第78話「三冊のノート、縦棒と横棒」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十月の第二週の土曜日。
港川市の朝は冷えていた。寮の窓を半分だけ開けると、秋の匂いがほのかに流れ込んできた。アーケードの方角から、商店街の搬入トラックの低い音が遠く聞こえる。
九時。
休みの日にこんなに早く起きたのは、たぶん二年目の冬以来だった。
その理由は単純で、昨夜、寝る前にふと、思い立ったからだった。三年分のノートを、一度、机に並べてみよう、と。
思い立ちの、もう一つの手前の理由も、たぶんあった。三日前、水曜の夜のことだった。
水曜の夕方、葉山さんからの、同期の6人室ではない別の、五人だけのLINEグループに、一行だけ、短いメッセージが流れた。
「今夜、寮ラウンジで軽く話さない?諏訪さん異動して、なんか、気持ちの整理」
そのグループは、アユシュくんがソウルに旅立った八月末に、葉山さんが「アユシュに毎回声かけるのが、逆に気を遣わせるかもしれないから、五人だけの窓口を、もう一個作っておこう」と言って作ってくれた、静かな窓口だった。
僕は「行きます」と短く返した。丸山くんが「行くっす」、黒木が「行く」、杉本さんが「参加します」と、それぞれの温度で、順に灯った。
二十時、寮の一階の共用ラウンジ。五人で、細長い低テーブルを囲んだ。コンビニで、それぞれが好きな飲み物を持ち寄った。缶ビール二本、缶チューハイ一本、烏龍茶一本、ジンジャエール一本。ジンジャエールは葉山さんで、アユシュくんの真似だ、と葉山さんは短く笑った。
最初の三十分は、諏訪マネージャーのお祝いの話で、静かに温めていた。それぞれの近況を、順に短く回した。
真ん中の休憩の少し前、丸山くんが、缶チューハイを片手に、僕の方をふと見た。
「桐谷さん、最近フロアの空気、重いっすね」
その一行は、丸山くんのいつもの、ちょっと軽い調子で置かれた一行だった。ただ、置き方の中の芯が、いつもより半段、深かった。
「そう?」
僕は短く返した。
「うん。江口さん、朝会の背中、いつもより硬いっす。うちの島から遠くの列の大沢さんの肩、廊下歩いてる時、上がってるっす。あと、組込みの藤村さん、廊下ですれ違うとき立ち止まる時間が長くなってるっす」
その四つの観察を、丸山くんは、缶チューハイのひと口の合間に、静かに、置いた。
僕はしばらく、返せなかった。
……丸山くん、体で、そこまで、見てる。
胸の内で、僕はそう思った。
丸山くんの観察は、僕が言葉で書き留める側の観察ではなかった。トラックの助手席の隣の人の座り方の傾きで、疲れの深さを読む種類の、体の観察だった。中巻の夏の休憩スペースで、丸山くんが「桐谷さん、肩、上がってるっす」と、僕自身の肩の傾きを短く言い当てた、あの日から、丸山くんの目盛りは、僕とは別の場所で、静かに深くなっていた。
葉山さんが、烏龍茶をひと口置いてから、続けた。
「Slackの人事チャンネル、通知、確かに多い」
「多いっす」
丸山くんは短く返した。
黒木は、缶ビールをひと口飲んで、その隙間に、ぽつりと、置いた。
「組込み、いろいろある」
その三文字を、黒木は、それ以上、繋げなかった。繋げないのが、黒木らしかった。
杉本さんが、ジンジャエールのグラスを両手で温めながら、静かに口を開いた。
「うちのパッケージは、中本さんが私と真鍋さんの間を、うまく守ってくれてる。でも、他の部の品質の話は、噂で聞くと、うちとは明らかに、違うみたい」
その「明らかに、違う」を、杉本さんは、静かに、そう置いた。
五人の間の空気が、その一行のあと、半段、締まった。
誰も、その締まりを、無理に和らげようとしなかった。
しばらくの沈黙のあと、葉山さんが、スマホを取り出して、五人で写真を一枚撮ろう、と静かに言った。低いテーブルの真ん中に、五つの飲み物のグラスと缶を並べて、その上から俯瞰で一枚、撮った。
葉山さんが、その写真を、六人のLINEグループの方に、静かに送った。ソウルのアユシュくんに、届いた。
二分後、アユシュくんから、短い返事が来た。
「Take your time」
三文字と、二文字。
その五文字が、ラウンジの低いテーブルの上で、五人の胸の中に、それぞれの温度で、灯った。
その夜、僕たちは、それ以上、あの重い一連のことを、直接、口に運ばなかった。運ぶ手前で、静かに、水曜の夜の寮ラウンジに、置いた。
解散は、二十一時半だった。
その水曜の夜の余韻が、金曜の夜、土曜の朝、まだ僕の胸の底に、静かに、残っていた。
だから今朝、僕は、三年分のノートを並べてみよう、と思い立ったのかもしれなかった。
きっかけは、たぶん、今週の説明会だった。
十月の初め、沢田さんが三年目の研修員を集めて、研修員論文の説明会を開いた。論文の分量、一月末の提出、二月の部門レビュー、三月の発表会。事務的な説明の冒頭に、遠野CTOが一言だけ置いた。
「評価ではありません。三年の観察を言葉にして、次の研修員の足場として置いていく。書くことで、自分の三年が、自分にも見えます」
自分の三年が、自分にも見える。
その一行が、昨夜から、頭の隅にずっと残っていた。
僕は布団を畳んで、机の脇の本棚に手を伸ばした。
一年目の薄い大学ノート。二年目の少し厚いA5のリングノート。三年目の今、半分だけ使い込んだ無地のノート。背表紙の色だけが違う三冊が、本棚の同じ段に並んでいた。
その三冊を、机の上に並べた。
左から、一年目、二年目、三年目。
窓の外の港川市は秋晴れで、紅葉が始まったケヤキの並木が、駅前の方角からこちらまで色をほのかにつなげていた。
まずは一年目のノートを開いた。
最初のページには、入社の前日に書いた一行が、一つだけ置かれていた。
「明日から、観察を始める」
次のページは、入社初日の四月一日。いまの自分の字よりも、一回り、固い文字が並んでいる。「研修一日目。ヨキエル社、創業五十五年。」「同期の名前、覚える。葉山美月さん、東京から来た同期。」「アユシュ・タパさん、ネパール出身、英語と日本語を半々で使う。」
次のページに進むと、ニックネーム研修の図が、稚拙な線で描かれていた。チームAの全員の似顔絵らしき棒人間と、その下に「あおちゃん」と書いてあった。
……あおちゃん。
その三文字に目を留めた。
いまでも一部の先輩には「あおちゃん」と呼ばれる。三年経って、その響きはずいぶん馴染んだ。
ページを少しめくると、研修最後の村瀬社長の言葉が、ところどころに丸で囲まれて記録されていた。
「3年で土台を作る」
その一行が、何度も書き直されている。最初は鉛筆で薄く。次にボールペンで濃く。さらに別のページで、もう一度太いマーカーで。
……三年で、土台を作る。
あの春、何のことか分からないまま、ただメモした言葉だった。
二年目のノートを開いた。
字は少し落ち着いていた。一年目より、線が安定している。
最初の方のページに、Spring BootとJUnitの図がある。コードの断片と、その横に矢印で「DI注入はここ」と書き込まれていた。
その隣のページに、葉山さんが「澪」で言ってくれた一行が、引用符付きで残っていた。
「桐谷くんの観察は、武器になる」
二年目の春の、あの店の窓際の席の、まだ穏やかな時期の一行だった。
もう少しめくると、間宮先輩の言葉が出てきた。
「桐谷くん、変革者って孤独だぞ」
二年目の秋、夜の歩道橋で受け取った一行。その下に、自分の字で「孤独は、悲劇じゃない」と書き足した跡がある。半分理解して、半分理解できないまま、二年目を越えた言葉だった。
さらに先のページには、DORAメトリクスの四つの指標が、四角の枠で並べてあった。デプロイ頻度、変更のリードタイム、変更失敗率、復旧時間。二年目の夏、白瀬さんから借りた本を写した名残だった。
……二年目で、技術の側に、骨が一本通った。
ノートに残った字の堅さが、それを物語っていた。
三年目のノートを開いた。
書き始めは四月。三年目の四月一日の朝。
「三年目、渡す側にまわる」
その一行から始まっていた。
ページをめくると、橋本香織が後輩として配属された日の記録があった。「香織さんは、僕の隣の席に座った」「彼女は『桐谷さん、研修中、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします』と最初に言った」と、短い文がいくつか並ぶ。
その先には、商工会議所のITイベントの記録。インターンの大学生を預かった二ヶ月の記録。三つの開発部を歩いた一週間の記録。赤坂先輩との偶然の再会の記録。アユシュの韓国行きの記録。鈴木未來との夏の終わりの別れ。諏訪マネージャーの異動。
三年目の半年は、ノートの厚みが、明らかに違っていた。
一行一行が、二年目より深い場所まで沈んでいた。
その理由を、僕は薄く理解していた。
一年目は、目の前のことを全部メモした。二年目は、技術の輪郭を写した。三年目は、自分が何を見ているかを、書くようになった。
観察、という言葉に、自分なりの重さがついた半年だった。
三冊のノートを、机の上で半円に並べた。
左から、一年目、二年目、三年目。
その手前に、もう一冊、白い無地のノートを置いた。三年目の続き、十月以降のためのノート。まだ最初のページは白いままだった。
そのノートを開いた。
最初のページに、ペンで、ゆっくりと十字を書いた。
縦に一本、横に一本。
縦棒の上に「技術」と書いた。
横棒の左の端に「事業」と書いた。
ペンを止めてその十字を眺めた。
……縦棒と横棒。
諏訪マネージャーが、二年目に、事業の数字を見せてくれた日に置いてくれた言葉だった。技術の縦棒を太くする三年。事業の横棒を伸ばす三年。両輪、という言葉は、入社初日の朝に遠野さんが使った。
いまの自分の三年は、たぶんその縦棒を、半分まで太くしたところだった。
縦棒の側に、思いつくまま、用語を書き並べていった。
Java。Spring Boot。JUnit。設計レビュー。コードレビュー。運用当番。DORAメトリクス。再現手順書。デプロイ頻度。リードタイム。
書き終わると、縦棒の上半分は賑やかになった。
しかし上半分しか埋まっていない。
縦棒の下半分は、まだ白い。クラウドの本格運用、分散システム、社内基盤、自社サービスの内部。これから、三十歳までに、その下半分を、もう半段太くする。
ふと、二年目から手元に置いてきた地図を思い出した。縦棒に並べた用語は、その地図でいう構築やテストや運用や品質の区画に、ちょうど散らばっていた。下半分の白さは、まだ足を踏み入れていない区画の白さと、たぶん同じだった。
その白さに、ペンの先を半秒だけ留めた。
次に横棒の側に書いた。
売上。解約率。顧客満足度。組織の構造。業界の景色。受託と自社サービスの比率。パッケージ事業チームの動き。商工会議所のIT勉強会。地方の中堅IT企業の経営。
書きながら、葉山さんがときどき軽い調子で漏らす予感が、思い出されていた。君はたぶん、ここに残るんじゃないか。君の観察は、ヨキエルの中で、実を結びつつある。葉山さんはそんなふうに、僕の知らない確からしさで言うことがあった。
その葉山さんの予感を裏付けるものが、横棒の側に、確かに書き出されていた。
売上のことを意識し始めたのは、二年目、諏訪マネージャーが会議室で事業の数字を見せてくれた日からだった。解約率の見方が変わったのは、三年目の夏、三つの開発部を歩いた一週間で、篠田さんの島の数字を隣から見せてもらった日からだった。
業界の景色を意識し始めたのは、商工会議所の集まりで、地方のIT企業の社長たちの顔を見た一日からだった。
横棒は、一年目には、まだほとんど線がなかった。二年目から、ところどころに点が打たれ始めた。三年目で、その点が、おぼろげに一本の線につながり始めていた。
縦棒よりは、まだ細い。
しかし確かに、横棒も、存在していた。
「両輪、というのは、こういうことか」
声に出さず、口の中で、その一行を運んだ。
遠野CTOの言葉が、急に、自分の言葉に変わった瞬間だった。
半径3メートル。両輪。観察。
遠野さんが、二年目の頃、何度か並べてくれた三つの言葉。あの時はそれぞれが独立した宝物のように、別々に光って見えた。いまノートの上で十字を見ていると、その三つがゆっくりつながり始めているのが輪郭で分かった。
半径3メートルだけを見る。
その半径の中で、技術の縦棒と事業の横棒を、両輪として育てる。
その育て方の名前が、観察。
遠野さんの三つの言葉は、たぶんひとつの絵だった。
三年経って、ようやく、その絵の外周だけ、おぼろげに見えた。
ノートから顔を上げた。
窓の外、港川市の街並みが、秋の色で薄く染まっていた。ケヤキの並木の、いちばん上の方の葉が、もう赤茶けている。並木の向こうに、寮から駅前まで続くいつもの通り。さらにその向こうに、商店街のアーケード。その先に、城跡公園の方角。
午前十時。
冷蔵庫から牛乳と、戸棚から豆を取り出した。
手挽きのコーヒーミルで豆を挽いた。ジリジリ、ジリジリと、規則正しい音が、寮の小さなキッチンに広がる。粉の匂いが立ち、寝起きの頭が覚めた。
ドリッパーに紙のフィルターを敷いて、お湯を細く落とした。湯気が真上に上がる。
最初に少しだけ落として、三十秒、待つ。豆が膨らみ、表面に薄い泡が浮く。それから二回目、三回目と、少しずつ、お湯を回し入れる。
……二年目の冬まで、こんな淹れ方はしなかった。
諏訪マネージャーが、いつだったか「桐谷くん、コーヒーくらい、自分で淹れられるようになっておくと、長く戦えるよ」と、笑って言ってくれた一日があった。たぶん二年目の終わりだった。
その日から、寮の小さなキッチンで、休みの朝にコーヒーを淹れるようになった。
マグカップに注いだコーヒーから、湯気が二筋、上に伸びた。
机に戻った。
十字を描いた新しいノートの、その十字の下に、もう一行書いた。
「3年で土台を作った。これから、何を建てるか」
書き終わってからその一行を眺めた。
あの春、村瀬社長が研修で言った「3年で土台を作る」の続きが、自分の言葉で、紙の上に降りていた。
土台までは、たぶんできた。
縦棒と横棒の十字が、その土台の、最初の形。
その上に、これから、何を建てるか。
二十五歳の僕の前にある問いは、たぶんその一行だった。
ノートを閉じる前に、もう一度三冊のノートを左から眺めた。
一年目の固い字。二年目の落ち着いた字。三年目の少し深い字。
その三冊の手前に、十字を一つ書いただけの、白いノート。
四冊が、机の上で、静かに一直線に並んでいた。
窓の外、ケヤキの葉が一枚、風で舞った。
マグカップのコーヒーに、二口、口をつけた。
苦みは、二年前より馴染んでいた。
ノートに、最後の一行を足した。
「縦棒と横棒は、まだ細い。これから、太く」
ペンを置いた。
港川市の十月の土曜日が、寮の窓の外で、静かに昼へ向かっていた。
……三年分のノートを、一つの十字に。
心の中で僕はそう撫でた。撫でた音だけが、机の上にしばらく、かすかに残っていた。




