第75話「夏の終わり 鈴木さんとの別れ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
八月の最終週、金曜日の朝。
鈴木未來さんのインターン期間、最終日。
桜並木通りを歩きながら、僕はその五文字を心の中で置いた。
……最終日。
二ヶ月前、七月初旬の月曜の朝、諏訪マネージャーが胸ポケットから一枚の付箋を取り出して机の脇に置いた。「鈴木未來 20歳 港川市立大学情報科学部3年」。あの付箋の上の名前が二ヶ月の重みを乗せて、今日、二人で並んで歩く時間の最後の一日に立っていた。
MacBookを背負った肩にかかる重みは、いつもの朝と変わらない。
しかし足取りは、いつもの朝よりもゆっくりだった。
歩道の真ん中で立ち止まった。
桜並木通りの葉桜が、八月の最終週の風の中で薄く色を変え始めていた。緑の中にほんの少しだけ、夏の終わりの黄色が混ざり始めていた。
……夏は終わる。
胸の奥でそう運んでから、もう一度歩き出した。
八時五十分、フロアの島。
鈴木さんはいつもの七時五十五分には、もう自分の席に着いていた。今日も変わらない。
白いブラウスと紺色のスラックス。姿勢を整えて、自分のMacBookの起動を待つ、いつもの朝の佇まい。
「鈴木さん、おはよう」
短く声をかけた。
「桐谷さん、おはようございます」
短く返ってきた。
声はいつもの朝と変わらなかった。
その「変わらない」が今日はたぶん、鈴木さんの中で意識的に整えられていた。
二ヶ月の最終日。
大学三年生の二十歳の鈴木さんが、自分の手の中で「変わらない」をちゃんと整えて、今日のフロアに置いた。
その佇まいを内心で確かめた。
香織さんもいつもの八時半には自分の席に着いた。
「鈴木さん、最終日、お疲れさまです」
香織さんが短く運んだ。
「香織さん、二ヶ月、本当にお世話になりました」
鈴木さんはいつもの調子で、姿勢を整えて頭を下げた。
「いえ、私のほうこそ、鈴木さんがいてくれた二ヶ月、楽しかったです」
香織さんは穏やかに返した。
香織さんと鈴木さんの「先輩と新人」の関係は、二ヶ月の中で温まっていた。最初の七月初旬の頃の硬さは、もう抜けていた。
その温度差を僕は胸の内で記録した。
二ヶ月の最終日のフロアは、いつものフロアの音量で、いつもの調子で回り始めた。
午前中、鈴木さんは自分が二ヶ月の中で組んだ三つの小さな改修の引き継ぎ資料を、香織さんに渡した。
白瀬さんが横から手順書を点検して、丁寧にレビューを返した。
その光景を、自分の島から見た。
鈴木さんが白瀬さんのレビューに、姿勢を整えて頷く。香織さんが鈴木さんの脇から、引き継ぎの内容をノートに整理する。
二ヶ月の終わりの引き継ぎは、慌てがなく、静かに進んだ。
……鈴木さん、ちゃんと、ここの島に馴染んだ。
心の中でそう運んだ。
その「馴染んだ」は、二ヶ月でだけ作れる種類のものではなかった。鈴木さん自身の素の温度と、ここの島の温度の合わさり方、というほうが、たぶん正確だった。
そのことを観察日記の中でなぞった。
昼休み、社員食堂。
白瀬さんと香織さんと鈴木さんと僕の四人で、隅の四人席に座った。
鈴木さんはいつもの日替わり定食。今日のメインは鶏の竜田揚げだった。
白瀬さんが味噌汁の椀を置いてから、口を開いた。
「鈴木さん」
「はい」
「いつでも、戻ってきて」
白瀬さんはそう短く運んだ。
いつもの白瀬さんの東北の温度。冷たさではなく、確かさの温度。
「再来年の四月から、もし君がうちの島に新卒で来るなら、私は君のレビューを引き受ける。温度を変えずに」
「白瀬さん」
鈴木さんは頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
白瀬さんは口の端で薄く笑った。
「君は二ヶ月の間、ちゃんと自分のコードを書いてくれた。レビューを返した側の私の温度も、楽だった」
「楽、ですか」
鈴木さんは目を丸くした。
「うん、楽」
白瀬さんは穏やかに頷いた。
「コードを書く人がちゃんと自分の手で考えて書いていると、レビュー者の温度も楽になる」
「君のコード、私の中では楽な部類だった」
白瀬さんは味噌汁の椀をひと口傾けた。
その「楽な部類」は、白瀬さんが二ヶ月の鈴木さんの仕事に対して置いた、たぶん最大級の評価の一行だった。
僕は隣で頷いた。
鈴木さんはノートを開いてペンを構えた。
しかし書く前に目を伏せた。
「観察日記、いま、書きますか?」
香織さんが隣から穏やかに聞いた。
「いえ、いまは、頭の中で」
鈴木さんは頷いた。
「夜、寮で、ちゃんと書きます」
「うん」
白瀬さんは短く返した。
「観察日記、続けて」
「はい」
短く頷いた。
白瀬さんの「続けて」の一行が、卓の上でそっと揺れた。
午後二時、会議室Bを諏訪マネージャーが押さえた。
会議室に七人が並んだ。諏訪マネージャー、白瀬さん、僕、香織さん、森山くん、そして鈴木さんと、もう一人インターンを並走で見ていた組込みチーム側の代理として黒木が顔を出した。
ミニ送別会、というほどではない。十五分の軽い区切りの会。
卓の真ん中に、白瀬さんが駅前の和菓子屋で買ってきた、十人前のどら焼きの箱を置いた。
諏訪マネージャーが立ち上がって、卓の全員を見渡した。
「鈴木さん」
「はい」
「二ヶ月、本当にお疲れさまでした」
諏訪マネージャーの声は、いつもの落ち着き。
「鈴木さんの二ヶ月は、たぶんチームAの全員にとって、いい二ヶ月でした」
「桐谷くんが後輩を持つ二人目として、自分の手のつけ方をもう一段磨いた二ヶ月でもありました」
諏訪マネージャーは僕のほうに目を向けた。
僕は頷いた。
「鈴木さんが自分の手で『観察日記』を続けてくださったこと、フィルターの初期値の本番バグの日に、自分の手のひらの湿気をちゃんと自分の手の中に置いたまま、再発防止策の四行をホワイトボードに並べてくださったこと」
諏訪マネージャーは穏やかに続けた。
「その一連の二ヶ月の積み重ねが、私たちのチームの記憶の中に、ちゃんと刻まれました」
「ありがとうございます」
鈴木さんは深く頭を下げた。
「鈴木さんが大学に戻られたあとも、私たちは君のことをちゃんと思い出します」
諏訪マネージャーは短く運んだ。
「そして、もし君が再来年の春ヨキエルに新卒で来ると決めたら、私たちは君を、ちゃんと迎えます」
「はい」
「そして、もし君が別の場所を選んだとしても、それもまた君の選択として、ちゃんと応援します」
短く運んだ。
卓の上で誰も補わなかった。
補わなくていい一行だった。
僕は諏訪マネージャーの目を、横から見た。
諏訪マネージャーはいつもの諏訪マネージャーの目で、しかし最後の一段だけ、確かに別の色を置いていた。
……諏訪さんも来月、異動。
胸の奥でその一行を繰り返した。
まだ社内Slackには流れていない。しかし諏訪マネージャーがCTO室の隣の小さな会議室で、僕に何かを示唆した八月の半ばの一行を、僕は忘れていなかった。
諏訪マネージャーの「もし君が別の場所を選んだとしても」の一行は、たぶん鈴木さんに向けた言葉であると同時に、僕に向けた言葉でもあった。
諏訪マネージャーは、そう運ぶ人だった。
会議室を出たあと、鈴木さんと二人でフロアの隅、給湯室の前の小さな廊下に立った。
卓の十人前のどら焼きの箱は半分ほど減って、卓の真ん中に置かれたままだった。
鈴木さんは両手で空のマグカップを握っていた。
「桐谷さん」
「うん」
「私、ヨキエルに新卒で来たいです」
短く運んだ。
声は、卓の上の声よりも深かった。
二ヶ月の終わりの最後の半秒で、鈴木さんが自分の手の中で温め直した一行が、いま、廊下の中央に置かれた。
僕は息を整えた。
「鈴木さん」
「はい」
「待ってるよ」
短く返した。
鈴木さんは目を潤ませた。
「桐谷さんがいてくれるなら、私、安心です」
「うん」
短く返した。
僕はその「安心」の一行を、内心で受け止めた。
受け止めたあとで息を整えた。
受け止めたまま返すのが、いちばん易しい返し方だった。「うん、僕も君が来てくれたら楽しみだよ」と返すのが、いちばん易しかった。
しかしいまの鈴木さんに、いちばん易しい一行を返すのは違うと思った。
もう一段深い一行を選んだ。
「鈴木さん」
「はい」
「君には君の道がある」
短く運んだ。
「無理に、ここに来ようとしないで」
「はい」
「他の会社も見て、君の手で見比べて、それでもここに来たいと思ったら、来てください」
「はい」
「僕がいるから、というのは、君の選択の理由の半分でいい。残りの半分は、君自身がヨキエルという場所を、自分の手で温度を確かめて選んでほしい」
短く運んだ。
鈴木さんは口を結んだ。
目を伏せた。
その伏せた目の中で、たぶん鈴木さんはいま、僕の一行を自分の手の中で温め直していた。
「桐谷さんがいるから来る」、という易しい一行から、「自分の手で温度を確かめて来る」、という難しい一行へ。
温め直しの時間が廊下の中央にゆっくり流れた。
鈴木さんが顔を上げた。
「桐谷さん」
「うん」
「分かりました」
短く運んだ。
「ちゃんと、観察します」
「うん」
「他の会社も見て、温度を確かめて、私の手の中で結論を出します」
「うん」
「その結論がたぶんヨキエルだ、と私はいま思っています」
鈴木さんは口の端でほんの少しだけ笑った。
「でも、その『たぶん』は、自分の手で確かめないと、本物の『たぶん』にならない」
「うん」
「桐谷さんの言い方、いつも押し付けないですね」
鈴木さんは頷いた。
「観察日記の、たぶん、最後のページに書きます」
「うん」
「『桐谷さんは半分しか教えてくれない。残り半分は私が、自分の目で見にいく』」
短く運んだ。
僕は驚いた。
「鈴木さん、その一行」
「飲み会の夜、葉山さんと桐谷さんの会話を聞いて、胸の内で書きました」
鈴木さんは口の端でわずかに笑った。
「ヨキエルにいるいい人、半分は卓の五人と白瀬さんと諏訪さんで埋まる。残り半分は、自分の目で見つけてください、と桐谷さんが私に運んだ」
「うん」
「その『半分』の言い方が、私の中でいちばん深く残りました」
「うん」
短く返した。
僕は鈴木さんの目を見返した。
二十歳のインターン生の目だった。
しかしその目の中で、たぶん二ヶ月の積み重ねの奥のところで、何かが確かに立ち上がっていた。
僕は息を整えた。
心の中で目頭が熱くなった。
しかし耐えた。
大人として後輩を送る側の落ち着きを保つ。
保ちながら口を開いた。
「鈴木さん」
「はい」
「君が大学に戻ったあとも、二ヶ月のここの観察日記、続けて」
「はい」
「再来年の春、君がもしここに来ると決めたら、君のその観察日記の最後のページから、続きを書き始めればいい」
「はい」
「来ると決めなかったら、その観察日記は、君の別の場所で続きを書き始めればいい」
「はい」
「どちらでも、君の道は君の手の中にある」
短く運んだ。
「うん」
鈴木さんは深く頷いた。
頷いたあとで、もう一度頭を下げた。
「桐谷さん、二ヶ月、本当にありがとうございました」
「うん、お疲れさま」
短く返した。
退勤、午後五時半。
鈴木さんは会社のロビーの正面で立ち止まった。
振り向いて、僕と香織さんと白瀬さんに、もう一度深く頭を下げた。
「皆さん、本当にお世話になりました」
「鈴木さん、お疲れさまでした」
白瀬さんが短く返した。
「鈴木さん、大学、頑張ってくださいね」
香織さんが笑った。
「うん、頑張ります」
鈴木さんは口の端で薄く笑った。
「桐谷さん」
「うん」
「桜並木通り、最後に一緒に歩いてもらえますか」
「うん」
僕は香織さんと白瀬さんに目で会釈をして、鈴木さんと二人、ロビーの自動ドアを抜けた。
夕暮れの桜並木通り。
八月の最終週の風はもう、夏の終わりの少し乾いた気配に傾いていた。
葉桜の影が夕日の中でちらちら揺れた。
二人で並んで、駅のほうに歩いた。
話す言葉は、もう、互いに必要なかった。
二ヶ月の積み重ねの重みが、二人の半歩の歩幅の中にひそかに乗っていた。
駅前の改札の前で、鈴木さんは立ち止まった。
「桐谷さん」
「うん」
「私、また会いに来ます」
「うん」
「待ってます」
短く返した。
鈴木さんは深く頭を下げた。
頭を下げたあとで顔を上げて、笑った。
二ヶ月の中で、いちばん柔らかい笑顔だった。
僕も、笑い返した。
鈴木さんは改札に向き直して、ICカードをリーダーに当てた。
短い電子音。
改札の向こうに消えた。
ホームのほうへ歩いていく後ろ姿が、夕日の中でちらりと揺れた。
二ヶ月のインターンの最後の後ろ姿だった。
僕はその後ろ姿を目で追った。
追いながら、目頭がもう一度熱くなった。
しかし耐えた。
耐えた半秒の中で、胸の奥でもう一度つぶやいた。
……また、会おう。
寮に戻った。
机のノートを開いた。
今日の日付の下に最初の一行を書いた。
「鈴木さん、インターン最終日」
もう一行。
「『私、ヨキエルに、新卒で、来たいです』」
もう一行。
「『君には君の道がある。無理しないで』と返した」
もう一行。
「残り半分は、君自身が自分の手で温度を確かめてほしい」
ペンを止めた。
最後の一行を丁寧に書いた。
「未來さん、また会おう」
書き終えてから、その一行を目で追った。
ペンを置いた。
夏の終わり。
ノートを閉じた。
窓の外、八月の最終週の夜風が、薄く乾いて吹いていた。
明日からは九月。
二ヶ月のインターンの卓は、片付いた。
その卓の上に、鈴木さんが置いていった「私、ヨキエルに、新卒で、来たいです」の一行と、僕が返した「君には君の道がある」の一行が、ひそかに残っていた。
その二行の間の距離が、たぶん観察の三年目の輪郭だった。
その輪郭を、内心でもう一度撫でた。
ノートの脇にペンを置いた。
部屋の明かりを落とした。
夏は終わる。
しかし、終わったあとに残る温度は、たぶん再来年の四月までの一年半あまり、温め直されて、別の形で続きを書き始める。
その続きを、胸の内で信じた。




