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二話:変わらないぬくもり

 あの夜、何もせずにただ眠っただけのことを、爽真はずっと忘れられずにいた。


 あんな夜は、もう二度と来ないと思ってたのに。


 数日経って、迷った末に南の家まで来て、インターホンを押したのは自分でも信じられなかった。ドアを開けて「ん、入りぃ。」と言ってきた南にも驚いた。マジかよ、赤の他人をこうも簡単に家にあげるのか。自分から訪ねに来たくせに、爽真は南を警戒していた。だが南にはそんな素振り少しもなかった。南は爽真がちゃんとご飯を食べているかとか、ちゃんと眠れているかとか、そんなことの方を気にしていた。

 今、また同じ部屋の同じベッドで目を閉じている。違うのは、隣にいる南の腕に、もう何度も包まれてきたこと。いつの間にか金を介さない時間を過ごしていること。そして、自分の中に積もっていったものの多さ。


「そーちゃん。」


 耳の奥に染み込む声。仕事終わり、朝帰り、疲れて黙りこくっているときも、南は変わらずそう呼んでくれた。


 ほかの男の匂いをつけて帰ってきても。

 爽真が冷たいことを言ってしまっても。


 南の言葉と腕は、いつだって変わらなかった。


 それが、どれだけ怖いかを、南は知らないのだろうか。……そう思ってしまうくらい、ずっと、変わらない。何もなかった最初の夜から、いくつ夜を越えたのだろう。売り物だった身体は、何度も別の誰かに触れられて、でも最後にはここへ帰ってきた。帰っていいかなんて、誰も許可していない。なのに、南の扉はいつも開いていた。

 ただいまと言ったことはないけど、南も、おかえり、とは言わなかったけれど。それでも南の腕の中は、何度目でも、変わらなかった。


 あのときと同じように、腕を回される。流れてくるのは、柔らかくて、優しくて、そしてときどき、苦しくなるほどの熱を持っていて。


「お前は、ここに居ってええんよ。」


 いつだったか、南はそう言った。爽真は言ってやりたかった。それはお前の方だと。南がずっと、心の中で泣いている子どもを宥めているのには気づいていた。それを表に出さず、へらりと笑う南。その笑い方に慣れてしまっている南が、爽真には悲しかった。そんな南に、自分の傍にいてほしい、なんて言葉を言う勇気はなかった。それなのに南は爽真が欲しい言葉をくれる。今夜だって。


「おやすみ。」


 その言葉に、何度救われたのだろう。


 今も、南の呼吸が耳のすぐそばで、静かに揺れている。朝が来るのが怖くても、この腕の中にいるときだけは、それを少しだけ、忘れられる。





 夜の帳が下りて、部屋の中には淡い電灯の明かりだけが灯っていた。

 テレビの画面は消えていて、ふたりともソファに座っていたが、会話はなかった。心地よい沈黙。けれど今夜のそれは、ほんの少しだけ、重たい。

 南の隣で、爽真は膝を抱えていた。寒くないのに、肩が縮こまっていた。


「そーちゃん、」


 名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。南は、いつもと同じ声で、同じ目で、ただ隣にいる。それだけ。それだけなのだ。なのに、苦しい。


「なんかあった?」

「……なにも。」


 嘘だった。でも何が嘘なのか、自分でもよくわからなかった。

 特別なことは何もなかった。ただ少しだけ、自分の中の何かが騒いでいた。触れられるたびに、優しさが痛い。求めてもらうたびに、自分の汚さが際立って見える気がする。

 こんな自分が、ここにいていいのか。そんな問いばかりが、胸の奥を叩く。

 南はそれ以上何も言わなかった。ただ、そっと爽真の頭を抱き寄せた。


 それが、たまらなかった。


 涙が出そうになるのをこらえて、爽真はそっと、南の腕の中から抜け出した。


「……ごめん、今日は、先に寝る。」

「うん。おやすみ、そーちゃん。」


 あの声も、あのぬくもりも、いつもと変わらなかった。それが、怖かった。


 夜中、爽真は小さな荷物をまとめて、家を出た。

 置き手紙は、書けなかった。




 南の家を出て数日が経っていた。理由なんて曖昧だった。誰かに言葉で説明しろと言われてもできない。ただ、離れたくなった。南の穏やかさに、自分の醜さが浮かび上がるようで。優しさが、痛かった。

 でも……。


「……やっぱり、無理だった。」


 静まり返った深夜の路地を歩く。自分の足が向かっているのは、結局いつもの場所だった。ひとりで眠れない夜に、思い出すのは、あのぬくもりだった。

 着いた家。懐かしい灯りが、まだあの部屋に灯っている。時間はもう、日付をとうに跨いでいるのに。

 インターホンを押す手が震えた。けれど、深呼吸を一つして、ボタンを押した。扉の向こうで音がした。

 扉が、開いた。


「……そーちゃん。」


 眠たげな目をこすりながら、それでも真っ直ぐに名前を呼んでくる南。見上げたその顔には、責めるような色も、怒りも浮かんでいなかった。むしろ、嬉しそうで。

 ただ、変わらず、そこにいた。


「おかえり、そーちゃん。」


 その一言で、胸が詰まった。自分にはそんな言葉をかけられる資格なんてないのに。でも南はいつもと変わらず、ただ、待っていてくれた。

 涙が滲んでぼやけた視界のまま、爽真は南の胸に飛び込んだ。

 腕が回る。変わらないぬくもりが、またそこにあった。

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