五話:伝わる熱
汚い思考が流れ込んでくる。白いシーツの上。劣情を塗り固めた本能のままの欲望を、全身から発する下劣で下卑た雄の。内側から漬け込まれる感触に、毎回不快感で戻しそうになる。それでも半身を抑えつけられたまま受け入れているのは、落ち着くから。どれだけ近づいても、相手は欲の発散しか考えていない、相手は爽真のヨがる姿、甘える姿、時には痛がる姿しか、望んでいない。
ああ、なんて楽なんだろう。ちょっと僕が擦り寄るだけで舌なめずりする紳士達。自分の力なんて使わなくても勝手にその気になって僕で遊ぶ。誰も僕を拒絶しない、つきとばしてこないし、やかんを投げてくることも、包丁をむけてくることもしない。自分は少し加減しながら相手の望みに応えて、欲のままに組み敷かれる道具であればいい、楽しませる道化であればいい、なんて。ああ、なんてラクなんだろう。なんて、なんて。もっと早くにこのやり方を知っていれば、
僕は両親を壊さなかったのに。
心を読む能力を持った爽真という奇怪な息子を、受け入れられなくなった爽真の両親は育児放棄した。そんな両親から、祖父が爽真を引き取り、精神崩壊を起こしていた両親を精神病院に送った。ただあの老人の脳内は金ばかりだった。爽真への優しさも、子どもらしくない振る舞いばかりで黙ってばかりの爽真に対する、不気味さ故のもの。無知の爽真には向こうの方が気味悪かった。みんな自分と同じだと思っていた、『わかる』ものだと思っていた、そんな爽真の方が何も、わかっていなかった。
学校に行くようになって、周りから何度も拒絶の言葉を浴びせられ続けて、それに対して言葉ではなく暴力でこちらからも拒み続け、そうしていた末にやっと知った。みんな、『わからない』ということ。人の心が読めるのが異常なのだと、自分だけが異常なのだと知った。その上、爽真は気づくのが遅すぎた。爽真は両親に対して、嫌われたくない一心で無意識に力を使っていたらしい。『嫌わないで』という身勝手な望みを両親にぶつけ続け、向こうは謎の精神への侵食から己を守るため、無意識に心が自己防衛し続けた、その矛盾が、両親の心を壊した。
僕が、両親を『ころした』。
照明の落された薄暗い部屋で、汚い手に触られるこの時間が、一番ラク。この行為に溺れていれば、爽真は誰も傷つけずに済む。僕はこうしてる間が、一番ラク、だったのに。
今日も帰ったら、南がいるんだろうか。南が僕を抱きしめるんだろうか。声で、肌で、温度で、伝えてくるんだろうか。なぜ。どうして。どうしてお前は、
「マコト君、なにか考え事?」
爽真の偽名を呼んでくる相手に悪寒がする。少し不満気味な相手の、本能のままの。この感覚があるから落ち着くんだ、なのに、今の僕は、
『そーちゃん』
「……なんでも、ない……ねぇ、もっとイイコト、して?」
「欲しがりだね、マコト君は。」
「……きらい?」
「いいや? おねだり上手な子は好みだよ。」
気持ち悪い汗のぬめり、気色悪い口端の歪み、それで、よかったのに。だって知ってしまったんだ、こんなところよりずっと柔らかくて、あたたかい場所を。こいつらの欲望と同じくらい真っ直ぐで、偽りなく僕の核に染み込んでくるのに、恐ろしいほどに穏やかな情を。そして僕なんかよりずっと、道化でい続けていた、男のことを。
果たして、道化でいることで安心を覚える人間と、道化でいることが生きる方法だった人間と、どっちが悲しい生き物なんだろう。
なぁ……南。
昼下がりのスーパーは、どこかのんびりした空気に包まれていた。母親に手を引かれる男の子とすれ違う。カートを押す南の隣で、爽真は買い物メモを片手に歩いていた。この距離感にも、ようやく慣れてきた。以前はただ南の後ろをついていくだけだったのに、今は隣に並んで歩けている。
「お、きゅうり安いやん。塩揉みにしよか。」
「いいかも。僕も……あれ好き。」
そんな、なんてことないやり取りが、今は妙に嬉しい。ふたりで並んで夕飯を選んでいるだけ。それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなる。
もう一度、ここに戻ってこられてよかった。
そう思う。でもそのたびに、ふと怖くなる。
僕は、ちゃんと『隣にいる南』を守れてるんだろうか。
振り返れば、南はいつも僕のことを受け入れてくれた。でも、僕は南のすべてを、受け止められているだろうか。わからない。他者に受け入れてもらえなかった年月が長すぎて、逆にこちらが受け身になる状況なんて、考えもしていなかった。
「……南、これ、前も買ったよね。好きなんだ?」
「ああ、そうやね。……なんか、食べやすくて落ち着くけぇ。」
何気ない答え。けれど、その笑顔の奥が少し曇って見えたのは、気のせいだろうか。
気づけてるつもりで、また見落としてることがあるのかもしれない。
静かで、穏やかで、優しいような、ナニカ。南から爽真に対して流れ込んでくる感情。でも、その中に冷たいナニカも混じっているようだ。南も何かを抱えて、言葉にできずにいるのかもしれない。感じ取れる南の心の中は、今のところ穏やかだ。それは自分がいるからでもあるということ、爽真は自惚れも甚だしいと思いながらも、自覚せずにはいられなかった。南も僕のことを必要としてくれている。そう思えるのが、切ないほど、胸を締め付けて……。
「そーちゃん?」
名前を呼ばれて、はっとする。手に取ったままの野菜をぼんやり見つめていたらしい。
「……ごめん、ちょっと考えごとしてた。」
南はそれ以上は聞かなかった。ただ、代わりにカートの中に野菜を入れて、歩き出す。
その背中が、少しだけ遠く見えたのはどうしてなのか。わからなかったが、爽真は今考えても仕方ないと南の隣に寄ることにした。
「相手の気持ちが流れ込んでくるって言っちょったよね。」
夕飯を食べ終わったあとのリビング。ソファに座ってぼんやりしていた爽真に、唐突に南がそう言った。
「触れると特に、って。」
爽真が隣を見れば、静かに南が爽真を見ていた。否定する意味はなかったから爽真が頷けば、南が爽真の手を取った。爽真はびくりとしてしまいながら、相手は南だと自分に言い聞かせつつ、ゆっくり力を抜いた。手先から流れてくる温かい感情。南が爽真にだけ伝えてくる、出会った時と変わらない熱。
「こうしたら……もっとはっきり伝えられるん?」
南が爽真の手から腕をすぅっと撫でる。その流れで肩を押された爽真は抗わずにソファに倒れた。覆い被さってくる南が爽真の頬を包む。爽真はドキドキしていた。思えば、抱きしめられたことはあれど、南が積極的に爽真の肌に触れてくることは今までなかった。
すると何が起きたのか、南から流れてくる思考が変質した。熱くて、暗くて、重くて、こちらを縛りつけるようでありながら、不快感はない、それはそう、『独占欲』というのが正しいソレ。
「なぁそーちゃん。」
爽真はその呼びかけにこもった温度を感じて、背筋が震えた。腹の奥まで響いてくる南の感情、否、欲求。耐えきれず息を吐いた。南が見つめてきている。南が僕を見ている。爽真は昂らされていた。性行為とは程遠いはずのシチュエーションなのに、爽真はソレよりずっとイイ気分になっていた。
「ぁ、ふ、」
「……これも、伝わっちょるん?」
「っ、ん、つたわ、ってる、」
爽真の頬は赤みを帯びていた。熱い吐息をこぼしてしまう。そんな爽真の鼻先に、南は小さくキスをした。波紋が広がる。心地のいい温度が、伝わる。
「み、なみ、ぃ……」
その声が消えるかどうかのタイミングで、ふたりは互いの口にキスをし合った。爽真が南を引き寄せたのが先か、はたまた南が爽真に食いついたのが先か。どちらからなのかもわからないようなキスを繰り返した。足りないと思いながら、埋め合いながら、満たされながら。南から爽真に伝わる感情は穏やかなのに、苛烈な熱量を伴っていて。爽真は受け止めるのに精一杯だったが、自分からも返したい一心で南に縋りついた。
やっと離れた時、南は満足そうに笑っていた。爽真がつられて笑ってしまうと、南が爽真を抱きしめた。伝わってくるのは、歓喜。
「ああ、そーちゃん、俺今すごく嬉しいわ。」
「なん、で?」
その時、爽真は一瞬、南から冷たいものが走ったような気がした。だがすぐに消えたソレを爽真が考え込むより前に、南は言った。
「そーちゃんに出会えてほんまによかったって意味。ありがとな、俺と出会ってくれて、ありがとう。」
その言葉、南が本心から言っていることが伝わってくる。その奥に少しだけ、これは……悲しみ? そんなものがあるように思えたが、それよりも南の言葉が照れ臭くて、爽真は身じろいだ。だがそうしてるだけじゃダメだと思った爽真は、照れ臭さを押し除けて言った。
「……僕も、南に会えてよかったと、思ってる、」
恥ずかしさが勝って呟くようになってしまったが、それでも南には伝わったらしい、南がふは、と笑った。それが嬉しくて、爽真は南を抱く腕を強めた。この時間がいつまでも続けばいい。いつまでも……そう思いながら。




