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最終話:ふたりで

 爽真は体を売ることが減った……いや、売らなくなった。南との日々が、やっと現実味を帯びてきたような、少なくとも以前の爽真ではあり得ない心境の変化で、誰かと寝るのではなく、『南といること』が、爽真の中に安定と安心をもたらしていた。必然的に南の家にいる時間が長くなり、爽真は仕事に出て行く南を見送り、帰ってくる南を出迎えるようになった。南のそばにいることも多くなり、爽真は改めて、南の隣が居心地のいい場所だと知った。南の隣にいると、南の温かい感情が伝わってくる。そうして南と目が合って、気恥ずかしくなって爽真が目を逸らすのを、南が微笑む、なんてことも増えた。

 だが、一番南の近くにいただろう爽真であっても、ソレに気づくことはできていなかった。

 その日の夜、眠っていた爽真は不意に目を覚ました。気配がない。バッと隣を見れば、眠る前にいた南がいない。爽真は、足音を殺して部屋を出た。家の中は静まり返っていて、まるで時間だけが止まってしまったようだった。リビングにもキッチンにも南の姿はなく、トイレも空だった。


 どこ? 外……?


 焦燥が喉の奥をじわじわと這い上がってくる。まさか、という言葉が頭をよぎるのを打ち消すように玄関に向かう。すると、扉の向こうからかすかに気配を感じた。靴はそのまま。鍵も開いている。おかしい、と思わせる雰囲気を察知して、爽真がドアを開けると、マンションの共用廊下の奥にひとり、うずくまる背中が見えた。


「……南、」


 小さく名を呼ぶと、その背中がぴくりと震えた。近づくと、南は壁にもたれたまま座り込んでいて、顔を手で覆っていた。


「どうしたの……? ……しんどい?」


 ゆっくりとしゃがみ込む。夜風が冷たくて、爽真の声も少し震えていた。南は動かない。深層意識の更に奥、グロテスクな傷が南の意識下に上がってきそうになるのを見るのは初めてではなかった。想起を拒む南の心が抑圧して、苦痛のあまり泣き始めている南の、心の奥の子ども。時折南から感じる冷たい感情の正体はその傷。でも今回は……爽真はなにか大変なことが起きていると察した。

 やがて、南は顔を上げた。目元が赤い。泣いていたのだと、すぐにわかった。


「……ごめん、起こしたな、」

「そんなこと、いいよ。でも、なんでこんなとこで……」

「……俺さ、何やってんやろって思って、」


 南の声は掠れていて、それでも絞り出すように続けられた。


「そーちゃんが俺のこと頼ってくれるの、ほんま嬉しくて。毎日一緒におれて、幸せやった。でも、それに甘えすぎちょった。……俺、お前の支えになれちょるんかなって、ふと、思って……怖うなった、」

「なんで、そんなこと……」

「わからん。でも、時々襲ってくる。俺はただ、そーちゃんが欲しいだけで、そーちゃんのことほんまに守れてないんちゃうかって、」


 その言葉の裏にあったのは、深い不安と、自責と、孤独だった。それは、自分の知らないところで南がずっと苦しんでいたとわかる言葉。爽真は息が詰まった。でもそっと南の手を取った。触れている箇所から南の心の荒れが伝わってくる。その荒みが少しでも落ち着くように、爽真は言った。


「南がいてくれるだけで、僕は……救われてるよ。」


 南はかすかに震えながら、ぎゅっと爽真の手を握り返した。目の奥に残る涙の痕が、月明かりに照らされていて。南は静かに、少しだけ顔を伏せる。爽真はそばに膝をつき、南の肩に自分の額を寄せた。


「……僕ね、前は自分なんかいなくてもいいって思ってた。誰かに必要とされたことなんてなかったし、信じてもらえるなんて思ってなかった。でも、南がそばにいてくれて、少しずつ変わってきた。南が僕のこと、大事にしてくれるから……僕、今ここにいられる。」


 小さな吐息が夜に溶けていく。南に伝わるように、大事に大事に、言葉を紡いだ。


「南こそ、僕にとっての支えだよ。」


 その言葉を聞いて、南がやっと顔を上げた。涙の痕が乾いて、目元にまた新しい雫が浮かんでいた。


「……なんでやろな。お前にそんなこと言われると、嬉しすぎて、逆に泣けてくるんよ……」


 南はふ、と笑った。弱々しくても、確かな笑みだった。その顔を見て、爽真も少しだけ微笑んだ。


「戻ろっか。……寒いでしょ。」

「うん……」


 ふたりはゆっくりと立ち上がり、つないだ手を離さずに部屋へ戻る。静まり返った部屋に戻ったあと、ベッドに並んで横になりながら、南がぽつりと呟いた。


「なぁそーちゃん、もし……俺が崩れそうになったら、支えてくれる?」

「もちろん。今度は絶対、見落とさない。」


 南が抱きしめてきた。腕の中で、南の感情がまた流れ込んでくる。それはさっきまでとは違う、安心と信頼の温度で。


「おやすみ、そーちゃん。」

「うん、おやすみ、南。」


 そうやって言い合える幸せを、ふたりは噛み締めていた。





 朝。カーテンの隙間から差し込む陽の光が、まどろみの中の爽真をゆっくりと現実に引き戻した。隣では、南がまだ静かに眠っている。胸が上下するたびに、安堵のようなものが胸に広がっていく。


 自分は、今ここにいる。


 昔の自分なら、こんな朝を迎えるなんて想像もしていなかった。

 誰にも期待せず、誰かを信じることなんて馬鹿らしいと思っていた。ただ利用されて、ただ消費されて……それが自分の価値だと思っていた。


 それが、今。こうして南と一緒にいて、穏やかな時間を大切に思えている。南の言葉に救われ、南の笑顔に心が動く。

 そんな風に『誰かを信じたい』と思えるようになった自分がいる。


 大切にしたい。


 そう思える人ができた。信じてみたいと思える気持ちを、今度こそ手放さずにいたい。

 ふと、南が目を開けた。まだ眠たげな顔で、爽真のほうを見て、かすかに笑う。


「……おはよう、そーちゃん。」

「おはよう、南。」


 言葉は短い。でも、それで十分だった。大切なやりとりだった。

 キッチンでふたり分の朝食を用意して、並んで座って食べる。南が箸を進める様子を眺めながら、爽真は静かに息をついた。すると南が「なぁそーちゃん。」と言うから。


「……何?」

「そーちゃん、俺と一緒に生きん?」


 箸の手を止めた。聞き間違いか? 幻聴? 否、それは聞き間違えではなかった。爽真が見やれば、南はいつもと変わらない、穏やかな表情で爽真を見つめていた。静かで、穏やかで、優しくて、それで、重い。爽真にだけ向けてくるこのナニカは、きっと。


「僕と?」

「そーちゃんと。」

「南?」

「うん。」

「……一生?」

「一生。」


 爽真は胸がいっぱいになった。言葉にする時間が惜しいほどに。だから南の手を取った。久しぶりだったがやり方はわかっていた。ただ少しだけ、伝えたい言葉の背を押すだけ。


「っ!」


 南が驚いた顔をする。爽真が南の手を介して感情を伝えたからだ。嬉しいという、純粋で、偽りなくて、何者にも邪魔されたくない感情を、直接。


「僕の、本心……伝わった?」

「……そうやねぇ、めちゃくちゃ嬉しいよ? 俺も。でも……やっぱ言葉にもして欲しいなぁ。そーちゃん、返事聞かせて?」

「っ……あー、もう、こちらこそ、その、一緒にいたい、僕だけを見て欲しい、僕だけに触れて欲しい、僕だけにその感情を、向けて欲しい……南。」


 そう言えば、南は顔を手で隠すようにして少しそっぽを向いた。爽真が覗き込めば、耳元が赤かった。


「南、照れてる?」

「ああもう、敵わんなぁ……伝わってくるから余計こそばゆいわぁ。そういうところもな、だぁいすきよ、そーちゃん。」


 ちゅ、と頬にキスされてびっくりする。南からも伝わってくる。変わらない情が、少々高揚感を伴いながら、あたたかい温度で。


 嗚呼、今日が、はじまっていく。


 この日々が続く保証はない。でも、信じたいと思った。誰かと生きるということの、難しさと、愛しさを。それらを、噛み締めながら。


 仕事へ向かう南を見送りながら、爽真は言った。


「……いってらっしゃい。」

「うん、いってくる。」


 ふたりの歩幅は、ゆっくりと、でも確かにそろっていく。



 ひとりきりだった夜を越えて。


 ふたりで、歩いて行く。




―― fin.

いかがだったでしょうか。

心の声が聞こえても理解できなかったらどんな話になるだろうと思いながら書いていました。

よければ感想ください。今後の糧にさせていただきます。

それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

かしの あき

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