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「先生〜、おられますかぁ?」
縁側に腰をかけて、名残の紫陽花を眺めていると、木兎女史が裏庭にひょっこりと顔をのぞかせた。
「先生は、紫陽花がお好きなんですね」
「殊更に好きだというわけではないよ。でも、綺麗じゃないか」
膝に乗せていた猫がサッと立ち上がり、生垣の下を潜ってどこかに消える。
「もしかして、また妹尾が出なかったかい?」
そう言えば、買い物に行ってくるとか何とかと言っていたような気がする。
苦笑しつつ尋ねると、女史は「いえ」と首を横に振り、
「今日はまっすぐ裏に回りました」と、
どこか気まずげに視線をうろつかせて、指先をこねた。
「私用でお邪魔するというのは、ちょっと申し訳ないようで気が引けまして…」
それから、「あ! でも、あの」と、サッと鞄の中に手を入れ、包みを差し出し、
「初版本が刷り上がりましたので、お持ちしました」「辺野から、ついでになるから持って行けと」「先生にくれぐれもよろしくと申しておりました」と言って、
遠慮がちに唇を結んだ。
「辺野くんはもうかなり良いらしいな。元気そうで何よりだ」
礼を言って受け取りながら、妹尾の言がまた当たったなと思う。
「表に回って、ちょっと上がっていくと良い」
「ですが…」
「話があるんだろう? 縁側じゃなんだよ」
それに、私もちょうど何か飲みたいと思っていたところだ。
※
木兎女史を居間に通して、コーヒーを入れに台所へ戻る。
細口の薬缶に湯を沸かし、湿った布を広げ、熱湯を回しかける。
開封してから少し時間が経ったせいか、ちょっとばかり香りが抜けているが、まあ、悪くはない。
匙で2杯ほどとり、小さく山を作るように盛る。
面倒だが、私が淹れられるのはこれしかないのだから仕様がない。
シュンシュンと景気良く鳴き始めた薬缶の火を止めたあたりで、
「あの〜…先生。やっぱり、私も何かお手伝いを…」と、
女史が台所に顔をのぞかせた。
居間に1人きりというのが、どうも居心地が悪かったらしい。
「それなら、そこの棚から適当にカップを出してもらうとしようか」
湯気が揺らめくカップを盆に乗せる。と、女史がスッと盆を取り上げた。
「先生に運ばせるわけにはいきませんから」と言うので、
遠慮なく任せることにしたが、こうして手ぶらで後からついていくと、どうもどちらがもてなす側なのかわからない心地になる。
やはり、不思議な歩き方をしている。
コーヒーをこぼさないようにするためだろうか。
少しばかり肩を丸めて、すり足気味にしながら、膝をわずかに曲げて小股に歩いている。
「やはり足は重たいかね」
興味本位に尋ねれば、
「やっぱりわかります?」と、眉を下げた。
そんな取り留めのない話をしているうちに、居間に戻ってきた。
いつもの席に腰をかけると、女史もコーヒーを配り、向かいに座る。
「実は…あれから、ちょっとおかしなことが起こりまして…」
コーヒーを一口啜り、女史はカップを両手に包み、目を伏せた。
あの日、印刷所に向かう道すがら、女史は一軒の店の軒先でふと足を止めた。
印刷に回す原稿が僅かに遅れていることが気になっていた。
いつもは何気なく通り過ぎる和菓子屋だったが、この日は何か手土産でもとそんな気になって、暖簾をくぐった。
饅頭や生菓子に、団子や大福。羊羹、どら焼き。落雁などの干菓子もある。
硝子張りの棚に所狭しと並ぶ菓子。
「目が止まったのは生菓子だったんですけど、ちょっと数が折り合わなくて…」
知人の宅に立ち寄る手土産にならば生菓子も良いが、持って行くのは印刷所だ。一つ二つというわけにもいかないし、たっぷりと甘辛いタレが絡んだ蜜団子は、紙に垂らしでもしたら一大事だろう。
(となると…)
さんざん悩んで、12個入の饅頭を一箱買った。
手土産にするものだと頼んで、包んでもらい、店を後にする。
そこまでは、別に変わったこともなかったのだが、いざ、印刷所に着いて長椅子に腰を下ろしてから、どうも尻の座りが悪い。
―――ごくり。
思わず生唾を飲んだのを誤魔化すように茶を啜る。
少し渋みのある濃い目の茶だ。
饅頭が合いそうだと思ったか思わなかったか…
まだ昼飯を食べてない。
ふと、そんなことが過ぎったのは覚えている。
気づけば、包装紙を破いていた。
饅頭がどうにも美味そうに見えて、とても我慢できない。
後ろめたく思いながら、饅頭を口に運んだ。
―――美味い。
どうしてか、手が止められない。
次々に饅頭を口につめ、あっという間に12個もあった饅頭は全部自分の腹におさまってしまった。
「それで、その後は妙に眠たくなってしまって、そのまま長椅子に倒れて眠り込んでしまったんです…。おかげで、私はなんだか食いしん坊の饅頭が大好きな人だと思われてしまって…」
「寝たのかい?そのまま?」
「暗くなって起こされるまで、ぐっすりと寝ました」
―――「それなら、まあ、良かったじゃないか」
思わず言葉が口をついてしまった。
あっと思ったが、案の定、
「良くないですよ」と、目を吊り上げられ、苦笑いがもれる。
「あれ以来、妙に優しげな目で見られて…。あの日も、起きたら毛布がかかってたんですよ」「『お疲れですね』なんて言われて…」
恥ずかしいやら気まずいやら…
手土産のつもりが、印刷所の人たちにはすっかり昼飯として饅頭を持ってきたのだと思われてしまった。
「―――と言いますか、先生、もしかして何か知っていらしゃるのじゃないですか?」
拗ねた顔で尋ねられ、何と答えたものかと答えあぐねていると、
「辺野によれば、先生は知っていても仰らないで、後から聞くと訳がわかるようなことがよくおありだとか…」などとたたみかけてくる。
「そう大層なことは知りはしないさ。ただ、まあ、ほんの一瞬、老婆の影が重なって見えたことはあったよ」
言えば、
「やっぱり、知ってらっしゃるじゃないですかぁ…」と、恨めしげな顔をする。
「どうして仰ってくださらなかったんです? 話の種だなんて誤魔化したりして…」
「誤魔化しやしないさ」
話の種はいつだって欲しい。
むくれた様子の女史に肩をすくめてみせるが、
「―――憑いてるんですね」
唇を引き結んだ少し青い顔で私を見上げる女史は、どうも納得のゆかぬ顔をしている。
「心当たりがあるのかい?」
尋ね返すと、「あの時は、なかったんですけど…」と、女史はどこか観念した様子で微かに頬を膨らませた。
「私、関西の方に出張に行った時、向こうで友人とあったんです」
「―――ああ…確かに、前にそんなようなことを言っていたね」
すっかり冷めたコーヒーを一口啜るいと間に、薄くなっていた記憶の糸を手繰りつつ頷く。
友人殿は、「せっかくこっちに来たんだから」と、女史をあちこち連れ回した。
城下のあたり。有名な菓子屋。神社仏閣に、喫茶店。
「それで、そのとき、最後に一軒の居酒屋に連れて行ってくれたんですよね…。何の変哲もない普通の居酒屋で、つまみも枝豆とか漬物とか…特に珍しいわけでもなくて…」「どこか違和感がありました」
地酒が豊富なのかとも思い、カウンターをそれとなく見回してみても、そこまで瓶が並んでいるわけでもない。
年嵩の店主も特に何がどうというわけでもなく、普通の居酒屋の大将のように見える。
行きつけの店かと尋ねてみたが、それも違うと言う。
なぜこの店にと内心首を傾げながらも、何気ない近況やなんかを互いに話しながらいくらか飲み食いし、その夜はそこでお開きとなった。
友人殿も種明かしをしなかったし、女史の方もそれきりそのことは忘れてしまった。
「でも、違和感と言ったらもうそれしか思い当たらないんです。それで、数日前に思い切って電話を繋いでもらって…そうしたら、その居酒屋、実は地元では『出る』と噂が絶えないので有名な店だと言うじゃないですか…!」「私が気付いて嫌がったら、別の場所にするつもりだっただなんて言うんですよ」
信じられないと口惜しげに拳を握ったかと思うと、そのまま力無くうなだれる。
「私、どうしたらいいんでしょう…?」
水を向けられて、私は目を瞬かせた。
「どうしたらと言われても、祓い屋でもあるまいし…私じゃあ、荷が勝つよ」
「でも、先生は綺譚を書いておられるじゃないですか…!」
そう拝むように見上げられては居心地が悪い。
「お寺もお札もダメだったんです…」
そう付け足されると、なお困る。
ただちょっとした蒐集狂が取り柄なだけのしがない文士であるが、仕方がない。
(いつぞやに買った追儺香はどこにやったんだったか…)
まだあれば良いが、誰ぞに分けてしまったような気もする。
蔵だったか引き出しのどこかだったかと考えていると、妹尾が漆塗りの黒盆に茶菓子を乗せて居間に入ってきた。
「ごめんなさい。お買い物に出たら、すっかり遅くなってしまって…」「でも、良かったわ。まだいらして」
微笑む妹尾の手元には涼やかな深い青色をした生菓子と艶々とした飴色の団子があった。紫陽花と蜜団子だ。
「やあ、うまそうだ。まあ、ちょっと気分を変えようじゃないか」
「あら。何か難しいお話でしたの?」
言いながら、妹尾が女史の前にコトリと茶菓子が入った皿と湯呑みを置いた。
瞬間、―――女史のまとう空気が変わった。
「…これは…紫陽花ですね。それに、まあ、蜜団子まで…」
嬉しげに緩む頬。
紫陽花と蜜団子の間を忙しなく行き来する視線はじとりとして、熱っぽく菓子に縫い止められている。
「どうぞ、ご遠慮なく召し上がってくださいな」
笑みを深めた妹尾が菓子を勧めた。
「今年の紫陽花はこれで最後なのですって。間に合って本当に良かったこと」
いただきますと誰ぞが言ったか言わなかったか。
やおら、女史が菓子に手を伸ばした。
懐紙ごと、しかし、壊れ物を扱うような仕草でむんずと紫陽花を掴み、そのまま妙に大事そうに口元に運ぶ。
頬張るように一気に半分ほどを食べ、「ああ…」と小さく息を吐いて、止まる。
残り半分を見て、キュ…と目を細め、今度は惜しむようにじっくりと味わう。
初夏らしい若草色の甘くまろみのある茶で唇をしめらせると、立て続けに団子の串を摘んだ。
飴色の蜜をたっぷりと絡めた串団子から蜜をこぼさないためだろう。
受け口気味に団子を迎えに行く。
やがて、最後の一口を咀嚼し、串を皿に置いた女史の人差し指が、皿に残った蜜を舐めるようにすくった。
そうして蜜にまみれた飴色の指先をじぃ…と見つめ、目を細めて口に含んだ。
そこで、ふっと我に返ったらしい。
自分の串団子を手に持ったまま、馬鹿みたいに女史に見入っていた私と目が合う。
刹那、女史がカッと目を見開いた。
そっと口から指を抜き、ハンカチで指先をぬぐう。
「す…すみません。お見苦しいところを…」
恐縮した様子で首を垂れる女史は、もう木兎女史その人の顔をしている。
「あら、いいのよ。どうぞ気になさらないで」「ただ―――『珍しい場所』に行かれるのは、当面、お控えになった方がよろしくってよ」
フフ…と可笑しげに目を細めた妹尾にねぇと水を向けられて、ああと頷く。
どうやら追儺香は探さなくとも足りそうだ。
蜜団子を頬張るように一口齧り、私はホッと息を吐いた。
※
「なんだか―――不思議と憑き物が落ちたような気がします―――」
女史は、何が起こったのだかよくわからないような表情をして、しばらくぼんやりと遠くを見るようにして黙って座っていたが、やがて深々と礼をして帰っていった。
見慣れた足運びの女史の後姿は年相応に軽快で、もうあの老婆の面影は見えないようだった。
「結局、女史は憑かれていたのかい?」
居間を片付ける妹尾に尋ねると、妹尾は「あら、大仰だこと」と微苦笑した。
「あちら様にしてみれば、ちょっと揶揄ったくらいのものでしょうに…」
「揶揄った?」
「そうねぇ…」妹尾は口元に指先をやって一寸間考えていたが、
「いつも木のベンチに座っているとしても、目の前にベルベットのソファがあったら、少し腰をかけてみたくなるでしょう?」「そんな感じかしら」と、首を傾けた。
「だけど、紫陽花を食って離れるなら、饅頭でも良かったんじゃないかね」
何しろ、女史は12も食わされたのだ。
言えば、今度も、
「あら、それは駄目よ」と、またもきっぱりしている。
「あの方、白餡が召し上がりたかったのですもの。この辺りはお饅頭と言うと大体は黒でしょう? それに、女性ですもの。季節のものが頂きたいのは道理でしょう?」
「そんなものかね」
「お召し上がり物ですもの」
それじゃあ蜜団子は何なのだと思ったが、空の湯呑みやなんかを盆の上に片付けた妹尾がサッと立ち上がってしまったので、この話はそれで終いとなった。
読んでくださり、ありがとうございました!




