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新卒エンジニア、観察ノートを開く(下巻) 道を、選び取る  作者: 音無 凪


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第74話「アユシュ、韓国行きの夏」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 八月の第三週、月曜日の朝。


 港川市は前夜から急に風が乾いていた。桜並木通りの葉桜は、まだ濃い緑だったが、葉の端が薄く色を変え始めていた。夏の盛りはたぶんもう半段、過ぎていた。


 ……アユシュくん、決めたのかもしれない。


 心の中で僕はそうつぶやいた。それから、MacBookを開いた。


 社内Slackの全社チャンネルに人事部から短い告知が流れた。


 「アユシュ・タパ氏(組込みチーム)、八月末日付で退職」


 その一行。


 日付と所属と本人の名前がいつもの人事の定型のフォーマットで並んでいた。


 僕は朝の九時十二分、自分の島で通知を開いた。


 画面の文字を二度、目で追った。


 同じ人事チャンネルの上の方に、この一週間で流れた別の告知も、まだ薄く残っていた。組込みチームの中堅の一人。名前は覚えていない。先週の月曜の午後に、静かに一行だけ流れた退職の告知。あの時、僕はアユシュくんのことで頭がいっぱいで、その一行の重みまでは、なぞらなかった。


 いま、上と下の二行が、同じチャンネルの上で近くに並んでいた。


 ……アユシュくん、決めたんだ。


 胸の奥でその一行を繰り返した。


 二年目の十一月、アユシュくんは僕に「日本に残るか、韓国に行くか、ネパールに帰るか」と三つの選択肢を並べた。「Research がしたい」と、いつもの日本語ベースに核心語の英語を乗せる、あの形で。二年目の終わりの三月、アユシュくんは最初のオファーを断って、あと一年やり切ると言った。


 あれから、また季節が回った。


 今日アユシュくんは三つのうちの真ん中を選んだ。その結果が人事のチャンネルに静かに置かれた。


 僕はノートを机の隅から引き出した。


 今日の日付の下に最初の一行を書いた。


 「アユシュくん、韓国行きを決定。八月末退職」


 書いてからペンを置いた。


 予感していた一行ではあった。けれど予感していた一行を実際に書くと、ペンの先が重かった。


 午後の早い時間、人事部の沢田さんから組込みチームとチームAに短い補足の連絡が流れた。研修員論文発表会は来年三月だが、アユシュは退職前の八月に簡易論文を社内ドキュメントに提出して発表会扱いとする、という一文だった。


 ……アユシュくんも、三年の論文を、八月までにまとめる。


 内心でその一行を確かめた。来年三月、社内の大会議室で僕が研修員論文発表会の三十分に立つとき、アユシュくんはもうソウルにいる。発表会の席にアユシュくんが並ぶことはない。けれど八月のこの簡易論文が、アユシュくんの三年の区切りとして、社内のドキュメントに静かに残る。


 


 昼休み、社員食堂でアユシュくんを見つけた。


 四人席の窓側にいつもの定食を前に座っていた。


 声をかけた。


「アユシュくん、隣、いい?」


「うん、どうぞ」


 アユシュくんは目を上げて、いつもの穏やかな顔で頷いた。


 僕は鯖の味噌煮の定食を盆に乗せて、椅子を引いて座った。


 息を整えた。


「人事のチャンネル、見た」


 短く運んだ。


「うん」


 アユシュくんは味噌汁の椀を持ち上げてから、卓の上に静かに戻した。


「韓国の AI スタートアップ。ソウルの Computer vision のチーム」


「うん」


「二年目の頃に蒼太に話した、あの会社です。一年と一ヶ月ずっと声をかけ続けてくれた」


「うん」


「一年と一ヶ月、私のほうも自分の手の中で温めた」


 アユシュくんは卓の上の箸を整えた。


「今月の頭に Final で『Yes』と返事をしました」


「Final、ね」


 短く返した。


 アユシュくんは口の端で薄く笑った。


「ほんとは Final って、もう半年前から心の中で決まってた、と思う」


「うん」


「でも胸の内で決まってからも、半年、自分の口で『Yes』と運ぶまで時間が必要だった」


「うん」


 その言葉は僕の中の何かに、静かに触れた。


 葉山さんもたぶん同じだった。心の中で決まってから自分の口で運ぶまでに半年ぶんの時間を要する種類の決断が、人によってはある。


 僕は鯖の味噌煮の身を箸で半分ほぐした。


「アユシュくん」


「うん」


「ネパールには帰らない選択、ね」


「いまは、ね」


 アユシュくんは穏やかに頷いた。


「韓国はネパールに近い。フライトの時間も文化の温度も。日本よりいま、近い」


「うん」


「いつかネパールに Research の場所を、自分で作りたい」


 アユシュくんは卓の窓の外を見た。


「いつか、です。Far future、まだ」


「うん」


「韓国で Research の足腰を、もう一段鍛える。画像と言語の境界、私の低リソース言語を Computer vision に接ぐ場所で」


 アユシュくんは卓の上に目を戻した。


「日本での三年、本当に学んだ。Research と実務の両方を組み立てる手のつけ方」


「うん」


「韓国はたぶん日本より Research 色が強い。実務よりも論文と Conference のほうに寄ってる」


「うん」


「私には合っている、と思う」


 短く運んだ。


 その「合っている」は、葉山さんの「ここじゃない」と同じ種類の、自分の手の中で温めて出した一行の温度だった。


 僕は箸を置いて頷いた。


「アユシュくん」


「うん」


「『合っている』を自分の口で運べる、というのは、たぶん三年の中でいちばん大きな到達点だね」


 アユシュくんは笑った。


「蒼太の言い方、いつもノートに書きたくなる」


「書いて」


「Memo します」


 アユシュくんは胸ポケットからスマートフォンを取り出して、Notes に何かを打った。


 そこで打たれた一行は、たぶんアユシュくん自身の言葉に翻訳された種類のものだった。それでよかった。


 


 送別会は八月末日に決まった。


 駅前の居酒屋・かいかんの座敷席を、人事の沢田さんが押さえてくれた。


 集まったのは九人。


 アユシュくんと、同期の残り五人、組込みチームの先輩二人、そして大沢マネージャー。


 僕は座敷席の手前から、卓の全員の顔を見渡した。


 組込みの先輩二人は、卓の中ほどに並んで座っていた。奈良崎さんと、吉住さんだった。奈良崎さんはたぶん三十歳前後、細身で長身、無地の紺のシャツ。吉住さんは僕より少しだけ年上の女性の先輩で、髪をひとつに束ねていた。二人とも、同期の集まりで一度か二度、顔を見た程度の距離。名前は組込みチームの島に貼ってあるチームカードで覚えた。それ以上の会話はほとんどしたことがなかった。


 奈良崎さんは、卓の上の割り箸をゆっくり手に取っていた。吉住さんは、目を、少しだけ伏せ気味にしていた。


 ……二人とも、いつもより、静か、な、気がする。


 胸の内で、僕はそう思った。


 組込みチームの同僚を見送る夜、というのは、たぶんそういう温度だった。僕は自分にそう言い聞かせて、それ以上は考えなかった。


 大沢マネージャーが、いた。


 ……大沢さん、来たんだ。


 胸の奥でつぶやいた。


 組込みチームのマネージャーである大沢さんは、一年目の頃から、いつも僕には少し冷たい気配の人だった。チームAの蒼太と組込みのアユシュくんという、所属の違いがあったから、というのもある。けれど大沢さんが組込みのメンバーの送別会に出てくるのは、たぶん想定の外側だった。


 卓の真ん中、瓶ビールが三本、すでにジョッキに注がれていた。アユシュくんのジョッキの中身だけ、いつものジンジャエールだった。


「乾杯」


 誰かの短い声で、九つのジョッキが卓の真ん中で音を立てた。


 


 卓の上でひと巡りの近況の交換のあと、葉山さんが最初に口を開いた。


「アユシュ」


「うん」


「韓国でも、日本のこと、忘れないで」


 葉山さんの声は、いつもの葉山さんよりも低かった。


「忘れない」


 アユシュくんは短く返した。


「蒼太、taught me about『観察』」


 アユシュくんはそう運んでから、僕のほうに目を向けた。


「韓国でも I'll observe、続けるよ」


「うん」


 短く返した。


 その「I'll observe」の一行は、一年目の十一月、寮のラウンジの隅でアユシュくんと僕が初めて「観察」という言葉を共有した、あの夜の延長線上にあった。


 僕はジョッキを傾けてから口を開いた。


「アユシュくん、観察、たぶん国境は関係ない」


「うん」


「ソウルでもネパールでも、半径3メートルの中の人を見る、という行為は、同じ温度で続けられる」


「うん」


「だから続けて」


「続ける」


 短く返した。


 アユシュくんの目が、少しだけ揺れた。


 しかし最後まで目を伏せなかった。


 


 黒木が珍しく長く話した。


 ジョッキを置いて腕を組んだ。


「アユシュ」


「うん」


「お前との三年、楽しかった」


 黒木の声はいつもの黒木よりも低かった。


「黒木」


 葉山さんが目を丸くした。


「珍しく長い」


「長い」


 黒木は短く返した。


「いまは長くていい」


 黒木はジョッキをひと口傾けてから、もう一行続けた。


「組込みの島、お前がいたから空気の温度が軽かった」


「うん」


 アユシュくんは穏やかに頷いた。


「黒木の島、いつも Light、軽い空気だった」


「軽い」


 黒木は短く返した。


「お前のおかげ」


 卓の上でふっと間が空いた。


 黒木の「お前のおかげ」、という一行は、たぶん黒木が同期の前で口に出した最大級の感謝の一行だった。


 その温度を内心で確かめた。


 


 大沢マネージャーが卓のいちばん隅でジョッキを置いた。


 いつもの低めの声が、卓の中央のほうに向けて運ばれた。


「アユシュ」


「はい」


 アユシュくんは姿勢を整えた。


「お前、よく頑張った」


 短く運んだ。


 卓の上で誰も補わなかった。


 大沢マネージャーの「よく頑張った」の一行は、たぶん組込みチームの全員がはじめて聞いた種類の温度だった。


「ありがとうございます」


 アユシュくんは深く頭を下げた。


「組込みの三年、大沢さんの下で組み立てさせていただきました」


「うん」


 大沢マネージャーは短く返した。


「韓国でも、よくやれ」


「はい」


 アユシュくんはもう一度深く頭を下げた。


 僕は隣で大沢マネージャーの目を、横から見た。


 大沢マネージャーの目はいつもの少し硬めの目だった。


 しかし最後の一段だけ、確かに何かがほぐれていた。


 ……大沢さん、こんな顔もできるんだ。


 胸の内でそっと頷いた。


 一年目の頃から大沢マネージャーには冷たさで距離を置かれてきた。その距離は、たぶん明日からも、誰に対しても、そう変わらない。それでも、今日のこの「よく頑張った」の一言だけは、本物に見えた。ごくまれに、波の下のほうから、こういう温度がひとつだけ、ぽろりと落ちることがある。それを、アユシュくんは、最後に受け取った。


 僕は、そこで、いったん胸の内の言葉を止めた。


 視線を、卓の中ほどの奈良崎さんと吉住さんの方に、半秒だけ向けた。


 二人の顔は、動かなかった。


 奈良崎さんは、割り箸を手の中で軽く回していた。吉住さんは、卓の縁のあたりに、目を落としていた。二人の口は、笑っていなかった。頷いても、いなかった。大沢マネージャーの「よく頑張った」の一行が卓の上を通り過ぎたあとの、その静けさの中で、二人だけが、少し、遠くに、いた。


 ……この場は、複層している。


 胸の内で、僕はもう一度、置き直した。


 大沢マネージャーの「よく頑張った」の温度と、卓の中ほどの、奈良崎さんと吉住さんの伏せられた目の温度が、同時に、ここに、あった。片方を信じたら、もう片方を見なかったことにするしかない、そういう類の複層だった。


 僕はまだ、その複層を、ひとつの結論に畳むことができなかった。


 畳まないまま、胸の内に、そっと、置いた。


 


 二時間半の宴は駅前の風の中でゆっくりと終わった。


 店の前で、九人が円のような形で並んだ。


「アユシュ、LINE、続けような」


 丸山くんが両手で何かを握る仕草をした。


「続ける」


 アユシュくんは穏やかに頷いた。


「韓国でも日本のこと、Slack じゃなくて LINE で、私的に」


「うん」


 杉本さんが丁寧に頭を下げた。


「アユシュさん、韓国でもお元気で」


「ありがとう、杉本さん」


 葉山さんがアユシュくんの肩に軽く手を置いた。


「アユシュ、ソウルでも、観察、続けてね」


「もちろん」


 アユシュくんは穏やかに頷いた。


「葉山も、ヨキエルで、続けて」


「うん、続ける。私の場所で」


「葉山、それは Good」


「うん、ありがと」


 葉山さんは軽く笑った。


「アユシュが行くと、同期、ばらけるね」


「ばらけても、半径3メートルの観察、続けられる」


 アユシュくんは穏やかに返した。


「蒼太が教えてくれた」


「うん」


 葉山さんは僕のほうに目を向けた。


「桐谷くんの半径3メートル、皆の中に染みてる」


「染みてる」


 黒木が短く返した。


 卓の隅で大沢マネージャーが笑った。


 その淡い笑いの中には、たぶん組込みチームの三年と、同期六人の三年の、両方の温度が乗っていた。


 


「蒼太」


 アユシュくんが僕のほうに体を向け直した。


「うん」


「最後に二人で、少しだけ話せる?」


「うん」


 円から二人だけ抜けて、店の前の街路樹の脇まで歩いた。


 夏の夜風が葉桜の影を揺らした。


 アユシュくんが息を整えた。


「蒼太、三年前、最初に私にフロアの島で声をかけてくれた」


「うん」


「一年目の十月の終わり。私、組込みチームで一人で止まってた。蒼太が私の島に来て、『アユシュさん、コードレビューに困ったら、いつでも声かけてください』と短く運んだ」


「うん」


「あの半秒、私たぶん、ヨキエルの三年でいちばん助かった半秒です」


 アユシュくんは目を僕のほうにまっすぐ向けた。


「Thank you、蒼太」


 短く運んだ。


 僕は息を整えた。


「アユシュくん」


「うん」


「あの十月、君の島に行ったのは、たぶん勇気が要った半秒だった。白瀬さんの『気になる人がいたら、半歩寄って』、という一行が、僕の中で貯金されていたから寄れた」


「うん」


「だからあの半秒の感謝、たぶん半分は白瀬さんに」


「白瀬さんの半分」


 アユシュくんは口の端でわずかに笑った。


「蒼太の言い方、いつも半分を誰かに分けてくれる」


「うん」


「韓国でも、その半分の分け方、続ける」


「続けて」


「続ける」


 短く返した。


 アユシュくんは深く頭を下げた。


 頭を下げたあとで顔を上げて、もう一行短く運んだ。


「蒼太、また会おう」


「うん、また会おう」


 短く返した。


 


 桜並木通りを寮の方向へ歩いた。


 八月末日の夜風。


 葉桜の影はもう、夏の終わりの少し乾いた気配に傾き始めていた。


 歩きながら、胸の奥でアユシュくんの「韓国でも I'll observe、続けるよ」の一行をもう一度なぞった。


 観察は国境を越える。


 半径3メートルは、たぶんソウルでもネパールでも東京でも港川でも、同じ温度で組み立てられる。


 その一行を内心で置いた。


 


 寮に戻った。


 机の上のノートを開いた。


 今日の日付の下に最初の一行を書いた。


 「アユシュくん、卒業」


 書いてからペンを止めた。


 「卒業」と書きたかった一行が、自分の手から出た。


 書き終えてから、もう一行丁寧に書いた。


 「韓国でも I'll observe、続けるよ、とアユシュくんが置いた」


 もう一行。


 「観察は、国境を越える」


 もう一行。


 「同期六人、ばらけ始める」


 ペンを置いた。


 四行を目で追った。


 四行の中の三行目「観察は、国境を越える」をもう一度目でなぞった。


 たぶんこの一行は、僕がアユシュくんから今夜受け取った種類の一行だった。三年前、一年目の十一月、僕がアユシュくんに「観察」を渡した。それから一年と九ヶ月、アユシュくんはその「観察」を自分の中で温めて、韓国に持っていく一行に育てた。


 そして今夜、その育った一行を僕に返してくれた。


 継承は片方向ではない。


 その一行をノートの最後にもう一行書いた。


 「継承は、片方向ではない」


 書き終えてからペンを置いた。


 ペンを、もう一度、握り直した。


 最後の一行を、丁寧に足した。


 「今夜、卓の中ほどに、奈良崎さんと吉住さんの、伏せられた目があった」


 書いてから、その一行を目でなぞった。


 書いてはみたけれど、その一行を、いま、うまく畳むことはできなかった。畳めないまま、僕はその一行を、ノートの下に、そっと置いた。


 書き終えてからペンを置いた。


 ノートを閉じた。


 窓の外、八月末日の夜風が薄く乾いて吹いていた。


 明日からはもう九月の準備の気配。


 夏は終わる。


 同期六人のうち、ひとりが卓の外に動いた。


 卓の外に動いたひとりは、たぶん卓の上の半径3メートルとは違う、ソウルの半径3メートルの中で、今夜と同じ温度で観察を続けるはずだった。


 その続きを、胸の内で信じた。


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