第77話「諏訪マネージャーの異動」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
九月の第二週、月曜日の朝、九時三十分。
港川市の朝は、もう夏の湿気が抜けていた。桜並木通りの葉桜は、薄く色を変え始めていた。フロアの窓のブラインドの隙間から、秋の朝の淡い光が机の上に届いていた。
……アユシュくんが去って、二週間。
心の中で僕はそう繰り返した。それから、MacBookを開いた。
社内Slackの全社チャンネルに、人事部から短い告知が流れた。
「人事異動のお知らせ:諏訪 千絵(チームAマネージャー)、十月一日付で、新設事業開発部マネージャーに昇格・異動」
「同部、組織再編に伴い、新規顧客開拓・新規プロダクト企画の中核部門として立ち上げ」
その二行。
告知の一行下、同じ人事チャンネルに、もう一つの短い告知が並んで流れていた。
「桧山 遼氏(組込みチーム)、十月一日付で、新設事業開発部へ配置換え」
その一行。
画面の文字を二度、目で追った。
……諏訪さん、異動。
胸の奥でその三文字をつぶやいた。
予感していた一行ではあった。八月の半ば、CTO室の隣の小さな会議室で、諏訪マネージャーが何かを示唆した日があった。「桐谷くん、君はこれから自分の道を選ぶ時期になるかもしれない」、と諏訪マネージャーが運んだあの一行は、たぶん諏訪マネージャー自身の予告でもあった。
あの日、諏訪マネージャーが誰から何を託されたのか、僕は最後まで知らない。あの日の会議室の扉の内側で、諏訪マネージャーの側にだけ渡された類の一行が、たぶん、いくつかあったはずだった。その内容までは、あの日も、今日も、僕には、届かない。
しかし予感していた一行を、実際にSlackの画面で見ると、画面の文字の重みが違った。
僕は机の脇に置いたノートを引き出した。
今日の日付の下に最初の一行を書いた。
「諏訪マネージャー、十月一日付で異動」
書いてから、ペンを置いた。
ペンの先が、いつもの月曜の朝よりも重かった。
告知から五分後の九時三十五分、諏訪マネージャーがいつもの落ち着いた足取りでフロアの島に戻ってきた。
自席の前で立ち止まって、卓の全員を見渡した。
「皆さん、Slackで見たと思いますが」
いつもの諏訪マネージャーの声。
「十月一日付で、新設事業開発部のマネージャーに移ります。チームAは十月一日付で新しいマネージャーが着任する予定です」
短く運んだ。
卓のあちこちでふっと間が空いた。
「諏訪さん、おめでとうございます」
白瀬さんが口を開いた。
いつもの東北の確かさの温度の一行だった。
「ありがとう、白瀬さん」
諏訪マネージャーは口の端で薄く笑った。
「ちょっと寂しいですね」
香織さんが姿勢を整えながら、穏やかに運んだ。
「香織さんが四月から馴染んでくれた島を、半年で離れるのは、私も寂しいです」
諏訪マネージャーは穏やかに返した。
「でも、新設事業開発部、新しい挑戦ですよね」
森山くんが軽く運んだ。
「うん、新しい挑戦」
諏訪マネージャーは短く頷いた。
「新規顧客開拓と、新規プロダクト企画。ヨキエルの中で、これから半年、半年と新しい島を作っていく仕事」
「諏訪さんに合ってますね」
白瀬さんが口の端でわずかに笑った。
「合っているといいです」
諏訪マネージャーは笑った。
「十月一日付で新しいマネージャーが着任します。富岡 直樹さん、四十代、別IT中小から中途で入ってこられる方です」
「富岡、さん」
森山くんが繰り返した。
「お名前、覚えました」
「皆さん、新しいマネージャーをいつもの温度で迎えてください」
諏訪マネージャーは短く運んだ。
「私の十月一日の異動までの三週間は、引き継ぎの時間として丁寧に使います」
「はい」
「桐谷くん」
諏訪マネージャーは僕のほうに目を向けた。
「今週中に、二人で最後の1on1の時間を取りたい。半時間でいい。CTO室の隣の小さな会議室で」
「はい」
短く返した。
「日程は、私から後で送ります」
「はい」
諏訪マネージャーは頷いて、自席のほうに戻った。
昼休み、社員食堂。
四人席の窓側に、白瀬さんと香織さんと僕が並んだ。鈴木さんはもう、ここにはいない。
「桐谷さん」
香織さんがコップの水を傾けてから、口を開いた。
「諏訪さんの異動、寂しいですね」
「うん」
短く返した。
「でも諏訪さん、ご栄転ですよね」
「新設事業開発部、社長の村瀬さんが半年前から温めていた構想、と聞きました」
香織さんは穏やかに続けた。
「社内の若手の中でいちばん適任の人を抜擢、と」
「適任、たぶん諏訪さん」
白瀬さんが味噌汁の椀を置いてから、短く運んだ。
「諏訪さん、一年目の頃から、いろんなチームの人を観察してきた人だから」
「観察」
僕は繰り返した。
「うん」
白瀬さんは頷いた。
「諏訪さん、桐谷くんよりも前から観察を続けてきた人」
「新設事業開発部は観察の腕の見せ所だと思う」
白瀬さんは穏やかに運んだ。
その「観察の腕の見せ所」、という一行は、白瀬さんが諏訪マネージャーの三年をちゃんと見てきた一行だった。
僕は頷いた。
「諏訪さん、向いてる、と思います」
「うん」
「だから寂しいけど、応援ですね」
香織さんが口の端で薄く笑った。
「うん、応援」
白瀬さんは短く返した。
卓の上で三人が、同じ気持ちで頷いた。
水曜日の午後四時。
諏訪マネージャーからSlackで日程が送られてきた。
「金曜の十五時から、半時間、CTO室の隣の小さな会議室で」
短い一行。
「はい、お願いします」
短く返した。
ノートの机の上の今週の日付の脇に、その時間を書き込んだ。
……金曜の十五時。
内心でその時刻を確かめた。
金曜日の十五時。
CTO室の隣の小さな会議室。
四人掛けの机の手前側に、僕が座った。
奥のドアから諏訪マネージャーがいつもの落ち着いた足取りで入ってきた。
MacBookは持ってきていなかった。
机を挟んで正面に座った。
諏訪マネージャーの肩のあたりが、いつもよりも軽かった。九月の半ばの服装は、いつもの紺色のジャケットの代わりに、淡いグレーのカーディガンに変わっていた。
「桐谷くん、お疲れさま」
いつもの諏訪マネージャーの声の温度。
「お疲れさまです」
短く返した。
諏訪マネージャーは机の上で両手を組んだ。
「今日が、桐谷くんと私の最後の1on1」
「はい」
「最後、というのは大袈裟かな。十月以降も別の事業部のマネージャーとして、たまにすれ違うとは思うけど」
諏訪マネージャーは口の端でわずかに笑った。
「ただ、チームAのマネージャーと、チームAのメンバー、という関係としては、今日が最後」
「はい」
短く返した。
僕は息を整えた。
胸の内で、三年のあいだに諏訪マネージャーから少しずつ受け取ってきた言葉を思い出した。観察、半径3メートル、それから縦棒と横棒。いくつもの1on1の中で、一年目から順に手渡された言葉。あの言葉たちはいま、僕の中にちゃんと立っていた。
「桐谷くん」
「はい」
「君の三年で、私も育ちました」
諏訪マネージャーは穏やかに運んだ。
僕は息を整えた。
「諏訪さん、ありがとうございました」
短く返した。
涙は出なかった。
しかし深い感謝が、胸の奥のほうから上がってきた。
「君が私のチームに配属されてきた三年前の四月、私はたぶんまだ未熟なマネージャーだった」
諏訪マネージャーは穏やかに続けた。
「三年のあいだ、私が君に少しずつ渡してきた言葉、覚えてる?」
「観察、半径3メートル、それから縦棒と横棒」
僕は答えた。
「うん」
諏訪マネージャーは口の端で薄く笑った。
「あのうち、観察と半径3メートルは、私が自分の手で組み立てた言葉ではなくて、私が上司から預かった言葉です」
「私の上司、というのは、いまの遠野CTOです」
「はい」
「遠野さんが入社初日の朝に置いた、半径3メートル、両輪、観察。その両輪を、私は縦棒と横棒という形に描き直しました。預かった言葉と、自分で描き直した言葉を、長く自分の中で温めて、君に渡しました」
諏訪マネージャーは息を整えた。
「君がその三つの言葉を、二ヶ月のインターンの鈴木さんに渡しているのを、私は八月の半ば、横から見ていました」
「『これは私の指導の問題です』、と君が会議室Bで運んだあの一行は、たぶん私が三年前、君の最初の障害の日に運んだ一行と、同じ温度だった」
「君がその温度を温め直して、自分の手で鈴木さんに運んだ」
「はい」
「あの瞬間、私はたぶん自分のマネージャーとしての三年が、認められた気がしました」
諏訪マネージャーは口の端でわずかに笑った。
「だから、桐谷くん、ありがとう」
短く運んだ。
僕は息を整えた。
「諏訪さん」
「はい」
「観察、半径3メートル、それから縦棒と横棒。僕はそのどれも、最初は半信半疑で受け取りました」
「うん」
「でも三年、自分の手の中で温めていたら、いつの間にかその三つが、僕の手の中で、僕の言葉になっていました。諏訪さんが渡してくださった三つは、僕の手の中で形を変えながら、僕の三年の中の支柱になりました」
「うん」
「だから、本当に、ありがとうございました」
頭を下げた。
諏訪マネージャーは小さく笑った。
「桐谷くんの『支柱』、その言い方、いい」
「はい」
「自分の縦棒、横棒、というのは、たぶん君の中で、もう、君の言葉になっている」
「はい」
諏訪マネージャーは頷いた。
「桐谷くん」
「はい」
「君はこれから、自分の道を選ぶ時期に入る」
諏訪マネージャーは穏やかに運んだ。
「いまの時点で、君の前にたぶん三つの道がある、と私は思います」
「三つ」
僕は繰り返した。
「うん、三つ」
諏訪マネージャーは机の上で指を三本立てた。
「ひとつ。私についてくる」
短く運んだ。
「新設事業開発部、十月から立ち上げ。半年後に若手のメンバーを募集する予定。君が希望すれば、私は君を引き受けたい」
「はい」
「ふたつ。チームAに残る」
「富岡さんという新しいマネージャーの下で、いまのチームAの島で、いまの仕事をもう一段深める」
「はい」
「みっつ。別の会社に動く」
諏訪マネージャーは口の端でほんの少しだけ笑った。
「アユシュくんが韓国に行きました。同期の中にも、ヨキエルの外に目を向け始めた人がいる時期です」
「君がもし、自分の伸びる場所をヨキエルの外に感じるのなら、それも君の選択の一つです」
「はい」
「どれを選んでも、私は君を応援します」
諏訪マネージャーは短く運んだ。
卓の上でふっと間が空いた。
僕は息を整えた。
「諏訪さん」
「はい」
「考えます」
短く返した。
「いまはまだ、答えは出ません」
「うん」
「でも三つの道、ちゃんと自分の手の中で温度を確かめてから、決めます」
「うん」
諏訪マネージャーは穏やかに頷いた。
「君が自分の手で自分の道を選ぶこと。それが君の三年目のテーマだと、たぶん君自身、分かっている」
「はい」
「一年目のテーマが『観察』、二年目のテーマが『両輪』、三年目のテーマが『自分の選択』。君の三年は、その三つで組み立てられてきました」
「はい」
「最後の『自分の選択』を、君が自分の手で運ぶところを、私は横から見ます」
「はい」
「もし私についてくる、を選んでくれたら、嬉しい。でもほかの二つを選んでも、ちゃんと応援します」
諏訪マネージャーは穏やかに運んだ。
「これはマネージャーとしての最後の1on1の、私の本音です」
「はい」
短く返した。
机の上で、二人で静かに息を整えた。
「桐谷くん、それから、もう一つ」
諏訪マネージャーの声が、少し、低くなった。
「はい」
「ここ最近、社内の別の部署で、いくつか、退職の告知が続いています。桐谷くんも、Slackの人事チャンネルで、目にしていると思います」
「はい」
短く返した。
組込みの、あの上と下の並んだ一行と、この一ヶ月、その下に増えてきた新しい一行たちを、僕はまとめて胸の内で思い出した。
「他の部で起きていることの詳しい経緯を、私が桐谷くんに解説する立場にはありません」
「はい」
「私が話せるのは、二つだけ。一つ目。桐谷くん自身の中で、何か気になっていることがあれば、聞かせてください。話せる範囲でいいです」
「はい」
「二つ目。もし桐谷くんが、今後のキャリアのことで、少しでも不安を感じるようであれば、いつでも私に相談窓口を開いておきます。私が異動した後も、同じです」
「はい」
諏訪マネージャーは、机の上で両手を、いったん組み直した。
「これは、マネージャーとして、桐谷くんに置いておくべき窓口だと、私が判断しました」
「はい」
短く返した。
諏訪マネージャーの声のトーンは、事件のことを語る声ではなかった。フォローの窓口を開いておく、という姿勢だけを、静かに置く声だった。桐谷くんに何かを解説する側に立たない、という節度が、その声の中に、はっきりあった。
「最後に、ひとつだけ」
諏訪マネージャーは口を開いた。
「君が選んだ道のあとで、もし行き詰まる日が来たら、私に連絡してください」
「はい」
「マネージャーとメンバーの関係ではなくなっても、私は君の三年を見てきた人間として、君に、ちゃんと応えます」
「はい」
短く返した。
「Slackでも、LINEでも、いい」
諏訪マネージャーは口の端で薄く笑った。
「私的なやり取りのほうは、LINEで」
「はい」
「うん」
諏訪マネージャーは机の上で両手を組み直した。
「桐谷くん、三年、本当にお疲れさまでした」
短く運んだ。
「諏訪さん、三年、本当にありがとうございました」
頭を深く下げた。
諏訪マネージャーは立ち上がって、机の脇に回った。
僕も立ち上がった。
二人で机の脇で握手をした。
諏訪マネージャーの手は、いつもの諏訪マネージャーの手の温度。確かに僕の手を握った。
握手をほどいたあと、諏訪マネージャーは、ふと思い出したように言った。
「桐谷くん、下期に入ると、研修員論文の準備が始まります」
「論文」
「うん。三年の総仕上げ。十月に、沢田さんの説明会があります」
「はい」
「君の論文は、富岡さんと白瀬さんが見てくれます。私はもう、隣にはいないけれど」
諏訪マネージャーは、半秒、間を置いた。
「書くのは、君です」
「……はい」
その五文字を、僕は胸の真ん中で受け取った。
握手のあとで、諏訪マネージャーがドアのほうに向かった。
「桐谷くん、また、月曜のフロアで」
「はい、月曜のフロアで」
短く返した。
ドアが閉まった。
会議室の中に僕が一人、残った。
椅子に座り直して、机の上で両手を組んだ。
会議室を出てフロアの島に戻ったのは午後三時四十分。
フロアの自分の島の隣の、いつも諏訪マネージャーが座っていた席の隣に、新しい段ボール箱がふたつ置かれていた。
名札は、まだ貼られていない。
しかし箱の側面に「富岡 直樹」と整った字で書かれていた。
……十月から、富岡さん。
心の中でその四文字を繰り返した。
自席に戻って、MacBookを開いた。
社内Slackには、もう一行、人事部から短い告知が追加で流れていた。
「富岡 直樹 氏(新規中途入社)、十月一日付で、チームAマネージャーに着任」
その一行。
画面の文字を二度、目で追った。
十月の第一週の月曜日の朝、九時。
チームAのフロアの島に、新しいマネージャーが立っていた。
淡いグレーのスーツに白いシャツ。整った清潔感のある身なり。四十代の半ばと、たぶん聞いた通りの年齢の見た目。
しかし最初に、僕が見ていちばん印象に残ったのは、富岡さんの目だった。
観察的な目。
冷たさではなく確かさで、フロアの全員をひとりずつ見ている目だった。
「皆さん、おはようございます」
富岡さんは卓の中央に立って、姿勢を整えた。
「今日からチームAのマネージャーとして、皆さんとご一緒します。富岡 直樹と申します」
「よろしくお願いします」
卓のあちこちで小さく声が返った。
「はじめてのチーム、はじめての社風です」
富岡さんは穏やかに続けた。
「私からはまず、皆さんを観察させてください」
卓の上で、僕は止まった。
……「観察」を富岡さんも使う人なんだ。
胸の奥でその一行を確かめた。
「皆さんがどんな仕事を、どんな手のつけ方で組み立てているか。そこをちゃんと見てから、私の手のつけ方を皆さんに合わせていきます」
富岡さんは穏やかに運んだ。
「最初の二週間は、私のほうから口を出すよりも、聞く、見る、のほうを多めにします」
「はい」
白瀬さんが短く返した。
「では、改めて、よろしくお願いします」
富岡さんは頭を下げた。
卓のあちこちで静かに頭が下がった。
昼休み、社員食堂の四人席。
白瀬さんと香織さんと僕が並んだ。
「富岡さん、第一印象、どうですか」
香織さんが聞いた。
「分からない」
白瀬さんは穏やかに返した。
「分からない、というのが、いいかもしれない」
「分からない、がいい?」
香織さんは目を丸くした。
「うん、最初の一瞬で『この人、本物』とか『この人、軽い人』とか決めてしまう人より、分からないぐらいの距離感の人のほうが、観察に向いてる、と思う」
「はい」
僕は頷いた。
「富岡さん、観察、という言葉を自然に使う人でしたね」
「うん」
「諏訪さんの観察と、同じ温度か違う温度かは、まだ分からない」
「はい」
白瀬さんは穏やかに返した。
「半年、観察」
「半年」
「うん、半年ぐらいは、自分の手の中で観察してから、結論」
白瀬さんは味噌汁の椀をひと口傾けた。
「私たちが富岡さんを観察しているのと、たぶん富岡さんが私たちを観察しているのが、いま同時に進んでる」
「うん」
「同時の観察、ですね」
香織さんが口の端でわずかに笑った。
「いい温度」
僕は頷いた。
卓の上で三人が薄く笑みを浮かべた。
退勤、午後六時。
桜並木通りを寮の方向へ歩いた。
十月の頭の夕暮れ。
葉桜の影はもう、夏の終わりを過ぎて、秋の入り口の少し乾いた色に傾いていた。
歩きながら、内心で諏訪マネージャーの「三つの道」をもう一度なぞった。
ひとつ。諏訪さんについていく。
ふたつ。チームAに残る。
みっつ。別の会社に動く。
三つの道は、まだ僕の手の中で形になっていない。
しかし温度を確かめないと、選べない。
胸の内でその当たり前の一行を、もう一度置いた。
……三年目のテーマ、「自分の選択」。
その五文字を心の中でつぶやいた。
自分の選択。
一年目のテーマの「観察」、二年目のテーマの「両輪」、そして三年目のテーマの「自分の選択」。三つのテーマがいま、僕の手の中でひとつの形に組み上がり始めていた。
その形はまだ、輪郭しかない。
しかし輪郭が見え始めた、というのが、たぶん三年目の十月の頭の到達点だった。
寮に戻った。
机のノートを開いた。
今日の日付の下に最初の一行を書いた。
「諏訪さん、十月一日付で異動。新設事業開発部マネージャーに昇格」
もう一行。
「富岡さん、十月一日付でチームA着任。観察、という言葉を使う人」
もう一行。
「諏訪さんから三つの道を示された」
もう一行。
ペンを止めた。
最後の一行を丁寧に書いた。
「三つの道、僕はどうするか」
書き終えてから、その一行を目で追った。
ペンを置いた。
ノートを閉じた。
窓の外、十月の頭の夜風が薄く乾いて吹いていた。
夏は終わった。
二ヶ月のインターンの卓は片付いた。
諏訪マネージャーは新しい卓に移った。
富岡マネージャーが新しい温度でチームAに来た。
半径3メートルの中の人の半分が、入れ替わり始めていた。
その入れ替わりの中で、僕は自分の場所を、どこに置くか。
その問いの輪郭が、ようやくいま、ノートの上に置かれた。
答えはたぶん、十月、十一月、十二月と、僕の手の中で温められて、いつかの月の夜の机の上で形になる。
それまでは、考える。
観察する。
自分の手の中で温度を確かめる。
その三つを丁寧にやる。
ノートの脇にペンを置いた。
部屋の明かりを落とした。
明日の朝もまた、桜並木通りを歩く。
歩いた先のフロアの島で、富岡マネージャーが新しい温度で、観察を始めている。
その新しい観察と、僕自身の三年の観察が、隣で組み合わさり始める。
そこから先の半年が、たぶん三年目の終わりまでの、いちばん深い半年になる。
胸の奥でそう運んだ。




