表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/27

第76話「赤坂先輩、アーケードの再会」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 九月の第一週の土曜日。


 港川駅前の商店街。


 午後二時の日差しはまだ夏の終わりの残りで強かった。


 アユシュの送別会から、まだ数日だった。八月の末に居酒屋・かいかんで九人で囲んだ、あの卓の温度が、まだ薄く胸の脇に残っていた。


 僕は寮の洗濯機で回し損ねたシャツを買い替えに、駅前のユニクロまで歩いた。


 商店街のアーケードに入ると、日差しが和らいだ。


 その和らぎの中で、向こうの店先から出てきた顔を二度、目で追った。


 ……赤坂先輩。


 心の中でその三文字を置いた。


 白いポロシャツに淡いベージュのチノパン。手にはコンビニの薄いビニール袋。いつもの軽い背格好。


 たぶん向こうも僕に気づいていなかった。


 しかしアーケードの中で目が合った。


「お、桐谷くん!」


 赤坂先輩の声は、一年目の頃のあの軽い温度から変わっていなかった。


「久しぶり! 元気?」


 商店街のアーケードの真ん中で、赤坂先輩がこちらに歩いてきた。


 僕は息を整えた。


「赤坂さん」


 短く返した。


「お久しぶりです」


 


 赤坂先輩はコンビニのビニール袋を左手に持ち替えた。


「桐谷くん、土曜日に商店街珍しいね」


「シャツ、買い替えに」


「自社サービスのほう、どうですか?」


 僕はそう聞いた。


 赤坂先輩は口の端で薄く笑った。


「桐谷くん、知らないか」


「はい」


「俺、今年の初めにヨキエル辞めたんだ」


 短く運んだ。


 商店街の音が一段だけ遠くなった。


 ……辞めた。


 胸の奥でその二文字を撫でた。


 二年目の夏、赤坂先輩はチームAから自社サービス事業チームへ異動した。その異動から一年あまり。あの異動は本人の希望、と当時は聞いていた。しかし異動先で合わなかった、というのが、たぶんいまの「今年の初めに辞めた」の奥に置かれていた。


 僕は息を整えた。


「そうなのですね」


 短く返した。


「うん、自社サービス事業チーム合わなくてさ」


 赤坂先輩はあっさり置いた。


「半年くらいは粘った。でも半年でここじゃない、って自分の中で結論が出ちゃって」


「はい」


「で、東京の中堅IT転職。年明けから向こうで働いてる」


「東京」


「うん。こっちにはたまに、顔を出しに戻ってくる」


 少し間があった。


「あと、立花さんに久しぶりに会おうと思って。連絡したら、じゃあ港川おいでよって」


「立花先輩、いまも同じ島です」


「そっか。変わらないなあ、あの人も」


 赤坂先輩は軽く答えた。


 僕は息を整えた。


 立花先輩。僕が一年目の頃から、赤坂先輩と同じチームAの島に並んでいた先輩だった。


 赤坂先輩がいまその名前を出した理由の輪郭を、胸の奥でそっと確かめた。


 ……聞くことでもなかった。


 立ち話で確かめることでも、ない。


「そうなのですね」


 赤坂先輩は一年目の頃、僕に対して軽い距離の優しさを置く人だった。LGTMの四文字と絵文字二つ、五分の速さ。その人がいま、自分の決断のあとの時間を僕に運んでいた。


 僕はその温度を断罪しなかった。断罪は、たぶんもうしなくていい種類の温度だった。


 


「桐谷くん、いま三年目?」


 赤坂先輩は聞いた。


「はい」


「三年、続けたんだ」


「はい」


「えらい、ね」


 赤坂先輩は口の端でほんの少しだけ笑った。


「俺、君が一年目の終わりに『観察してます』って言ってたの、たまに思い出すよ」


「はい」


「あの一行、君の中でちゃんと続いてる?」


 僕は息を整えた。


「続いてます」


 短く返した。


「うん」


 赤坂先輩は頷いた。


「君、合ったみたいだね、ヨキエル」


「合った、というか」


 僕は口を開いた。


「観察してます」


「観察、ね」


 赤坂先輩は笑った。


「君らしい」


 短く運んだ。


 その「君らしい」の温度は、一年目の頃の赤坂先輩の軽い温度と、たぶん同じ温度だった。距離を置きながら理解を置く、あの形。


 僕はその「君らしい」を内心で断罪しなかった。


 


「桐谷くん」


「はい」


「俺、ヨキエルが悪い会社、って言いに戻ってきてるわけじゃないからね」


 赤坂先輩は口の端でわずかに笑った。


「俺は合わなかった、それだけ」


「はい」


「君みたいに半秒ずつ人を見て、自分の手の中で組み立てるタイプの人には、ヨキエルはたぶん合ってる」


「俺は半秒ずつ、というよりは半時間ずつぐらいで動くタイプだった」


 赤坂先輩は小さく笑った。


「東京のいまの会社のほうが、たぶん半時間ずつで動くタイプ向け」


「はい」


 短く返した。


 赤坂先輩の「半時間ずつ」、という言い方は、たぶん赤坂先輩なりの自己観察の一行だった。


 僕はその一行を胸の内で撫でた。


 ……赤坂先輩、たぶんヨキエルを出てから、自分のことを見直したんだ。


 その見直しはたぶん赤坂先輩にとって、健康な見直しだった。


 


「桐谷くん、葉山さんとか他の同期、元気?」


 赤坂先輩は聞いた。


「はい、皆、元気です」


「黒木は、たぶんもうテックリードかな」


「六月に正式に」


「お、やっぱり」


 赤坂先輩は口の端で薄く笑った。


「黒木、合ってるよね、ヨキエルの組込み」


「はい」


「葉山さんは?」


「葉山さんは、パッケージ事業チームで元気にやってます」


 短く返した。


「そうなんだ」


 赤坂先輩は目を細めた。


「みんな、それぞれ続けてるんだな」


「はい」


 赤坂先輩は、コンビニのビニール袋を、軽く持ち直した。


「俺さ、東京合わなかったのかな」


「合わなかった、というよりは」


 僕は言葉を選んだ。


「赤坂さんはたぶん、ヨキエルが嫌いになったわけじゃない、ですよね」


「うん、それはそう。いい会社だと思ってるよ、いまでも。合わなかった、というだけ」


 赤坂先輩は頷いた。


「桐谷くんの言い方、ちゃんと整理されてるね。君、三年目だね」


「はい」


 短く返した。


 商店街のアーケードの中で、二人の半秒がそっと揺れた。


 


「じゃ、俺、もう寄ろうかな」


 赤坂先輩はコンビニのビニール袋を軽く揺らした。


「桐谷くん、ユニクロ行くんでしょう」


「はい」


「邪魔して、ごめんね」


「いえ、お会いできて、よかったです」


 短く返した。


「うん、俺も」


 赤坂先輩は口の端でわずかに笑った。


「じゃ、元気で」


「赤坂さんも、お元気で」


 二人で軽く頭を下げ合った。


 赤坂先輩は商店街の奥のほうに歩き出した。


 白いポロシャツの背中が、アーケードの光の中で揺れた。


 僕はその背中を目で追った。


 赤坂先輩は一年目の頃に僕が見ていた赤坂先輩と同じ背中だった。


 しかし最後の一段だけ、たぶん違う背中でもあった。


 その違いの輪郭を、心の中でそっと撫でた。


 


 ユニクロでシャツを二枚選んで、レジで会計を済ませた。


 紙袋を提げて、商店街のアーケードを駅のほうへ戻った。


 午後三時の商店街は、夏の終わりの少し乾いた風が吹いていた。


 駅前のロータリーでベンチに座って、紙袋を膝の上に置いた。


 赤坂先輩の「君らしい」の一行をもう一度撫でた。


 ……赤坂先輩、悪い人じゃなかった。


 胸の奥でそう運んだ。


 一年目の頃、僕は赤坂先輩の優しさを「放置する優しさ」と内心で名づけた。悪気なく、軽く、深入りしない。その軽さを、僕は整理しきれない種類の優しさと感じていた。


 いまもその整理は変わっていない。


 しかし整理しきれない、ということを、いまは断罪しなくていい温度で受け止められる。


 赤坂先輩には赤坂先輩の人生があって、赤坂先輩なりの自己観察があって、合わなかった場所から合いそうな場所へ、半時間ずつで動いた、というそれだけの話だった。


 立花先輩に会いに来た、という一行の奥に、たぶん何かがある。けれど今日の立ち話でそれを確かめることは、僕の仕事ではなかった。


 半径3メートルの観察の中に、赤坂先輩はもう入っていない。


 しかし半径3メートルの外に出た人を、ちゃんと「お元気で」と送ることは、たぶん観察の延長線上の所作だった。


 


 寮に戻った。


 ユニクロの紙袋を玄関の脇に置いて、机のノートを開いた。


 今日の日付の下に最初の一行を書いた。


 「赤坂先輩と、商店街で再会」


 もう一行。


 「赤坂先輩、今年の初めにヨキエル退職、東京の中堅IT」


 もう一行。


 「『君らしい』と言われた」


 ペンを止めた。


 最後の一行を丁寧に書いた。


 「赤坂先輩、お元気でと祈る」


 書き終えてから、その一行を目で追った。


 「お元気でと祈る」。


 その一行は、断罪と祝福のちょうど真ん中の温度で書けた、と胸の内で頷いた。


 一年目の頃の僕なら、たぶん「赤坂先輩、ヨキエルを離れて、楽になったかも」と書いた。


 二年目の頃の僕なら、たぶん「赤坂先輩、本当は合わなかったんだ」と書いた。


 三年目の僕は、「お元気でと祈る」と書ける。


 その差が、たぶん観察の三年の奥の結論だった。


 


 ノートを閉じた。


 窓の外、九月の第一週の夕暮れ。


 桜並木通りの葉桜は、もう、夏の終わりの少し乾いた緑に傾いていた。


 心の中でもう一度つぶやいた。


 ……人は合う場所と合わない場所がある。


 その当たり前の一行が、一年目の頃の僕にはたぶん見えていなかった。


 優しさを「本物か偽物か」で問うのではなく、「合う人にとっての優しさか、合わない人にとっての優しさか」で問うほうが、たぶん正確だった。


 赤坂先輩の優しさは、合う種類の人には本物として届く。合わない種類の人にはよく分からない優しさとして届く。僕は合わない側の人だった。それだけのことだった。


 胸の奥でそう運んでから、ノートの脇にペンを置いた。


 部屋の明かりを落とした。


 明日の朝もまた、桜並木通りを歩く。


 月曜日になればフロアの島で、香織さんと白瀬さんと、言葉を交わす。


 先週、鈴木未來さんはインターンの最終日を迎えた。夏の終わりの送り出しが、まだ薄く胸の脇に残っていた。


 その日々の中に赤坂先輩はもう入ってこない。


 しかし入ってこなくていい人を、ちゃんと「お元気で」と内心で運べる場所には、自分が立てるようになっていた。


 その立ち位置がたぶん、三年目の僕がいま、ようやく自分の足で立っている半径3メートルの輪郭だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ