ぽつりと言った。
「視座を、動かしたのかもね」
その一言が、自分の中で、ぴたりと当てはまった。
古川先輩は、自分の視座を、動かし始めていた。たぶん、本人も、まだ、はっきり自覚してはいない。でも、動き始めていた。
動かしたことで、見える景色が、少しずつ変わっていた。
「桐谷くん」
間宮先輩が、僕を見た。
「三つで一組って思っといて。どれか欠けると、たぶん歪む」
言い方は、雑だった。けれど、雑な分、芯だけが残っていた。
白瀬さんも、頷いた。
「桐谷くん、いま視座を動かそうとしてる時期だと思う」
「動かしたら、何が見えるのですか」
「動かしてから、わかる」
間宮先輩は、即答した。
「先に、わかってたら、動かす必要ないでしょ」
白瀬さんが、軽く笑った。
「そうだね」
僕も、少しだけ笑った。
頭の中で、十月の第二週の朝に書いた「縦棒、横棒」の十字が、ゆっくり浮かび上がった。あの十字に、今夜の三つの言葉が、そっと重なろうとしていた。立ち位置をずらせば、縦棒の見え方も、横棒の見え方も変わる。たぶん、そういうことだった。
「だから、桐谷くん、いい時期だね」
白瀬さんが、付け加えた。
白瀬さんの声に、少しだけ、年上の温度があった。
二十代のまま視座を動かしてこなかった、と白瀬さんはさっき言った。けれど、いま僕の三年目の節目に、白瀬さんは自分の経験を軽く渡してくれていた。
間宮先輩はその横で、煮浸しの茄子をひと切れ箸で持ち上げた。持ち上げてから何度か皿の上に戻して、結局口に運んだ。
「俺はさ」
間宮先輩は、噛みながら言った。
「派手なこと、やってる側じゃないから」
「派手な、こと」
「うん。白瀬みたいに視座を動かす、とか、桐谷くんみたいに自分の十字を描く、とか。そういうまっすぐな線、俺は引けない」
「そんなこと」
「いいの、いいの」
間宮先輩は、軽く手を振った。
「俺は、エースとエースの間に立つ中継ぎ役くらいで、ちょうどいい。中継ぎは、流れを切らさないのが仕事だから」
その言い方は、卑下ではなかった。むしろ、長く考えて、自分の役回りを、自分で選びとった人間の言い方だった。
白瀬さんは、何も言わなかった。何も言わずに、ジョッキを少しだけ持ち上げて、間宮先輩のジョッキに、軽く当てた。
間宮先輩は、ぱりと笑った。
その笑い方が、いつもより少しだけ若く見えた。
白瀬さんの言葉に、僕は、ノートの「受け取り方を、もう一度、刻み直す」を思い出した。
白瀬さんは、いま、まさに刻み直していた。
刻み直したものを、渡してくれていた。間宮先輩は、その隣で、たぶん、もう少し前から、自分の役回りを刻み直し終えていた。
勘定を頼む前の、二十分ほどの後、間宮先輩がお茶に切り替えたあと、卓の上にふと、間があった。
その間の中に、間宮先輩が、湯呑みを両手で温めながら、ぽつりと、置いた。
「組込みの島、最近、少し空気が違うな」
その一行だった。それ以上、間宮先輩は、続けなかった。
白瀬さんは、卓の縁のあたりに、目を、少しだけ落とした。落として、何も言わなかった。
……間宮先輩は、隣島の人。
胸の内で、僕は静かに撫でた。
間宮先輩の勤め先の島は、組込みチームの島の、通路を一つ挟んだ隣にある。毎日、組込みの島の空気の温度を、体で浴びている位置にいた。その位置からの、一行だった。
僕は、頷きも、返事も、しなかった。頷くと、たぶん、話が事件の中身の方向に進む。間宮先輩は、そちらに話を進める気配を、いま、見せていなかった。「少し、空気が違う」の一行だけを、卓の上に、置いておく、という置き方だった。
白瀬さんも、たぶん、その置き方を、静かに了解していた。噂を運ばない人だった。「そう」も、「うん」も、置かずに、湯呑みを、そのままにしていた。
卓の上の間の中で、その一行だけが、しばらく、灯っていた。
やがて、間宮先輩は、湯呑みを、静かに、卓に戻した。
その動作で、卓の上の一行が、そっと、店の空気の中に、溶けた。
二十一時、店を出た。
桜並木通りに、十月の夜風が流れていた。
葉桜の葉が、まだ、半分以上、枝に残っていた。深い緑色から、少しずつ、黄色に変わり始めていた。
白瀬さんは、駅の方向に歩いていった。
間宮先輩は、自転車置き場の方向に歩いていった。
僕は、寮の方向に歩いた。
歩きながら、もう一度、三つの言葉を並べた。
……視座、視野、視点。
夏に自分で見つけた一語が、今夜、もう二つと組み合わさった。組み合わせて、初めて、見え方が決まる。それを、間宮先輩と白瀬さんから受け取った。
受け取ったことで、自分の中の十字に、新しい層が加わった。月曜の業務は、たぶんいつもと変わらない。けれど、十字の見え方は、もう違っていた。
間宮先輩の「中継ぎ役」という言い方が、なぜか、いちばん長く耳に残っていた。派手な言葉ではなかった。派手ではないからこそ、たぶん、夜風の中でも消えなかった。
寮の自室に戻った。
ノートを開いた。白いページに十字を書き、その上に、三つの言葉を横一列に並べた。
……視座、視野、視点。
書いてから、しばらく、四本の線と三つの言葉を見ていた。一週間前の「縦棒、横棒」のページから、ゆっくりめくり直した。この一週間のあいだに、ノートの中の自分は、確かに動いていた。
動かしてから、わかる。わかってから、動くんじゃない。その順序を、今夜、間宮先輩と白瀬さんから受け取った。
ノートに、最後の、ひと行書いた。
……視座、視野、視点。これも、地図の、ひとつ。
書いてから、ボールペンを、机に置いた。少し迷ってから、もう一行、隅に小さく書き足した。
……派手じゃなくて、ちょうどいい。
間宮先輩の声で、勝手に脳裏に響いた一行だった。書いてしまってから、少し照れくさくなって、ページを軽く指で押さえた。
窓の外、十月の夜風が、桜並木通りに流れていた。月曜には、もう一度、業務に戻る。戻った先で、たぶん、また迷う。けれど、今夜、三つの新しい言葉と、一つの素朴な役回りの輪郭を、受け取った。
ノートを閉じた。
目を閉じた。
視座、視野、視点。三つの言葉が、まだ頭の中に立ったままだった。どれを自分の軸にするのか。答えは、明日からの僕が探すのだろう。




