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夏頃のことだった。
空梅雨のおり、盛りを迎えた庭の紫陽花が恨めし気に雨を待っているのを、縁側で猫を足の上に乗せて、ぼんやりと眺めていた。
「先生〜、締切ですよぉ」
ふいに聞き慣れた声がしたと思うと、木兎女史が立っていた。
「お受け取りに上がりました。原稿、できてますかぁ?」と、
少しホッとしたような顔をする。
白いブラウスがいかにも涼しげだなと思ったが、よく考えたら辺野君もこの時期にはいつも似たような格好をしている。
猫がサッと立ち上がり、膝を蹴って紫陽花の葉陰から生垣を抜けていく。
「先生の猫ですか?」
「いや。野良猫さ」
「辺野君は?」尋ねれば、
「夏バテだそうです。それで、私が代わりに」と、言う。
「玄関口で呼んでくれたら良かったのに」
飲みかけの珈琲を盆に戻しながら苦笑すると、
「何度かお呼びしたのですが、お返事がなかったもので…」と、眉を下げた。
どうやら、何度呼んでも返事がないものだから、勝手知ったるなんとやらで縁側のほうに回ったらしい。
「それはすまないことをしたね」
「構いません。こうしてお会いできたんですから、それで十分です」
それから、木兎女史は思い出したように「おはようございます」と付け足し、
「おでかけになったんじゃなくて、ほんとに、良かったです」と、にこりとした。
「奥様はどうされたんです?」
ふと尋ねられ、そういえば今朝はまだ起きてこなかったかと思い当たる。
言われてみれば、今朝は久しぶりに自分で珈琲を入れたし、味噌汁のにおいをまだ嗅がない。
女史が呼んでも出なかったということは、たぶんあれはまだ寝ているのだろう。
―――そう言えば、まだ朝飯を食べていないな。
気づいてしまえば、俄然腹が減った。
たしか、女史は珈琲もいけるくちだと聞いたことがある。
ついじっと見ると、嫌な予感でもしたのだろう、
「なんですか?」と、女史はうろん気に眉をひそめた。
「きみにお茶も出さずにおいたら、私が後から妹尾に怒られてしまうからね」
「先生が入れてくだすった珈琲でも、
私は、ちっとも構わないんですよ」
「まさか。人様に出せるような出来じゃないさ」
原稿原稿とうらめしげな木兎女史をまあまあとなだめる。
素早く支度を整え、最近できた近所の喫茶店で朝飯を済ませてくる旨をしたためた書き置きを残した。
最近、少し歩いたところにちょっと気の利いた喫茶店ができた。
朝はあまり人がいないせいか、10銭ほど出せば、濃いめの珈琲とチョコレートがかかった揚げたてのドーナツを食わせてくれる。
ザクッとした歯触りが小気味いい素朴なドーナツで、行儀良く食べるのには到底向かないが、原稿の合間に食べるにはちょうどいい気取らなさが気に入って、時折、妹尾を付き合わせて足を運ぶようになった。
そのまま食べると甘すぎるくらいだが、濃いめに入れたコーヒーと合わせると、これがなんとも軽妙で、後を引くのだ。
「私が入れたのより、百倍は良いよ。補償する」
「まあ、それはそうかもしれませんけど…」
「君だって、どうせ飲み食いするならうまいほうが良いだろう?」
言いながら、木兎女史をふと見ると、歩き方がどうも妙だ。
やや背を丸め、膝を落とし、首を少し突き出すようにしていて、どうにも歩き辛そうにしている。
いつもは背筋のすっと伸びた、いかにも職業婦人らしい立ち姿の人である。
それが今日は、どうしたことか、足が身体に追いつかないというふうで、足をわずかに引きずるような歩き方をしていた。
見慣れぬ様子に、思わず、
「もしかして、君も夏バテかい?」と尋ねると、
「そんなことはないのですけど…」と首を捻る。
「ただ、確かに足はすごく重いんです。今朝も走ろうとしたのに走れなくて、歩いてる人に抜かされたほどで……」
とはいえ、歩き姿がそんな風になっていたとはつゆと思っていなかったらしい。
怪我をしたわけでもないのにと、かえって不思議そうにしている。
私も不思議なことだと思ったが、当の本人にわからないことが赤の他人の私にわかるはずもない。
「君、私はドーナツを食うつもりなんだが、構わないかい?」
「もちろん。大丈夫です」
そうこうしている間に、喫茶店の看板が見えてきた。
店の窓からヒョイと中をのぞくと、いつも通り少ないお客はほどよく間遠で、席はまばらに埋まっているだけのようだ。
まだ真新しい飴色の扉を押すと、どこか古い牛鐘を思わせるような、少し重たげな丸い金属音をカランと鳴らしてベルが揺れる。
敷居をまたごうとしたとき、ふと、何かの影が木兎女史の形に紛れて重なったような気がした。
ざらっとするような怖気が背筋を撫でたような心地がして、ギクリとする。
―――なんだ?
夢か現かと、女史の肩を横目に確認しようとしたその時、
「いらっしゃい」
店主のそっけない声が「空いてる席に座って」と告げた。
「あ! 先生、あちらはどうですか?」
いつの間にやら、ざっと店内を見渡したらしい。
女史の細い指先が、窓際のソファ席を指差している。
明るいが、日当たりの良すぎない中々に良い席だ。
奇妙な気配は、いつの間にか日常の空気に溶けて見えなくなっていた。
やれやれ惜しいことをしたという気もしたが、どうせもう見えないのだし、わざわざ伝えるほどでもない。
私は、いいねと大人しく頷き、女史の後に続いた。
席につき、メニューを開くフリをして女史の様子を伺う。
伝えるほどでもないと思いはするものの、生来、気になりだすと気になってしまう性分だ。
「先生?」
女史が訝しげにきょとんとした。
「メニューは決まったかい?」
盗み見ていたのを悟られたようできまり悪く思われて、そう尋ねると、
「先生と同じものを」と言う。
折良く、サービスの水を運んできた店主に「いつものを、ふたつ」と頼んだ。
その時、なんの気なく、女史を横目で見た。
今度は、おや、と、目を見張る。
―――見える。いや、見えたと言うべきか。
曖昧な影ではなく、
もっとはっきりとした輪郭。
それが、水入りのグラスを持った店主の手が目の前を通るその一瞬、汗をかいたガラス越しに妙にはっきりと滲んで見えた。
枯れ木のような細く乾いた影。
着崩れた垢じみた白い着物。
―――白い着物を着た、ザンバラ髪の老婆だ。
そう思った途端、恐怖よりも先に、興味が湧いた。
女史本人は気付いていないのだろう。
いつもと変わらぬ顔でこちらを見ているものだから、つい、
「木兎君、つさぬことを聞くようだけれど…最近【ちょっと珍しい場所】に行かなかったかい?」と、尋ねた。
「珍しい場所……ですか?」
木兎女史はしばらく思案げにしていたが、結局、
「思い当たりません」と首を横に振った。
「ここ最近はずっと仕事ばかりでして……。こないだは出張もありましたけれど、それくらいですね」
「どうしてです?」
訝しげにこちらを窺う眼差しに、私は「いや、なに」と曖昧に笑って、肩をすくめた。
なんと答えたものかと思案したが、木兎女史の方から、
「もしかして何か《種》になるようなものをお探しですか?」と尋ねてくれたので、ムニャムニャと頷く。
「まあ、そんなようなものだよ」
嘘ではない。筆の種はいつだって欲しい。
女史は少しの間思案し、首を横に振った。
「だめです。やっぱり、思い当たりません」
「そうか」
あっさりと頷いて、見計らったように運ばれてきたコーヒーを一口啜る。
チョコレートが固まりきらないドーナツを熱いうちに齧ると、老婆を見たことなどどうでもよいような気がした。
口の中に残る油と甘みを流すように、また、コーヒーを啜り、ドライフルーツにも似た酸味と苦味の余韻を味わいながら、またドーナツを齧る。
この繰り返しがたまらない。
テーブルは惨憺たる有様だが、そこはご愛嬌だ。
一気に食べてしまいたいが、そこは、なるだけゆっくりとやる。
そうして、ゆっくり繰り返していると、ほろっとしていた生地がだんだんと冷えて、今度は食感がザクザクとしてくる。
それがまた、どうにもたまらなくうまい。
女史はといえば、熱いものは熱いうちにという主義なのか、それともよほど腹が空いていたのか。
ドーナツの方はさっさとやっつけてしまって、今は少し苦そうな顔でコーヒーを飲んでいる。
「足りなければ、何か頼むかい?
ここの店主は、ああ見えて甘いものが好きらしくてね。時にもよるが、蒸したての饅頭やら、焼き菓子やら―」
と、そう言ったとき、
「饅頭ですか?」と女史の目がきらりとした。
珍しい反応に思わず目を丸くすると、
「だって、蒸したてだなんて、珍しいじゃないですか」
少し幼い顔ではにかんで、口を尖らせる。
「そんなことより、先生、原稿は上がっているんですか?」
「そう急がせなくとも、あと少しで仕上がるよ」
そうやって他愛もないやり取りをポツポツと交わしているうち、気付けば、コーヒーも飲み終わってしまった。
腹も程よく落ち着いて、さて、そろそろ帰るかという頃合になると、
「先生に払っていただいたりしたら、
私が編集長に怒られてしまいますから」と言うが早いか、
女史の指先が白鷺のようにさっと伝票をさらっていった。
私が奢ると言い出す隙もない。
財布を片手にレジに並ぶ女史とその後ろにぼんやりと立つ私を店主がチラリと見る。
所在なく勘定と釣り銭の音を聞きながら、女史は饅頭を食べないままだが良かったのだろうかと、そんな考えがふと頭の片隅をかすめた。




