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「今かえったよ」
まだ寝ているかもしれないと思いながら玄関口で声をかけると、
「おかえりなさい」と柔らかな声が返った。
すでに起きていたのだろう。
戸口まで迎えに出てきた妹尾は、すでにいつも通りのきちんとした格好をしていた。
「お邪魔いたします」
律儀に腰を折る木兎女史を見て、「あら」と目を丸くし、
「原稿を取りにいらして、この人に捕まってしまったのね」と、
いかにも困った子供を見るような眼差しで微苦笑する。
「ひどい言われようだな。あの店のドーナツを食ってきたんだよ」
いや、食ってきたと言うか、食べさせてもらったと言うべきか…。
「…ドーナツ?」
妹尾がキョトンと首を傾げた。
その表情に、私も思わず首を傾げる。
妹尾はドーナツをやらない。
大抵は、連れ立って店に出向くが、向かいの席に腰かけた妹尾は、朝だろうが昼だろうが益体なく、店主に金平糖と赤玉を出させるのが常だ。
そうして、コーヒーを飲みながらドーナツを齧る私を見るともなしに眺め、実につまらなそうな顔で金平糖を気まぐれにポリポリとつまみながら、赤玉をチロリチロリと舐めている。
まさか今日に限って食べたかったというわけもなし…
――——さては、妬いたか。
意外なことに思わず片眉を上げたが、枝の先にとまる駒鳥にも似た妹尾の眼差しは、むしろ、私を通り越して木兎女史を見ているらしかった。
「あなた、原稿はもうすぐお渡しできるの?」
「いや、もう少しかかるな。
もう何ヶ所か手を入れたいところがあるんだ」
あらそうと頷いた妹尾が、女史を手招きする。
「ごめんなさいね。あの人ときたら、本当に呑気者で…。
居間に上がってちょうだい。お茶はいかが?」
「いえ、そんな。先程、先生ももう少しとおっしゃってましたし、私は玄関先で…!」
固辞する女史に、
「あら。信じてはだめよ」と、
妹尾は、頑是ない子供を嗜めるような困り顔でため息をついた。
「あの人の『もう少し』なんか当てにしてはだめ。絶対に少しなんかじゃないに決まっていますもの。
こんなに若いお嬢さんを玄関先に待たせていたら、そちらの方が気になってしまうわ。
どうぞ、遠慮なく上がってちょうだいな」
そうして、
「冷たいお茶はいかが? 緑茶とほうじ茶、どちらがお好き?」
女史の背を押すようにして、さっさと居間へ伴っていってしまった。
やれやれしめた。これで安心だと思いながら、私も書斎に足を向ける。
ただ——――
「何か、あの方の気に入りそうなお茶請けがあったかしら…?」
何かあると良いのだけど…。
妹尾が去り際にこぼしたひそりとした声が、妙に耳の奥に残る。
いつもなら聞き流してしまう類のなんてことはない台詞が、なぜだか今日に限っては耳の底に張り付いたままいつまでも抜けていかない。
さて、妹尾は何を出すのだろう。
いつになく押しが強くみえたが、何か特別に話したいことでもあるのだろうか? あるいは、何か食わせたいものが?
興味の袖をくんと引かれた気がして、そわそわと胸が騒ぐ。
居間に顔を覗かせたいのは山々だが、出来上がった原稿を土産にしなければすぐさま追いやられるに違いない。
まったく、妹尾はひどい女である。
ため息混じりにどうにか机に向かってはみたものの、どうにも腰の座りが悪い。
――——まったく、大人げない。まるで、小僧のわがままだ。
そう自嘲しながらも、自分の眉がムッと拗ねた形に下がっていくのを自覚する。
――——なんとも、憂鬱だな。
くすぐられた好奇心を袖の中に押し込めるなど、元来できる性分ではないのだ。
立ち上がりたがる腰をなんとか椅子に押し戻し、またしぶしぶと筆を取る。
遅々として進まない筆を宥めすかすようにして、のろのろと原稿をいじっていると、習い性というものだろうか、そうこうしているうちに徐々に整いだしてきた。
整い出せば筆がのり、やれやれなんとか見られる形になったかとふと顔をあげると、いつの間にかすっかり昼を回っていた。
これはもう茶菓子どころか、もしかすると握飯くらい出しているかもしれない。
そう思いながら、居間に続く硝子障子を開くと、どういうわけだか知らないが、どうやらまだ茶の名残がある。
切子硝子の湯呑みには、鮮やかな若草色の茶がまだ半分ほど入っているし、平皿には、黒文字と懐紙が残っていた。
茶請けはどうやら漬物の類ではなかったようだ。
カステラか羊羹か…
何にせよ、何か菓子らしきものを出したらしいが、いつもの妹尾なら、握飯くらい出しそうな頃合だというのに、その形跡はない?
――——まさか、腹がいっぱいになるほど、菓子を…?
そんなことを考えながら、硝子障子と居間の境目で佇んでいると、
「先生!」
思わず、といったように、女史の非難がましい声が飛んできて、私は目を瞬かせた。
「あら、あなた。そろそろお渡しできるの?」
妹尾に促され、やっと原稿を片手にしていたことを思い出す。
さて…やっと何を食ったか分かるぞ。
封筒に入れた束を女史に渡して、いそいそと卓に着いたが、
「ほら、ちっとも当てになんかなりやしない。すっかり待ちかねてしまったわね」
妹尾が「ね?」と苦笑したものだから、女史の方も、
「ええ、本当に」とまったく遠慮がない会話が頭上を飛び交う運びとなってしまった。
「辺野から、最近は待ち長いから気をつけるように、と聞いてはいたのですけれど…。でも、まさか、これほどお待ちするとは…」
女史の恨めしげな視線よりも、こちらは、茶請けに何を出したのかが知りたくてたまらない。
それなのに、間の悪いことというのは、重なるものだ。
妹尾に「一体何を出したのか」と尋ねようと口を開いたその瞬間、今度は、視界の片隅で女史が茶の残りをさっと飲み干し、原稿を抱え、いかにも嬉しげに表情を和らげたのを見つけてしまった。
うっかりその表情に目を奪われてしまったのが、これまた悪かったのだろう。
その一呼吸の間に、
「それじゃあ、奥様。お茶をごちそうさまでした。
それでは、先生。私は印刷所に走ってまいりますので、今日はこれで」と言うが早いか、帰り支度を火急的速やかに整えた女史は、すっと立ち上がってしまった。
こうなると、もういよいよ茶菓子がどうのなどと言い出す雰囲気ではない。
私にしては珍しく、どうも完全に機を逸してしまったらしい。
これほど簡単なことが、まさか、これほど叶わないとは…。
ひょっとすると二人は、何事か示し合わせてどうかしているのではなかろうか。
例えば、私を懲らしめよう…とか…。
あり得る。——――いや、あり得ない。これは、流石に妄想だろう。
私は、餌を食い損なった金魚のように、しおらしくもぱくんと口を閉じ、
口惜しいような、もどかしいような、
なんとも釈然としない心地で、「ああ」と短く頷いた。
――——が、実のところ、頷いたのは首ばかりのことで、腹の中は少しも収まらない。
女史の見送りは妹尾に任せるのがいつものことなのだが、今日ばかりはどうにも座っていられず、妹尾の背中を追いかけてとうとう玄関先までついて出てしまった。
「——――先生?まだ何か…?」
女史の不思議そうな眼差しに気まずさを押し殺し、
「いや、何。まあ、何かあったら、頼むよ」と、
苦し紛れにぎこちない微苦笑を浮かべた私に、女史が、「ああ」と、やっと合点が入ったとばかりに頷く。
「話の種の件ですね」
心に留めておきますと、ああも明るく請け合われると、こちらはどうも尻の座りが悪い。
「それでは、失礼いたします。またよろしくお願いします」
カラカラと戸が閉まり、女史の少し軽い靴音が遠ざかってゆくのを見送るが早いか、
「それで、茶請けに何を出したんだ」
もう居間の方へ向きかけている妹尾を引き止めるようにして尋ねる。
「まあまあ」と目を丸くした妹尾が足を止めて振り返り、
「それが気になって、こんな所まで着いていらしたの?」と、目を細めた。
「…菓子めいたものなのはわかっているんだ…」
枝の先にとまる駒鳥のように首を傾けるのをじとりと眺めながら不承不承頷けば、
「お饅頭よ」と、その種は存外あっさりと明かされた。
「饅頭?」
「ほら、先日、裏のお婆ちゃまがくださったでしょう?赤と白の」
言われて、ああ…と頷く。
そう言われてみれば、少しばかり前、猫が子を産んだからとかなんとかと妹尾と話し込んでいるのを見かけたような気がする。
――——でも、また饅頭か。
「そういえば、ぼくも饅頭を勧めたんだ。あの喫茶店、蒸したてのがあったろう?」
女史にしては珍しく、何やら妙に饅頭を気にしているなとはと思ったが、その時は、さして気にもしなかった。
だが、元来、菓子の類にはあまり手が伸びない人だったはずだ。
特に饅頭の類は、半分も食べたら充分だとかと話すのを聞いた覚えがある。
それなのに、私は、なぜ饅頭を勧めてしまったのだろうと首を捻るが、靄がかかったように判然としない。
「——君は、どうして、饅頭を勧めたんだ」
尋ねると、妹尾は「だって」と、さも当たり前のような顔をした。
「だって、お饅頭くらいしかなかったのだもの」
「握飯でも出してやれば良かったじゃあないか」
私が言うのもなんだが、そういう時分だったろうに。
だが、妹尾は、
「あら、だめよ」と、やけにはっきりとしている。
こうなると、今度は、私が目を瞬かせる番だ。
「だけど、君、大抵いつも時分刻になると出すだろう」
「でも、今日の方はだめよ。召し上がり物じゃあなかったのだもの。お出しできないわ」
どういうことかと片眉を上げると、妹尾は、
「——あら、答えてしまってよろしいの?」と、不思議そうな顔をした。
「そりゃあ…、君…」
言いかけた声が尻すぼみに喉の奥へ消える。良い。いや、良くない。
往生際悪く、
「…だが、そうは言っても、女史は、本当のところぼくの担当じゃあないし…」と、ブツブツとやってみたが、
「あら、大丈夫よ」
いやにあっさりと返されてしまって、私は口をへの字に結んだ。
「お饅頭を勧めたのでしょう?それなら、また近いうちにみえるわ」
あまりに確信的な様子に、尋ねかかった言葉は飲み込むより他はない。
――——まったく、妹尾はひどい女である。
「…近いうちとは、つまり、いつ頃のことだい?」
喉を絞るように恨めしく尋ねれば、
妹尾は、「そうねぇ…」と、頬に白い指先を添えて、思案気に戸口を見やり、
「遅くとも、紫陽花が枯れる前にはいらっしゃるのじゃないかしら」
こともな気に言った。
「…やけに自信ありげじゃあないか」
「だって、印刷が済んだら、いつも、初版を一冊くださるでしょう?」
「そりゃあ、そうだが…」
何やら納得がいかない。
そもそも、木兎女史は臨時で来ただけなのだ。担当の辺野君は、「僕の取り柄は健康なとこですから」というのが口癖のような頑丈な男なのだ。夏バテがそこまで長引くとは思えない。
眉間に皺を寄せて考え込んでいると、ふいに、
「——そうだわ」と、何やら思いついた顔をして目を輝かせた。
「そんなに気になさるなら、あなたがお使いに行ってくだされば良いのよ」
「ぼくが?」
お使いはどうも苦手だと難色を示す私に、
「よろしいの?」と、悪戯気に目を細める。
「何を出すかお知りになりたいのでしょう? いの一番に知れてよ?」
「…!」
そりゃあそうだが…と、口の中でモゴモゴと呟く私をおかしそうに見やり、ふいに、
「木兎さん、ずいぶん珍しい場所にお顔を出されたのね」と、言う。
「そうなのかい?」
「でも、あなたもお会いになったでしょう?」
訳知り顔の妹尾の眼差しを見返したその刹那、脳裏にパッと残像が散った。
喫茶店でグラスの水越しに見た、あの老婆。
着崩れた垢じみた着物。
茶色く枯れた肌とザンバラ頭。
まるで、墓前に燃え残っている蝋燭のような佇まい。
ふと三途の川にいるという奪衣婆のようだと思ったのまで思い出して、眉間を揉む。
「——―君、饅頭は、女史に出してやったんだろうね?」思わず尋ねると、
妹尾は「いいえ?」と小首を傾げた。
「そんなことしないわ?木兎さん、甘いものは異国風じゃないと召し上がらないでしょう?」
…、まったく、妹尾はひどい女である。




