第73話「未來が見る、同期六人の素顔」(インタールード⑩)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、鈴木未來の視点で描かれています。
八月第二週の金曜の夕方。
港川市の駅前。
居酒屋・かいかんの暖簾の前で私は立ち止まった。
暖簾の白い布が夏の夜風にゆるく揺れていた。
二ヶ月のインターンも残り半月。今夜は桐谷さんが「同期で集まる飲み会、未來さんもよかったら」と誘ってくれた日だった。
社員食堂で何度か顔を合わせた葉山さん、黒木さん、アユシュさん、丸山さん、杉本さん。名前と所属はもう覚えていた。けれど揃って同じ卓を囲むのはたぶん今日が初めてだった。
暖簾の前でもう一度息を整えた。
……皆さんはもう三年目。私はまだ大学三年生。
頭の中でその差を撫でた。
差を撫でたあとで観察日記のページを心の中で開いた。桐谷さんが私のノートをそう呼んでくれた、あのノートの新しいページだった。
今夜の見出しを心の中で書いた。
「桐谷さんの同期、六人の素顔」
書いてから暖簾をくぐった。
奥の座敷席にもう五人が揃っていた。
桐谷さんが手前で立ち上がって、私を奥の壁際の席に通してくれた。
「未來さん、こっち。壁側のほうが落ち着くと思って」
「ありがとうございます」
短く返した。
壁を背にして座ると、卓の全員が正面に並ぶ形になった。
葉山さんが私のほうに身を傾けた。
「未來ちゃん、今日は私たちの素顔、見にきたんだよね?」
軽い口調だった。
葉山さんの声は社員食堂で何度か聞いたあの声よりもほぐれていた。
「素顔、というか」
私は言葉を探した。
「皆さんの三年前を聞いてみたくて」
卓のあちこちで小さな笑いが起きた。
黒木さんが瓶ビールを傾けてジョッキを満たしながら、口の端で薄く笑った。
「三年前」
短く置いた。
「思い出したくない」
葉山さんが軽く突っ込んだ。
「黒木、出た出た、その省エネ返事」
また小さな笑い。
桐谷さんが私のジョッキにウーロン茶を注いでくれた。
「未來さん、二十歳だけど、インターンで預かってる間だから、今夜はウーロン茶で」
「はい」
短く返した。
桐谷さんは細かいところでいつも先回りしてくれる。今夜のジョッキの選び方も私の躊躇をたぶん見ていた。
ジョッキの縁を指で撫でてから、卓のほうに目を戻した。
「じゃ、乾杯」
桐谷さんが軽くジョッキを上げた。
五つのジョッキと、アユシュさんのジンジャエールと、私のウーロン茶が、卓の真ん中で音を立てた。
「乾杯」
全員の声がひとつに重なった。
ひと口ウーロン茶を含んでから息を整えた。
「あの」
短く置いた。
卓の全員が目を私のほうに向けた。
「皆さんに聞きたいことがあって」
「うん」
桐谷さんが短く返した。
「皆さんの三年前、新人だった頃のこと」
「いま、こうやってお仕事で皆さんとお話しさせてもらってると、皆さんもう完成された大人に見えます。コードもちゃんと書けて、お客様の前でもちゃんと話せて」
「でも三年前、皆さんも新人だったのですよね?」
短く置いた。
卓の上でふっと間が空いた。
その間の中で五人がそれぞれ目線を横にずらした。
葉山さんが最初に口を開いた。
「未來ちゃん」
「はい」
「うちらの三年前の新人時代のドジ話、聞きたい?」
葉山さんは口の端で笑った。
「私から行こうか」
葉山さんはジョッキを置いて腕を組んだ。
「私、入社して最初の月、議事録係でね」
「はい」
「会議の終わったあと、議事録をSlackに上げる役なんだけど」
「最初の会議が二時間。私、必死でメモして、終わってから議事録を書こうとして、はたと気づいたの」
「はい」
「メモが半分、自分しか分からない記号で書いてある」
葉山さんは笑った。
「『△→○』とか『例の件、Y田』とか、当時の私にしか読めない」
卓の全員が笑った。
「で、私、トイレで五分泣いた」
葉山さんはあっさり置いた。
「議事録係で泣いた女、私だよ」
「葉山さん」
私は笑いながら頷いた。
「分かります、その温度」
「うん、未來ちゃんもたぶんいつか同じ目に遭うよ」
葉山さんは軽く笑った。
「黒木、次行く?」
黒木さんがジョッキを軽く置いて腕を組んだ。
「俺は」
短く置いた。
「配属の初日、昼飯の行き方が分からなかった」
「はい?」
「フロアの島で十二時になって、皆が一斉に動き出して、俺だけ椅子に座ってた」
「はい」
「研修の三週間は六人で食堂に行ってた。配属先の島では、隣の先輩に『ご一緒していいですか』って言うか、黙って後ろをついていくか、五分迷って、結局自販機でカロリーメイト食って終わった」
卓のあちこちで笑いが起きた。
「黒木、それ初耳」
葉山さんが笑いながら言った。
「言ってない」
黒木さんは短く返した。
「三年、初日のあれ、誰にも言ってない」
「未來ちゃんの前で初公開じゃない」
葉山さんがくすりと笑った。
「初公開」
黒木さんはジョッキをひと口傾けてから、また短く返した。
「未來さん、昼、一人で食ってない?」
「はい、香織さんたちが誘ってくださいます」
「うん、いい」
黒木さんは口の端でわずかに笑った。
「俺の三年前よりちゃんとしてる」
卓の上でまた笑い。
「次、私かな」
アユシュさんがグラスを置いて笑った。
「私の初日、Big mistake、ひとつ」
アユシュさんの口調はいつもの日本語ベースに最後の一句だけ英語を乗せる、あの形だった。
「うちのフロア、夕方の五時半に皆『お疲れさまでした』って言うでしょう」
「はい」
「私、初日、五時半にフロアで『お休みなさい』って言った」
卓の全員が止まった。
「お休み……」
葉山さんが口を半開きにした。
「Afternoon に、です」
アユシュさんは穏やかに頷いた。
「お疲れさま、と、お休みなさい、頭の中で混ざった。You know、ネパール語にもないし英語にもないし、日本語の挨拶、ニュアンスがちょっと複雑で」
「アユシュさん、それ、フロアの皆さんはどう反応されたのですか」
私は笑いながら聞いた。
「白瀬さんが一瞬だけ目を上げて、それから『はい、お疲れさまでした』って返してくれた」
アユシュさんは目を細めた。
「白瀬さん、訂正しなかった。普通の温度で自分の挨拶をちゃんと返してくれた」
「白瀬さん、いつもそういう人ですよね」
桐谷さんが頷いた。
「うん、白瀬さん、いつも」
アユシュさんは短く返した。
「未來さん、白瀬さん、in your team、ですよね」
「はい、白瀬さんに教えていただいてます」
「Lucky です」
アユシュさんはグラスをひと口傾けて、私のほうを優しく見た。
「白瀬さんの落ち着き、長く自分の中に持って帰って」
「はい」
短く頷いた。
頭の中で、一年目の桐谷さんに白瀬さんが置いた二十二件のレビューの話を思い出した。桐谷さんから聞いた、あの一行だった。
観察日記の新しいページに胸の奥で一行書いた。
「白瀬さん、Lucky です、とアユシュさんが言った」
「俺っす! 俺、次、行きます!」
丸山さんが手を挙げた。
丸山さんの声は葉山さんよりも明るかった。
その丸山さんの椅子の脇に、黒いリュックが立てかけてあった。ファスナーの引き手に、小さな、まるいねこのキーホルダーが揺れている。日に焼けた、がっしりした人の持ち物なのに。意外で、私は、ほんの少し、目を留めた。
私の視線に気づいて、葉山さんが笑った。
「それね、丸山くん、一年目からずっとつけてるの。トラックの運転席に飾ってた名残なんだって」
「もう三年っす。相棒っすから」
丸山さんが、ねこを指でちょん、と揺らした。強面の人の、その仕草だけが、やけにやわらかかった。それから、にっと笑って、本題に戻った。
「俺、入社して二週間目、Slackで全社チャンネルに私信を誤投稿しました」
「えっ」
葉山さんが身を乗り出した。
「全社、何人?」
「百人ちょっとっす」
「丸山くん、それ何書いたの」
「『今夜八時、駅前のかいかんで』っす」
「丸山くん」
葉山さんが笑いながら頭を抱えた。
「業務にあんま関係ない私信を業務の百人ちょっとの前で配信したわけ」
「はい、その通りっす」
丸山さんはあっさり頷いた。
「諏訪さんから半秒後にDMが来て、『丸山くん、それ、Slackの#generalですよ』って」
卓の全員が声を出して笑った。
「で、翌日、寮で小林さんに会ったら『丸山くん、おめでとう、君のは「ぎゅっと」と唐揚げコーヒーに並ぶ、ヨキエル誤投稿伝説の第三章ね』って言われたっす」
「小林さんの伝説、まだ生きてたんだ」
葉山さんが笑いながら言った。
「俺、入社二週間で、もう伝説の第三章っす」
「諏訪さん、優しい」
葉山さんが笑いながら言った。
「うちの諏訪さん、本当に、私信誤投稿の新人に温度を一段下げてDMで教える人」
「諏訪さんのその所作」
私は頷いた。
「観察日記に書いてあります」
卓のあちこちで小さな笑いが揺れた。
「未來ちゃん、観察日記、つけてるんだ」
葉山さんが目を丸くした。
「桐谷さんがつけ方を教えてくれました」
「桐谷くん、あんた、新人の指導、もう丸ごと自分のスタイルできてんじゃない」
葉山さんは桐谷さんのほうに振り向いた。
「ぴくっとしないでよ」
「ぴくっとしないですよ」
桐谷さんは穏やかに返した。
その短い往復の中で桐谷さんの目が柔らかかった。
「私もドジ話あります」
杉本さんがジョッキを置いて姿勢を整えた。
杉本さんの声は丸山さんよりも丁寧だった。
「私、未経験で入社して、最初に書いたコード、コピペで動かなかったのです」
「はい」
「先輩のサンプルコードを半分コピペして、自分の書きたいところだけ自分で書いて、動かしたら全部エラー」
「エラーメッセージが英語で十五行」
「うん」
「私、英語の最初の単語『Uncaught』を辞書で引きました」
卓の全員が止まった。
「辞書」
葉山さんが目を見開いた。
「『捕まえ損ねた』と書いてありました」
杉本さんは真顔で続けた。
「私、メモに『捕まえ損ねた、何を?』と書きました」
卓の上でふっと間が空いた。
その間のあとで丸山さんが一番大きく笑った。
「杉本さん、それ、Uncaught Error、っす」
「丸山くん、いまは分かります」
杉本さんは口の端でほんの少しだけ笑った。
「黒木さんがその日に教えてくださいました」
「教えた」
黒木さんは短く返した。
「あれ、教えた、というか、巻き込まれて隣で半時間、エラーログ一緒に追った」
「黒木さん、ありがとうございました」
「うん」
黒木さんは短く頷いた。
杉本さんが卓の上で頭を下げた。
「未経験でここまで来られたのは、皆さんが半秒ずつ教えてくださったから」
「未來ちゃん」
葉山さんが私のほうに向き直った。
「分かった? うちら皆、ひどかった」
卓の上でまた笑い。
「皆、ひどかったんだ」
私は笑いながら頷いた。
「私も絶対そうなりますね」
「うん」
桐谷さんが私のほうに頷いた。
「絶対なる」
「桐谷さん、フォローして」
「フォローはするけど」
桐谷さんは口の端でほんの少しだけ笑った。
「未來さんが自分の手で立ち上がるところは、君の手の中にあるから」
「はい」
短く返した。
桐谷さんの言い方の最後の温度を、頭の中でそっと撫でた。
私が自分の手で立ち上がる。
その一行を観察日記の新しいページの中央に、内心で大きく書いた。
「未來ちゃん」
葉山さんがジョッキを置いて、私のほうに身を傾けた。
「ヨキエル、悪い面もあるよ」
「はい」
「合わない仕事に当たる時期もある。合わなくて、抜ける人だっている」
葉山さんは静かに置いた。
卓の上でふっと間が空いた。
「完璧な会社なんて、たぶん、どこにもない」
「はい」
「だから未來ちゃん、ヨキエル、いい面ばかりじゃないよ」
「はい」
「でも」
葉山さんは卓の全員を見渡した。
「いい人は、いる」
短く置いた。
「桐谷くん、黒木、アユシュ、丸山くん、杉本さん。たぶん未來ちゃんが新卒で入って配属される島には、これくらいの温度の人が一段ずついる」
「はい」
「桐谷くんに会えたら、未來ちゃんは大丈夫」
葉山さんは短く運んだ。
卓の上で誰も補わなかった。
補わなくていい一行だった。
桐谷さんがジョッキを傾けてから、私のほうに目を戻した。
「未來さん、葉山さんの言い方は大袈裟だから」
桐谷さんは穏やかに返した。
「でもヨキエルにいるいい人は、たぶん葉山さんとここの卓の五人と、白瀬さんと諏訪さんで、半分くらいです」
「桐谷くん、その『半分』、控えめ」
葉山さんが突っ込んだ。
「半分、です」
桐谷さんは穏やかに返した。
「もう半分は未來さんが、自分の目でこれから見つけてください」
「はい」
短く返した。
桐谷さんの「半分は未來さんが自分の目で」、という言い方の中に、押し付けない優しさがあった。
観察日記の新しいページにもう一行、胸の内で書いた。
「桐谷さんは半分しか教えてくれない。残り半分は私が自分の目で見にいく」
帰り道。
駅前から桜並木通りを少し歩いた。
夏の夜風が葉桜の影を揺らした。
桐谷さんが私の半歩先を歩いていた。
「桐谷さん」
短く呼んだ。
「うん」
「私、ヨキエルに新卒で来ます」
短く置いた。
桐谷さんは立ち止まって振り向いた。
街灯の光が桐谷さんの目に薄く落ちた。
「未來さん」
「はい」
「いまの一行は、預かっておくよ」
桐谷さんは穏やかに返した。
「君には君の道がある。他の会社も見て、それでもここに来たいと思ったら、来てください」
「はい」
「預かっておくから、残りの二週間半でもう一度、自分の手の中で温め直してほしい」
「はい」
短く頷いた。
桐谷さんの「預かっておく」の温度が、夏の夜風の中で優しく揺れた。
観察日記の新しいページのいちばん下に、心の中で最後の一行を書いた。
「皆さん、三年前は新人だった。私の三年後の輪郭が今夜見えた」
書き終えてから桐谷さんの背中を見た。
桐谷さんは私の半歩先を、いつもの落ち着いた速さで歩いていた。
その半歩の距離が、たぶん、半径3メートルの中のいちばん近い距離だった。
夏の夜風が、もう一度、私の頬を撫でた。




