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一話:出会い

 朝の光はまだ淡く、部屋の隅は夜の名残を手放せずにいる。カーテンの隙間から差し込む光は、まだベッドには届いていない。

 布団の中、爽真は目を閉じて、呼吸の音だけを頼りに南の存在を確認していた。温度も、匂いも、すぐ近くにある。それだけで、ほっとする、少しだけ、安心する……してしまうのが、嫌だった。

 昨日も帰ってきてしまった。ここに。南がいるこの家に。赤の他人と絡み合った後に、そんな権利ないはずなのに、自分は南の布団に潜り込んでいる。その矛盾に気づきながら、目を開ける勇気が出ないまま、爽真はしばらくじっとしていた。

 南は起きていたらしい。南の手がそっと爽真の髪を撫でていた。無意識なのか、意図的なのかはわからない。ただ、それがあまりにもやさしくて、痛いほどだった。


「……なあ、そーちゃん、」


 低くて、やわらかい声が落ちてくる。その声が聞きたくて帰ってきてしまった。この声が聞こえる朝を、切ないほどに求めてしまっていた。


「お前は、ここに居ってええんよ。俺はずっと、そう思っちょる。」


 嘘じゃない。

 それはわかってる。

 でも、それでも……また、試すようなことをしてしまうのだろう。帰ったら迎えてくれるのかと。その声で僕を呼んでくれるのかと。こうして布団の中で、隣にいてくれるのかと。

 嫌われるかもしれない、捨てられるかもしれないと怯えながら、試してしまう。


 どうして、こんなふうになったんだろう。


 まぶたの裏に浮かぶのは、あの夜の雨と、あの言葉。




 雨が降っていた夜道。爽真は自分を買った男の泊まるホテルから自宅に帰るところだった。その道中大の大人が喧嘩しているのを見た時は素通りしようと思った。爽真はそういう場面には慣れっこだった。だがその喧嘩していた男がぶつかってきて、暴言を吐いてきた。ガキが、邪魔すんな、なんてことを言われた。

 爽真は物心ついた時から、人の心が読めた。この能力に苦労して生きてきた爽真にとって、人の心が読める自分が忌々しくてならなかった。それでも爽真は、今回も、今まで会ってきた人間を相手にする時と同じように、自然に相手の心を読んでいた。邪魔だ、目障りだ……相手の男は爽真のことを取るに足らないガキだと思っているようだ。爽真はそれだけで若干苛立って、その男をどついた。そこからだ、拳の語り合いになったのは。爽真の方が優勢だった。相手もそれに気づいていたようで、でも拳の収めどころがないのか手を止めなかった。そろそろ蹴りをつけようか。そう思った爽真が腕を振り上げた矢先だった。


「やめぇやめぇ! 何しちょるんこんなところで!」

「あ? 誰だテメェ! 邪魔すんじゃねぇよ!」

「まぁまぁ。警察呼ぼか? 呼ばれたくなかやろ? ほら君も。ここは俺に免じて、な?」


 俺に免じて、と言われても、こいつ誰だと思う爽真は相手の心を読んで驚いた。


――こいつも、独り。


「ん? どした?」


 そうわかった瞬間、爽真は戸惑った。自分と同じ、独りの人間。だがわかったところで、赤の他人であることには変わりない。そこで去ればよかった。そこで興味をなくせばよかった。でも爽真は、


 引き留めたい。


「お兄さん、僕のこと買わない?」


 そう言ったのは、それ以外に相手を惹きつけておく方法が、爽真には分からなかったからだ。

 男は僅かに目を丸くしたが、少しばかりの沈黙の後に言った。


「俺、渡辺南。」

「え?」

「君は? 名前何?」

「……竹本爽真。」


 爽真が本名を名乗るのは、久しぶりだった。いつもは偽名を使っているし、ワンナイト程度の相手に個人情報を晒すほど馬鹿ではない。けれど、この相手が名乗ったのは、どうやら本名らしかった。渡辺、南。南……そんな相手に、自分も応えなくてはならないような思いに駆られた。そう、思ってしまった。名前を教えたくなったのだ。

 南の心は、疲れ切っているようだった。それはこの男が働いている職場、人間関係、それだけじゃない、独りである人生に、疲れ切っていた。

 僕もそうなんだ、とは言えなかった。爽真は心の内を明かす行為がどれだけ危険なものかわかっていた。だが南は、そんな爽真の思いを見透かしたように、ふっと目を細めた。


「そっか。じゃあ、そーちゃん。行こか。」


 そーちゃん、それ、僕のことか。軽い調子で、しかしどこか優しい響きで呼ばれ、爽真は少しだけ戸惑った。


「どこに?」

「うち。手当せんと。君も無傷じゃなかやろ?」


 とんとん、と頬を叩く南に当然のように言われて、爽真は一瞬言葉を失った。相手の家に上がり込んだことがないわけではなかったが、大抵ホテルで事を済ませる方が圧倒的に多い。それに自分が怪我をしてても手当しようとしてくれる人なんていなかった。それなのにこの男は……なぜこんなに僕に対して無警戒なんだ? 心を読んでもわからない相手の反応。でも、その手招きに応じない理由も、断る理由も、特になかった。


 疲れていたのは、自分も同じだったから。




 靴を脱ぎ、知らない部屋に足を踏み入れて。息を吸えば、見知らぬ男の生活の匂いが空気に染み込んでいて。女の気配はないな、と思って、爽真はなにを考えているのかと頭を振った。


「お茶とかコーヒーとかあるけど、飲む? 疲れちょるやろ?」


 手当を終えて。南はそう言って、冷蔵庫を覗きながらこちらに笑いかけた。その何気ないやりとりの間に、爽真は、少しだけ気を緩めていた。体を売りにきたはずなのに、まるで親しい間柄の相手に呼ばれて来たかのような。いやだから、なにを考えているのかと。


「……渡辺さん、別に、気を遣わなくていいよ。ヤることヤって、お金くれればいい。」

「そんな寂しいこと言わんといてよ。でもまぁ……そうやね、」


 そう言って、南は爽真に近づいてきた。南の指先が、そっと爽真の手に触れる。

 その瞬間だった。

 爽真の胸の奥へ、流れ込んでくる何かがあった。


 ……静かで、穏やかで、優しいような、ナニカ。


 反射で爽真は手を離した。ん? と首を傾げる南に、戸惑いが隠せないままに、狼狽える。なんだ今の。今まで無遠慮に自分の中へ流れ込んでくる相手の感情に振り回されてきた、だが爽真にとって、これほど柔らかな感情が、それもゆっくりと、温かく流れ込んできたのは初めてだった。そんな爽真に気づいていない南は、再び爽真の手を取った。柔く触れられて、指が絡んで、きゅ、と握られて。流れ込んでくるのは、とても優しい……。


「わ、渡辺さん、」

「南。南って呼んで。こうされるの、嫌?」

「いやじゃ、ないけど、」


 爽真がそう言うと、南はふっと笑った。


「じゃあ、今日は何もせんでええよ。」


 その言葉に、爽真の心が一瞬でざわついた。はぐらかされたような、突き放されたような、けれどまるで否定されていないような、そんな妙な感覚。何もしなくていい? その意味がわからなくて、爽真は思わず言った。


「……なんで?」


 絞り出すようにそう問い返すと、南は少し目を細めた。


「疲れちょるんやろ。寝るだけでも、ええやん。」


 まるで当然のことみたいに言われて、爽真は何も返せなくなった。売り物としてここに来たはずなのに、何もせず寝るだけでいいと言われたことが、どうしてこんなに苦しいんだろう。こんなことは本当に、初めてで。


「言い方変えよか。俺に付き合って? お金は払うけ。」


 その言葉にショックを受けたのは、何故。爽真は自分の心内の変化がわからなかった。お金は払ってくれるのだから、相手に従えばいいだけなのだから。そう思うのに、それは、そう、悲しいと言うものだろうか。

 南の言葉に、爽真は目を伏せた。何かを見透かされた気がして、視線を逸らしたのだ。これまで出会ってきたどの男とも違う。南の言葉には、下心も同情も感じない。ただ、目の前の自分をひとりの人間として受け入れている——それだけ。


「……変な人。」


 ぽつりとこぼした言葉に、南はまた笑った。


「よう言われる。」


 その笑みがあまりにも自然で、爽真はつい聞いてしまった。


「なんで、そんなに、優しくするの?」


 南は少し考えてから、まっすぐな目で言った。


「優しくされちょるように感じる?」

「……違うの?」

「んー、俺がしたいなってことしてるだけやからねぇ。強いて言うなら……お前がしんどそうやったけえ。」


 ふわ、と笑って、南は爽真の手を引いた。向かった先はベッド。爽真はどきりとしたが、南はベッドの上に乗ると爽真を手招いて、横になった。仕方なく爽真は南の隣に寝た。南の腕が爽真を包む。その感触がこそばゆくて、爽真は身じろいだ。


「おやすみ、そーちゃん。」


 そんな言葉をかけられたのは、いつぶりだろうか。そうやって記憶を辿っていたから、南の声に返すより前に、規則的な息遣いが聞こえてきた。


「……お前みたいな人、初めてだ。」


 爽真がつぶやいた声が、宙に溶ける。


 初めての南との夜は、そんな風に、何もないまま終わった。



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